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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の二 大軍師誕生
14/66

(巻の二) 第三章 それぞれの思惑 上

「そういう話には応じられない」


 楠島(くすじま)昌隆(まさたか)はまじめな顔で首を振った。


「それでは我々が困る。生きていけなくなる」

「護衛料をなくしてほしいわけではない。元の額に戻してほしいとお願いしているのだ。頼む」


 蓮山本綱は頭を下げた。菊次郎もそれにならったが、水軍の副頭領(とうりょう)は眉を寄せただけで頷きはしなかった。


「無理だ。仲間や家族を養わなければならないし、船の整備だけで多額の費用がかかるのだ」


 菊次郎たちの頼みを昌隆は全く話にならないと突っぱねた。とはいえ、決して無礼な口調ではなかった。

 海の男らしく真っ黒に日に焼けていて、着物の上からでも分かる分厚い胸板にあごひげを黒く伸ばした堂々たる偉丈夫だ。声も太く大きく、船首にいても船尾まで指示が届きそうだ。しかし、物腰は丁寧でおだやかだった。二十五歳で既に結婚しているそうだが、女が放っておかなそうないい男だ。先程茶を持ってきた女中がちらちら盗み見して顔を赤らめていた。

 菊次郎もその男ぶりには感心し、直春や忠賢と並んでも遜色(そんしょく)ないと思ったほどだ。海賊と言っても二代目となれば、上級武家や大商家の一族とさほど変わらないのかも知れない。桜舘家の使者である菊次郎たちを前に、受け答えも堂々としたものだった。

 困難な交渉と分かってはいたが、話に聞く以上に容易ならぬ相手だ。そう思いつつも、本綱と菊次郎は食い下がった。


「今、商人たちは商売が減ってもうけが少ないのだ。そんな時に船の護衛料を値上げされては悲鳴を上げるのは当然だ」

「本当は値下げしてほしいくらいですが、無理なのは分かっています。せめて値上げをやめてもらえませんが」

「事情は把握している。しかし、原因を作ったのはそちらだ」


 昌隆は菊次郎を見た。名乗った時に興味深そうな顔をしたので、大鬼家との戦いで果たした役割を知っているらしい。


「我々も非常に迷惑している。早く解決してくれ。桜舘家にとっても大きな問題だろうに」

「もちろん対策を検討中です。しかし、相手は交渉に乗って来ず、打つ手がなくて困っています」


 菊次郎の言葉にはつい宇野瀬家に対する歯がゆさがにじんだ。


「商人たちに随分突き上げられているようだな。それはお互い様か」


 昌隆は同情とおかしさのまじった顔で小さく笑った。

 今、直春率いる桜舘家は非常に困っていた。大鬼家の討滅以降、宇野瀬家と敵対関係になったせいで、(かかと)の国との交易が止まってしまったからだ。

 吼狼国の主島臥神島(ふせがみじま)は大きな狼の形をしているが、後ろ脚に当たる長斜峰(なはすね)半島は中央に大長峰(おおながね)山脈が走っていて、西側の足の国と東側の踵の国に分かれている。豊津港は山脈を越えて両地域をつなぐ葦狢(あしむじな)街道の出発点で、ここの商人たちは踵の国の宇野瀬領内で産物を買い付けて陸路で運んできて、船で都方面へ送り出すことで利益を得ていた。

 宇野瀬家の本拠地の朧燈国(おぼろひのくに)養蚕(ようさん)が盛んで、上質な絹の産地だ。それは都で高級織物となって全国へ売られていく。また、宇野瀬領は砂鉄が多く取れ、作られた鉄器や武器や農具も都や西の国々で歓迎された。

 一方で、そうした大きな産業があるということは、農業生産高がさほどではないことを示している。貫高は運上金(うんじょうきん)など金銭で納められる税と年貢の農産物を換金した場合の金額を足したものなので、商工業の収入が多ければ農業の割合は減るからだ。朧燈国(おぼろひのくに)の米の取れ高が低いわけではないが、冬の終わりから春にかけて大雪が降りやすく、二毛作は難しい。製鉄産業に従事する職人など農業以外の働き手が多いこともあって、食料は買う側になる。

 そこで、葦江国では二毛作で晩秋から初夏にかけて麦を作っている。また、木綿や炭も生産している。これらは雪深い踵の国の冬を越すための重要な物資で、豊津商人はそれを運んでいって帰りに絹や鉄器を積んでくる。

 両地域の封主家は互いに敵になったり味方になったりしたが、商人たちは深くつながり、民の暮らしがそれで成り立っていた。


「まさか葦狢(あしむじな)街道を封鎖して通商を禁止するとはな。もう半年以上になるぞ」


 蓮山本綱は理解しがたいという口調で言った。菊次郎も同感だった。

 両国の商人は禁令に驚愕した。宇野瀬領内から鉄器や絹を運び出せなくなり、豊津では倉一杯の麦や木綿の売り場に困った。都へ運ぶ品がなくなったので港に寄る船が減り、町から活気が失われた。

 桜舘家は長年商人たちと協力して商売を守ってきたので、妙姫には問題の重大さがすぐに分かった。事情を聞かされた直春や菊次郎も、封主家の間の争いと民の生業(なりわい)は別だと通商再開を働きかけたが、解決の糸口を見付けられないでいた。


「宇野瀬家では一族の大物を中心に強硬派が強く、直春という浪人の首を差し出して当家に従属せよというばかりで話にならないのです」


 思わず溜め息をこぼすと、昌隆は、封主家はしばしば民に対してそういう横車を押すだろうに、と言いたげな顔をしていた。例えば、木節(きぶし)往伴(ゆきとも)など一部の者たちは、領内の農民から麦を買いたたき、商人に高値で売り付けてもうけていた。今年は麦の買い手がいないため、直春のやり方に不満をもらしているそうだ。

 近頃は、商人たちも直春や妙姫に対して露骨に批判的な態度を見せるようになってきた。大鬼厚臣がいた頃の方がまだよかったと聞こえよがしに言ったり、宇野瀬家側に再度鞍替(くらが)えするように迫ったりする者まで現れる始末だった。

 そんな中、楠島(くすじま)水軍が護衛料を値上げした。通行する船の減少で収入が減ったからだった。


 豊津の南西に切岸(きりぎし)半島という短い突出部があり、その沖に楠島という比較的大きな島がある。そこを根城にする水軍衆は、御使島との間の海を縄張りにしていた。

 この海域は狭いところを多くの船が通るので、海賊を働くには格好の場所だった。古くから大小の水軍衆がいたが、昌隆の父盛昌(もりまさ)が一介の船乗りから頭領となり、勢力を大きくして他の海賊たちを圧倒するようになると、商船の護衛を始めた。危険を冒して船を襲撃するより、多くの船から少しずつ料金を徴収する方が安全で利益が大きかったからだ。商人にしても、船が沈んだり荷を奪われたりすることに比べれば護衛料の方がましだった。

 楠島は葦江国の一部だが、水軍衆は独立した勢力を保ってどこにも属さなかった。代々の桜舘家の当主も封主並みの力を持つ彼等に手出しせず、うまくやろうとしてきた。

 その水軍が値上げを通告してきたため、豊津の商人たちは困ってしまった。なんとかしてくれと泣き付かれた直春は、水軍との連絡役を務める豊津の商人平波屋(ひらなみや)に話し合いを持ちたいと依頼し、次席家老の蓮山本綱を使者として派遣した。菊次郎が一緒に来たのは、この一大勢力の情報を集めて、どう付き合っていったらよいかを探るためだった。

 信用できて話が通じる相手だと思ったので、菊次郎は昌隆に状況を隠さずに説明した。


「宇野瀬家に何度も使者を送ったのですが、当主の一族の大物がかたくなで会ってもくれません。桜舘家は困っているぞとかえって喜ぶようです。大鬼一族を討って離反したことに相当腹を立てているようですね」

「それで禁令をさらに厳しくしたわけか。自分の首を絞めるだけならよいが、これが続くと本当に大勢が首をくくることになるぞ」


 昌隆の言葉に菊次郎は深刻な顔で頷いた。

 宇野瀬領内では収穫が終わったのに米の値が高いままだという。冬の食料の麦が手に入りにくいため、やむなく高価な米を求める人が多いのだ。そろそろ冬が始まるが、絹や鉄器を換金できず食料を満足に買い込めなかった農家や職人も少なくないらしい。


「領民を飢え死にさせるような者に(まつりごと)をする資格はないな。噂の軍師殿がどうにかできないのか」


 菊次郎は力なく首を振った。


「実は、湿り原の和約はその布石でした。戦が収まれば交渉に応じるかも知れないと期待したのです。しかし、宇野瀬家内の強硬派は彼等以上に当家が苦しんでいると考えているらしく、しばらく禁令をゆるめるつもりはないようです。この我慢比べは両家にとっても、双方の領民や商人にとっても、つらいだけで何も生みません。敵国とはいえ長い間互いに助け合ってきた関係と聞いていますので、どうにかしたいと思っています」

「当家はあらゆる方法で事態を打開する努力を続けている。だから、護衛料の値上げを撤回していただけないか。頼む」


 本綱はまた頭を下げた。封主家の使者としては異例なほどの低姿勢だが、昌隆は頷かなかった。


「我々も心苦しいが値上げは仕方がない。島に住む者たちの食料を買うだけでもかなりの金がかかるのだ。平地が少なく、米はおろか、野菜や芋の畑すら作りにくい。俺はもうすぐ親になるしな」

「それはおめでとうございます」


 菊次郎は祝辞を述べた。昌隆の妻はこの平波屋の娘だと聞いている。


「男でも女でも、必ずよい船乗りに育てるつもりだ。そうでなくては楠島の(とりで)(あるじ)はつとまらない」

「きっと立派な頭領におなりでしょう」


 この親の子ならば、と思って言うと、伝わったらしく昌隆は顔をほころばせた。


「ありがとう」

「名前はもうお決まりですか」


 興味から聞くと教えてくれた。


昌繁(まさしげ)だ。父が考えた。男なら、だが」


 笑顔がまぶしいくらい(すが)(すが)しく明るかった。若い頃から海に出て指揮をとってきたそうだから、船乗りとしても一流なのだろうが、荒くれ者たちの大所帯を取り仕切る次期頭領としても充分な(うつわ)に見えた。


「俺は生まれてくる子供のため、仲間のために島と水軍を守る。それには値上げするしかないのだ。親父も同じ考えだ」


 昌隆は菊次郎たちの要求を拒否したが、敵対するつもりはないらしい。かといって従う気もない。沖に離れた島に大きな砦を築いて数千人の手下がいるのだから、桜舘家の討伐を受けても撃退できる自信があるのだろう。

 菊次郎は本綱に目配せすると昌隆に言った。


「用件はお伝えし、お考えもうかがいましたので、本日はこれで引き下がります」


 脅して従う相手ではない。今はこちらから提供できる利もない。帰って直春たちと相談し、説得する方法を考えなければならない。そう思ったのが分かったのか、昌隆は面白そうな顔をした。どんな方法で納得させるつもりか興味を持ったらしい。

 最後に、雑談として、菊次郎は気になっていたことを尋ねた。


「楠島家のお名前は面白いですね。現頭領のお父君、副頭領殿、ご子息ともに、名前をひっくり返すとよい意味の言葉になります。昌盛(しょうせい)隆昌(りゅうしょう)繁昌(はんじょう)と。ですが、なぜ、逆さにしたのですか」


 変な理由ではないだろうと予想した通り、昌隆はうれしそうな顔をした。


「俺たちは船乗りだ。よい風は後ろから吹いてほしいのだ」

「なるほど!」


 本綱が感心して膝を打った。

 やがて、菊次郎たちは平波屋を辞去した。


「しかし、水軍を説得しようにも、交易が回復しないことにはどうしようもないな」


 豊津の町を歩きながら本綱がつぶやいた。菊次郎も同じことを思っていた。


「そうですね。仮に説得できたとしても護衛料が元に戻るだけです。大元の問題を解決しないと商人たちが苦しいのは変わりません」

「だが、そこが難しいのだ。敵国の当主の一族が相手で、しかも意固地になっているのではな。揺さぶりをかけたいが、効果的な方法は思い付かないな」

「宇野瀬家の重臣を動かす伝手(つて)が必要です。大鬼厚臣(あつおみ)は持っていたのかも知れませんが、我々にはありません」

「豊津や旭山(あさひやま)の大商人がかなりの金額を包んだそうだが、金だけ受け取って首を縦には振らなかったと聞いた。もしかしたら、もっとしぼり取ってやろうと思っているのかも知れないな」

「商人たちは今お金がないのですが」


 そんなことを話していると、後ろから声がかかった。


「菊次郎さん」


 振り返ると雪姫と直冬だった。田鶴と真白(ましろ)、護衛五人も一緒だ。


「天額寺からの帰りですか」

「うん」


 厚手の羽織を着て首に襟巻(えりまき)をぐるぐるにまいた雪姫は、護衛の一人が持っている数冊の本を指さした。

 雪姫は最初の訪問以来、和尚に学問の手ほどきを受けている。寺にあった書物に興味を示したら貸してくれたのだ。手紙を頻繁にやり取りして本の感想を書いたり解説してもらったりしていて、直冬や田鶴もそれを読んで学んでいるそうだ。菊次郎も見せてもらったが、雪姫がなかなか鋭い指摘をしていて驚いた。和尚の返信も丁寧で熱心に教えているのが分かる。

 本の借り換えは家臣が使者をしているが、一ヶ月に一度程度、雪姫自身が寺に足を運ぶ。いつもは菊次郎も同行するが、水軍との約束があったのだ。

 通商の禁令のため、商人たちの天額寺への寄進が減っていると聞いている。次は行かなくてはと思っていると、隣に並んだ雪姫がいきなり尋ねてきた。


「海賊はどんな人だった?」


 下から顔をのぞき込んでくる。興味があったらしい。


「忠賢さんみたいな感じで直春さんみたいに笑うんですよ」


 印象を端的に説明すると、雪姫はうまく想像できないらしく、歩きながら首を傾げていた。


「どっちにより似ているの?」

「忠賢さんですね」


 答えると、雪姫はうれしくなさそうに言った。


「だったら会わなくていい」

「どうしてですか」


 菊次郎は意外に思った。すると、雪姫は顔を曇らせた。


「忠賢さんはちょっと苦手なの」


 ますます驚くと、雪姫は言いづらそうに小声になった。


「何だか恐い感じがするの。一見親しみやすそうだけれど、油断すると噛み付かれそうな感じ。だから狼なの。直春兄様はあったかいし、田鶴はやさしいのに」


 四尊の旗のことだと思い当って、気になっていたことを尋ねてみた。


「僕はどうして桜なのですか」


 雪姫は菊次郎の顔をじっと見上げた。


「何だかはかない感じがするから。とってもきれいで目を引かれるけれど、すぐに散ってなくなってしまいそう。しっかり根を張った感じがしないの」


 純真な姫君の言葉に菊次郎は絶句した。


「田鶴は空を自由に飛び回っている感じ。でも、帰る場所は分かっていて寂しくないの。直春兄様はどっしりしていて頼れて安心な感じ」


 どう返そうか困っていると、横から直冬が言った。


「姉上、僕はどうですか」

「あなたはあわてんぼうで、うっかりしていて、気が小さいわ」

「ひどいです……」

「容赦ないね」 


 田鶴がくすりと笑った。直冬は一層傷付いた顔をしてうつむいてしまった。


「でも、直冬様は姉想いでやさしいですよね」


 菊次郎が言うと、雪姫は弟を横目で見てちょっとためらい、仕方がないなあという顔で同意した。


「うん、とってもやさしいと思う」


 直冬は意外な言葉に目を丸くし、照れて赤くなった。


「やさしいなんて男に言う言葉ではないです」

「でも、あたしもそう思う」


 田鶴が微笑んだ。


「姉様も言っていたよ」

「よかったですね」


 菊次郎が言うと、直冬は上目遣いにみんなの顔を見回して、恥ずかしそうに頷いた。本綱や護衛の武者たちが頬をゆるめている。

 こういうまっすぐで自分を偽れないところが、この若君がみんなに愛される理由だ。本人は立派で堂々とした男に憧れているらしく直春を尊敬しているが、やさしさや素直さだって立派な魅力だ。


「多くの人からやさしい人と思われたいと願っても、努力で実現するのはかなり難しいのですよ。直冬様は周囲の人にもやさしい笑顔を浮かべさせることができます。それは知恵や勇気とはまた違った美質です」

「そうね。直冬様を見ていると何だかほっとする」


 田鶴が言うと、直冬はますます顔を赤くした。


紅葉(もみじ)みたいに真っ赤ね」


 雪姫が笑った時、突然、道の横手から大きな叫び声が聞こえてきた。


「あちちっ! 何をするんだ!」


 豊津の町の中央通りに並ぶ屋台の一つから、背の高い男が一人走り出てきた。


「すみません! 手が滑って……」


 店の人らしい若い娘が謝っている。盆が傾いて椀の中身が男にかかったらしい。


「隣に子供がいるんだぞ。気を付けてくれ!」


 三十前後の男は片手で二歳くらいの子供を抱え、もう一方の手でくたびれた羽織の(すそ)をつまんでいた。


「まったく、着物がべとべとだ。油が入っているからこれはもう落ちないぞ」


 娘は何度も頭を下げ、汚れの具合を確かめると言った。


「お近くにお泊りですか。洗ってお届けしますが」

「落ちるのか?」


 男は驚いた。


「ええ、むくろじの実を水につけておくと泡が立つのでそれで落ちます」

「初めて聞いたな。そんなものがあるのか」


 男は興味深げに言った。


「むくろじの実といったか。どんなものだ。持っているなら見せてくれ。持っていないのか。ならばどこにあるのだ。その木はどんな木だ。高いのか低いのか」

「ええと……」


 矢継ぎ早に尋ねられて娘が困っている。足を止めて見守っていた菊次郎たちは、顔を見合わせて声をかけた。


「むくろじはあそこにありますよ。その井戸の脇に生えている木です」


 菊次郎が教えてやると、男は井戸へ駆けていき、木を見上げて黄色く色付いている実を次々にもぎ始めた。

「この実か。どれくらい使うのだ。多い方がいいのか」

「そんなに取っては駄目です。みんなのものですから」


 言われて男は気が付き、腕を引っ込めると、手の中の実をしげしげと眺めた。


「その実に興味があるのですか」

「これは失敬。つい夢中になってしまいました」


 男は菊次郎たちを振り返り、身分ある人々と見て姿勢を正した。


「私はこういうものが好きでしてね。商売の種にならないかいろいろ調べているのです」

「商売?」


 雪姫が不思議そうな顔をすると、男は名乗った。


「私は萩矢(はぎや)頼算(よりかず)と言います。経世家です」

「けいせいか、ですか」


 菊次郎は聞いたことがなかった。男は笑って説明した。


「金を稼いで世の中を明るくしようと考えているのです。腹が満ち、屋根の下で安心して寝られてこそ、幸せや道徳について考えられますからね。諸国をめぐって商売の種を探し、それを成功させて人々の暮らしを豊かにしたいと考えています。はっきり言えば、この子のためにも一山当てたいのですよ」


 直冬は目を丸くしている。初めて聞く発想なのだろう。一方、雪姫は興味を引かれたらしかった。


「学者様なの?」


 十三歳の姫君が好奇心むき出しで尋ねると、頼算(よりかず)はにっこりして言った。


「いえ、浪人です。元は武家でしたが、主君と折り合いが悪くて首にされました」


 本綱や護衛たちが警戒する顔つきになったので、頼算は慌てて付け足した。


「別に騒ぎを起こしたとか、謀反(むほん)をたくらんだとか、そういうことではありません。主家を富ませようとあれこれ考えて提案したら、重臣たちにうとまれましてね」


 頼算の笑みが寂しげに(かげ)った。


「代々仕えていた封主家は貫高が小さく貧乏で、戦が起こるたびに軍費に苦労していました。このままではいずれ財政の豊かな家に滅ぼされてしまうと思い、領内で作れて利益を生みそうな作物や品物を考えて、何度も主君にかけ合いました。ところが、私の提案の中に家老家の一つの権益を犯すものがあったので危険視されたのですな。主君は悪い方ではなかったのですが、頭が固く、重臣たちとの喧嘩を避けたかったようで、お前の顔は見たくない、しばらく出仕するなと言われました。その上、主君をたぶらかして権益を横取りしようとしたという噂が広まって居心地が悪くなりましたので、思い切って浪人することにしたのです」


 田鶴は本当かしらと怪しむ表情をしている。詐欺師(さぎし)ではないかと疑っているらしい。本綱や護衛たちも信じていない様子だ。頼算は困った顔になった。


「都に出て大商人の店をいくつか訪ね、経世家を名乗って考えを話して回ったのですが、出資してもよいという人は現れませんでした。そこで、自由な気風だという墨浦に行ってみようと、思い切ってこの子と妻を連れて船に乗ったのですが、妻が病に倒れてしまいまして」

「なるほど。一応の筋は通っていますね」


 菊次郎は頷き、頼算を上から下までじっくりと見回すと、少し考えて言った。


「よろしければ、その商売というのを聞かせてもらえませんか」

「ええっ、この人の言うことを信じるの?」


 田鶴はひどく驚いたようだった。本人の前なのに疑いを隠す気がない。直冬も意外そうな顔だし、護衛たちもやめた方がよいと思っているようだった。本綱ははっきりと言った。


「どうせほら話だろう。聞く価値はないと思うぞ。それよりも交渉の不調を国主(こくしゅ)様に報告せねばならない」

「国主様とは桜舘のお殿様のことですか」


 頼算が尋ねたので、菊次郎は答えた。


「ええ、そうです」

「ということは、交渉というのは、楠島水軍に値下げを頼んだのですな」

「貴様、どこでそれを!」


 本綱は叫んで腰の刀に手をかけたが、菊次郎はそれを制して頼算に尋ねた。


「どうしてそう思いましたか」

「乗ってきた船の中で護衛料の値上げの話は聞きました。この状況でそれをされたら豊津の商人たちはたまったものではないでしょうからね。だが、水軍衆も食っていくには金がいるでしょう。どうすればよいか、私には考えがありますけどね」


 すると、雪姫が目をきらきらさせて尋ねた。


「どんな考えなの? 名案があるの?」


 雪姫だけはこの男を信じていた。護衛料の件も知っていて心配していたらしい。


「教えてもいいですが、ただというわけにはいきませんな。私は今金に困っていましてね。ある程度の金額は頂きたいところです」


 頼算は雪姫の期待に満ちた様子にやや気圧(けお)されながらも、悪びれずに金を要求した。重要な情報や有益な発想には対価を払うべきだと考えているのだ。自分の意見にはそれだけの価値があると思っているのだろう。


「ばかばかしい。行こう」


 田鶴は(うなが)して歩き出そうとしたが、菊次郎は動かず、頼算に言った。


「あなたのお話に興味があります。他の人に邪魔されないところでじっくりとうかがいたいので豊津城に来ませんか」

「この人をお城に呼ぶの?」

「本気か?」


 驚く田鶴と本綱に菊次郎は頷いた。


「病気の妻に会えば今の話が本当かどうかは分かります。幼い子供もいますし、詐欺師だとばれても簡単には逃げられません。自信がないならお城には来ないでしょう」


 頼算は「確かに」と苦笑したが納得したようだった。


「それに、僕はこの人の考えに興味があります。聞くだけなら損はしません。駄目でもともと、役に立つ発見があればもうけものです。僕が詳しい話を聞き、価値があると思えば直春さんにも会ってもらうつもりです」

「直春さんとはどなたですか」


 頼算に雪姫が答えた。


「桜舘家のご当主様。私のお義兄様(にいさま)よ」


 そして、菊次郎にせがんだ。


「そのお話、私も聞きたい。一緒に聞いてもいい?」

「直春さんに会わせることになったら同席して頂きますよ」


 菊次郎は約束して、店の娘に言った。


「着物は城で洗いますから洗濯は不要です」

「本気なのね。じゃあ、その時はあたしも一緒に聞く」


 田鶴は諦めたらしい。


「僕も同席します。姉上や田鶴は僕が守ります」


 直冬は本当に大丈夫なのかという顔をしていたが、自分もその場にいようと決心したようだ。

 頼算は一度宿に戻って妻に子供を預けたいというので、護衛の一人を付き添わせることにした。でないと城に来ても門をくぐれないからだ。


「どんなお話か楽しみね」


 雪姫は楽しそうだった。


「そうですね。桜舘家と葦江国の民にとって有益な情報であることを期待しましょう」


 菊次郎は頷いて、直春の待つ城に向かって仲間たちと歩いていった。



 その日の夜、豊津城の菊次郎の私室で頼算の話を聞く会が行われた。

 この場所になったのは、もう水仙月(すいせんづき)で夜は随分冷えるからだ。体の弱い雪姫と妊娠中の妙姫が心配だが大広間は温めにくいため、狭い部屋に集まった方がよいということになって、菊次郎が自室を提供したのだ。

 直垂(ひたたれ)姿で正装した頼算は、直春に平伏して言上した。


「私の提案は、豊津商人の取引相手をもっと増やすことです。宇野瀬領との交易に依存する状態を改め、他の土地とも多くの商売をするべきです」


 直春は考える顔だった。


「意見としてはもっともだ。現状では宇野瀬家と事を構えるたびに商人たちが困るし何かとやりにくい。宇野瀬家とは極力仲良くしてくれと言ってきた者もいるしな」

「だが、戦ってのは起こる時には起こるもんだぜ」


 忠賢の指摘もその通りだった。


「こっちにその気がなくても向こうから攻めてくるさ。俺たちは敵視されてるからな」

「当家も商人たちも商売の相手を増やしたいと思っているが、簡単には行かない。第一、どこと取引すればよいのだ」


 直春の問いに、頼算は緊張気味の声で答えた。


「都がよろしいと存じます」

玉都(ぎょくと)ってことか。今でも結構してるよな」


 忠賢が言うと、直春が頷いた。


「ああ、都との取引は多い」

「それは存じております。ですが、現在は大きな制約があります」

「制約ですか」


 妙姫が首を傾げた。


「そのようなものはありませんが」

「制度的なことではありません。船便のことです」


 頼算は菊次郎が書庫から探し出してきた吼狼国のおおまかな地図を指差した。


「現在、(うち)(うみ)の交易は海流に乗って行われております」


 地図には海流が赤い線で書いてあった。そういう地図をわざと選んだのだ。


「内の海は西から東へ岸に沿って強い流れがあります。玉都港は内の海の北端、臥神島(ふせがみじま)という大きな狼のへその位置です。そこを出た船は海流に沿って南東へ進み、後ろ脚の(ひざ)にある豊津へ至ります。そこからさらに南へ下り、つま先と御使島の間の大門(おおと)海峡を抜けて足の裏の墨浦へ行きます。今度は風を待って西進し、御使島の南を通って前脚の手の国の穂雲(ほぐも)港へ向かい、再び海流に乗って北東にある玉都港へ戻ります。つまり、玉都・豊津・墨浦・穂雲の四つの港をぐるぐると回りながら交易をしているのです」


 これは常識なので全員が知っていた。


『狼達の花宴』 巻の二 吼狼国周辺海流図

挿絵(By みてみん)


「この方法には欠点があります。あまり多くの荷を運べないことです」


 妙姫や直冬は怪訝(けげん)な顔をしたが何も言わなかった。


「船倉には各港で積んだ荷があります。豊津で下ろすのはこの地に向けたものだけです。つまり、三分の二の荷は積んだままなのです」


 直冬が指を折って考えていたが、頭がこんがらがっているようだった。要するに、船は港に寄るたびに荷の三分の一を入れ替えているのだ。


「ですから、都向けの品をたくさん用意しても、豊津から送り出せる荷の量を簡単には増やせません。船が増え、各港で積める品の確保ができて、ようやく船主は出航を認めるでしょう」

「では、どうすればよい」


 直春が真剣な口調で尋ねた。


「どうすれば都との交易を増やせる」


 その問いを待っていた頼算は、菊次郎にちらりと視線を向けると、かしこまって答えた。


「都へ直接向かう船を作ればよいのです」

「それは無理じゃねえか」


 忠賢が言った。


「今、海流に乗って交易してるのは、それが効率的だからだろ。海流に逆らって進むのは難しいぜ。いい風が吹くまで何日も動けねえし、途中で風向きが変わったら元の港へ逆戻りだ。だから誰もやらないんだぜ」

「その通りです」


 頼算は頷いた。


「ですが、これが可能になれば豊津の交易は大きく発展し、莫大な利益を生みます。豊津の荷を満載して都へ向かい、都で仕入れた品物をいっぱいに積んで戻ってくることができるからです」

「それを可能にする方法を頼算さんは考え出したんです」


 菊次郎は直春の前に一枚の大きな布を置いた。


「これは帆布(ほぬの)か」

「そうです。現在使われているものです。先程豊津の商人から取り寄せました」


 視線を向けると、頼算が先を引き取った。


「船に乗って初めて知ったのですが、帆は薄い綿布(めんぷ)を二枚重ねて縫い合わせ、それをたくさんつなげて一枚の大きな帆にしています。ですが、しばしば破れたり縫い目がほつれたりして扱いづらいもののようです。そこで、始めから厚くて丈夫で大きな一枚布を織って帆にすればよいと考えたました。縫い目が少ない方が破れにくいですし、丈夫なら大きくできます」

「言ってることは分かるが、簡単にできるなら誰かがもうとっくにやってるだろ」


 忠賢は疑っているようだった。


「確かにそうです。新しい帆の開発には数年かかるでしょう。すぐにはうまく行かないかも知れません。ですが、成功したら利益ははかり知れません」

「荷物がたくさん運べるから?」


 雪姫は厚い羽織を二枚重ねにして火鉢に当たりながら聞いていた。


「それだけではありません。利点は多いのです。まず、船が早くなります」

「どうして?」

「丈夫で大きな帆は多くの風を受けられるので速度が上がります。風が弱すぎた日や、強すぎて帆が破れる心配があった日でも出航できます。つまり、航海や風待ちの日数が減ります」


 そうなんだ、という顔で雪姫は聞いている。


「それに、船を大きくできます」

「どういうこと? あっ、大門(おおと)海峡?」

「その通りです」


 頼算は雪姫の利発さに驚いていた。


「豊津から玉都へ直接行くなら大門海峡を通りません。今まではあの海峡を抜けるために、船を敢えて小さくしていたのです」


 長斜峰(なはすね)半島と御使島の間の海峡は狭く、潮の流れが激しい難所だ。豊津から墨浦へ向かう船は、岩礁(がんしょう)を避けて岸辺ぎりぎりのところを慎重に進むのだ。


「これまで吼狼国の船は小さな帆と多くの(かい)で運用されてきました。風がよい時は帆を開きますが、推力は海流に頼り、流れに乗ったり降りたりする時や港の出入りで櫂を使っていました。しかし、新しい帆布が実用化されれば、吼狼国に本格的な帆船(はんせん)の時代が来ます」

「ううむ」


 蓮山本綱がうなった。隣で主席家老の槻岡良弘も腕組みをして考え込んでいる。


「また、この帆布が評判になれば、吼狼国中から注文が殺到するでしょう。豊津港は帆を求め、交換や修理を依頼する船であふれるはずです」

「町がにぎわうね」


 田鶴が明るい声で言った。彼女が真っ先に考えるのは民や貧しい人々のことだ。


「木綿は葦江国の特産だし」

「そうです。帆布の材料用に木綿を増産すれば農家も(うるお)います。船の大型化や木綿のことは菊次郎殿のお考えですが」


 頼算は計算が得意そうに見えて結構正直者らしい。

 田鶴や直冬は興奮し、雪姫もうれしそうだった。妙姫も頬をゆるめたが、忠賢が冷ややかな声で言った。


「すげえな。いい考えだと俺も思う。だが、問題もあるぜ。そもそもその帆布は本当に完成するのか」


 田鶴はせっかく喜んでいるのに水を差さないでと言いたげだったが、直春は忠賢に同感のようだった。


「そうだな。他にも考えることがある。例えば、多くの荷が運べるようになったとして、都へ何を売るのだ。豊津の今の商売は宇野瀬領の鉄器や絹を運ぶのが主だ。朧燈国(おぼろひのくに)から買い入れる量を増やすのでは、戦が起こった時の対策にはならないぞ」


 この二人はさすがだと菊次郎は思った。大きな利益を生みそうな話でも冷静に問題点を考えることができる。

 頼算も若いのにすぐれた人物だと直春を見る目を改めたようだった。


「実は、それにも心当たりがございます」


 頼算に再び視線が集まった。


「まず、むくろじは都で売れましょう」

「むくろじって何だ?」


 忠賢は知らなかったらしい。直春も首を傾げている。


「洗濯の時に使う木の実よ。油が落ちるのよ」


 田鶴が言い、頼算が(たもと)から五個取り出して前に置いた。


「玉都は織物産業が盛んです。宇野瀬領の絹も都で布や着物になります。その時に、油を落とせるむくろじの実は必ず役に立ちます。例えば、布を染める時に油の入った染料を使ったり、作った布の汚れを落としたり、用途は多いはずです」

「そいつは簡単に手に入るものなのか」


 忠賢が尋ねた。


「木の実じゃあ、草みたいにすぐに育って取れるようにはならないだろう」

「葦江国はむくろじの木がたくさんあるよ」


 田鶴は山の植物に詳しいので知っていた。


「大鬼家の領地だったところは黄葉谷(きばたに)って地名でしょう。あれ、むくろじのことだよ。秋に黄色くなるの」


 菊次郎は頷いた。


「そのためか、葦江国では多くの井戸のそばにむくろじの木があります。使うのは果肉と皮なので、種を抜いて乾燥させれば長持ちしますし、軽くなって運ぶのが楽です。黒く固い種は子供がよく遊び道具にしていますが食べることができます。僧侶が使う数珠(じゅず)の材料にするそうですので、これも売れるかも知れません」


 頼算が身を乗り出した。


「生産が盛んな木綿は都の人々の着物の材料として歓迎されるでしょう。新しいものを作るより、これまでと同じものをもっとたくさん作る方が簡単なはずです。もちろん、米も麦も炭も需要があります。都は人が多いですから。開墾する場所は菊次郎殿にお考えがあるそうです」

「どこなのですか」


 妙姫は興味を引かれた様子だった。菊次郎は東を指さした。


「湿り原です。湿原を埋め立てるのです。すぐそばに葦の江があり、湧き水もありますので、田んぼ用の水が簡単に手に入ります。湖周辺の湿原を全て埋め立てれば数万貫は増えるでしょう」

「敵の軍勢を前にして、お前はそんなことを考えてたのか」


 忠賢は呆れたような感心したような顔だった。


「売れると分かっていれば、酒でも味噌でも漬物でも作る人は多いと思います。新しい帆布は必ず吼狼国の海運を発達させます。やがて、どの土地でも地元で使い食べるもの以外に、他所(よそ)へ売ってお金にする物を作る時代が来るでしょう」


 部屋は静まり返った。大きく頷く者、目を輝かせている者、考え込む者、疑問を顔に浮かべている者、反応は様々だが、頼算の提案に興味を引かれていることは全員が同じだった。


「よし。当家はその研究に取り組むことにする」


 直春が断を下した。


「頼算殿に城内の一室を与えるから、帆布の開発をしてもらいたい。かかる費用もできるだけ融通しよう。必要なものを買いそろえるといい」

「ありがとうございます」

「しばらくの間、身分は菊次郎君の客分にしておく。少禄(しょうろく)で雇うより、時機を見て皆に紹介し、相応の地位につけた方がよかろう。今は譜代でない家臣に高禄を与えるのは難しいが、必ず取り立てよう」

「はっ、帆布は必ず完成させてみせます」


 直春は当主然とした口調をゆるめた。


「それ以外でも菊次郎君の相談に乗ってやってほしい。彼は一人でいろいろなことを背負(しょ)いこんで解決しようとしているからな」

「えっ、そんなことは……」


 菊次郎は驚いたが、頼算は笑みを浮かべて頷いた。


「それは私も感じておりました。財政や商売に関することなら知識がございますので、お助けできると存じます」


 頼算は急に威儀(いぎ)を正した。


「菊次郎殿からうかがいましたが、直春公や皆様は天下を統一して戦狼の世を終わらせようと考えていらっしゃるとか。経世家を名乗り、豊かで暮らしやすい世の中を望む者として、お志に心より賛同致します。その実現に少しでもお役に立てますよう、全力で働く所存です」

「うむ。よろしく頼む。期待しているぞ」


 直春に続いて妙姫も声をかけた。


「豊津の町ににぎわいを取り戻し、葦江国をさらに豊かな土地にしてください。それが我が桜舘家の使命です」

「ははっ!」


 頼算は平伏した。が、すぐに顔を上げた。


「ところで、一つおうかがいしてもよろしいでしょうか」


 直春がまなざしで先を促すと、頼算は菊次郎を横目で見た。


「実は、菊次郎殿のお名前を知りたいのです」

「どういうこと?」


 田鶴が不思議そうな顔をした。


「菊次郎殿が商人の家にお生まれになったことはうかがいました。ですが、今はもう桜舘家の家臣です。武家名がおありだと思うのですが、誰も教えてくれません。ご本人はないとおっしゃいますが、目上の武家を商人名で呼んでよいものかと困りまして……」


 菊次郎と頼算以外の全員が呆れた顔をした。


「ないのよ、本当に」

「まだ決めていないそうです」

「菊次郎さんは菊次郎さんだよ?」


 田鶴・直冬・雪姫が言って、菊次郎を見た。


「だから早く決めろって言っただろ」


 忠賢はからかう口調だった。


「頭はいいくせに、細かいことまで無駄に考えすぎるのがお前のよくないところだ。さっさと決めろ。今すぐ決めろ。何なら俺が付けてやろうか?」

「まあまあ、納得する名前を本人が選ぶのが一番だ。もう少し待とう」


 直春は笑っていたが、菊次郎は先延ばしにしている宿題を突き付けられて気まずかった。譜代の家臣の中には商人出身の菊次郎を(かろ)んじる者もいる。その程度の人物の言動を気にしても仕方がないが、名前を早く決めないといけないのは確かだった。


「すみません。考えてはいるのですが、しっくりくるものを思い付けなくて。ですが、来春までには決めます」


 桜月一日の春始節(しゅんしせつ)では、当主の直春に新年の祝いを述べる時、家臣一同の前で名乗ることになる。今年は許されたが来年は周囲の目が厳しいだろう。

 頼算が余計なことを尋ねたかと申し訳なさそうな顔をしていたので、「気にしなくていいですよ」と言って、菊次郎は小さな溜め息を吐いた。



 やがて、頼算は部屋を出て行った。用件が終わったので港の宿屋に戻るのだ。城内にも部屋を用意したが、病気の妻と子供が気がかりだと言っていた。


「では、次の話に移ろう。むしろこちらが本題だ」


 直春が皆を見回した。頼算以外の全員が部屋に残っていた。雪姫は部屋に帰るように言われたが、身重の妙姫が動かないので出て行かなかったのだ。


(なつ)姫から手紙が来た。平汲可済(よしなり)の書簡も同封されていた」


 夏姫は妙姫の伯父の娘で、婚約者だった直秋(なおあき)の妹だ。現在十八歳で、平汲家の嫡男可済に嫁いでいる。


椿月(つばきづき)に停戦の期限が切れる。その直後に宇野瀬家が攻めてくるようだ。平汲家と押中家にも出陣の命令が来たと伝えてきた」


 直春は二通の書簡を仲間たちの輪の中心に置いた。


「平汲可済は俺たちと戦いたくないらしい。協力して宇野瀬家を打ち破り、それを手土産に成安家に属したいそうだ。押中家は滅ぼして領地を山分けしようと言っている」


 可済の手紙には、たびたび出兵を命じる宇野瀬家への不満がつづられていた。言われるまま桜舘領の村を荒らしてきたが、まともな武家のすることではない。桜舘家は妻の実家で半年前まで友好関係にあった。再び同盟し、成安家の配下に入りたいので仲介の労をとってもらえないか。そう訴えてきたという。


「本気でしょうか」


 菊次郎が疑念を口にすると、妙姫が首を振った。


「ありえません。罠です」

「ですな」

「間違いない」


 槻岡良弘と蓮山本綱も即座に賛同した。


「夏姫って、そんなに妙姫様が嫌いなの?」


 田鶴が驚くと、妙姫は言った。


「嫌いというよりうらやましいのでしょう」


 事情は良弘が説明してくれた。

 夏姫は幼い頃から勝気な娘で、おだやかな人柄の兄直秋にも厳しい言葉を投げることが多かったそうだ。同い年の妙姫とは事々に張り合い、自分の方が少し先に生まれたのだと姉さん風を吹かせたがった。

 やがて妙姫と直秋は婚約し、夏姫は平汲可済の妻になると決まった。豊津城を出て格下の封主家に嫁ぐことを夏姫は嫌がったが、当主の命令には逆らえなかった。

 ところが、大鬼厚臣が謀反(むほん)を起こし、直秋が行方不明になって妙姫が当主の座についた。夏姫は従妹(いとこ)が桜舘家を継いだことに激怒し、自分が当主になるべきだと騒いだという。だが、実権は厚臣が握っていて妙姫は飾り物にすぎないと分かると、身の危険を感じたのか大人しくなり、むしろ同情する様子だったそうだ。

 その後、平汲家も宇野瀬家に属することになったので、厚臣は予定通り婚姻同盟を進めた。夏姫は逆らわず、桜舘家を去っていった。こちらへ逃げてくれば保護するという手紙を送ってきたそうだが、内心では簒奪(さんだつ)されそうな実家と妙姫の立場に複雑な思いがあったようだ。だから、直春との結婚と大鬼一族の討伐成功には驚き、面白くなく思っているはずだった。


「可済の手紙だけならまだしも、夏姫様が関わっていらっしゃるとなると、当家のことを考えた誘いではないでしょう。むしろ、直春様や妙姫様を倒して、自分が桜舘家の当主になろうというたくらみと思われます。背後に宇野瀬家がいる可能性もありますな」


 良弘は断言した。


「というわけだ。これにどう答えるか、皆に(はか)りたい」


 直春は手紙を拾うと菊次郎に差し出した。受け取って数度読み返すと忠賢に渡して、菊次郎は内容を整理した。


「簡単に言えば、宇野瀬家と押中家をだまそうということですね」

「そうだ」


 直春は菊次郎をじっと見つめていた。

 平汲可済の提案はかなり具体的だった。

 宇野瀬家の軍勢は平汲勢・押中勢と平汲家の駒繋(こまつなぎ)城で合流し、葦狢街道から豊津へ進軍する予定だ。そこで、平汲家は街道を塞いで宇野瀬勢の到着を遅らせ、その間に押中勢を桜舘勢と協力して殲滅(せんめつ)する。続いて宇野瀬勢も一緒に攻撃して追い返し、押中家の千本槍(せんぼんやり)城を攻略しようというのだ。


「押中家の領地五万貫は、桜舘家が三万貫、平汲家が二万貫を取るのですね」


 菊次郎は少し考えて尋ねた。


「平汲可済はどういう人物なのですか」


 妙姫・良弘・本綱の考えを聞いて、菊次郎は桜舘家当主に顔を向けた。


「状況は分かりました。それで、直春さんはどうするつもりですか」

「俺はこの策に乗りたい。ただし、この通りには動かない」


 忠賢がにやりとした。


「つまり、敵の策を逆手にとってこっちの目的を果たそうってことだな」


 きっと戦いたいのだろう。


「そうだ。恐らく平汲家は何かをたくらんでいる。こちらはその裏をかいて、平汲・押中両家を滅ぼし、宇野瀬勢を追い払って葦江国を統一したい」


 直春の視線を受けて菊次郎は答えた。


「僕も同じ考えです。相手を策にかけようと思った時、人には隙が生まれます。策にこだわりその通りに運ぼうとすれば、思考や行動に制限がかかるので予想しやくすなります。これは両家を攻略する好機と考えます」


 菊次郎は直春の信頼のまなざしをしっかりと見返した。


「宇野瀬家が豊津との交易を禁じたのは当家に対する揺さぶりです。放っておけば家臣や領民の不満が高まり、直春さんを当主から降ろす動きが起きかねません。その前に宇野瀬家に勝利し、直春さんを中心とした体制を確立するべきだと思います」

「君はそう言うだろうと思っていた」


 直春は笑みを浮かべた。


「他のみんなはどう思う。反対の者はいるか」


 互いに顔を見合わせて、全員が微笑んだ。忠賢が言った。


「あの二家は邪魔だな。さっさと滅ぼして領地を頂こうぜ」

「春から散々村や畑を荒らされたもんね。やっつけたいと思ってたの」


 田鶴はもうその気らしい。妙姫・直冬・雪姫も異存はないようだった。


「夏姫の思う通りにさせるつもりはありません」

「僕たちをだまそうとしたのなら、攻められても文句は言えないと思います」

「仕方ないと思う」


 良弘と本綱はご指示に従いますという顔で黙っていたが、賛成なのは明らかだった。


「よし。では、戦いだ!」


 直春が凛とした声で言った。


「葦江国の中の争いをこれで終わらせよう。民の暮らしを守り、足場を固めて天下統一を進めるために!」

「はい!」


 一斉に返事があった。もちろん菊次郎も同じ言葉を発したが、膝が震えるのを感じていた。今回の戦いも敵の方がはるかに多く、勝利は容易ではない。大鬼家との戦い同様、苦戦するかも知れない。

 でも、僕が勝たせる。絶対に負けたり、みんなに怪我をさせたりしない。僕は軍師なんだ。

 菊次郎は歯を食いしばって恐怖に耐えながら決意した。

 失敗は許されないけれど、大丈夫、うまくやれる。命にかえてでも、必ず桜舘家のみんなを守ってみせる。

 そんな菊次郎の様子に、直春と忠賢は目を見合わせ、田鶴は心配そうな顔をした。妙姫は哀れむように慈悲深く、直冬は不安そうに、良弘と本綱は励ますように、菊次郎を見ていた。その中で、ただ一人雪姫だけは、透き通ったやさしいまなざしでかすかな笑みを浮かべていた。

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