(巻の二) 第二章 墨浦
「では、講義を始めましょうかの。雪姫様、吼狼国ができたのはいつか、ご存知ですかな」
漢曜和尚がやさしい口調で尋ねると、雪姫は元気よく答えた。
「三千八百十五年前! だって、今年の降臨暦がそうだもの。白牙大神様がお作りになったのよね?」
「その通りです。大神様が世界から集めた民百人を青い狼の姿に変え、神々の一人でいらっしゃった初代の宗皇初大皇様と妻の始女皇様のお二方に率いらせて、地上にお遣わしになったのです。お二人は最も大きな銀色の狼を大陸の西の広い海に横たわらせて臥神島をお作りになりました。狼の胸から転げ落ちた心臓が活火山の神雲山になるとその頂上へ降り立たれ、新たな大地をお眺めになって、天界へつながるこの霊峰に近く大神様の祉を受けやすい海辺の原っぱに最初の村をお作りになりました。それが皇城玉都の始まりです」
「民を集めたの? ということは、もうあちこちに民がいたの?」
「そうですよ。姉上はそんなことも知らないのですか」
直冬がいばって言った。元服を済ませたばかりの十二歳の若君は、見栄を張りたい年頃だった。
「どこにどんな民がいたの?」
雪姫は首を傾げた。十三という年を考えると子供っぽい仕草だが、純真無垢という言葉がぴったりなこの姫君がするとわざとらしい感じがせず、かわいく見える。
「どれくらいいたの? 異国には肌が黒い人や茶色い人や白い人がいると聞くけれど、そういう人は集めなかったの?」
「それは……」
直冬が口ごもると漢曜和尚は微笑んで答えを教えた。
「集めたのですよ。世界各地にそれぞれ別の神に祈る百の民がいました。大神様は神々に頼んで最も良き民を一人ずつ譲ってもらって一度天界に集め、肌の色や見た目をそろえたのです。一目で互いが吼狼国の者と分かるようになさったのですな。一度狼にしたのはそのためです。ですから、吼狼国にはたくさんの国の技術が伝わっています。彼等が憶えていたからです」
つまりは一種の選民思想だ。神々が最もすぐれていると認めた人々の後裔なのだから。
「でも、神様たちはよく分けてくれたね」
田鶴が疑問を口にした。小猿は横で大人しくしている。必要な時はじっとしていられるようにしつけてあるのだ。
「良い民は大切なはずだよね。もったいないと思わなかったのかな」
その理由を菊次郎は知っていた。
「もったいなかったけれど、必要なことだったのです。闇の神が勢いを増していましたから。大神様は最も強力な神様の一人ですが、祈ってくれる民を持たなかったので力の補給がしにくかったのです。寺院で僧侶や民が祈ると神々の力になるのですよ」
「話は世界が生まれた時にさかのぼります」
その先は和尚が引き取って神話を語ってくれた。
「はるか昔、最高神の始まりの神は別な世界を守っていらっしゃいましたが、そちらがよく治まっているので退屈なさり、新しい世界を作って眺めようとお考えになりました。そこでまず大きな空間をお作りになり、穴を開けて神力を注ぎ込まれました。すると創光神がお生まれになり、太陽を生み出して世界を照らされましたが、光に沿うように影ができ、滅暗神も誕生なさってしまったのです」
二神は一緒に世界を作っていったが仲が悪く、それぞれ自分の好みに合わせようとした。創光神が太陽の恵みを行き渡らせようと青空を作ると、滅闇神は闇に沈めようと夜を作った。夜空に月や星を浮かべると、青空に雨雲や嵐を配置して対抗した。青い海には固い大地、澄んだ湖や川には湿地や淀んだ沼、花や草木で覆うと荒れ地や砂漠を作った。鳥や獣や家畜を作ると、こうもりや虫や醜い生き物を作り、野菜や果物や穀物を作ると、毒きのこや作物の栄養を横取りする雑草を作った。
散々張り合った末、二神は最後に最も知恵にすぐれた生き物として人を作った。創光神は光のものにしようとしたが、滅闇神は闇のものだと主張して自分に祈らせようとし、戦いに発展した。それから数万年、二神は手足となる神々やその部下の従神を作って戦い続け、勝負はこの世の終わりまでつかないだろうと言われている。
「ですから、人は善でもあり悪でもあるのです。神々がどちらなのか確定なさらなかったのですよ」
「光の勢力が強くなると昼が長くなって夏になり、闇が強くなると夜が長くなって冬になるんだよ」
直冬が気を取り直して知識を披露した。
「暑いのも寒いのも嫌だから引き分けがいいのに」
田鶴が言うと、雪姫がその通りと大きく頷いた。和尚は笑って言った。
「光と闇の神様の力は等しいので、片方の優位が長く続くことはないのです。ですが、光がなくては作物が育たず、我等は生きられませぬ。そこで、吼狼国の民は光の神様のために戦う大神様を応援するのですな」
「それに、人が意地悪な気持ちになったり病気にかかったりするのは、闇の神々が地上に放った悪鬼のせいなんです。闇の方へ引き込もうとしたのですね」
菊次郎が付け加えると直冬が言った。
「だったら、大神様が頑張ってくださるように一生懸命祈ります」
この少年は病弱な雪姫をいつも気遣っている。根がまっすぐでやさしいところが二人の姉によく似ていた。
「大神様は初太皇ご夫妻に桜の枝を渡して、この花を見て私を思い出しなさいとおっしゃったそうです。その桜と、神雲山、狼、それに御使島や獣や鳥に変わった千羽の赤い鴉を四尊と言います」
菊次郎の言葉を聞いて、直冬が和尚に言った。
「僕、知っています。まとめて山花獣鳥と言うんですよね。このお寺にも旗がたくさんありました」
「あとで数えて御覧になるとよろしいでしょう。いくつありますかな」
「十五枚くらい?」
直冬が当てずっぽうを言うと、雪姫が笑った。
「四枚で一組なのよ。十五枚ではないと思うわ」
「さすがは雪姫様。そう言えばそうね」
田鶴が感心し、菊次郎は思わず微笑んだ。
講義が一段落したところで、和尚がそばに控えていた小僧に言い付けた。
「用意のものを持ってきなさい」
小僧はすぐに部屋を出て行き、盆にのせて四つの皿を運んできた。
「さあ、お召し上がりくだされ。滋養の付く薬草を入れてありますよ」
「これは桜かけ餅ですか」
白く柔らかな丸い餅に桜色の粉をふりかけたものだ。春始節の桜祭の名物だが、特別に作ってくれたらしい。子供でも食べやすいように一口の大きさに切ってある。
「中のあんこが甘くてとってもおいしい!」
雪姫がうれしそうに食べている。直冬は珍しげに眺めていたが、楊枝で一つ口に入れて目を丸くし、すぐに全部食べてしまって、もっとゆっくり食べればよかったと悔やむ顔をしていた。
この庶民の菓子を封主家の姫君と若君は知らなかったらしい。毎年寺院で売られると田鶴に聞いて驚いていた。小猿には小さな芋が出され、器用に皮をむきながらかじっている。
「こちらがお礼をする側ですのに、御馳走になってしまいました」
菊次郎が代表して頭を下げた。十六歳と四人の中で最年長だし、連れてきたのは菊次郎だからだ。もちろん、直春と妙姫から預かってきた礼物は先程渡してある。
「いえいえ、よいのですよ。桜舘家にはいつもよくしていただいておりますからな」
実は、この講義は菊次郎が頼んだものだ。湿り原の和約のあと、協力してくれた礼を述べに直春と一緒に和尚を訪ね、城に帰ってその話を雪姫にしたら、天額寺へ行ってみたいと言い出したのだ。病弱な雪姫はほとんど城の外に出たことがなく、豊津の町のはずれにあるこの大きな寺院すら参詣したことがなかった。
直冬は反対したが雪姫は珍しく意を曲げず、侍女の田鶴と菊次郎は根負けして姉の妙姫に許可を求めた。妙姫はしばらく考え、天気のよい温かい日を選ぶこと、警固をしっかりすること、何かあったらすぐに連れ帰ることを約束させた上で認めた。
そういう経緯で、実佐が推薦した腕の立つ馬廻り衆五人に守られて、四人はこの寺院までやってきた。和尚は雪姫の事情を分かっていて、体によい菓子まで用意してくれたのだ。
やがて、直冬と雪姫と田鶴は小僧に案内されて本堂へお参りに行った。直冬の提案で、一緒に狼神の像に雪姫の具合がよくなりますようにと祈るらしい。
雪姫は一見元気そうに見えるが、少し無理をするとすぐに熱を出すので、月に十日は一日中寝床にいる。また、姉の妙姫は妊娠しているから、安産のお守りを買うそうだ。
妙姫の妊娠が分かったのは直春と結婚してすぐだ。どうやら菊次郎たちと初めて会った日に子ができたらしいと言っていた。菊次郎の胸はまだ時々うずくが、二人はとてもお似合いだと納得しているので素直に喜ぶことができた。生まれた時には何か祝いの品を贈ろうと考えている。
彼等を見送った菊次郎は、餅をおいしく頂いて茶を飲みながら、訪問したもう一つの用件に移った。
「諸国に何か新しい動きはありますか」
寺院は全国にあって人がたびたび行き来している。和尚は顔が広く商人にも信奉者が多い。自然と各地の情報が入ってくるのだ。桜舘家の安定と豊津の町の安全は寺院にとっても重要なので、知っていることは教えてくれる。菊次郎が世話になった若竹適雲斎と昵懇になったのも、それがきっかけだったそうだ。
「近頃勢いのある封主家の第一は、背の国の報徳院家じゃな」
和尚は長い白髭の先を撫でながら言った。
「遠見国の城の一つに手こずっておったが、ようやく落としたと聞いた。新しく迎えた若い軍師が策を立てたようじゃ。これで遠見国の切り取りは一気に進むじゃろうと、ある商人が言っておったよ」
和尚は誰に聞いたかは教えてくれないが、情報が間違っていたことはない。
「茅生国では宇野瀬家と増富家の争いが激しいが、しばらく勝負はつきそうにないな。宇野瀬家は本城から遠くて援軍が送りにくい。桜舘家との休戦で道は確保されたが、踵の国でも福値家がここぞと攻勢に出ておる。茅生国に武者を集中するのは難しいじゃろう。増富家の方も攻め込んだはよいが、頑強な抵抗にあって決め手を欠いておるようじゃ」
そうした情勢は隠密からも報告されているが、和尚だからこそ知り得る情報もある。
「商人たちはどのように噂していますか」
「宇野瀬家が最近米を集めておるそうじゃ。なんでも、今蔵にある米を売って代金を受け取らず、秋になって収穫を迎えたら、その金額だけ米をもらいたいと言ってきたそうじゃ。商人にも得な取引じゃから、もちろん引き受けたそうじゃよ」
今日はもう菊月三日だ。暑い盛りは終わり、すっかり秋だ。暑くも寒くもないすがすがしい気候なので、雪姫の外出が許可されたのだ。
米の収穫はこの地域では紅葉月の半ばで、あと一ヶ月半ほどある。この時期は民の家の米がそろそろ底をつき、買い求める人が増えるため米価が上がる。しかし、収穫が終わると一気に値は下がる。各封主家が換金しようと商人に売るからだ。
宇野瀬家の提案は、高い時に例えば一万両分の米を売って、安い時に同額分買うのだから、金を動かさずに兵糧を増やすことができる。商人にとっても高値の時に米が手に入り、それを売ってもうけられるし、蔵が米でいっぱいになる時に大口の買い手を確保できる。
「つまり、大量の兵糧を入手しつつ商人に恩を売ったのですね」
「そうじゃな。さすがに菊次郎殿は商売の考え方が早くのみ込めるのう」
菊次郎は葦江国に来るまでのことを和尚に話していた。
「米を集める理由は何だとお考えですか。宇野瀬家が兵を動かすとしたどこでしょうか」
「現在、宇野瀬家は足の国で増富家、踵の国で福値家と戦をしておるから、そのための兵糧の確保というのが普通の見方じゃろうな。商人たちも大方はそういう意見じゃった。御使島の戦で忙しい成安家をたたくのではないかと考える者もおったが、警戒はしておるじゃろうし、宇野瀬家が今派遣できる兵力はせいぜい一万程度、成安家はその倍は用意できるじゃろう。よって、敵は成安家ではない。じゃが、成安家に連なる家の可能性はある」
大きく頷く菊次郎に、和尚は深い思索と懸念を示すまなざしを向けた。
「宇野瀬家にとって、今最も目障りなのは桜舘家じゃ。茅生国と行き来する時、豊津に近い葦の江付近の道は避け、平汲家と押中家の領内を抜けて南国街道へ出ておるが、それでは遠回りになって一日は余分にかかる。豊津城を落とせば好きな時に堂々と広い南国街道を通れるようになる。兵糧の輸送もずっと楽になり、万が一成安家が介入してきた時には籠もって迎え撃てる。わしが宇野瀬家なら、北の二方面が膠着状態にあって大きな動きがなく、成安家の目が御使島に向いている今こそ、桜舘家を討つ好機と見る」
「ご慧眼、感服致しました」
菊次郎は頭を下げた。湿り原の和約から既に三ヶ月、桜舘領内はおだやかな日々が続いていた。時折通る宇野瀬家の軍勢も狼藉は働かない。事前に通告があるので念のため二千ほどを城に集めるが、戦になったことはなかった。しかし、菊次郎や直春は決して油断してはいなかった。
「実は、和約が切れる椿月に、宇野瀬家と平汲・押中両家が攻めてくるのではないかと考えています。豊津の町は極力戦場にはしませんが、葦江国内の戦いが長期に渡った場合、また休戦にお力をお借りするかも知れません」
「町が襲われた時に民を守る用意は常にしてある。この寺はずっとそうしてきたのじゃ」
和尚が人々の尊崇を集めるのは、戦乱をのがれた民や戦に負けた人々を受け入れてきたからだった。ここに逃げ込めば命だけは助かるのだ。そのせいで寺の財政はいつも火の車だと言われている。商人たちも協力して彼等の働き口を探しているが、養わなければならない人数は増える一方らしい。和約への助力の礼に直春はかなりの額を寄進したが、焼け石に水だったと聞く。田鶴も時々寺へ物を送っているそうだが、そうした人々の暮らしは楽ではないらしい。
「余計な心配だったと笑えればよいが、備えはしておかねばならぬな」
菊次郎は頷いて少しためらい、慎重に尋ねた。
「成安家についてはどんな噂が流れていますか」
和尚の先を促すまなざしに、菊次郎はやや声を落とした。
「氷茨元尊という人物をどう思われますか」
「筆頭家老じゃな」
「はい。連署です」
当主の命令書に共に署名する重臣のことだ。
「まだ三十過ぎと若いのに随分なやり手で切れ者じゃと聞いておる。大層な野心家じゃそうな」
「その人物の噂をお聞かせください」
和尚は考えるように目を閉じたが、知っていることを話してくれた。
最後に、菊次郎は都の知り合いについて尋ねた。
「玉都からその後連絡はありませんか」
「ないな。行方知れずだそうじゃ」
菊次郎が都を発った夜に若竹適雲斎は赤潟武虎に殺された。大鬼家との戦いの直後、和尚の知り合いの商人が知らせてきたのだ。驚いた菊次郎はすぐに状況を尋ねる手紙を書いたが、既に軍学塾はなくなっていて、孫娘の天乃は弟子の半数と一緒にどこかへ去ったことしか分からなかった。
天乃を妹のように思っていたので、なぜ何も知らせてくれなかったのかと残念だった。だが、菊次郎が軍学塾を出た事情から彼女の気持ちも分からぬではなく、責める気にはなれなかった。
「天乃殿は仕えるに当たって名を変えたのかも知れぬ。赤潟武虎にねらわれぬためにもその方がよいじゃろう」
「そうですね。あの男はしつこいですから」
あり得ることだと菊次郎が答えると、和尚は尋ねた。
「菊次郎殿ご自身のお名前は決まったのかな」
「いえ、まだです」
忠賢はよく「いつまで『菊次郎』なんだ?」とからかってくる。直春は慌てることはないと急かさないが、商人名では民や他家との交渉などで軽く見られる可能性があるので、あまり迷ってはいられなかった。
「願いや思いを込めた名前にしたいのですが、何を一番に込めたいのか自分でも分からないのです」
「難しく考えることはない。何かの拍子に思い付くじゃろう。わしは小僧の頃、つらいことがあると星空を見上げて涙をこらえたものじゃ。あそこで神々も必死で戦っておられるとな。それで漢曜にしたのじゃよ」
漢は天の川、曜は輝くという意味だ。星の光は神様の位置を表すので、それが集まっている天の川は一番激しい戦いが行われている場所なのだ。
「名前に悩むのはよいことじゃ。自分を見つめることじゃからな」
「決まりましたら必ずご報告します」
菊次郎は約束した。
やがて雪姫たちが戻ってくると、菊次郎は和尚に礼を言って天額寺を辞去した。
天額寺は葦の江と内の海を分ける半島のような突出部の先端の丘の上にある。西が海、東が湖、北が河口と三方を水に囲まれ、南に豊津の町が広がっている。
温かな日差しの下、若君と姫君は、はしゃぎながら長い石の階段を下りていく。それを田鶴や護衛の武者たちが慌てて追いかけている。
目の前に広がる青い海と豊津港を見渡して、菊次郎は二ヶ月前、暑い盛りにした旅を思い出した。
湿り原の和約ののち、二家が約束を守っていることを確認すると、直春は菊次郎と槻岡良弘ら数人の重臣を連れて大門国へ向かった。成安家の主城である墨浦城に登るためだった。
この訪問の目的は二つあった。
一つ目は、成安家の当主に面会することだ。
桜月に従属的同盟を申し出て認められたが、二家に対する警戒のために葦江国を動けず、まだ会ったことがなかったのだ。重臣たちが見守る前で互いに裏切らないと誓約する儀式を行って正式に配下と認めてもらい、桜舘家には大封主家の後ろ盾があることを諸国に知らしめる必要があった。
もう一つの目的は、和約の経緯を説明して承認を得ることだ。
成安家は宇野瀬家と仲が悪い。宇野瀬家が茅生国で苦戦しているのをいい気味と思っていたはずだ。ところが、手下である桜舘家が勝手に休戦して軍勢の通行を認めてしまい、宇野瀬家はやや勢いを盛り返した。
桜舘領も成安家の勢力圏なので、そこを敵対する家の軍勢が自由に通れるというのは問題があった。勝手なことをするなと怒られたり不審の目で見られたりすると困る。成安家は百八十万貫、桜舘家の十倍で、吼狼国最大の封主家だ。その気になれば簡単に攻め滅ぼされてしまうのだ。
墨浦へは馬で三日だ。直春たちは槻岡家と付き合いの長い重臣の家に到着すると、翌日入浴して身なりを整え、墨浦城を訪れた。先に伝えてあったので、百畳の大広間には既に主な重臣たちが左右に座って待っていた。
直垂と烏帽子で正装した直春が中央を進み、一段高くなった畳の手前であぐらをかくと、菊次郎と良弘はその後ろに並んで腰を下ろした。周囲から無遠慮な視線が注がれたが、その多くは直春が腰に帯びた桜舘家の家宝花斬丸と虹関家に伝わる名脇差虹鶴を見付けて、一層欲深さと不愉快さを増した。これらの名刀は直春が桜舘家と虹関家の当主であることの証であり、血統のよさでは成安家の宗家すらかなわぬことを示していたからだ。
もっとも、成安家も吼狼国の武家の中では相当に古い家だ。高桐家に古くから仕えた重臣で、基龍が安鎮総武大狼将となって武家政権を樹立した時、足の国の探題に任じられ、州内の武家の統御を任された。
探題は全国の九つの州にそれぞれ置かれたが、今でも生き残っているのは三家だ。多くの伝統ある武家が勢力を失い、滅亡もしくは他家の軍門に下る中、成安家は順調に勢力を伸ばし、七国と一国の半分、合計百八十万貫を領する大封主家に成長していた。それを支える重臣たちは皆数万貫という封主並みの領地を持っており、一国を預かって数千の武者を動かせる立場にある者も多い。彼等はたとえ直春が名門の出身だろうと実力ではこちらの方がずっと上なのだと、浪人から十六万貫の当主になった十九歳の若者に、無言の威圧を加えていた。
そういった雰囲気だろうと覚悟はしていたが、菊次郎は身が縮む思いがしてうつむいていた。一方、直春は涼しい顔で静かに座っていた。その姿には自然な威風があり、重臣の幾人かは容易ならぬ大人物かと感嘆し、逆に反感を露わにする者たちもいた。
と、背後の廊下から騒がしい話し声が聞こえてきた。まるで街角で客を引く時のような若い女の甲高い嬌声と、それをあやす低い男の声だ。
菊次郎が驚いていると、そのやり取りはどんどん近付いてきて、横を通って段上へ上がった。
大柄ででっぷりと太った中年の男は、左腕に豪華な着物を着た若い美女をからみつかせたまま、置いてあった座布団に無造作に腰を下ろした。
「俺が宗龍だ」
いきなり名乗った相手は、想像通り成安家の当主だった。特に美男でも醜男でもない平凡な容姿だが、名家の者らしい気品がなくもない。腹に余計な肉が付いているせいで、かえって上質な絹の直垂が似合っていた。
「お前が桜舘直春か」
「左様でございます」
直春は全く表情を変えず、悠然と答えた。宗龍は直春を上から下までじろじろと見たが、すぐに興味を失ったように目をそらした。
「儀式をするんだったな。さっさとすませろ」
「はっ、では、わたくしが代理でお尋ね致しましょう」
この場で最も鋭く不快な視線を浴びせ続けていた男が言った。なぜか直春ではなく菊次郎を見つめてきて背筋が寒くなった。宗龍は手を伸ばして腕にすがる女の太もも辺りを着物の上から撫で回している。女は時々もじもじして甘い声を上げていた。
「わたくしは氷茨元尊と申します。御屋形様より連署を申しつかっております。遠くに分かれたご連枝で代々の筆頭家老、母がご本家から嫁いできておりますこのわたくしが、僭越ながら、成安家を代表して問わせていただきます」
家柄を誇示するような言い方をした三十二、三の男は、癇の強そうな細面に珍しいことに眼鏡をかけている。かなりの長身だがやせぎすで武芸は得意ではなさそうなので、戦場より政務の補佐に向いた人物に見えた。
「当家を盟主とする同盟に加わり、命令に背かないと誓約しますか」
「はい。決して裏切らないとお誓い致します」
まるで元尊に誓っているように聞こえた。
「それは貴公がですか、それとも桜舘家がですか」
細かいことを元尊は尋ねた。
「両方でございます。個人としても、当主としてもお約束致します。だますのや裏切るのは嫌いでございます」
「なるほど」
元尊は頷いた。その表情から、直春をその程度の誠実さにこだわる小さな人間かと思ったことが読み取れた。直春の子供の頃の経験を知っている菊次郎は反論したくなったが、ぐっと我慢した。桜舘家としては、警戒されるより軽く見られるくらいの方がやりやすい。
「では、当家も貴家を庇護し、危機には同盟諸家と連携して援軍を派遣することを誓いましょう」
元尊は経典の文句を読み上げるようにおごそかに告げると、主君に尋ねた。
「御屋形様、これでよろしいでしょうか」
宗龍は億劫そうに頷いた。
「では、続いて審問に移ります」
元尊は急に口調を変えた。
「桜舘家は当家に断りなく平汲・押中両家と休戦し、宇野瀬勢の領内通過を認めたとうかがっております。それについての申し開きをお聞かせいただきましょう」
この威圧感と鋭いまなざしは、下級家臣や民にはかなり効果的だろう。菊次郎も思わず体に震えを感じたが、直春は少しも動じず、まっすぐ見返すと、当主宗龍に向かって用意していた言葉を述べた。
二家と戦えば通過中の宇野瀬勢が駆け付けてきたはずで、当家に勝ち目はなかった。かといって、成安家に救援を要請することもできなかった。月に数度と頻繁だった上、敵が本気で城を攻めてきたわけではなかったからだ。ゆえに、どうせ通過されることは同じなのだから、領内を荒らされず民を守れる方法を選んだ。もちろん、相手が約定に反すれば戦って撃退する覚悟はあり、その場合は成安家にもご助勢いただきたい。
要は、既に決めてしまって変えるつもりのないことを、この方が成安家にとっても得なのだと言い訳しているにすぎないのだが、直春が豊かな声量で堂々と落ち着いて語っていくと、とても立派で説得力のある説明に聞こえた。
周囲の重臣たちも頷きながら、あるいは反論の余地を探しながら、結局は直春の朗々とした言葉の生み出す雰囲気にのまれてしまっていた。元尊はそんな直春を不愉快そうに見つめ、時々菊次郎に目を向けてきた。
直春が語り終えると、元尊は疑問はないかと他の重臣たちを見回し、皆黙っているので自分が発言した。
「通過を認めた事情は理解しました。当家も毎回は援軍を出せなかったでしょう。しかし、一つ疑問があります」
と、元尊はまともに菊次郎を見た。
「桜舘家には名軍師がいるという噂を耳にしました。なのに、なぜ戦わなかったのですか」
元尊の視線には明らかに敵意が籠もっていた。
「君が銀沢菊次郎殿ですか」
「はい」
菊次郎は平伏した。
「和約の時、桜舘勢は敵を完全に包囲したと聞きました。なぜ攻撃しなかったのですか」
「私がお答えします」
直春が言ったが、元尊は首を振った。
「わたくしはそこの軍師殿に尋ねているのですよ」
そのにらむような表情に驚き、対抗心なのだと気が付いた。元尊は野心家で、自分の知謀に自信がある。だから、菊次郎がこの半年の間に二度見せた知恵に嫉妬し、いじめようとしているらしい。
直春はそれを察してかばってくれようとしたが、 これは自分が答えるしかないと思い、勇気を出して口を開こうとした時、重臣の一人が割って入った。
「今の桜舘公の説明でわしは十分納得できた。これ以上の問いは失礼に当たろう」
見るからに歴戦の勇将らしい人物だった。円みを帯びた厳つい顔は老境に入りつつあり、日焼けの繰り返しで赤らんでいて、熟した柿の実を思わせた。戦陣で長く武者たちを叱咤してきたためしゃがれた大声は雷のようで、数人がうるさそうに眉をひそめたほどだった。
「沖里殿、これは異なことをおっしゃいますな」
元尊はむっとした顔で言い返した。
「わたくしはこの者たちが信用に値するか、当家の同盟相手にふさわしいかを確かめようとしているのです」
「だが、その状況なら和約しかないとわしも思う。戦うのは危険が大きすぎる」
この人が沖里是正か。全国に名が轟く成安家の宿将を菊次郎はそっと観察した。
是正は五十五歳、さほどの家柄の出ではないが、若い頃から勇猛さと戦場での駆け引きのうまさで武功を重ね、家老にまで出世した人物だ。四十年を超える戦場経験を持ち、なかなかの策略家でもあるが、菊次郎が評価するのはその堅実さだった。
是正は決して無理をしないのだ。身分が低かった若い頃は別だが、武将の一人となってからは常に敵より多くの数を集め、成安家の巨大さを生かした戦いをしてきたため、ほとんど負けたことがない。菊次郎の兵法の師である若竹敵雲斎もまことの名将とほめ讃え、共に戦ったことも敵として向かい合ったこともあるが、実に頼もしくも恐ろしいお方だったと話していた。
そんな人物が桜舘家を擁護したので元尊は一瞬口ごもったが、すぐに言い返した。
「わたくしが問題にしているのは当家に断りなく和約を結んだことです。これは事実上宇野瀬家との休戦で、はっきりと当家の方針に反します。しかも、敵を包囲して必ず勝てる状況だったのですぞ! わたくしなら二家を完膚なきまでたたいたあと、宇野瀬勢を追いかけて奇襲し打ち破ったでしょう。その方が当家のためにも、桜舘家のためにもよかったのではありませぬか」
恐らく、元尊は菊次郎に対してよりも一層、是正に負けたくないのだ。戦場での手柄がないことに劣等感を抱いているのだろう。二十以上も年が離れ経験と名声ではるか上にいる相手と張り合おうとするのは無謀だが、そこが彼の自負の表れであり、成功者へのあこがれなのだろう。
「沖里殿はいつも慎重すぎますぞ。必ず勝てる戦まで避けるのは、勇気に欠けるとのそしりを免れますまい」
「だが、桜舘家が宇野瀬家と戦えば、当家は援軍を出さざるを得なかった。そうなれば貴殿の計画も延期になったはずだ」
「それはそうですが……」
計画と聞いて、菊次郎は良弘と目配せし合った。実は、商人の間で成安家の武者たちから武具の購入や修繕の依頼が増えているという噂があり、菊次郎たちは墨浦で情報を集めるつもりだったのだ。すると、大胆にも直春が尋ねた。
「その計画はどのようなものでございますか」
元尊はしまったという顔をしたが、宗龍をちらりと見ると、渋々という様子で説明した。
「当家は近々大きな戦を起こす予定なのです」
「御使島でございますか」
直春が挙げたのは、吼狼国で二番目に大きな島だった。羽を広げた鴉のような形をしていて、葦江国や墨浦のある長斜峰半島のすぐ西側に位置している。
元尊は頷いた。
「一気に攻略し、一年以内に全島を当家の支配下に置くつもりです」
御使島の五国のうち、成安家領は二国だ。つまり、残り三国を全て制圧するというのだ。成功すれば貫高が八十万貫近く増え、もはや宇野瀬家さえ対抗するのは難しいほどの大勢力になるだろう。
菊次郎はさすがに驚いた。想像よりはるかに大きな計画だったからだ。それに気が付いて、元尊はにやりと笑った。
「成安家はいよいよ天下統一に動き出します。これはその第一歩なのです。御使島の封主家は四つ、辺境の田舎者などすぐに平定してみせますよ」
その表情で、この計画を打ち出したのは元尊だと菊次郎は確信した。周囲の重臣たちの様子をうかがうと、不愉快そうな顔つきの者が多かった。どうやら元尊の積極的な拡大方針はあまり支持されていないらしい。
「今無理に戦を起こす必要はないのだがな」
口調から察するに、是正もまたこの計画に賛成ではないようだった。
「桜舘家の帰順によって当家は足の国方面の警戒をゆるめることができた。宇野瀬家は増富家や福値家との戦のために当家に攻め込む余裕がない。久しぶりに戦がない今は、武者を休めて財力を回復させる時だとわしは思うが」
多くの重臣がその通りという顔をしていた。若くして連署になって権力を振るう元尊を快く思っていないのだ。
成安家は事なかれ主義で動きが鈍いと言われる。忠賢も以前そう評していた。世間の噂では、譜代の重臣たちの口癖は「当家は身代が大きいから無理をすることはない」だという。力を蓄えて時期を待て。さすれば熟柿が落ちるように自然と天下が転がり込んでこよう。そう言って、実力はあるのに積極的に攻勢に出ない。
先代宗周までは領地の拡大に熱心で、彼が五十前で死んだ時は過労だろうと噂されたほどだった。しかし、宗龍が二十歳で当主となって以来十四年、配下の諸家の救援や攻め込んでくる宇野瀬家の迎撃はしても、成安家の側から大きな戦を起こしたことは一度もない。
伝え聞くところでは、宗龍はこう言ったという。
「せっかく金持ちの家に生まれたのだから好きなことをした方がよい。飢える心配も殺される心配もないのにわざわざ苦労する必要はない」
父宗周が息子の名に龍の字を付けたのは、初の武家政権を樹立した高桐基龍のようになってほしいと、自分がかなえられなかった夢を託したからだろうが、宗龍には全くその気はないようだった。
そんな当主を見習って、家老たちにも厭戦気分が蔓延した。どうしても戦わなければならない時も是正など下位の者に任せて戦場へは行かず、勝てばおのれの手柄とし、負けるとその者に責任を押し付けた。宗龍も長年の婚姻で親族同然の重臣を処罰しない。彼等の関心事は利権と生命を守ることだけだった。
だから、今回の計画にも皆内心では反対なのだ。しかし、宗龍の信頼厚い元尊を面と向かって批判することはできない。無関心を装いつつ、元尊が失敗して失脚するのを期待しているのだろう。一回負けたくらいで成安家が滅ぶことはないのだから。是正のように戦場で手柄を立てて出世してきた者たちだけが、本当の意味で計画のもたらす結果を気にしていた。
「天下統一でございますか」
一方、直春は別なことが気になったようで、首を傾げて尋ねた。
「よろしければ、なぜその計画をお考えになったのか、お聞かせいただけますか」
元尊は分かり切ったことを聞くなという顔をした。
「成安家が吼狼国最大の封主家だからです。他の家には天下統一など不可能です。成安家にはそれを行う使命があるのです」
つまり、元尊は自分にしかできないと思っているのだ。この男の強い自尊心がこれほどの壮挙をたくらませたらしい。
「桜舘家も協力してくださいましょうな?」
確認されて、直春は即答した。
「もちろんでございます。天下は統一されるべきと考えます。当家は全力でお手伝い致します」
「うむ、ようおっしゃられました。さすがは直春殿です。足の国を北上する時は存分に働いていただきますぞ」
元尊はまるで先程の直春の誓約が自分に向けられるものであるかのように上機嫌に言った。すると、是正が指摘した。
「その計画にも、桜舘家の和約は役に立つ」
元尊は高揚した気分に水を差されたような顔をしたが、是正は言葉を続けた。
「当家が御使島へ大軍を送るに際し、最も気になるのは宇野瀬家だ。踵の国、足の国の二方面で接しておるが、桜舘家が宇野瀬家と休戦したおかげで、足の国で戦が起こる可能性は低くなった。我々はむしろ桜舘家に感謝するところではないか」
「それはその通りです。しかし、勝手を許しては示しがつきませぬ」
「当家は主力を御使島に集める。踵の国方面はわしが守りを任されたが、あまり兵力に余裕はない。足の国方面は半空国の武者くらいしかすぐに向かわせられぬ。そもそも、貴殿が御使島の制圧に乗り出せるのは、桜舘家が当家に属したからではないか」
「これは当家の面目の問題なのです。桜舘家は御屋形様の庇護を求めて自ら同盟に加わりたいと言ってきた家ですぞ。やってよいことには限度がありましょう」
言い合いになりそうになった時、直春が言った。
「でしたら、当家に足の国を抑える役目をお命じください」
元尊は怪訝な顔をした。
「どういうことですかな」
「今、足の国では宇野瀬家と増富家が争っております。当家は領地と民を守るため、その戦いに無関心ではいられません。場合によっては介入することも必要になるでしょう。そこで、氷茨殿が御使島で戦っておいでの間、足の国方面の監視を当家にお任せいただけませんか。可能ならば茅生国へ進出し、都へ上る道の平定を進めておきます」
「貴公が茅生国を切り取るとおっしゃるのですか」
元尊は目をむいたが、直春はおだやかに見つめ返した。
「天下統一には足の国の制圧が不可欠です。もちろん、御屋形様にご迷惑をおかけせぬよう、極力慎重に事を運びます」
「ですが、もし宇野瀬家や増富家と戦になっても、当家はあまり多くの援軍を送れませぬぞ。大事になって多方面に影響が出ては困るのですよ」
是正が尋ねた。
「桜舘家は単独で二つの大封主家と戦われるおつもりか」
直春は首を振った。
「それは不可能です。ただ、ふりかかる火の粉は払わねばなりません」
「つまり、向こうからしかけてくるとおっしゃるのか」
直春は頷いた。
「休戦は一時的なものです。恐らく、宇野瀬家は今、葦江国を再び手中にする計画を立てているでしょう。我々も迎え撃つ準備を進めております。最悪の場合は御屋形様におすがりすることになるでしょうが、できる限り当家単独で戦う所存です。そのために、必要ならば現在敵対している小封主家を滅ぼしたり味方に引き込んだりすることを許可していただきたいのです。もちろん、調略した封主たちは御屋形様の御前にお連れし、当家の家臣には致しません」
「本気で周辺を切り取られるおつもりか」
「守ってばかりでは勝てませんので」
是正は驚いたように目を見張ったが、菊次郎たちを見回して感心したように言った。
「桜舘家の新しいご当主はなかなかの人物とうかがっておりましたが、なるほど、若いのに大したご覚悟だ。御屋形様、これはご許可なさるのがよろしいでしょう」
「何を申されます。危険すぎますぞ」
叱って身の程を思い知らせるつもりが、実力を認めて一方面を委ねる流れになったので、元尊はいらだって阻止しようとした。
「なぜいかんのだ。桜舘家が足の国で動けば、宇野瀬家は茅生国の守りに手いっぱいになって、さらに当家を攻めにくくなる」
「それはそうですが、まだ新参の、それもこんな若造に……」
直春より十以上年上なのは事実だが、属国とはいえ十六万貫の主に対して失言だった。さすがに是正がたしなめようとすると、思わぬ声がさえぎった。
「この者に任せればよい」
宗龍だった。飽きたらしく、さっさと終わらせたい気持ちが透けて見える口調だった。
「この者たちが引き受けると申すのだろう。ならばさせればよい」
「ですが、彼等が負ければ足の国方面の当家の勢力が後退致します」
元尊はさらに言葉を続けようとしたが、宗龍は直春に尋ねた。
「桜舘家は一年くらいは持たせられような」
「はい。勝てなかったとしても、最悪籠城してその程度は守り切ってみせます」
「ならばよかろう。足の国はこの者たちに任せよう」
「しかし、たった十六万貫、半国しか持たぬ者たちですぞ」
「半空国の武者は動かさぬのだ。桜舘家が負けたとしてもここまでは攻めてこられぬ。御使島は一年で落ちるのであろう」
「その予定でございますが……」
「自信がないのか」
「いえ、ございます。しかし……」
「ならばよいではないか。この者たちとて滅びたくはあるまい。全力で戦うに違いない。当家はその間に御使島を平定する。それが終わったら、大軍を率いて足の国を北上し、都を目指すと申しておったはずだ」
元尊は言い返したそうに口を開きかけたが、結局は自分を抑えた。
大広間は静まり返った。他の家臣たちは大物二人の言い合いにも無反応で、飾られた人形のように押し黙っていた。桜舘家が滅びるかどうかなど、彼等にはどうでもよいことなのだ。
と、急に女の甘い声が響いた。
「では、御屋形様は総狼将様になられるのですね!」
そう言って、女は宗龍に一層しなだれかかった。頬に接吻でもするかのように顔を近付けている。
「その通りでございます」
元尊が答えた。
「早く都に行きたいわあ。大きなお店がたくさんあって、いろんなきれいなものが売られていると聞きますものねえ。元尊様が連れて行ってくださるのでしょう」
「お結の方様のご期待に添えますよう、努力いたします」
元尊がうやうやしく頭を下げると、十九歳の側室は、にまあ、と甘えた笑い方をした。
一年前、お結の方を宗龍に献上したのは元尊だ。手頃な若い娘を探していた元尊は親を亡くして困っていた町娘の美貌に目を付け、教養を身に付けさせて城へ連れて行ったのだ。上流武家出身の娘ばかり側室にしていた宗龍は、このあけすけで恥じらいの薄い娘に夢中になり、他の側室には見向きもしなくなったという。その直後、父のあとを継いだばかりの一家老だった元尊が連署に任じられたのだ。
巷間ではお結の方に夜の技術を仕込んだのは元尊で、今も関係が続いているとささやかれている。お結の方を使って主君を操っているというのだ。二人のからみ合うような視線のやり取りから、その噂は事実だと菊次郎は確信した。
そんなことは全く知らぬらしい宗龍が面倒くさそうな声で確認した。
「直春とやら、異存はないな」
「はい。頂いたお役目を全力で果たす所存でございます」
「うむ」
当主らしく頷くと、宗龍はあくびをした。
「元尊、これで終わりか。わしはちと眠い」
「御屋形様のご裁断が下りましたので終了でございます」
連署は答えた。
「では、わしは戻る。あとは任せたぞ」
宗龍は女を連れて立ち上がり、平伏する直春や菊次郎たちの横を歩いて廊下を去っていった。お結の方は結局一度も宗龍の腕を離さなかった。
「では、細かな話は別室で致しましょう」
接待担当の家老に促されて、菊次郎たちは大広間をあとにした。
元尊は挑戦的な薄笑いを浮かべて菊次郎たちをにらんでいた。お前の手柄などかすんでしまうような巨大な功績を上げてみせる。若い連署の見下し嘲る声が聞こえるような気がした。
葦江国への帰途、菊次郎は馬を走らせながら気になっていたことを尋ねた。
「直春さんは、本当に元尊の天下統一に協力するつもりですか」
直春は頷いた。
「戦乱の世を終わらせるのが俺の目標だからな。ただ……」
直春は一度言葉を切った。
「あの男が率いている限り、成安家の治める世はあまり住みやすそうではないな」
菊次郎も同感だった。元尊は自分の感情や目的に周囲を合わせようとし、邪魔な存在と見なせば憎んで排除しようとする。そういう人物が、様々な人柄や価値観の人々が幸福に暮らせる国を作れるのか疑問を感じる。だが、現在最も天下に近いのが成安家なのは間違いなく、その傘下で直春の理想の世の中に近付けるように努力するのが現実的なのかも知れなかった。
一ヶ月後、萩月の半ばに、御使島で戦が始まったという情報がもたらされた。
成安家は数代前から御使島攻略に乗り出していて、鯖森国と白泥国の二国を支配していた。しかし、鯨聞国三十万貫の国主の津鐘家が頑強に抵抗し、ここ十五年程支配域の拡大が止まっていた。
津鐘家が負けなかったのは、当主祐尚が戦上手で、険峻な丘の上に立つ要餅城の要害を利用してよく防いだことと、財力が豊かだったことによる。
鯨聞国は平地が多く、御使島で最大の穀倉地帯だ。複雑な海岸線のおかげで漁場にも恵まれて、名前の通り鯨漁が盛んで貴重な香料が採れる。貫高は五百年前に定められたものなので、実際の収入がずっと多い場合もあるのだ。成安家や墨浦の商人たちは長年その利権をねらっていたが、五度に渡る侵攻はことごとく失敗に終わっていた。
そこで、元尊は謀略をしかけた。津鐘家に婚姻同盟を結ぼうと持ちかけたのだ。成安家の家老の一人に美貌で知られた娘がいた。それを宗龍の養女にして嫁がせたいと申し込んだのだ。
津鐘家は断れなかった。成安家は探題家の名門で六倍の貫高だ。ここまで譲歩した相手の面目をつぶしたら、怒り狂って攻めてくるに違いなかったからだ。祐尚は既に六十を超えていたので、遠からずあとを継ぐことになる嫡孫の祐由を案じていた。恐らく宿敵宇野瀬家との戦いや足の国への進出のために背後の安全を確保したくなったのだろうと考え、受け入れることにした。
話はすぐにまとまって輿入れの日取りが決まり、花嫁は三百人の行列を組んで要餅城へやってきた。十七歳の祐由は一つ年下の藍姫を一目で気に入り、婚儀は盛大に行われた。
ところが、そこへ急報が届いた。北隣の揺帆国へ鮮見家が大軍を率いて攻め込んだというのだ。御使島最奥の地のこの封主は、置杖国を統一すると菊次郎の故郷廻山の定橋家を滅ぼし、揺帆国西部へ侵攻を始めていた。
この地域では探題科元家の家老だった三家が権力を奪って自立し、小競り合いを繰り返してきた。海処家は海辺を領して水軍に強く、陸家は平地を領し、山辺家は東部の山際を領していたが、山辺家が鮮見家に滅ぼされると、残り二家は津鐘家と同盟を結んで助け合い、かろうじて領地を守っていた。
義に厚いことで知られる津鐘祐尚は救援に応じる決意をし、成安家の家老に事情を打ち明けて謝ると、軍勢のほとんどを率いて出陣した。成安家と婚姻が結ばれた以上、背後を襲われる心配はなかったからだ。婚礼の宴は日が暮れるまで続いたが、新郎新婦が寝所に下がっていくと、成安家の家臣たちは長旅で疲れているからと城下の宿屋に引き上げていった。
深夜、花嫁道具のつづらや城の物陰に隠れていた者たちが一斉に動き出した。花嫁に付いてきた侍女五人は寝所に飛び込み、初夜を終えて休んでいた祐由を人質に取って城の各所に火をつけた。大混乱の中、城門が開けられると、闇にまぎれて密かに接近していた五百の軍勢が城に突入した。津鐘家の家臣たちは鎧を着ける時間もなく次々に殺されていった。
揺帆国へ向かっていた祐尚は、成安家の裏切りを知って慌てて引き返してきたが、元尊率いる大軍の攻撃を受けた。元尊は要餅城を燃やし、木の柱に縛った祐由の遺体を見せ付けて戦意をくじき、激しく攻め立てた。祐尚は必死で戦ったが三倍の大軍に包囲されて勝ち目はなく、家臣の助命を条件に降伏勧告を受け入れて自刃した。
しかし、元尊は投降してきた津鐘家の家老たちを一家皆殺しにした。彼等が握っていた利権や特権を奪い、墨浦の商人たちと分け合うためだった。
こうして鯨聞国を制圧すると、元尊は揺帆国へ向かった。二家と鮮見家をまとめて滅ぼすつもりだった。ところが、国境を越えたところで鮮見家の軍勢に奇襲された。
鮮見家当主の秀清は、同時に攻め込んで一国ずつ手に入れようという成安家の誘いに乗ったが、元尊のたくらみを見抜いてだまされたふりをしていた。津鐘家の援軍がないと分かっていたので全軍で一気に攻め寄せ、二家を分断した上で一つずつ陥落させて、守りやすい場所で元尊勢を待ち伏せしていたのだ。
激しい戦いになったが、不意をつかれた成安軍は数でまさりながら勢いで劣った。十日ほど対陣した末、一旦和平が結ばれて双方とも引き上げたが、両家の緊張は今も続いている。二国の主になった鮮見秀清は海処家の湊口城を国見城と改称して移り、国境の守りを固めつつ、隙あらば鯨聞国へ攻め込もうとねらっているそうだ。
この話を聞いた直春たちの反応は様々だった。
「つまり、半分以上失敗ってことだな」
忠賢はそう評した。
「三国を取るつもりが一国しか取れなかった。しかも鮮見家四十六万貫っていう強敵を作っちまった。これじゃあ、そっちとの決着が付かねえ限り、足の国へは進出できねえな。鮮見秀清は元尊と同じくらいの年らしいが、相当好戦的な奴なんだろ」
菊次郎は頷いた。
「廻山へもたびたび攻め込んできて定橋家を苦しめていました。とてもしつこくてねらった獲物は必ず手に入れようとします。しかも、なかなかの戦上手なんです。細かな采配は苦手ですが、戦の流れを読む目にすぐれていて、自ら先頭に立って行う突撃は大変な威力があります」
「元尊って野郎は敵を甘く見すぎだ。自分の都合ばかり優先して、失敗した時のことを考えてねえ。そんなにいつもうまく行くわけないぜ」
元尊が聞いたらどんな顔をするかと想像して、菊次郎は苦笑を禁じ得なかった。
一方、田鶴は藍姫に同情した。
「男って本当に勝手ね。女の子を道具として使うなんて」
ただ一人何も知らなかった花嫁は、混乱する要餅城から連れ出されて保護された。だが、生涯の夫と信じて契ったばかりの若者の死体が木の柱に縛り付けられるのを目にし、衝撃を受けて寝付いてしまった。両親のもとへ帰されたが、数日後に首をくくったという。
「まだ十六歳だったのよ。そんな目にあわされる理由はなかったのに。人の気持ちを平気で踏みにじるなんて最低。計画が失敗したのは当然よ!」
二歳上の姫君の悲劇は、封主家の都合で村を滅ぼされた田鶴には人事と思えないらしかった。小猿を固く抱き締めてしばらく涙ぐんでいた。
一番辛辣だったのは直春の言葉だった。
「元尊は信用ならない人物だと世間に思われてしまった。それが非常に大きいな。今後いろいろとやりにくくなるだろう」
珍しく直春の口調は厳しかった。
「津鐘家の件だけではない。秀清との和平後、元尊はこっそり引き返し、撤退する鮮見勢を襲って撃退されている。もはや彼の言葉を信じる者はおるまい。藍姫の悲劇も、娘を持つ家臣や民は相当怒ったはずだ」
「そうですね。もう鮮見家は同盟や和平に応じないでしょう。戦って滅ぼすしかなくなりました。元尊は充分に準備をし、謀略までめぐらせ、大軍を率いて攻め込んでこの結果です。恐らく成安家内での評価は下がったでしょうね」
菊次郎が感想を述べると妙姫が指摘した。
「元尊は焦っていたのかも知れませんね」
「姉上、どういうことですか」
首を傾げた直冬に、菊次郎が解説した。
「元尊は側室を献上するという方法で宗龍公の信用を得ました。積み上げた実績なしに高位についたわけです。早く誰もが認める手柄を立てて実力を示し、文句を言われないようにしたかったのでしょう」
「でも、人をだましたら信じてもらえなくなっちゃうと思う」
雪姫が言うと、直春は頷いた。
「その通りだ。人は信じられる人物のためにこそ全力で戦う。他人を裏切って利益を得るようなやり方は、一時的には成功しても、長い目で見れば損の方が大きい。目の前の小利に目がくらんで将来の大損を招くような人物に政は任せられない。そんな人物を連署にした成安家も信用を失ったのだ」
人を信じることに深い思いのある直春の言葉は、菊次郎にも突き刺さった。
僕は本当に仲間を裏切っていないだろうか。
天額寺の長い石段を見下ろして、菊次郎は海から吹き上げてくる秋の風に身を震わせた。
「あれが四尊の旗ね!」
雪姫が振り返って声を上げた。
天額寺の巨大な山門の二階に、神雲山・桜・狼・鴉の四つの大きな旗が風にひるがえっている。
雪姫は順番に指さした。
「直春兄様、菊次郎さん、忠賢さん、田鶴みたい!」
「姉上、どうして菊次郎さんが桜なのですか。花は女の子の田鶴がよいと思います」
「田鶴は身が軽くてくるくる動くわ。菊次郎さんは何だか花みたいだなって思うの。少し私に似ているかも」
雪姫の微笑みはどこかはかなげだった。直冬はよく分からないという顔をしている。
「あたしはどっちでもいいよ」
小猿を肩に乗せて田鶴が笑っている。
桜の頃、あの山門の前で直春さんの伸ばした手を取ったんだったな。
半年前の出来事を菊次郎は懐かしく思い出した。
元尊と違って、僕には信じてくれる人たちがいる。大切な仲間を僕が守らなければ。
決意を新たにすると、菊次郎は責任を踏みしめるように、一歩ずつゆっくりと石段を下りていった。




