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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の二 大軍師誕生
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(巻の二 大軍師誕生) 第一章 対峙

『狼達の花宴』 巻の二 吼狼国図

挿絵(By みてみん)


『狼達の花宴』 巻の二 葦江国要図

挿絵(By みてみん)


 降臨歴(こうりんれき)三八一五年百合月(ゆりづき)五日の昼下がり、太陽は疲れることを知らぬ厳しさで葦江国(あしえのくに)の大地を熱していた。森の中は草いきれでむせるようで、足元を飛んでいく飛蝗(ばった)の羽さえ、風を起こしてくれるなら借りたいほどだった。


「そろそろのはずです」


 銀沢(かなさわ)菊次郎(きくじろう)(ひたい)の汗をぬぐってささやいた。桜舘(さくらだて)直春(なおはる)は頷き、首を伸ばして森の前を通る南国街道の先へ目を()らした。桜舘領へ攻め込んできている平汲(ひらぐみ)家と押中(おしなか)家の軍勢が、この街道を右手の東側から進んでくるはずなのだ。


「まだ見えてこないな。もう少し待ってみよう」


 直春が言うと、周辺の武者が肩の力を抜いた。皆完全武装なので汗だくだ。菊次郎は胸当てをしているだけだからまだましだった。六年前、十歳の時に左腕に怪我をしていて、武者としての戦闘力はないので軽装なのだ。

 そんな中、直春は白地に金や赤をあしらった立派な鎧を着ているのに、全く暑そうな様子がない。よく見ると頬に汗が浮かんでいるが、桜舘家十六万(かん)の当主としての誇りなのか、もともとの性格なのか、この十九歳の青年武将は実に涼しげで堂々としていた。


「ここは隠れるにはよいが、木が邪魔で遠くが見づらいな。もう少し前に出たいが、敵に見付かるわけにはいかぬからな」


 直春は兜をかぶった頭を下げて、再び木の陰に隠れた。すると、菊次郎の隣に座っていた咲村(さきむら)田鶴(たづる)が、足元で遊んでいた小猿の真白(ましろ)を抱き上げて肩に乗せた。


「あたし、見てくるよ。鎧着てないから見付かっても問題ないし」


 立ち上がって(そで)の短い着物の尻をはたき駆け出そうとしたが、青峰(あおみね)忠賢(ただかた)が止めた。


「待てよ。お前は(かしら)だろうが。ここにいろ」


 青い鎧姿の忠賢は違う意味で暑さなど気にしていなかった。武装して戦場にいることに興奮しているのだ。この男はどの(いくさ)でもそうだった。戦うことが好きなのだろう。


「だって、気になるし。ただじっと待ってるのは疲れるよ」


 不満そうな田鶴に、馬之助(うまのすけ)が低い声でささやいた。


「お嬢様。青峰様のおっしゃる通りでございます。我等の仕事は戦うことではございません。物見は多数出してございます。すぐにも連絡がございましょう」


 四十代半ばのこの男はいつも無表情だ。声も平板で感情が感じられないが、長い付き合いの田鶴には違いが分かるらしく、叱られたような顔をした。十四歳の少女はまわりを見回し、全員忠賢たちに賛成らしいと知ってしゃがみこんだ。肩から下ろされた小猿がきょとんとしている。

 すると、かわいそうに思ったのか直春が声をかけた。


「田鶴殿はもう充分役目を果たしてくれた。あとは俺たちに任せてくれ」


 本心から感謝し、仲間として大切に思っていることが分かる口調だったので、田鶴は表情をゆるめて「分かった」と答えた。こういう言葉を気取らずにすんなりと言えるところが、直春は天性の総大将だと常々思う理由の一つだ。菊次郎も続いて言った。


「そうだよ。隠密(おんみつ)衆の仕事は敵の襲来を素早く直春さんに知らせることだ。その体制が作れたから今回の作戦を実行できる。田鶴がいなければ民はもっと苦しんでいたよ」


 少女は菊次郎を見て、今度ははっきりと笑みを浮かべ、照れたように頷いた。直春の言葉もうれしいが、本当は菊次郎に言ってほしかったらしい。忠賢がからかうように、ふんっ、と鼻で笑った。田鶴の気持ちは周知のことなので、武者たちの雰囲気がやわらぎ、小猿も安心した様子になった。

 その想いに応えていない菊次郎は少々居心地が悪かったが、言わなければよかったとは思わなかった。この数ヶ月の田鶴の貢献は本当にとても大きかったからだ。


「あたしは声返国(こえがえりのくに)の出身なの」


 筆頭家老の大鬼(おおき)一族を滅ぼしたあと、正式に桜舘家の当主となった直春を囲んで、菊次郎たちは改めて自己紹介をした。これまでは一時的な協力という建前があり、家臣になるとは限らなかったので、お互いの全てを話したわけではなかった。そこで、菊次郎の提案で、直春の妻になった(たえ)姫や馬廻頭(うままわりがしら)豊梨(とよなし)実佐(さねすけ)を交えて、出会うまでの経歴を全員が語ることになった。

 忠賢が遠い首の国の出身で、そこで一家、背の国で二家に仕えたが、その全てが滅んだという話も興味深かったが、一番驚いたのは田鶴の告白だった。


声返国(こえがえりのくに)っていやあ、(かかと)の国の一番北にある山国だよな。海のない」


 忠賢に確認されて田鶴は頷き、隠密の村の(おさ)の娘だったことを明かしたのだ。


「本当に山奥で田んぼにする平地がなくて、食べていくのもかつかつだった。村のそばに池があって、夏に鳥がたくさん来たから、弓でねらって肉は食べて、羽を売ったお金で糸や綿や必要なものを買ってたの」


 矢羽は重要な物資だが、戦狼(せんろう)()吼狼国(くろうこく)では慢性的に不足していた。一般に飼われる鴨の羽は矢羽にはあまり適さなかったからだ。


「なるほど。暮らしぶりは想像がつくぜ」


 忠賢は農家の四男で、貧しい生活が嫌で武家になろうと家を飛び出したと言っていたから、よく分かるのだろう。


「羽を売り歩く時、いくつかの封主に頼まれて諸国の情報を集めてたの。村を出て遠くの国に住み着いた人もいて、いつも連絡を取り合ってたから情報が正確だったみたい。……なのに」


 田鶴の声が急に暗さを帯びた。


「矢羽に目を付けた隣の封主家が攻めてきて……。抵抗したけどとてもかなわなくて、父様(とうさま)母様(かあさま)兄様(にいさま)は殺されちゃった。あなたは逃げなさいって言われて必死で山を越えて猿回しを始めたの」


 しばらく沈黙が流れたが、直春がそれを破った。


「今、村の人たちはどうしているのだ」


 小猿の頭を撫でながら田鶴は首を振った。


「分からない。村はなくなって散り散りになったみたい。でも、村の外にいた人たちは無事なはず。頼って行った人も少なくないと思う」


 菊次郎は直春、忠賢と顔を見合わせた。妙姫と実佐も目配せをかわしている。

 直春が言った。


「田鶴殿。俺はその方たちをぜひ当家に招きたい。君から声をかけてくれないか。待遇はできるだけ要望に応えよう」


 涙ぐんでいた田鶴は驚いて顔を上げ、全員を見回して大きく頷いた。


「できると思う。みんなを集めればいいんだね」

「各地に移住した者たちはそのままでいい。こちらから定期的に礼金を届けよう。他の人は(さかい)村に来てもらいたい」


 すぐさま田鶴は旅立ち、拠点の店を回って事情を話して説得し、一ヶ月後に百人を超える元村人を集めてきた。

 直春と妙姫は密かに境村へ行って忠誠の誓いを受け、田鶴を頭に任じた。以後、隠密衆は直春や菊次郎の指示を受けて各地に散らばり、情報を送ってきていた。

 中でも菊次郎が力を入れたのが、葦江国内の情報収集だった。桜舘家以外の二家は今も宇野瀬(うのせ)家に従っていて、成安(なりやす)家に付いた直春たちの敵だ。木こりや狩人、商人などに化けた隠密たちが、常時二家の動きを探っており、今回の出陣もその通報によるものだった。


「あの二家には手を焼いていたからな。隠密衆にはとても感謝している」


 言った直春に馬之助は黙って頭を下げた。彼は田鶴の父の従兄(いとこ)で唯一の肉親だ。副頭に任じられて、まだ経験の浅い田鶴を補佐している。普段は仲間数人と豊津(とよつ)の町で鎧などに使う毛皮を扱う店を開いているが、今日は特別に直春たちに同行していた。

 と、そこへ、森の奥から足音が近付いてきた。菊次郎も顔を知っている隠密は、直春に頭を下げると、しゃがんで報告した。


平汲(ひらぐみ)勢一千五百、押中(おしなか)勢一千、合わせて二千五百が接近してきます。間もなく見えてくるでしょう。また、あの方はこちらに馬で向かってくださっているそうです」

「ご苦労だった」


 彼は再びお辞儀をすると、森の奥へ戻っていった。


「よし、では手はず通りに行こう。良弘(よしひろ)本綱(もとつな)、そちらは任せたぞ」

「はっ!」


 筆頭家老の槻岡(つきおか)良弘と次席家老の蓮山(はすやま)本綱は、頭を下げると森の東へ向かった。それぞれ別な場所で待機している部隊の指揮をとるのだ。五十三歳と四十五歳で戦慣れしているから任せて安心な者たちだ。

 しかし、忠賢は不満そうだった。


「片方は俺が指揮したかったんだがな」


 直春はすまなそうな顔をした。


「そうだな。あの二人に不満や不足はないが、俺も忠賢殿に任せたかった。だが、家臣たちが言うことを聞かずうまく動かせないだろう」

「大人しく従うように国主(こくしゅ)のご威光で命じられないのかよ、お殿様」


 からかうような口調だったが、忠賢も無理なことは分かっているので本気ではないようだった。


「俺がもっとしっかりせねばならぬのだが」


 直春の表情は険しかった。このやり取りはごく小さな声だったので、菊次郎も小声で加わった。


「まだ当主になって四ヶ月です。すぐに何でも思う通りには行きませんよ」


 だが、これは目下のところ、直春や菊次郎たちにとって平汲・押中両家に匹敵する大問題だった。

 桜舘家の当主となった直春は、妙姫と共同で領内の施政を始めた。菊次郎や忠賢もそれを手伝った。

 まず初めに行ったのは大鬼家の領地の没収と、戦いで武功をあげた者たちへの加増だった。ところが、話が忠賢と菊次郎の処遇になると、家臣たちは口々に反対した。

 木節(きぶし)往伴(ゆきとも)という五十代半ばの家老はこう主張した。


「忠賢殿が大鬼家の高名な武者を数人倒したのは事実でござる。ですが、主力を指揮したのは実質的には別な家老たちで、忠賢殿はただの飾りでござった。戦場に早く着くためにした工夫も、言い出したのは忠賢殿でござるが、実際に動いたのは他の者たちでござる。ゆえに、立てた武功は一武者としてのものだけと見るべきで、一千貫は多すぎまする。菊次郎殿も作戦は見事でござったが、戦場で戦ってはおりませぬ。五百貫に値する功績とは思えませぬ」


 つまり、突然どこの馬の骨とも分からぬ者たちが現れて新当主とその側近になったことに桜舘家譜代の者たちが反発したのだ。彼等にしてみれば、忠義を尽くしたのは桜舘家の血を引く妙姫に対してであって直春はおまけにすぎなかったし、自分たちが味方したからこそ勝てたのだという気持ちがある。木節(きぶし)往伴(ゆきとも)は大鬼家に付いたために加増を受けられなかった不満が裏にあるのだが、少なくない家臣がこれに同調した。

 妙姫や実佐は反論したが、大鬼家の横暴を許して戦にまで至ってしまった責任を暗に問うような言い方をされ、数の多い家臣たちに次第に押され気味になった。

 結局、休憩の間に妙姫たちと相談して、直春は忠賢を五百貫、菊次郎を百貫に引き下げた。それでも多いと騒ぐ者もいたが、新当主から譲歩を引き出して力関係を示せたことで家臣の多くは満足し、論功行賞は終わった。

 直春は忠賢と菊次郎に頭を下げ、今は我慢してほしい、近いうちに必ず約束通りの貫高を与えると誓った。菊次郎は直春を慰めたが、忠賢は冷たい口調で言った。


「事情は分かるが、俺の貢献に五百貫では少ないはずだ」

「もちろんだ。忠賢殿と菊次郎君がいたからこそ勝てた戦いだ。本当は一万貫でも足りないと思っている」

「なら、あまり待たせるなよ。他の家にも仕官はできるんだ」


 その言葉は本気でないと分かっていたが、何年もかかるようだと忠賢の気が変わる可能性もあった。

 先程のからかいはこの約束をほのめかしたものだ。そのあとも打ち出した政策の多くが反対にあって実行できていないので、直春は歯がゆい思いを抱えているのだろうと菊次郎は思った。


「とにかく、今は目の前の戦いに集中しよう」


 直春は言って立ち上がり、愛用の槍を握った。周囲を見回すと、全武者がこちらを見ていた。


「よし、(とき)の声を上げて森を出るぞ!」


 直春は槍をかかげて叫んだ。


「桜の御旗(みはた)に栄光あれ!」


 武者たちが得物(えもの)を振り上げて復唱し、一斉に走り出した。菊次郎も馬を引く直春の後ろを田鶴と一緒に付いていった。

 一千の武者は素早く動き、騎乗した直春の後ろに五段の横列を作って道を塞いだ。

 二家の軍勢二千五百は既に武者たちの顔が見える距離まで来ていたが、伏兵の出現に足を止めて身構えた。が、直春隊が自軍より少ないと知って、余裕の様子で戦闘隊形を取り始めた。半数以下なら攻めてきても撃退できると思ったらしい。

 ところがそこへ、敵の向こう側で鬨の声が起こった。槻岡良弘率いる一千が背後を遮断したのだ。しかも、途中の森の中から蓮山本綱隊五百が現れ、森に入ろうとすれば突き刺そうと槍先をそろえた。


「このまま攻めれば勝ちだな。攻撃しようぜ」


 忠賢が言った。


「かも知れません。ですが、駄目です」


 菊次郎は直春を見上げた。


「分かっている」


 頷いて、直春は槍を前に向けると命じた。


「包囲の陣形を布け!」


 三つの部隊はゆっくりと左右に広がり始めた。前に盾を並べ、間に槍兵や弓兵が立って、決して逃がさないように周囲を囲んでいく。菊次郎は追い詰められた二家の軍勢が突破をはかりにくるかとはらはらしたが、こちらの備えは堅く背後を襲われたら勝てないと考えたらしく、三方にそれぞれ槍先を向ける陣形に慎重に変形して守りを固めた。

 やがて、桜舘軍は敵を完全に包囲した。唯一北側には武者がいないが、そちらは湿地だ。ぬかるんだ地面に葦が生い茂り、低い木がところどころに立っているような場所で、重い鎧を着た武者が入ったら動けなくなる。

 この辺りは湿(しめ)(はら)と呼ばれている。境川が河口直前で急に広がって(あし)(うみ)という大きな湖になり、その周囲が湿地なのだ。湿地と森の間にまれに冠水(かんすい)する草地があり、湧き水による飛び湿地が点在する。都から延びる南国街道はこの草地を走っていて、湖を大きく回って豊津の町へ至る。湖の東端付近では、東側の(かかと)の国から大長峰(おおながね)山脈を越えてくる葦狢(あしむじな)街道が南国街道に接続している。


「包囲した状態でどれほど持たせられますか」


 菊次郎は馬上の直春に尋ねた。


「一刻は大丈夫だろう。敵もこちらのねらいが読めず慎重になるはずだ」

「また待つのね」


 田鶴が構えた弓を下ろした。足元にいた小猿に手を伸ばし、肩に乗せている。池で飛ぶ鳥を射ていただけに弓の腕前は相当なものだ。そばにいてくれて心強かった。


「やれやれ、つまらない戦だぜ。攻めちまった方が早いだろうに」


 忠賢が馬に乗って近付いてきた。


「それでは目的を達せられません」

「それだけが理由か?」


 からかうような口ぶりの奥に厳しいものを感じ、菊次郎はどきりとしたが、こう答えた。


「もちろんです。これが確実なんです」


 同数での戦いは多くの損害を覚悟せねばならない。勝てるとは思うが、敵は生き延びようと必死になるだろうし、万が一負けたら豊津城はすぐそこだ。無理をする必要はなかった。


「死傷者を出さずにすめばその方がよいでしょう」

「まあ、確かに手堅い作戦だな。任せるさ」


 忠賢はお前の考えなどお見通しだという顔でじろりとにらんで、馬から下りた。


「油断はしないでください」

「分かってるよ。だが、敵さんもこちらが攻めてかないんじゃ動きようがねえだろう。あんまり戦いたくないだろうしな」


 忠賢はよい香りがするという草を一本口にくわえて戦いたそうにしていた。

 そうして、包囲したまま半刻が過ぎた頃、待ち人がやってきた。


「暑い中ご足労いただき感謝致します」


 馬廻頭(うままわりがしら)豊梨(とよなし)実佐(さねすけ)ら十名に守られてその人物が馬を下りると、直春は近付いて丁寧に頭を下げた。


「お気になされますな。これは民のためですからな。そうでしたな、菊次郎殿」

「はい、その通りです」

「ならば、わしも喜んで協力させてもらうよ」


 漢曜(かんよう)和尚(おしょう)はにっこりと笑った。

 長い白髭(しろひげ)のこの人物は葦江国第一の名刹(めいさつ)天額寺(てんがくじ)住持(じゅうじ)で、近隣の封主家の当主にも帰依(きえ)する者が多い高僧だ。大鬼家の()した重税や夫役(ぶやく)に反対し、厚臣(あつおみ)に面と向かって諫言(かんげん)したこともあるという。暴虐さを恐れられた厚臣も和尚には手出しできなかったそうだから、声望と影響力の大きさが分かる。

 その和尚に二家との和平の仲介を頼んではどうかと菊次郎は直春に進言した。和尚は民が田畑を荒らされて困っているのを知っていたので快諾し、こうして自ら馬を駆って戦場に来てくれたのだ。

 すぐに実佐たち十名と和尚は敵の軍勢へ近付いていった。軍使を表す白い旗を掲げているとはいえ、なかなか胆力のあるお方だ。和尚は六十を五つも過ぎているのに肌の色つやがよく、会うたびに威厳と内に秘めた精神的な力を感じる。


「うまく行くかねえ」


 戦いになればよいと言いたげな口調の忠賢に、田鶴が答えた。


「きっと大丈夫よ。菊次郎さんの考えた策なんだから」

「菊次郎さんねえ」


 忠賢が戦いを欲するのは、今度こそ誰も文句を言えない手柄を立てて一千貫を手に入れるためだった。申し訳ないが、しばらく戦はなくなるだろう。

 やがて、敵軍からどよめきが聞こえ、一人の武者が戻ってきて直春に告げた。


「交渉に応じるそうです。互いに軍勢を引いて話し合おうと言っています」

「よし。予定の場所まで各隊を下げよ。菊次郎君は一緒に来てもらおう。忠賢殿と田鶴殿は武者たちが暴走せぬよう見張っていてくれ」

「はいはい。分かってるよ」


 忠賢は不貞腐(ふてくさ)れた様子で言ったが、すぐに自分の配下の武者たちに後退しろと指示を出した。三百人を率いる将に任じられているのだ。貫高に比べて部下が随分多いが、直春は当主の直属部隊ということで押し切った。家老級の者たちと違い、一般の武者たちは忠賢の武勇や将器(しょうき)を認めてまだ二十三歳の隊長を慕っているらしい。

 菊次郎は直春や実佐と共に馬廻りの五十人ほどに守られながら街道上に立ち、敵将を待った。やがて、両家の大将が現れた。

 七万貫の領主平汲(ひらぐみ)可近(よしちか)は五十一歳、中肉中背でどこか疲れた感じのする平凡な男だった。息子の可済(よしなり)は二十八歳、風采(ふうさい)の上がらぬ小男で、策にはまって休戦に持ち込まれたことが悔しいのか、直春に対抗心を露わにしていた。彼の妻は妙姫の従姉(いとこ)で、許婚(いいなずけ)だった直秋(なおあき)の妹の(なつ)姫だ。

 押中(おしなか)建之(たけゆき)は六十三歳と高齢だが、大柄な体には活力が満ちていた。息子の従之(つぐゆき)は三十六歳、戦に乗り気でなかったらしく、凡庸そうな顔には警戒とともに安堵の色も見えた。

 簡単な挨拶と名乗り合いのあと、直春は用意していた書面を渡した。交渉はすぐにまとまり、半年間の休戦が成立した。


 話し合いに持ち込めれば説得できることは疑っていなかったが、菊次郎は正直ほっとした。これで民も直春も救われると思ったのだ。

 境村の合戦後、桜舘家はこの二家にたびたび攻め込まれていた。理由は葦江国の北隣の茅生国(ちふのくに)の戦だ。この国の南部の小封主たちは宇野瀬家に従っていたが、桜舘家の離反で道を閉ざされて孤立し、北の大封主(ほうしゅ)増富(ますとみ)家の攻撃を受けていた。宇野瀬家は平汲押中両家に桜舘領の田畑を荒らせと命じ、直春たちとにらみ合っている間に、援軍が南国街道を通過したのだ。

 その後も宇野瀬家の軍勢が茅生国に行ったり帰国したりするたびに、二家が領内に侵入してきた。忠賢は全軍で出撃してしばらく出てこられないように痛撃を与え、可能なら滅ぼしてしまえばよいと言ったが、苦戦して大きな損害を受けたら宇野瀬家が攻め込んでくる。にらみ合いを続けるしかなかった。

 領地を荒らされ、月に二、三度も出陣を命じられるので、民だけでなく桜舘家の家臣たちからも不満の声が上がった。直春が宇野瀬家を離反したからだと声高(こわだか)に言う者まで出てきたので、菊次郎は隠密衆を使って二家と宇野瀬家の動向を探り、出陣の兆候を察知して伏兵を配置し、和尚を迎えにやらせたのだ。


「これでしばらくは戦がないだろう。ようやく腰を落ち着けて(まつりごと)に取り組める。君のおかげだ」


 軍勢と共に城へ帰る途中、馬を進めながら直春が言った。菊次郎の後ろに乗っている田鶴もうれしそうだった。


「そうね。村の人たちも、やっと安心して田植えができるって言ってた」

 宇野瀬家の軍勢が頻繁に本国と行き来するのは、領地の田植えを気にする家臣たちを交代で帰国させるためだったようだ。桜舘家は和約で彼等が南国街道の通るのを邪魔しないと約束した。

 二家にただ停戦を申し込んでも難しかったろう。戦ったら負けるという状況に追い込んで、休戦はやむを得なかったが通行の自由は勝ち取ったという形を作ってやらないと、宇野瀬家の承認は得られなかったはずだ。敵対勢力の軍勢が今後もたびたび通過することになるので警戒は怠れないが、民の被害は減るに違いない。


「ですが、あの二家とは遠からず決着をつけなくてはなりません」


 またこのようなことが起こっては困るし、豊津まで数日の距離に二つも封主家がいては、天下統一の戦に乗り出すのは難しい。


「そうだな。まずは足元を固めることだ。菊次郎君の知恵を借りたい」

「出陣の時は俺に任せてくれ」


 直春の向こうで忠賢が片目をつぶり、菊次郎は頷きを返した。

 半年の安全は手に入れた。増富家との戦いは一進一退を続けているようなので、宇野瀬家は今は桜舘家と戦う余裕がないはずだ。その間に準備を整え、機会を待って一気に葦江国を統一する。それが当面の目標だった。


「堅実に、無理をせず、少しずつ目標に近付いていきましょう」


 忠賢は文句を言いたそうな顔をしたが、反論はしなかった。


「はいはい、菊次郎殿のおっしゃる通りに致しますよ。ところで、お前はいつまでその名前なんだ」


 菊次郎というのは商人風の名だ。武家になったのだから、ふさわしい名に変える必要があった。


「そのままでもいいんじゃない。あたしはいい名前だと思うけど」


 田鶴はかばってくれたが、先程の和約の際にも、名乗ったら二家の当主や家老たちは怪訝(けげん)な顔をしていた。商人が出てきたのかと思ったらしい。

 武家名は普通、直春・実佐・本綱のように漢字二字だ。忠賢も農民から武家になると決めた時に名を変えたそうだし、宿敵赤潟(あかがた)武虎(たけとら)も行動はともかく名乗りからは自分を武家と考えていることが分かる。

 俸禄(ほうろく)百貫は中級家臣だ。妙姫にも名を改めるように言われてあれこれ考えてみたが、よい名はなかなか思い付かない。自分が武家として戦っていく覚悟を示す名になると思うので、安易な付け方はしたくなかった。


「これも早く決めないといけませんね。問題は山積みです」

「しばらく時間がある。じっくり考えればいいさ」


 直春は信頼の表情で笑った。


「桜舘家の今後の方針もみんなで相談しよう」


 暗くなり始めた空に大きく欠けた月が浮かんでいる。道端に数本の百合が白く輝き、城へ帰っていく武者たちを首を揺らして見送っていた。

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