(巻の一 運命の出会い) 序章 ~五年前~
『狼達の花宴』 巻の一 吼狼国図
『狼達の花宴』 巻の一 御使島要図
「なにっ! 西の関所が破られただと!」
東の関所の近くで戦っていた定橋軍は、届いた知らせに仰天した。十歳の銀沢菊次郎も耳を疑い、青ざめた。
「そんなまさか。どうやってあそこを突破したんだろう!」
それを横目に見て、大将の定橋教邦は命令を下した。
「すぐに城へ戻るぞ!」
武者たちが後退を始めると、鮮見軍は勢いに乗って攻め寄せてきた。定橋軍は苦労して関所の中に逃げ込み、撤退に移った。
赤くなり出した空の下、菊次郎も馬を急がせた。父が用意してくれたのは小さな馬で、もう息が苦しそうだが、哀れに思いつつも煽り続けた。西の関所は故郷の町にかなり近い。家にいる家族と使用人たちが心配だった。
僕のせいだ。
菊次郎は自分を責めた。
僕が間違ったから。
鮮見領と定橋領の境の山を越える道は二本あり、両方に関所がある。西の谷道の方が平坦で距離が短いが、定橋軍は東の山道から敵の主力が来ると見て、こちらに多くの武者を集めていた。菊次郎がそう進言したからだ。
一ヶ月前のことだ。西の関所に敵が現れたとの報を受けて出陣した教邦は、途中、兵糧の注文に菊次郎の家を訪れた。菊次郎の父は廻山城下で得方屋に次ぐ大商人なのだ。友人同士でもある二人が敵の様子について話すのを障子の陰で聞いていた菊次郎は、父に見付かると進み出て、西の関所の敵は囮に違いありませんと言った。
「西の関所は左右が高い崖の細い谷という天然の要害で、守備の武者も多くいます。これまで七万貫の定橋家が十九万貫の鮮見家に負けなかったのはそのためで、落とすのが難しいことは敵も分かっているでしょう。一方、東の山道は遠回りで坂が多いですが、関所の砦は小さく守備兵も少数です。僕が敵の大将なら、一部の武者で西の関所を攻めてそちらへ定橋家の主力を引き付けておいて、本隊は東の関所を通り抜けます。今回現れた敵がやや少なく、大声で叫びながら矢を射かけるだけで接近してこないのは囮だからです。とはいえ、東の関所も落とすのは簡単ではありませんし、もたもたしていると援軍が来てしまいます。敵は短時間で関所を突破するため、何か策略を用意しているものと思います」
考える顔になった教邦が、ではどう対処すればよいかと尋ねると、菊次郎は得意そうに言上した。
「西の関所はいくらか援軍を送って守りを固め、主力は東の山道に向かわせるべきです。しかし、敵の策が分からないので関所に入るのは危険です。関所を破った敵が勢いに乗って進んできたところを、街道の途中で待ち伏せするのがよいと思います。敵を油断させるため、関所の守将には何も知らせません。敵をあざむくにはまず味方からと言いますから」
なるほどと感心した教邦は、菊次郎の言葉通り東の山道に兵を伏せた。すると、案の定、東の関所に突然敵の軍勢が現れ、蜂の巣をたくさん投げ込んだ。
大騒ぎの中、荷を輸送中の商人に化けた鮮見家の間者二十名が関所の扉を開いた。蜂を追い払うふりをして八台の荷車に満載した干し草に火をつけ、立ち込めた煙にまぎれて閂をはずしたのだ。
関所を制圧して勢いに乗った鮮見軍は、一気に城下町へ向かおうとしたが、教邦の伏兵に奇襲されて大混乱に陥った。一方的な戦いのあと、鮮見軍は多数の死体を残して撤退し、それを知った西の関所の軍勢も引き上げていった。
菊次郎の策が的中したことに教邦は感心し、城に戻ると自分の小姓にしたいと父に持ちかけた。武家になるかと問われて菊次郎は頷き、武具や諸道具の準備を進め、三日後には城に上がるというところで、再び鮮見軍が来襲したのだった。
今回、敵がまた西の谷道から攻めてきたと聞いて、菊次郎はおかしなことだと思った。同じ作戦は二度と通じないのに、失敗した方法を繰り返す理由が分からなかったのだ。だが、現に敵は迫っていて迷っている時間はない。仕方なく、前回と同じ対応でよいだろうと進言した。西の関所を抜くのはかなり難しいから、主力を向かわせるのはやはり東の山道だろうと思ったのだ。
菊次郎は何か大切なことを見落としているようですっきりしない気分だったが、教邦はそれを聞いて安心した顔になり、一ヶ月前と同じく西の関所に若干の援軍を送ると、お前も一緒に来いと命じて東の山道に自らおもむき、関所の手前で兵を伏せた。敵は前回のようには簡単に罠にかかってくれないだろうが、今回は兵を伏せる場所を変えたし、有利な地形で迎え撃てることに変わりはない。撃退するのは難しくないはずだと菊次郎は考えていた。
ところが、予想通り現れた敵と戦っている最中に、西の関所が落ちたという知らせが届いたのだ。
なぜ敵は主力を西の谷道に送ったのだろう。どうやって関所を破ったのだろうか。
いくら考えても分からなかった。菊次郎は前方で馬を走らせる教邦へちらりと目を向け、溜め息を吐いた。
戦闘中に西の関所が破られたと聞いた教邦は驚愕し、小さくつぶやいたのだ。「こんな小僧の言うことを信じたのが間違いだった」と。
所詮は子供の浅知恵と思われたことが悔しかった。それ以上に、自分の誤りで町を危険にさらしてしまったことが恐ろしかった。
僕は何を見落としていたのだろう。どこで間違ったのだろうか。
教邦に遅れぬように馬を飛ばしながら、菊次郎の胸は疑問と不安でいっぱいだった。
と、前方で騒ぎが起こった。
「敵だ! 道を塞がれたぞ!」
菊次郎は驚いた。西の谷道を抜けた敵は城下町へは行かず、東の山道を進んできたのだ。
これでは町に戻れない。
冷や汗が出た。そこへ、追い打ちのように背後で大きなどよめきが聞こえて、危機を知らせる叫び声がした。
「後ろから敵がくるぞ! 東の関所が破られた! 挟み撃ちにされるぞ!」
まさか、と思って振り向くと、後方の坂の上で、鮮見家の赤い鎧の群れが鬨の声を上げながら後続の部隊に襲いかかっているのが見えた。
なぜこんなに早く敵が来るのだろう。関所は閉じてきた。守備の武者が必死で守っていたはずだ。
何がどうなっているのか分からなくなって混乱しかけたが、菊次郎は頭を左右に強く振ると冷静になろうとした。
こうなっては僕にできることはない。家に戻ろう。
周囲では武者同士の戦いが始まっている。まだ十歳で武家でもない菊次郎がこの場にとどまる必要はもうなかった。そもそも武装していない。具足や武具が間に合わず、腰に脇差を一つ帯びただけなのだ。それよりも家族が心配だった。敵は軍勢の一部を町へ向かわせたかも知れない。火を放ったりしていないだろうか。町の人たちは無事だろうか。
確かめに行こうと、菊次郎は馬の腹を蹴った。各所で切り結ぶ武者たちの間を走り抜け、敵を避けて森に入る。途中、馬廻りに守られて叫んでいる教邦の横を通ったが、誰も菊次郎には目を向けなかった。何度も木の枝にぶつかりそうになりながら森の中を進み、敵の横を通り過ぎると街道に戻って全力で馬を走らせた。
森を抜けると、視界が開けた。紅葉した山に囲まれた狭い盆地の中央に定橋家の廻山城があり、周囲に数百軒の武家屋敷や民家や商店が立ち並んでいる。その中でも一際大きな建物が菊次郎の父の店だった。
馬を飛ばしながら町を見回すと、夕闇に沈もうとしている家々の間に赤いものが見えた。火だ。菊次郎の家の辺りだった。途端に不安が膨らんで、嫌な汗が噴き出てくる。菊次郎は泡を吹く馬を必死で急がせた。
帰ってみると、燃えていたのは菊次郎の家だった。高い土塀の向こうで二階建ての店から轟々(ごうごう)と音を立てて炎と煙が上がっている。火事に気が付いて近所の人々が集まってきていたが、その中に菊次郎の家族や使用人たちの姿はなかった。
菊次郎は急いで馬を降りようとしてずり落ち、尻餅をついた。足が震えていたからだ。
だが、ためらっている暇はない。まだみんなが中にいるかも知れないのだ。向かいの家の老婆の呼び止める声を振り切って、菊次郎は門の中へ走った。
玄関は開いていた。飛び込んだ菊次郎は土足のまま廊下を走って奥へ向かったが、台所の扉の前で何かにつま先を引っかけて激しく転んだ。
手を突いて起き上がって足元を見ると、それは使用人の腕だった。背中を刺されてうつぶせに倒れ、腕だけが廊下に出ていたのだ。恐る恐る部屋の中をのぞき込んで、すぐに目を背けた。下男や女中、手代や番頭たちが胸を赤く染めて倒れていた。一目で全員絶命していると分かった。ひどい吐き気を覚えたが、なんとかこらえて立ち上がり、奥を目指した。家族は無事なのか、不安で胸が苦しかった。
燃え盛る炎と流れてくる黒い煙を避けながら店の部分を走り抜け、渡り廊下を通って家族の住む母屋へ向かった。そして、中へ駆け込んで、絶望した。囲炉裏のある広い部屋の入口を塞ぐように父が、その奥で母と兄と妹が死んでいた。皆胸を一突きにされている。菊次郎は父の体に触れようとして手を引っ込め、その場にへたり込んだ。
どうしてこんなことに……。
その言葉だけが頭の中をぐるぐると回っていた。菊次郎は泣きたかったが泣けなかった。現実とは思えぬ光景に感情が追い付かなかったのだ。
と、奥の部屋で木の床を踏む音がした。顔を上げると、襖の向こうから一人の少年が現れた。血に濡れた刀を持っていた。
「お前が菊次郎か」
少年が尋ねた。その口調はぞっとするほど冷ややかで、菊次郎は反射的に頷いてしまった。少年は薄笑いを浮かべると、菊次郎の前までやってきた。
「無駄足かと思ったが、自分から殺されにくるとはな。まあ、ここで逃がしてもどうせすぐに捕まったに違いないが、手間が省けたな」
「殺されにくる……?」
少年を見上げて思わず繰り返した菊次郎は、はっとした。
「僕を探しにきたのか! そのために家族を殺したのか!」
頭にかっと血が上った。目の前が赤くなるほどの激しい怒りだった。
「そうだ。全てはお前のせいだ」
少年は冷え切った声で告げた。
「お前がいなければこの連中は死ぬ必要がなかった」
「どうしてだ。どうしてなんだ!」
菊次郎はわめいた。わめかずにはいられなかった。なぜ家族や使用人たちが殺されなければならなかったのか。それが自分のせいとはどういうことか。答えを聞かない方がよい、聞くときっと後悔するとささやく声が頭の奥にあって尋ねるのは恐ろしかったが、知りたい気持ちがそれにまさった。
「教えてくれ!」
少年は菊次郎の様子に興を覚えたらしく、にやりと唇を歪めて説明してくれた。
「それはな、お前が定橋教邦に知恵を付けたからだ」
驚く菊次郎を、少年は捕らえた鼠をいたぶる猫のような表情で眺めていた。
「俺は三ヶ月前に鮮見家に雇われて、定橋家攻略を手伝うことになった。今までの戦の経過を聞いて、俺は鮮見家の当主に策を授けた。西の関所を攻めると見せかけて東の関所を抜ければよいとな。そして、商人に化けた仲間二十人を東の関所に送り込み、閂を開けさせて一気に城下へ進もうとした。ところが街道の奥に伏兵がいて大敗し、俺は大目玉を食らって危うく報酬をもらい損なうところだった。調べてみると、俺の策を見破ったのはまだ十歳の子供というではないか。そこで、俺は邪魔なそいつを殺し、この町を落とそうと、再び作戦を考え、こうしてやってきたわけだ」
僕を子供と言うが、お前だって子供だろう、と菊次郎は思った。少年は恐らく十五歳前後、元服はすませているだろうが、大人というにはまだ小さい。だが、その表情は非常に狡猾そうで、今回の手口からしても、これまでにかなりの数の人を手にかけてきたに違いなかった。
「あの世に送る前に、どうやって二つの関所を落としたかを教えてやろう。答えは簡単だ。内通者を作ったのさ。
西の関所の武者に差し入れと称して毒の飯を食わせ、火を放って鮮見軍を引き入れたのは、得方屋の連中とその下男に化けていた俺の仲間だ。前回の戦いの結果、お前は定橋教邦の小姓に取り立てられることになった。もともと教邦と仲が良かったお前の父は、今後ますます結び付きを強めるだろう。となれば、この町で一番の大商人である得方屋は、商売をお前の家に奪われていくことになる。ならば、定橋家を見限って、より貫高の大きな封主である鮮見家に取り入った方が得だと連中は考えたのさ。定橋家は前回の教訓から商人を警戒し、戦いが始まると関所から追い出したようだが、地元の有力者で付き合いの深い得方屋の者は信用して中に入れ、差し入れた弁当を食ったというわけだ。お前のせいで、得方屋に憎まれたお前の一家は殺されることになったのだ。
そして、東の関所が落ちたのは、守備の武将がこちらに寝返ったからだ。前回の戦いで定橋教邦は東の関所へ援軍を送らず、少し離れたところで兵を伏せて、関所を破った鮮見軍がやってくるのを待ち構えていた。必死で関所を守って多くの部下を死なせた武将は、お前のおかげで勝てたと笑って褒美を与えられて、はらわたが煮えくり返る思いだったろうな。そこで、鮮見家の武将として厚遇すると約束して味方に引き入れたのさ。関所を破らせて油断させろと入れ知恵したのは恐らくお前だろう。つまり、守将を裏切らせたのもお前ということだ。少しは頭が切れるらしいが、所詮は子供、自分のしたことの結果までは読めていなかったようだな」
菊次郎は何も言い返せなかった。体が震えて歯の根が合わなかったのだ。一ヶ月前、戦を遊びのように考えて、おのれの知恵を得意になって披露した報いがこれだった。自分のあまりの愚かさと、その結果の重大さは、十歳の菊次郎には恐ろしすぎた。菊次郎はただ呆けたように口と目を大きく開いて、自分の失敗と浅慮を断罪しに来た少年の姿の悪鬼を見上げるばかりだった。
「そろそろここにも火が回る。最後の仕上げにお前を殺してずらかるとするか」
少年は唇を左右に引いて残忍な笑みを作ると、血の付いた刀を両手で握った。
「俺は仕事の邪魔をしたやつを許さない」
通常の刀よりやや短いそれを、少年はゆっくりと持ち上げ、ねらいを付けるように一瞬止めると、勢いよく振り下ろした。
菊次郎は自分の罪に縛られたようにその場を動けなかった。風を切って下りてくる刃に、思わずぎゅっと目をつむった。
「菊次郎坊ちゃん、お逃げください!」
女の甲高い叫び声にまぶたを開けると、少年がひっくり返っていた。重い土の皿が飛んできたのだ。振り返ると、乳母のお浜が駆け寄ってくるところだった。
「さあ、坊ちゃん、逃げましょう。お気を確かに」
体の弱い母にかわって菊次郎に乳を与え、おぶって育ててくれた若い乳母は、手をつかむと立つように促した。もう妹も大きくなったので去年仕事を辞めていたが、火事を知って様子を見にきたらしかった。
「お浜、僕は……」
菊次郎はためらった。
「みんなが死んだのは僕のせいなんだ。だから僕は殺されても仕方がないんだ」
口にした途端、目から涙があふれ出した。
「僕に生き延びる資格なんかない! 死んで罪を償うんだ!」
ぱしん、とお浜が頬をひっぱたいた。
「何をおっしゃるのですか。あなたはまだ子供です。生きなくてはなりません!」
お浜は恐ろしいほど真剣な顔で叱った。
「あなたはまだお若い。これからいくらでも罪の償いができます。それにはまず生き延びることです。あなたは幼い時から利発でいらっしゃった。きっと立派な方におなりです。こんなところで死んではいけません。決して諦めてはなりませんよ!」
その勢いに気圧されて、強く手を引かれると菊次郎はよろよろと立ち上がった。震える足をなんとか前に運び、庭を逃げる。お浜の手は温かかった。その温もりを握り締めていると、この庭で兄や幼い妹と遊んだことが思い出されてますます涙があふれてきた。
「待て!」
後ろから声がかかった。歩きながら振り向くと、少年が走って追いかけてきていた。
「急ぎましょう」
お浜は早足で裏口へ向かったが、ふらふらする菊次郎を連れているために、少年との距離はみるみる縮んでいった。
「死ね!」
裏門の目の前で遂に追い付かれ、少年が切り付けてきた。お浜の手を離してかろうじてかわした菊次郎は、よろめいて地面に倒れ込んだ。慌てて体を起こし、腰の脇差しを抜いたが、構える前に刀が降ってきた。
「無駄なことを!」
短刀は簡単にはじき飛ばされ、再び振り下ろされた刀に思わず顔をかばうと、左腕に熱い痛みが走った。破れた羽織の袖の中の綿がみるみる血に染まっていく。
「坊ちゃん!」
お浜が後ろから両脇に手を入れて菊次郎を抱き起こした。お浜は菊次郎を促して歩かせ、そのまま門を抜けようとしたが、背を切られて鋭い悲鳴を上げた。
「お浜!」
叫んだ菊次郎は、背中を思い切り突き飛ばされ、門を転がり出て道に倒れ込んだ。
「生きてください!」
背後でお浜の叫び声がして門が閉まり、閂をかける音がした。はっとして振り向いた菊次郎に、お浜の絶叫が聞こえた。
「逃げてください! 坊ちゃん……逃げて……!」
お浜の体が扉にぶつかり、ずるずると崩れ落ちる音がした。菊次郎は門を開けて助けようと手を伸ばしかけたが、唇を噛み締めると裏手の路地へ向かって駆け出した。
お浜まで。お浜まで僕のせいで死んでしまった。
再び涙があふれてきて前がかすんだ。それを手でぬぐいながら菊次郎は駆け続けた。
僕はなんて卑怯なんだ。大勢を殺しておいて、自分だけ生き延びようというのか。僕は最低だ。最低最悪の人間なんだ。
涙と鼻水で顔をぐちょぐちょにしながら菊次郎は走った。町の路地を走って、走って、坂を上り、裏の山へ逃げ込んだ。
息が切れ、体が重く、もうこれ以上は走れないというところまで来ると、そばにあった大木の根元に倒れるように座り込み、幹に背を預けた。町を見下ろすと、真っ暗な空の下、燃え広がる炎と逃げまどう人々が見えた。菊次郎は三度目の涙を流し、腕の痛みと疲労で気を失った。
目が覚めると、朝になっていた。
いつの間にか草の上に寝かされていた。目の前にかわいらしい少女の横顔がある。菊次郎より一つ二つ年下と思われた。誰だと尋ねようとしたが、口の中がからからで咳き込んでしまった。
少女が振り向き、顔をじっとのぞきこんで、菊次郎の頭の後ろに声をかけた。
「おじいちゃん、目を覚ましたよ」
草を踏む音が近付いてきて、六十歳前後の老人が上から見下ろした。
「気が付いたか」
体を起こして辺りを見回すと、森の中の小さく開けた場所のようだった。すぐそばに木の箱をたくさん積んだ荷車が二台止めてあって、引き手や警護役らしい男が五人、消えかかった焚き火のそばで煙草をふかしていた。
「お主は生き延びたんじゃよ」
左腕の傷はいつの間にか手当てされていた。
「ここは安全じゃ。街道からはずれておるでな。お主が倒れておったところから少々森の中へ移してあるから、見付かる心配はない」
さあ、これをお飲み、熱いぞ、と差し出した椀を少女が受け取り、ふうふう吹いて冷ましてから無事な右手に渡してくれた。菊次郎はためらったがそっとすすった。ほんのり苦かった。薬湯らしい。
乾き切った口の中に湯の温かさが広がると、生き返る心地がした。そして、思い出した。両親や兄や妹、使用人たちやお浜のこと、何よりも自分の罪を。
菊次郎の口から低いうめき声がもれた。抑えようとしても抑え切れない、心のうずきが音になったような声だった。
少女がびっくりした顔で祖父を見上げ、老人は痛ましげに眉を伏せた。
菊次郎は木の椀を持ったまま、長いことむせび泣いていた。
やがて、泣き止んだ菊次郎が事情を話すと、老人は警護役の一人を町へ行かせて様子を探ってこさせた。やはり家族やお浜や使用人たちは全員死んでいた。家もすっかり焼けてしまった。城は落ちて定橋家は滅び、教邦は討ち死にしたということだった。
再び声を上げて散々泣いた菊次郎は、わしらと一緒に来るかと言われて頷き、その日のうちに故郷を去った。降臨歴三八〇九年菊月三十日のことだった。
それから、五年の歳月が流れた。




