文学史的『為兼卿和歌抄』。
「Wikipedia」の「為兼卿和歌抄」の項の出来がかなり良いので、二番煎じっぽくならないように努力はしました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/為兼卿和歌抄
『為兼卿和歌抄/京極為兼』
『無名抄』『正徹物語』などと並ぶ中世の歌論書の一であり、京極派にとっては唯一の歌論書。主流扱いされた二条派と対立関係にあったせいか、はたまた(文体の一貫性のなさや書きかけのような唐突な終わり方など体裁が整っていないために)未完の印象が強いせいか、内容がどうかということはスルーされ、「『玉葉和歌集』の資料として重要」というようなスタンスでのみ語られることが多いように思われる。ちなみに内容は要約するとやはり「心の絶対的な尊重」と「言葉の自由化」に集約される。
京極派揺籃期に当たる弘安八年八月二八日(一二八五年九月二八日)から弘安一〇年一月七日(一二八七年二月二〇日)までの間の成立と見るのが通説。(これは、本文中の役職名を伴う実名表記のうち唯一の存命者である「(三条)実任侍従」を成立の手掛かりとして、三条実名が「(三条)実任」に改名後、かつ「侍従」を勤めていた期間がそのまま適用されている。)
この成立期間は、弘安の役(一二八一年)のおよそ五年ほど後に当たるが、筆者である京極為兼にとっては勅撰集デビュー(二条派の『続拾遺和歌集』に二首)から八年ほど後、初出仕から六年ほど後、『玉葉和歌集』撰集より二十六年ほど前に当たり、満三十二歳前後で書かれたということになる。
他の歌論書の成立時の筆者の年齢を見てみると、例えば『歌経標式』の藤原浜成が満四十九歳、『古今和歌集仮名序』の紀貫之が満三十九歳(八六六年誕生説)または満三十三歳(八七二年誕生説)、『俊頼髄脳』の源俊頼が満五十八歳、『古来風体抄』(初撰本)の藤原俊成が満八十三歳、『近代秀歌』(流布本)の藤原定家が満四十七歳、『詠歌一体』の藤原為家が満六十五~満七十二歳、『無名抄』の鴨長明が満五十八歳程度である。序文という性質上、勅撰集の編纂という偉業と同タイミングとならざるを得なかった貫之はさておき、歌人としてはまだ何も成し遂げていない状況での為兼の満三十二歳前後というのは、極めて異例の若さと言わざるを得ない。まさに、「技術はないが理論はあった」の典型と言えるのではないだろうか。
自らの理論を自作和歌で解説することができない代わりに為兼が取った手段は、「大量の先行書籍、特に仏典の引用によって補う」であった。そのためかなり仏教色の濃い仕上がりとなってしまっている。「数ある書籍の中でわざわざ仏教書籍を選び出して引用した」という事実だけに囚われてしまうと、まるで為兼が仏教に傾倒していたかのように錯覚してしまうが、実際には恐らく「高祖父である俊成に傾倒していたための選択」だったのではないかと思われる。というのも、俊成の書いた『古来風体抄』は「歌論に法華経を絡めて書かれた」ものだからである。これはそもそも当時ライバル的存在であった俊頼が「歌論に法華経を絡めて『俊頼髄脳』を書いた」ことに対抗したためなのだが、そういう意味では「高祖父へのオマージュ」という読み方も可能なのかも知れない。
ただ一つ言えることは、「理論ありき」の状態でスタートとしたはずの京極派は、最終的に『為兼卿和歌抄』を体現したとしか思えないような発達の仕方をしたところから、「理論に技術が追いついた」という稀な好例であったということである。
しかし「体裁が整っていない草稿のような状態」からも察せられるように――為兼の死後、遺された『為兼卿和歌抄』を子孫たちが勝手に見て勝手に流布させたであろうことはさておき――、為兼自身が生前、積極的に誰かに読ませることがあったのかどうかは不明である。高祖父である俊成や、曾祖父である定家と同じように、ゆくゆくは自作の秀歌例を付け足し、体裁を整え、タイトルもつけて、世に問おうと思っていたのではないだろうか。
なお、歌風確立前の為兼の生みの苦しみ、苦難の跡がどうしても知りたいという方は、看聞日記紙背文書(裏紙再利用で書かれていた伏見宮貞成親王の日記である『看聞日記』のオモテ面の文書)として発見された、「詠歳暮百首応令和歌」「詠立春百首和哥」「春日同詠花三十首和哥」「和歌詠草」などの自筆詠草を読み解かれたし。
ちなみに現在の書名である『為兼卿和歌抄』については、タイトル内の「卿」という敬称からも察せられるように、執筆者本人の名づけとは考え難く、本来の書名は不明と言わざるを得ない。敢えて現代語訳してみると「為兼様による和歌注釈書」といった意味となるところから、為兼を呼び捨てにはできない集団の仮称が、いつの間にやらそのまま書名として採用されていた、と考えることもできるのかも知れない。
現存する写本は一系統、宮内庁書陵部蔵本(江戸時代前期書写)・近衛家の陽明文庫蔵本(江戸時代前期書写)・聖護院蔵本(江戸時代前期書写)・冷泉家の時雨亭文庫蔵本(室町時代中期書写)の四冊のみ。明治四〇(一九〇七)年に宮内庁書陵部蔵本が発見されてから、昭和三四(一九五九)年までに陽明文庫蔵本が発見されるまでは、写本界のレジェンド『土左日記』同様に、いわゆる「孤本(=唯一の伝存本)」だと思われていた(ただし本文の状態はレジェンドの足元にも及ばない)。校合による本文の精査ができないという「孤本」特有の弱点は、冷泉家時雨亭文庫蔵本の出現によってそれなりには軽減された模様。それでも、原文は元より現代語訳を含めて、誰でも手軽に読めるような状況にあるとは言い難いようである。
また注釈書については、久松潜一編『中世歌論集』(岩波文庫、一九三四年)、久松潜一校注『日本古典文学大系65』(岩波書店、一九六一年)、土岐善麿『訳注為兼卿和哥抄』(初音書房、一九六三年)、小川剛生校注『歌論歌学集成10』(三弥井書店、一九九九年)辺りが比較的入手しやすいのではないかと思われるが、本文校合に冷泉家時雨亭文庫蔵本を用いているのは小川剛生校注『歌論歌学集成10』(三弥井書店、一九九九年)のみなので要注意。
中身を見ていく前に、まずはこれから読もうとする本の外側を確認しておこうかと。
ちなみに写本界のレジェンド『土左日記』がレジェンドたる所以は為兼の祖父、藤原為家の情熱「紀氏正本書写之一字不違(紀貫之直筆本を原本とし、これを一言一句変えることなく書写した)」にあり。




