ためかねかためかぬか。
『為兼卿和歌抄』の筆者である京極為兼(または京極為兼)とは果たして何者なのかという疑問の詳細については、正直に言えば、「WEB上ならば『千人万首』や『Wikipedia』(ただし佐渡配流の理由には賛同しない)、書籍ならば『ミネルヴァ日本評伝選 京極為兼―忘られぬべき雲の上かは/今谷 明(ミネルヴァ書房、2003年)』や『人物叢書 京極為兼/井上宗雄(吉川弘文館、2006年)』、『コレクション日本歌人選 京極為兼/石澤一志(笠間書院、2012年)』辺りを参照されたし」として終わらせるのが一番、完成度が高くなるであろうことは承知の上です。
ただそれでは今回のエッセイの存在意義が失われてしまうという切実な問題以前に、ふと芽吹いた興味の芽が「ワンクリックで情報が得られない」というだけで枯れてしまうという心の痛む展開になってしまうかも知れませんので、この文章内では為兼に関する基本として押さえていただきたい知識を3つだけ、紹介させていただきます。
【その1】京極為兼とは、いわゆる「京極派」の創始者にして主導者である。
――コレはうん、本気で大事です。
京極派には伏見院や永福門院、花園院、光厳院、藤原為子といった有名歌人がいるが、すべてが為兼の門弟である。皇族歌人が多いのは、持明院統(のちの北朝)がそのまま京極派であったことによる。京極派自体は為兼の生前、為兼に直接指導を受けることができた前期京極派(鎌倉期)と、為兼の死後、為兼の門弟から手ほどきを受けた後期京極派(室町期)に分けることができる。前期京極派の集大成が第14代勅撰和歌集『玉葉和歌集』(為兼は36首入集)、後期京極派の集大成が第17代勅撰和歌集『風雅和歌集』(為兼は52首入集)であると言える。
【その2】京極為兼の勅撰和歌集への入集は、8集132首である。
――コレはうん、どの歌壇にどの程度受け入れられていたかを探るという意味では大事です。
当時の王道二条派と骨肉の争いを繰り広げていた京極派、その指導者であった為兼は、歌論書などを通じて非京極派から激しいバッシングを受ける、二条派が撰者を務めた勅撰集では派閥闘争から「全く入集しない」もしくは「入集数を抑えられる」、などの扱いを受けた。逆に京極派が撰者を務めた勅撰集では二条派の入集が抑えられており、「勅撰集とは派閥闘争の道具である」という観点から考えると自然なことのようである。
そんな為兼の勅撰集入集は以下の通り。多いと思うか少ないと思うか。為兼と撰者(基本二条派)との関係に注目しつつ、従兄でありやがてライバルとして激しく対立していく二条為世との比較もされたし。
第12代『続拾遺和歌集』撰者:二条為氏(為兼の伯父で為世の父)。
→藤原為兼朝臣名義(2首/初出)⇔藤原為世朝臣名義(6首/初出)
第13代『新後撰和歌集』撰者:二条為世(為兼の従兄)。
→前中納言為兼名義(9首)⇔前大納言為世名義(11首)
第14代『玉葉和歌集』撰者:京極為兼(本人)。
→前大納言為兼名義(36首)⇔民部卿為世名義(10首)
第15代『続千載和歌集』撰者:二条為世(為兼の従兄でライバル)。
→為兼(0首)⇔前大納言為世名義(36首)
第16代『続後拾遺和歌集』撰者:二条為藤(為世〔為兼の従兄でライバル〕の子)、二条為定(為世〔為兼の従兄でライバル〕の孫)。
→為兼(0首)⇔前大納言為世名義(20首)
第17代『風雅和歌集』撰者:光厳院(後期京極派の一)。
→前大納言為兼名義(52首)⇔前大納言為世名義(7首)
第18代『新千載和歌集』撰者:二条為定(為世〔為兼の従兄でライバル〕の孫)。
→前大納言為兼名義(16首)⇔前大納言為世名義(42首)
第19代『新拾遺和歌集』撰者:二条為明(為世〔為兼の従兄でライバル〕の孫)、頓阿(為世〔為兼の従兄でライバル〕の弟子)。
→前大納言為兼名義(8首)⇔前大納言為世名義(25首)
第20代『新後拾遺和歌集』撰者:二条為遠(為世〔為兼の従兄でライバル〕の曾孫)、二条為重(為世〔為兼の従兄でライバル〕の孫)。
→前大納言為兼名義(6首)⇔前大納言為世名義(14首)
第21代『新続古今和歌集』撰者:飛鳥井雅世(新古今集撰者・飛鳥井雅経の六世孫。二条派重視)。
→前大納言為兼名義(3首)⇔前大納言為世名義(6首)
【その3】京極為兼は、藤原定家の曾孫である。
――コレはうん、出自の確認という意味では大事です。
『新古今和歌集』の編者として名高い定家の、三男であった為家は「藤原」を名乗っているが、その子ども達(定家から見たら孫達)の中には、為家の死後に当主と争って「京極家(正妻の三男)」や「冷泉家(側室の長男)」を興した者があり、結果的に藤原を名乗っていない者も多い。
ちなみに為兼の父の為教は自ら「京極家」を興し、「京極為教」を名乗った。そのため為兼は、定家の曾孫でありながら、定家とは名字が異なるのである。
京極の名の由来が語られることは特になかったかと思いますが、定家の邸宅が「京極殿」と呼ばれていたこと、また定家自身もそこから「京極殿」あるいは「京極中納言」と呼ばれたことなどを鑑みると、嫡流(御子左家=二条派=いわゆる「二条家」と区別して「和歌の二条家」とも)にしがみつくのではなく分家として「京極」を名乗ろうと決意した為教(正妻の三男坊。歌人としては元より政治家としてもパッとしなかったらしい)の、兄為氏との確執というか、父為家への屈折した思いというか、祖父定家への憧憬というか、何かそういうごちゃごちゃしたものを感じずにはいられなかったりします。
そんな為教の長男である為兼が、当時の歌道の王道を体現するような存在であった祖父為家に和歌を仕込まれたにもかかわらず、既存の歌風の物真似に飽き足らなくなって新しい歌風を作り出したというところに、「先祖返りじゃないけれど、為兼が一番、ひい爺ちゃん(=定家)やひいひい爺ちゃん(=俊成)の血を濃く引いてるんじゃね?」的なロマンを感じるのですが、いかがでしょうか。
ちなみに為家の別名は「中院禅師」と「冷泉禅門」。為家に溺愛された庶子(側室の長男)が「冷泉」を名乗ったというところが何ともまた。




