翻刻篇
翻刻篇では細切れだった「翻刻」を、一括掲載にしてみました。
あくまでも「宮内庁書陵部蔵為兼卿和哥抄」の写本内での「翻刻」ですが。
自ら本文を考えてみたいという方は、こちらをお楽しみください。
教科書風を標榜するならば、各章のタイトルは、(『伊勢物語』における「東下り」のような)独自のものをつけるべきなのでしょうが、勝手につけるのはおこがましいということで、『枕草子』形式を採用しています。
(一)哥と申候物は(頁001~頁004行008)
哥と申候物はこの比花下に/集る好事などのあまねく/思ひ候様にばかりは候はず。/心にあるを志といひ、ことにあら/はるゝを詩哥とは、皆しりて候へども、耳にきゝ、口にたのし/み候ばかりにて、心におさめ候/かた、くらく候ゆへに、ただしら/ざると同事になりはて候にける/よし、沙汰候。然而、我も我もとほ/こさきをあらそひ、才学をたて/候まへは、いづれか是いづれか非、/しりがたきに似候へども此みちは/あさきに似てふかくやすきにゝ/てかたく、佛法ともひとへに候/なれば、邪正をたづねきはめら/れ候はん時は、私あらむところは/かなはずや候はんずらむ。されば/和漢の字により候て、からの哥・や/まと哥とは申候へども、うちに/動心をほかにあらはして紙にかき/候事は、さらにかはるところなく候/にや。文と申候もひとつことばに候/よしは、弘法大師の御旨趣にも委/見て候にこそ。境に随てをこる心/を聲にいだし候事は、花になく/鶯、水にすむかはづ、すべて一切生/類みなおなじことに候へば、「いきとし/いけるもの、いづれか哥をよまざ/りける」ともいひ、乃至草木を/風吹て枝をならすも「柯は哥也」/とて、それまでも哥なるよし、/樸揚大師も見せられて候と/かや。されば、天地をうごかし、鬼神/をも感ぜしめ、治世みちともなり、/「群徳之祖、百福之宗也」ともさ/だめられ、「邪正をたゞす事|是よ/りちかきはなし」など候にや。
(二)凡一切/のこと成就するには(頁004行008~頁008行010)
凡一切/のこと成就するには、相應をさ/きとし候なればにや、伊勢太神/宮・八幡・賀茂をはじめ奉りて、/和國にあとをたれ給諸神も、/仏・菩薩も、権者も、代々の聖主、/仁徳天皇・聖武天皇・聖徳太子/弘法大師・傳教大師以下、皆是/をよみ給。東大寺つくりて供/養あらむとての日、行基菩薩/難波の岸にて婆羅門僧正を/迎給時も、/
「霊山の釈迦の御まへに契りてし/真如くちせずあひみつるかな」/
とよみ給返しにも、南天竺より/始てきたれる婆羅門僧正も、/
「かひらへに昔ちぎりしかひありて/文珠の御かほあひみつるかな」/
とよみ給も、和國に来れば相應/の詞をさきとして、和哥をよめり。/すべて和國は神國なるゆへに、/神明はことに和哥をもてのみ、/おほくは心ざしをもあらはし給も、/相應のゆへと申にこそ。さればみち/をもまもり、あらたなる事も/先規おほく侍にや。
大方、物に/ふれてことに心と相應した/るあはひを能々心みんことの、必/草木鳥獣ばかりに限べからざ/るゆへに、よろづの道の邪正も/志とはいへるにこそ。景物につ/きて心ざしをあらはさむも、心を/とめ、ふかく思ひいるべきにこそ。/「かならずよく四時に似たるをも/ちひよ。春夏秋冬の氣色、時/にしたがひて心をなして、これ/をもちひよ」とも侍れば、春は/花のけしき、秋は秋のけしき、/心をよくかなへて、心にへだてずなし/て言にあらはれば、おりふしの/まこともあらはれ、天地の心にもか/なふべきにこそ。「氣性は天理に合」/とも侍にや。
(三)稽古に力入る人も(頁008行010~頁014行009)
稽古に力入る人も、/才学をこのみ、義を案じもち/てばかり問答をする時、古人の/詞をも我かたのをもむきにのみ/とりなし、心はいれでひがざまにこと/|はり、我物に得ところもなし。無所/得はすすむことなし。よみいだすぶん/も不審をあぐるきはも、|月輪の/うちをいづる事なきよし、沙汰候也。/されば年来の好事、是をのみた/しなむよしなるも、古人のさほど/たしなむとや聞えざりけるも、/よめる哥のさま、はるかにへだ/ててをよぶ事なし。
京極入道中納言/定家、千首をよみて送る人の返事/にかけるごとく、「哥はかならず千首/万首をよむにもよらず。その/みちを心得てよむ人は、十首廿首/よりみゆべし。さればこれほどの/心ざしならば、哥のやうを問聞て/ぞ讀べき」といへる、肝要なる/べし。
下ざまの好事の中に、不審/をいだし才学をたつる人も、/「久方の空」とは何とていふぞ、「あら/かねのつち」とはいかなる心にいひ/そめたぞ、など言ふ事をのみ問たる/を、いみじきこととせり。是もまことに/あるべき事なれど、かやうの事/はたださとしるばかりにて、おほき/なる得分なし。哥はいかなる物ぞ、/いかにとむきて、いかにとよむべきぞ、/よしとはいかなるをいひ、あしとはいか/なるをしるべきぞ、昔今のかはれ/るはいづくかかはれるぞとも、いか/にして人のさかしをろかなるをも/しり、われも人となりすんべきなどは、/まづはじめの一重なる不審にも/せられぬべきを、さはみなむかは/ずして、入られぬ道よりいらむと/し、|をよばれぬかたよりむかしにも/をよばんなどのみする輩、我くら/きままに、人の心のかやうに問をも/そねみ、あらぬかたへのみいひなす也。/
古哥を多くおぼえ、家々の抄物/をみるばかりによりて、哥の能よ/まれば、末代の人ぞ次第に見て/はかしこくあるべき。されど人丸・赤人/をはじめとして、われとまことあ/るところにて、だれをまなび、だれ/を本とせざりしかど、是に|をよ/ばぬをはづる事は、古賢一同の/事也。いにしへにたちならばんと思/はば、古におとらぬところは、いづく/よりいかにぞすべきぞと、かなはぬま/でも、これこそ委大事にてもあ/るに、ただ姿詞のうはべをまな/びて立ならびたる心地せんは、叶/侍なんや。古人はわれと心ざしを/のぶ。これはそれをまなばんとする/心なれば、おほきにかはれる也。
(四)京極/入道中納言、「寛平以往の哥にたち/ならばんと(頁014行009~頁017)
京極/入道中納言、「寛平以往の哥にたち/ならばんとよめるは、物の心さとりし/らぬ人は、あたらしき事出きて、哥/のみちあたらしくなりにたりと/いふなるべし」といへり。まことにその/理ふかきにこそ。されば鎌倉右府/将軍に哥のみちをさづけ申/にも、寛平以往の哥にたちなら/ばむと讀べきよしを申。年号の/中に寛平にさす心は、光仁天皇/御宇、参議藤原濱成和哥式を/つくり、寛平の御時、孫姫・喜撰カ/サネテ式ヲツクリ、哥ノ病をさだ/め、同事ふたたびはよむまじき/事になり、心もをこらぬ輩も、題と/いふ事さかりに成て、折句・沓冠な/どまでも人の能にしてよむ/すがたの、寛平よりさかりになれり。/これをくたして寛平以往とは/云也。古今にも假名・真名序とも/に哥やうやうくだれることをいへり。/万葉の比は、心のおこる所のままに、/同事ふたたびいはるるをもはば/かはば/からず、褻晴もなく、哥詞、ただの/こと葉ともいはず、心のおこるに/随て、ほしきままに云出せり。心自/性をつかひ、うちに動心を外に/あらはすにたくみにして、心も/詞も躰も性も優にいきをひ/も、をしなべてあらぬ事なるゆへ/に、たかくもふかくもをもくもある也。/
(五)是にたちならばんとむかへる人々の(頁018~頁025行006)
是にたちならばんとむかへる人々の、/心をさきとして詞をほしきまま/にする時、同事をもよみ、先達の/よまぬ詞をもはばかる所なくよめる/事は、入道皇太后宮大夫俊成、京極/入道中納言、西行、慈鎭和尚などま/で、殊おほし。
されば五條入道が、/
「おもへばゆめぞあはれなるうき世ば/かりのまどひとおもへば」/
ともよみ、「こよみをまきかへして/猶春と思はばや」とも「ほたさしあは/せて」などのたぐひ多し。同事ふ/たたびあるも、人によりて晴の/哥合にも難ぜず。
慈鎭和尚の、百/首ながら勅撰に入程の哥を読/て日吉社にこめんとてよまれたる/にも、初五字に「まひる人の」とも「らち/の外なる人のこころ」ともよまれ/たる、風情のみにてあれど、後鳥羽/院皆御合點ありて、おさまれり。/
新古今にもかやうの沙汰までいで/きたるしるしに、古人の哥ならで、/當世の人の中によみたりとも、よ/からむをば、わざと入るべきよし、被/仰下て、あまた入うち、家隆卿、/
「あふとみてことぞともなくあけにけり/はかなの夢のわすれがたみや」/
「なし」と云事二所あれど、のせらる。/
京極中納言入道哥にも、このすがたも/同事よめれど、我心にあふ哥をば、/百首十首の中にもそればかり/をおぼえ、心にあはぬ哥をば、古人の/哥なればそしりはせねどみすて/て、「その人の哥躰はかくこそあれ」と/ばかりいふも、皆その程みゆる事/なり。
されば右府将軍は「山はさけ/海はあせなむ」とも「市にたつたみ/もわがおもふ人をうるときかなく/に」など風情の哥も多こそ侍れ。/
入道民部卿も、/
「をのづからそめぬこの葉をふきまぜて/いろいろにゆく木がらしのかぜ」/
とよみたるをば、人々、「木の字二あり。/三句を『そめぬした葉』とは、など侍ら/ぬぞ」と申けるにも、まことにした葉/といひては、そめのこす心も思入/たるさまにて、病をもされば、かたがた/そのいはれある方は侍れども、風/にしたがひてとをる木の葉に向き/ては、下葉やらん、上葉やらん、げには/しらず、ただ木のはとこそみゆれ、下/葉といへば哥の躰、くだくるなり、/たださてあるべきよし、申て、病に/ては侍也。又その心にはおちゐずして、/うはべばかりをまなびて、わざと先/達の讀ぬ詞をよみ、同事をも/よまんは、返々無其詮。
いまやうの/御沙汰につきて、ふるき躰も心得/おほせぬともがらもわづかにまなび/讀事あれば、是をあなぐりもと/めて事をいひそへ。又あらぬ句を/とりかへ、さまざまの事をつくり出て、/披露するたぐひ聞ゆる。実任侍/従が哥に/「のきのすゞめのすにかよふこゑ」と/よみたりけるとかや。これをも當/時の躰に被賞翫哥とて、「なげしの/うへにすゞめすくへり」とかやなして/披露する人あるよし、聞ゆ。返々/似無其詮歟。大かたは、雀、貫之も/題に出し、京極中納言入道も/よめり。鴬にもふるすともよむ、/なにかくるしからむ、この拾遺、/此風躰の御沙汰を委承てよむ/にもあらねば、いかにもあれなん/ど、か様のたぐひ多し。
(六)ただ明恵/上人の遣心和哥集序にかかれ/たるやうに(頁025行006~頁028行009)
ただ明恵/上人の遣心和哥集序にかかれ/たるやうに、「すくは心のすくなり、/いまだ必しも詞によらじ。やさ/しきは心やさしき也。なんぞさだ/めて姿にしもあらむ」とて、心に思/事はそのままによまれたれば、/世のつねのにおもしろきもあり、/さまあしきほどの詞どもも、『万葉/集』のごとくよまれたれど、心/のむけやう、さらによもかはる/所侍じ。いまもその風躰を約束/しさだめてこのみよみ、入ほがに/さたごともなし。
花にても月に/ても夜のあけ日のくるるけしき/にても、う事にむきてはその/事になりかへり、そのまことを/あらはし、其ありさまをおもひ/とめ、それにむきてわがこころの/はたらくやうをも、心にふかく/あづけて、心に詞をまする/に、有興おもしろき事、色をの/みそふるはこころをやるばかりなる/は、人のいろひ、あながちに憎むべ/きにもあらぬ事也。こと葉にて心を/よまむとすると、心のままに詞の/匂ひゆくとは、かはれる所あるに/こそ。何事にてもあれ、其事に/のぞまば、それになりかへりて、/さまたげまじはる事なくて、/内外ととのほりて成ずる事、/義にてなすとも、その氣味にな/りいりて成と、はるかにかはる事/也。
(七)是をもととして古哥にも(頁028行009~頁031行005)
是をもととして古哥にも/なうなうのやうなる事も、又「かり/そめにうき世の中を思ぬるかな」と/いはるるに「しら露のをくての山/田」ともむすびぐするは、又それに/さる事、人の氣によりて、昨日は/わろしといふこと、今日はよしといひ、/一人にながくよむまじきよしいひ/て、又他人にはよしといふ事も/あり。京極中納言入道新作して、/和哥所にていまはとどめらる/べきよし、沙汰ありしこと葉ど/もも、よろづの人まことにはおちゐ/ずしてこのむをにくみていへる/こと、人によりてみゆるすも、先例/もあり、子細もある事也。
大かた/は、天象地儀はその字を慥よ/め、こと葉の字はまして心をよめ、/結題はかみしもにその心を分/てよみいれよ、詞は三代集の中/にてたづぬべくともをしへふ/か入たる人にむけては、又か/はる事多し。それみなその謂/ふかくして、ただかくいひをかむと/ばかり、先賢の所為・古人の詠哥、/みな、わがおもふかたの色をそへ、/得分にもなりまさり行事にや。/
(八)哥といふ物をべちにをきて(頁031行006~頁036行002)
哥といふ物をべちにをきて、其心/を見、沙汰する人と、まことに哥/の心をみるとは、かはること。花の下/のともがら風情の好事がさた/する心は、上句に「旅衣」といひたる/に、「日数かさねて」とも「又たちかへる」/ともいへるは心ありとさだめ、いた/く衣の才学くはしくせで旅の嵐・/夜半のつゆにしほるる衣のあり/さまにつけても「ふる郷の恋しき」/などいひなせるばかりはよはし、/などさだむるも、かならずしも/さのみあるまじき事にや。
可然/人々あつまれる会に、雲客、/
「あさかやまかげさへみゆる山のゐの/あさくは人をおもふものかは」/
といへる哥をいひ出でて、哥の父母と/いふほどの哥、いたづら詞はよもあらじ/とおもふに、「かげみゆる山井」にて/は心えられ侍を、「さへ」の詞、いかにも/いひおさめたるにか、おぼつかなき/よし、申けるに、面々才学の人々、/「まことにかく云時はおぼつかなし」/にてはてけるも、かのうねめ、この/哥をよめる心、何ゆへにおこりて、/いかにとよまるべき所よりいでき/たるぞと、源にもとづき見ずして、/山井といへばそれにむきてよめる/やうに心えて、不審ひらけぬ/にや。人の妻にて人にみゆべき/みにもあらねど、まうけをろ/そかなるとてとがむれば、おとこ/のいふにしたがひて、かのおほきみ/すかさむとて出たる身なれば、/かはらけとりても、この人をす/かさむと思心にて、みゆべくもな/きわがかげをさへ見えたてまつ/るは、あさくは思はぬぞといふに/よりきたる山井なれば、ことぐ/さにとりよせたるにてこそ侍を、/やがて山井といへばとて、この「さへ」/を山の井のぬしになして見ば、/まことにおぼつかなし。わがかげに/なしてみれば、おぼつかなき事/なし。かやうの事をだにみわかず/して、おもひ見たらむは、かくのみぞ/あるべき。
(九)中納言入道申けるやうに(頁036行002~頁039)
中納言入道申けるやうに/「上陽人をも題にて詩をもつくり/哥をもよまば、その才学をのみ/もとめてつづけてよむうちにも/よしあしおほけれど、ひとつわの/うちなり。又それよりは心に入て、さは/ありつらむと思やりてよめるは、/あはれもまさり、古哥の躰にも/似也。猶ふかくなりては、やがて/上陽人になりたる心ちして、なく/なくふるさとをもこひしう思、/雨をもききあかし、あさゆふに/つけてたへしのぶべき心ちもせざら/む所をも、能々なりかへりてみて、/其心よりよまん哥こそ、あはれも/ふかくとをり、うちみるまことにこた/へたる所も侍べけれ」といふに委心/をかし。されば恋の哥をばひきか/づきて、人の心にかはりても、なくなく/その心を思やりてよみけるとぞ。/とも、おもしろきやうなるはあれ/ど、いかにぞいふのそひ、いきおひの/ふかき事はなくて、古哥にかはれ/る事也。/
されば紫式部もいへる/やうに、「いでやさまで心はへしろ(虫損)/のよまるるなめり、はづかしげの/哥よみやとは見えず。まことの/哥よみにこそ侍らざめれ」など/いへるにこそ。




