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歴史の中のこころ派の歴史。

 産声を上げたこころ派つまりは京極派がやがて消え去っていくまでの流れを押さえておこうかと。


 岩佐美代子女史の手になる『京極派歌人の研究〈改訂新装版〉』(笠間書院・二〇〇七年発行)を舐めるように拝読した上で、自分なりの調整を加えつつ、書かせていただきました。

揺籃期ようらんき【1280年(弘安こうあん3年7月6日)~1287年(弘安こうあん10年10月21日)】

 ◇世界史的には、シチリアの晩祷ばんとう事件(1282年3月30日)の頃。

 ◇日本史的には、弘安の役(1282年)の頃。


 ◇京極派的には、京極為兼初出仕から伏見ふしみ天皇(第92代)の践祚まで。

 要は伏見天皇の東宮時代(ただし為兼出仕後に限る)。

 この時の「親王と愉快な仲間たち」こそが、のちの「こころ派=京極派」。


 見るべき歌人は絶対的指導者である京極為兼きょうごくためかねを筆頭に、みなもとの具顕ともあき(夭逝)・西園寺さいおんじ実兼さねかね(のちに決別)・世尊寺せそんじ定成さだなり(藤原行成を祖とする書道の流派)の側近四天王(今決めた!)。


 詳しくは『春のみやまぢ』(飛鳥井雅有あすかいまさありの日記)・『弘安源氏論議』(『源氏物語』の注釈書。著者は源具顕)・『中務内侍なかつかさのないし日記』(伏見院中務内侍ふしみのいんなかつかさのないし藤原経子ふじわらのつねこの日記)・「弘安八年四月歌合」(京極派歌合)などを参照されたし。

 我らが『為兼卿和歌抄ためかねきょうわかしょう』の成立もこの頃とされている。




◆前期【1287年(弘安こうあん10年10月21日)~1333年(元弘げんこう3年5月17日)】

 ◇世界史的には、アッコの陥落(1291年)、原初同盟成立(1291年)、マジャパヒト王国建国(1294年)、オスマン帝国成立(1299年)、フランス三部会起こる(1302年)、アナーニ事件(1303年)、オゴタイ・ハン国滅亡(1306年)、キプチャク・ハン国全盛時代に入る(1312年)、モルガルテンの戦い(1315年)、ヴァロワ朝創設(1328年)の頃。

 ◇日本史的には、鎮西探題設置(1293年)、永仁の徳政令(1297年)、後醍醐天皇(第96代)即位(1318年)、正中の変(1324年)、元弘の乱(1333年)の頃。


 ◇京極派的には、伏見天皇(第92代)の践祚せんそから、光厳こうごん天皇(北朝初代)の廃位まで。

 久明親王(第8代)の将軍就任から解任(1289~1308年)、後伏見ごふしみ天皇(第93代)の践祚から退位(1298~1301)、花園はなぞの天皇(第95代)の践祚から退位(1308~1318)もこの時期。

 絶対的指導者である京極為兼と絶対的庇護者である伏見天皇という京極派二大巨頭が君臨し、持明院統じみょういんとうサロン=伏見院サロン=京極派サロンとなった。


 見るべき歌人は勿論、京極派二大巨頭を筆頭に、残りの揺籃期四天王、伏見天皇家に連なる皇族歌人たち(弟で鎌倉幕府8代将軍の久明親王、中宮である永福門院えいふくもんいん、第一皇子の後伏見天皇など)、指導者為兼の血縁者(姉の為子ためこが特に有名)、伏見天皇に仕える廷臣に女官に女房たち、永福門院に仕える女官に女房たち。


 詳しくは『権大納言典侍集ごんだいなごんのすけしゅう』(北畠親子の家集)・『兼行集』(藤原兼行の家集)・『藤大納言典侍集とうだいなごんのすけしゅう』(京極為子の家集)、「(永仁五年)十五夜歌合」(京極派最初の歌合せ)、「(乾元二年)為兼卿家歌合」、『玉葉和歌集』などを参照されたし。



▼模索期【1287年(弘安こうあん10年10月21日)~1298年(永仁えいにん6年7月22日)】

 伏見天皇(第92代)の践祚せんそから退位まで。

 この間に為兼の佐渡配流(永仁6年3月16日)も!


 我らが『為兼卿和歌集』の主張をいかにして体現するかを文字通り模索していた時期と思われる。



▼雌伏期【1298年(永仁えいにん6年7月22日)~1302年(乾元けんげん1年閏4月)】

 伏見天皇の退位から為兼の赦免帰洛まで。

 前期京極派どん底期。


 前期京極派サロンである伏見院サロン、持明院統サロンの結束が強化された。



▼開花期【1302年(乾元1年閏4月)~1317年(文保ぶんぽ1年9月3日)】

 為兼の赦免帰洛から伏見院崩御まで。

 前期京極派の歌風が確立し、最も作歌活動が熱かった時期。

 この間に為兼の土佐配流(1316年(正和5年1月12日))も!


 為兼が一人で撰んだことで知られる、京極派の第一勅撰和歌集『玉葉和歌集』(ただし全体では14番目)奏覧もこの時期。

 西園寺さいおんじ実兼さねかねと決別もこの時期(後半)。



▼模索期【1317年(文保ぶんぽ1年9月3日)~1333年(元弘げんこう3年5月17日)】

 伏見院崩御から光厳天皇廃位まで。

 為兼薨去(1332年(元弘2年3月21日)もこの時期!


 前期の二大巨頭(伏見院&為兼)を相次いで失ったことで、京極派の存続を模索せざるを得なくなった時期。新たな指導者と庇護者探しが急務となった。




◆後期【1333年(元弘げんこう3年5月17日)~1352年(観応かんおう3年6月)】

 ◇世界史的には、百年戦争開始(1337年)、クレシーの戦い(1346年)、黒死病ペスト流行(1347年)、紅巾の乱(1351年)の頃。

 ◇日本史的には、鎌倉幕府滅亡(1333年)、建武の新政(1334年)、中先代なかせんだいの乱(1335年)、湊川みなとがわの戦い(1336年)、室町幕府成立(1338年)、四條畷しじょうなわての戦い(1348年)、観応かんおう擾乱じょうらん(1349年~1352年)の頃。


 ◇京極派的には、光厳天皇(北朝初代)廃位から後光厳天皇即位(北朝4代)まで。

 光明こうみょう天皇(北朝第2代)の践祚から退位(1336~1348)、崇光すこう天皇(北朝第3代)の践祚から退位(1348~1351年)もこの時期。

 前期二大巨頭亡き後、持明院統じみょういんとうの家長的立場にあった永福門院が指導者兼庇護者として花園・光厳両院を鍛え上げ、後期京極派をまとめ上げた。


 見るべき歌人は家長兼指導者兼庇護者として八面六臂の大活躍である永福門院を筆頭に、親族である皇族歌人たち(花園院(伏見天皇第四皇子)、光厳院(後伏見天皇第三皇子)、光明院(後伏見天皇第九皇子)、進子内親王など)、永福門院に仕える女官に女房たち、持明院統じみょういんとうの廷臣に女官たち、為兼の幻の後継者たち(正親町公蔭おおぎまちきんかげ藤原為基ふじわらのためもとなど)。


 詳しくは『風雅和歌集』『永福門院百番御自歌合』『花園天皇宸記』『竹むきが記』などを参照されたし。



▼雌伏期【1333年(元弘げんこう3年5月17日)~1339年(暦応りゃくおう2年6月27日)】

 光厳天皇廃位から光厳院三席御会始ごかいはじめ(=歌会始)まで。

 後期京極派どん底期。


 前期二大巨頭を失った京極派が最も苦しんだ時期。

 新指導者兼庇護者として永福門院が立ち、後期京極派サロンである花園・光厳両院サロン、持明院統じみょういんとうサロンの結束が強化された。



▼開花期【1339年(暦応2年6月27日)~1352年(観応かんおう3年6月)】

 光厳院三席御会始から後光厳天皇即位まで。

 永福門院崩御(1342年(康永こうえい1年5月7日))もこの時期!

 花園院崩御(1348年(貞和じょうわ4年11月11日))もこの時期!

 後期京極派の歌風が確立し、作歌活動が熱かった時期。


 花園院下命・光厳院親撰で知られる、京極派の第二勅撰和歌集『風雅和歌集』(ただし全体では17番目)竟宴きょうえんもこの時期。

 京極派の庇護者であると同時に指導者でもあった光厳院以下、光明院・崇光院(光厳天皇第一皇子)・直仁親王(花園天皇第三皇子かつ光厳天皇第二皇子)が南朝(大覚寺統)に拉致幽閉(観応かんおう擾乱じょうらん)された上、その間に即位していた持明院統のはずの後光厳天皇(北朝第4代。光厳天皇第二または第三皇子)が二条派の支持に回ってしまったことで、庇護者と指導者に加えて後継者まで失った京極派歌壇は唐突に空中分解して打ち切られた格好となった。



◆残照期【1352年(観応かんおう3年6月)~1371年(応安おうあん4年)】

 ◇世界史的には、ポワティエの戦い(1356年)、ジャックリーの乱(1358年)、北元成立(1368年)、明建国(1368年)、ティムール帝国成立(1370年)の頃。

 ◇日本史的には、観応の擾乱(1350年~1352年)、足利義満(第3代)室町幕府将軍就任(1368年)の頃。


 ◇京極派的には、後光厳天皇即位から仙洞せんとう歌合まで。

 光明上皇帰京(1355年)、光厳院ならびに直仁親王帰京(1357年2月)もこの時期。

 光厳院崩御(1364年(貞治じょうじ3年7月7日)もこの時期!


 見るべき歌人は祟光すこう天皇(北朝第3代。光厳院第一皇子)以下、後期からの生存歌人たち。


 詳しくは「仙洞歌合」などを参照されたし。

◆再評価期【1906年(明治39年)~】

 藤岡作太郎の東大での鎌倉室町時代の文学史に関する講義の開始以降。

 京極家と『玉葉集』について特に取り上げており、京極派見直しのきっかけとなったと言える。


◆復権期【1926年(大正15年)~】

 土岐善麿編集による『作者別万葉以後』発行から今日まで。

 為兼・伏見院・永福門院の京極派三大巨頭が収録され、巻末では折口信夫が京極派を激賞したことで、京極派の復権は可能となったと言える。


 詳しくは、藤岡作太郎の講義集である『鎌倉室町時代文学史』のうち「第二期 鎌倉時代」(第三章・第四章)、『作者別万葉以後』の解説である「短歌本質成立の時代 万葉集以後の歌風の見わたし」(折口信夫)、『中世歌壇史の研究 南北朝期』(井上宗雄)などを参照されたし。

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