『玉勝間』の中の為兼。
【作品名】『玉勝間』
【成立時期】江戸時代後期(一七九五~一八一二年に順次刊行・為兼没後四百六十三年~四百八十年)
【筆者】本居宣長
【ジャンル】随筆
【内容】長短不ぞろいの一〇〇五編からなるエッセー集。
四の巻「為兼卿の歌の事」
六條ノ内大臣有房公の野守の鏡の序に云ク、此ごろ為兼ノ卿といへる人、先祖代々の風をそむき、累世家々の義をやぶりて、よめる歌ども、すべてやまと言の葉にもあらず、と申侍しかど、かの卿は、和歌のうら風、たえず傳はりたる家にて侍れば、さだめてやうこそあらめ、と思ひ侍しほどに、くはしくとふ事もなくてやみにき、今又これをうれへ給へるにこそ、まことのあやまりとは思ひしり侍ぬれといふにかの僧あざわらひて、堯舜の子、柳下惠がおとゝ、皆おろかなりしうへは其家なればとて、かならずしもかしこかるべきにあらず、又佛すでに、わが法をば、我弟子うしなふべしとて、獅子の身の中の蟲の、獅子をはむにたとへさせ給へり、そのむねにたがはず、内外の法みな、其道をつたふる人、其義をあやまるより、すたれゆく事にて侍れば、歌の道も、歌の家よりうせむ事、力なきことにて侍る、かの卿は、御門の御めぐみ深き人にて侍るなるに、これをそしりて、みつしほのからき罪に申シしづめられん事も、よしなかるべきわざにて侍れば、くはしく其あやまりを申しがたし、たゞこの略頌にて心得給へ、それ歌は、心をたねとして、心をたねとせず、心すなほにして、心すなほにせず、ことばをはなれて、ことばをはなれず、風情をもとめて、風情をもとめず、姿をならひて、すがたをならはず、古風をうつして、古風をうつさざる事にてなん侍る、と申すに云々、
*
六条の内大臣有房公が『野守鏡』の序に言うことには、「最近(藤原)為兼卿と呼ばれている人(が)、(歌人としては俊忠を祖とする藤原北家御子左流の)先祖代々の(歌)風に背き、代々家々(に伝わってきた歌)の教義を破って詠んだ多くの歌(は)、すべて(由緒正しい)和歌になっていない」と申していましたけれども、かの(為兼)卿は、和歌の浦に吹き続ける風(のように和歌の歌風が)、絶えず伝わっている家でありますから、きっと訳があるのだろう、と思っていましたうちに、詳しく尋ねることもなくてやめてしまった。今またこれ(=為兼卿の歌風)を非難なさるので、(彼の歌風は)本当に誤っていると思い知りましたと言うとかの僧(は)大声で笑って、「(中国の聖天子と名高い)堯・舜の子(や)、(魯の賢人と名高かった)柳下惠の弟(が)、皆愚かであったからには(歌道の先祖代々の名家として知られる)その家(の出身)であるからといって、必ずしも賢いに違いないということはなく、また釈迦(さえも)既に、『私の仏法を、私の弟子が衰えさせるに違いない』と言って、獅子の身の中の虫が、(寄生している)獅子を食らうのにおたとえになっている。その趣旨に逆らわず、仏教・儒教の道理(も)皆、その道を伝える人(が)、その教義を誤ることによって廃れていくことですので、歌の道も、歌の家から失われるようなこと(は)、(食い止める)方法のないことです。かの(為兼)卿は、伏見院のご寵愛の深い人ですので、この人をけなして、満潮が塩辛いようにつらく苦しい罪に落ちぶれさせられ申し上げられるようなことも、つまらぬであろう行為ですので、詳しくその欠点を申し上げにくい、ただこの簡単な誉め言葉でもってご承知ください。『そもそも歌は、思想を根元としても、そればかりでは歌は作れず、思想(を)正直に表現しても、そればかりでは歌は作れず、言葉の使い方にとらわれなくても、そればかりでは歌は作れず、風情を求めても、そればかりでは歌は作れず、歌の形を(古歌に)学んでも、そればかりでは歌は作れず、古い歌風を真似ても、そればかりでは歌は作れない(から昔に囚われない為兼の歌は独自の新しさを表現した)ということです』」と申すとか何とかかんとか。
本居宣長という呪縛、色眼鏡から脱却するには、藤岡作太郎(一八七〇~一九一〇)の登場を待たざるを得ず、それには本居宣長の死後百年余りの歳月が必要だったのでございます。
近代以降の藤岡作太郎や土岐善麿に関する資料は翻訳不要だろうということで、資料篇はここまで、本作も一旦ここまでとさせていただきます。
初回投稿から三年、ここまでお付き合いいただきまして、ありがとうございました。




