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『排蘆小船』の中の為兼。

【作品名】『排蘆小船(あしわけをぶね)

【成立時期】不明。江戸時代後期(一七五二年~一七五六年頃の成立説あり。為兼没後四百二十年~四百二十四年頃か)

【筆者】本居宣長(もとおりのりなが)

【ジャンル】随想集

【内容】問答形式の六十六段を雑多に論じたもの。

〔五七〕近代の歌

 (前略)まづ近代の先達の教へに、「玉葉、風雅などの風体を嫌ひて、正風体(しゃうふうたい)を学べ」と教へらるるなり。(中略)これはもと、玉葉、風雅の悪風を改めて、頓阿(とんあ)と云ふ人正風を詠み、かの悪風を大いに戒められたるより伝はる教へなり。(後略)


 *


 (前略)まず(江戸時代中期の歌論の聞書『詞林拾葉(しりんしゅうよう)』などのような)近代の先輩の教えに、「『玉葉和歌集』『風雅和歌集』などの(歌のさまを意味する)風体を嫌って、(和歌の伝統的で正しく雅びな歌のさまを意味する)正風体(しょうふうたい)を学べ」と教えられるからである。(中略)これはもと、『玉葉和歌集』『風雅和歌集』の(悪しき歌のさまを意味する)悪風を改めて、頓阿という人が正風体(の歌)を詠み、かの悪風をおおいに戒められたことから伝わる教えである。(後略)



〔五九〕歴代変化

 (前略)さて新古今はこの道の至極せる処にて、この上なし。(中略)この集の風に似たるほどよき歌なり。さてその新古今に似たるを詠まむとする学問に、新古今をひたすらみるは()しし。新古今に似せんとして、この集を羨むときは、玉葉、風雅の風に落つるなり。(後略)

 さて為家の子に至りて、二条、冷泉二家に分かる。それよりしてたがいに家筋を争ひて、二条家、冷泉家とて世にいひ騒ぐ。(中略)しかるに為兼卿と云ふ人、冷泉家より出でて別に一家をなして、この道に名高し。この人の歌ははなはだ異風にして、風体()しし。(中略)伏見院、後伏見院、花園院、この御一流は為兼の御風なり。よって伏見院為兼に仰せて、玉葉集を撰ばしむ。さて又花園院みづから風雅集を撰びたまふ。この二集は伏見院御流、為兼の風にて、甚だ風体悪しし。凡そこの道古今を通じてみるにこの二集ほど風体の悪しきはなし。かりそめにも学ぶことなかれ。さてその頃、この風体もはら行はれたるなり。されど二条家の人々はなほ正風を失はず。(中略)後光厳院は伏見院の皇統にて、御歌もその御風なりしを、二条関白良基公異風の由たびたび申し沙汰したまひて、二条家の正風を勧め奉りたまひしによりて、風体をさとりたまひ、それより伏見院の御風を捨てたまひ、二条家の正風になりたまへり。(後略)

 さて後光厳帝正風体に帰したまひて後、二条家の為明に仰せて新拾遺を集めしめたまふ処に、半ばにして為明身まかりたまひければ、頓阿に仰せてその功を終へしむ。これよりしてかの為兼の異風廃れて、天下一同に上下ともに正風に返れり。よってこの時を二条家の歌道中興といふなり(後略)。

 (前略)昔の人はただ己が力の分を守りて、至らぬ処を強ひて詠まむとはせざりしなり。為家を始めとしてその比の人々、新古今の比の歌仙達に及ばず。されど無理にそれを詠まむとはせず。己が力の分量限りに、風体を正しく詠みてゐられしなり。頓阿もその定なり。故にこれらの人々風体悪しからず。己が分に過ぎざる故なり。

 しかるに為兼などは、それを口惜しう思ひて人に勝らんとする時に、これ又新古今の比の人には力の及ばぬ故に、一風変へて珍らかに詠まんと思ふより、あられぬ風体になりて、悪風の手本になりたるものなり。これ全く己が分を守らずして、ならぬことをしひて願へる故なり。(後略)


 *


 (前略)さて『新古今和歌集』はこの(和歌の)道の最上のところであって、このうえない。(中略)この集の風体に似ているだけが良い歌である。さてその『新古今和歌集』に似ている(歌)を詠もうとする学問(をするの)に、『新古今和歌集』(そのもの)をひたすら見るのは悪手である。『新古今和歌集」に似せようとして、この集を羨むときは、『玉葉和歌集』や『風雅和歌集』の(悪しき)風体に落ちてしまうのである。(後略)

 そうして(藤原)為家の子(の代)に至って、二条家と冷泉家の二家に分かれた。(中略)(京極)為兼卿という人(が)、冷泉家より出て別に(京極家という)一家を構えて、この(歌の)道に名高い。この人の歌はひどく異風であり、歌のさまが悪い。(中略)伏見院、後伏見院、花園院(といった持明院統の方々)、この御一流は為兼の御風体である。よって伏見院(は)為兼に仰せになって、『玉葉和歌集』を撰ばせた。そうしてまた花園院(は)みずから『風雅和歌集』をお撰びになった。この二集は伏見院(の)御流派(であり)、為兼の風体であって、はなはだ風体が悪い。およそこの(歌の)道(について)古今を通じてみてもこの二集ほど風体が悪いものはない。決して学んではいけない。さてその当時、(持明院統でだけは)この風体(の歌が)もっぱら詠まれたのである。けれども(大覚寺統を牛耳っていた)二条家の人々はなお正風体を失わなかった。(中略)後光厳院は伏見院の皇統であって、御歌もその御風であったが、二条関白良基公(が)異風である由(を)たびたび申し上げて論議なさって、二条家の正風体をお勧め申し上げなさったことによって、風体を改めなさり、それからは伏見院の御風体をお捨てになり、二条家の正風体になられたのである。(後略)

 さて後光厳帝(が)正風体に改めなさった後、二条家の為明に仰せになって『新拾遺和歌集』を撰ばせなさったところに、(事業の)半ばにして為明(が)お亡くなりになったので、頓阿に仰せなさってその功を終えさせる。これ以降かの為兼の異風(は)廃れて、天下一同に上下ともに正風に返ったのだった(しかし『新拾遺和歌集』に為兼は八首入集している)。よってこの時を二条家の歌道中興というのである(後略)。

 (前略)昔の人はただ自分の力の身の程を守って、及ばない部分を無理に詠もうとはしなかったのである。(実際、)為家を始めとしてその頃の人々(は)、『新古今和歌集』の頃の歌仙達には及ばない。そうではあるが無理にそれを詠もうとはしない。自分の力の分量の範囲で、風体を正しく詠んでいらっしゃったのである。頓阿もその範囲である。だからこれらの人々(は)風体(が)悪くない。自分の身の程を超えないからである。

 ところが為兼などは、それを不満に思って人に勝ろうとする時に、これまた『新古今和歌集』の頃の人には力の及ばないために、一風変えて珍しく詠もうと思って以来、とんでもない風体になって、悪風の手本になってしまったものである。これ(は)全く自分の身の程を守らないで、できないことを無理に願ったからである。(後略)

新古今和歌集至上主義者で定家信奉者(ふと強火定家担同担拒否とか言ってみたくなる今日この頃)の本居宣長の手にかかれば、京極派は新古今和歌集を真似ようとして失敗した人達もしくは張り合おうとして失敗した人達ということになるようですよ。


そりゃあ新風は受け入れられないはずですね。


それより何よりいくら為兼が歴史的に「叩いていい人」扱いを受けてきたとはいえ、宣長による誤認もしくは意図的な歪曲が散りばめられていて、ツッコミどころ満載なのが気になります。二条派よりも京極派の方が優勢だった瞬間なんて一瞬もないのに、そんなに「迫害されながらも決して信じる風体を捨てなかった」だとか「最後に正義は勝つのだ」だとかいったドラマチックな演出が必要なんでしょうかねえ。

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