『梨本集』の中の為兼。
【作品名】『梨本集』
【成立時期】江戸時代前期(一六九八年成立、一七〇〇年刊行。為兼没後三百六十六年)
【筆者】戸田茂睡
【ジャンル】歌学書
【内容】和歌の表現には一切の制限を設けるべきではないという立場から、和歌の表現の幅を狭める「制禁の詞」の撤廃を主張し、中世以来の因襲的な伝統歌学(として特に二条派)を批判したもの。
序
(前略)
惣じてのこと、六条家の説をば、二条家より言ひ傷りて用ひず、二条家をば冷泉家よりそしり、その後には、為世卿の門弟、為兼卿の門弟、為相卿の門弟、その家々を立てんとて、他をそしり、我いぢましに利口を立つるより、色々の僻言のできたり。
(後略)
*
序
(前略)
一般的なことに、(歌の家の一つである)六条家の(歌の)説を、(まず)二条家(の方)から中傷して聞き入れず、(その)二条家を(今度は)冷泉家(の方)からけなし、その後には、(二条)為世卿の門弟、(京極)為兼卿の門弟、(冷泉)為相卿の門弟(がそれぞれ)、その家々(の名)を広く知らせようとして、他(の家)をけなし、自分(の流派)ばかり意地汚く口達者ぶろうとしたところから、様々な間違った言葉が出てきたのだった。
(後略)
第二 終わりに言ふまじきといふ詞
(前略)
一、遠山の松
浮雲の秋より冬にかかるまで時雨すさめる遠山の松 後西園寺入道太政大臣
一、夕暮れの山
鳩の鳴く杉の梢の薄霧に秋の日弱き夕暮れの山 花園院一条
この両首、風雅集の歌なり。これを以て考えるにこの詠むべからずといふ詞は大方玉葉風雅両集に多くある詞なり。しからばこの両集の歌の風体、俊成定家為家時代と変はり、新しく詠みかへられたり。今世上にていふは為兼卿の詠みかへられたる風体といへり。右三代宗匠の風体ははや詠み古して、何首詠みても詞の置き所の変はりたると春の歌の心を秋に言ひ、雑歌を恋に言ひ変へるまでにて心にも詞にもめづらしくも面白くもなしとあることにて、玉葉風雅の歌の風に詠み変えられたるなるべし。さる故、持明院方の帝王・摂籙・大臣・女御・内親王までこの風を詠み、色消えて、色暮れて、色さめてなどの詞、薄霧、朝明け、浮き身、彼の人、遠山の松、夕暮れの山、ほのぼの、桜散る、惣じて嫌ひ制する詞なく、歌道広く詠みたるを、二条家の人、為兼の風になりたらばわが家すたり用ゆる人あるまじきと思ひて、同じ元祖の定家を用ゐず捨つることはなるまじきと思ひ、定家卿の名を借り色々のことを作り出し言ひ出したることと聞こえて僻言多し。『僻案集』、『鵜本』、『鷲本』、この頃漸く疑書と言ひ、『百人一首雨中吟』などもこの後には疑書と言ふべし。実作ならざる證據いかほどもあれども、諸人遠慮してその通りに用ゆる故なり。韻字止めは好まぬこととはいへども古歌新歌に多き中に、「遠山の松」、「夕暮れの山」と長々しくこの二つを目録題目に書き出したるは、玉葉風雅をそしり、この風体この集の詞を言ひ消さんためか。
(後略)
*
第二 終わりに言うべきではないという言葉
(前略)
一、遠山の松
浮雲が秋(らしい空)から冬(らしい空)にさしかかるまで激しく時雨が降りつけている遠(方の)山の松(の林であるよ) 西園寺実兼(風雅七二九)
一、夕暮れの山
鳩の鳴く(声が聞こえてくる)杉の梢の(うっすらとかかった)霧に(遮られて、その背後にある)秋の日(射しが)弱い夕暮れの山(であるよ) 花園院一条(風雅六五三)
この二首(はどちらも)、『風雅和歌集』の歌である。これによって考えるにこの「詠むべからず(詠むべきではない)」という言葉は大体『玉葉和歌集』『風雅和歌集』(の)両(方の歌)集に多くある言葉である。それならばこの両(方の歌)集の歌風(は)、俊成・定家・為家(の)時代とは変わり、新しく詠み替えられている。今、世間で言うことには為兼卿によって詠み替えられた歌風であると言っている。先述の(俊成・定家・為家という)三代の唄の師匠の歌風は既に詠み古されていて、何首詠んでも言葉の置き場所が変わっていると(いうことにするために)春の歌の心を秋に(変えて)言い、雑歌を恋に言い換えるまでになっていて、(今の歌風のままではほんのささやかな違いに目を凝らすしかなく、歌の)心にも言葉にも珍しさも面白さもないと(いう意識が)あることなので、(新たな歌風である)『玉葉集』『風雅集』の歌風に詠み変えられているに違いない。それで、持明院方の帝王・摂政・関白・大臣・女御・内親王まで(もが)この(京極派の)歌風を詠み、「色消えて」「色暮れて」「色さめて」などの言葉(や)、「薄霧」「朝明け」「浮き身」「彼の人」「遠山の松」「夕暮れの山」「ほのぼの」「桜散る」など、一般的に嫌がって制止する(ような)言葉はなく、(開けた)歌道(として人々が)広く詠んでいるのを、二条家の人(は)、(世の中が)為兼の歌風になってしまうならば自分の家(が)廃れ(自分の家を)用いる人(も)あるまいと思って、同じ元祖の定家を用いずに捨てることにはなるまいと思い、定家卿の名を借り(て)色々なことを(二条派が勝手に)作り出し言い出していることと噂されていて虚言(が)多い。(藤原定家著などと伝えられている歌学書である)『僻案集』、『鵜本』、『鷲本』(などは)、近頃ようやく偽書(である)と(世の中の人も)言い、(同様に)『百人一首雨中吟』なども今後は偽書と言うべきである。(定家卿が)実際に作成した本ではない(という)証拠(は)どれほどでもあるけれども、多くの人(は)遠慮してその(主張の)通りに(言葉を)用いるからである。体言止めは好まない技法であるとは言っても、(実際の使用例が)古歌新歌に多い中に、(わざわざ)「遠山の松」、「夕暮れの山」と長々しくこの二つ(の言葉)を目録題目に書き出したのは、(京極派の集大成である)『玉葉集』『風雅集』を謗り、この歌風この(和歌)集の言葉を非難そうとしたためか。
(後略)
二条派の権威主義叩きを第一とし、二条派の京極派叩きの手口に言及している珍しい作品。
戸田茂睡(『梨本集』)は松平定信(『花月草紙』歌の評)・北川真顔(『北川真顔編・為兼卿家集』鹿津部真顔とも)とともに、異端と叩かれ続けた京極派(並びに『玉葉和歌集』『風雅和歌集』)に理解を示したという意味で、物好き三羽烏と言っても過言ではないものと思われる。




