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『正徹物語』の中の為兼。

【作品名】『正徹物語』

【成立時期】室町時代(一四四七~一四四八年頃、または一四五〇年頃成立。為兼没後百十五~百五十六年頃、または百二十八年頃)

【筆者】正徹(しょうてつ)

【ジャンル】歌論書

【内容】聞き書き風の歌論書。

【一】

 この道にて定家をなみせん輩は、冥加もあるべからず、罰をかうむるべき事なり。その末流、二条・冷泉両流と別れ、為兼一流とて三つの流れありて、魔醯首羅(まけいしゅら)の三目のごとくなり。たがひに抑揚褒貶(よくようほうへん)あれば、いづれをさみし、いづれをもてなすべき事にもあらざるか。これらの一流は皆わづかに一体を学びえて、おのおのあらそひあへり。全くそのみなまたには目をかくべからず。叶はぬまでも定家の風骨をうらやみ学ぶべしと存じ侍るなり。「それは向上一路といふやうに、凡慮の及ぶ所にあらず」とて、「その末葉の風体を目にかくべきなり」と申す(やから)侍れども、予が存じ侍るは、「上たる道を学んで、中たる道を得る」と申し侍れば、及ばぬまでも無上の所に目をかけてこそ、かなはずは中たる道をも得べけれと存ずるなり。仏法修行も仏果にこそ目をかけて修行すべけれ、「弱々しき三乗道(さんじょうだう)にてさて果てん」とこころざして修行すべきことにはあらざるか。但し、その風体を学ぶとて、てにはこと葉をにせ侍るは、かたはらいたき事なり。いかにもその風骨心づかひをまなぶべきなり。

 八月廿日は定家卿の忌日(きにち)なり。我々幼少の頃は、和歌所(わかどころ)にこの日は(とぶら)ひに歌をよまれしなり。

  明けばまた秋のなかばも過ぎぬべしかたぶく月のをしきのみかは

の一首を一字づつ一首の歌のかしらに置きて詠まれけるなり。この歌にはらりるれのなき故なり。これにて詠まれしなり。


 *


 この(和歌の)道で(藤原)定家を軽んずるような連中には、(和歌の道の神の)加護も当然あるはずがなく、当然罰を受けるはずである。その(定家の)末流は、二条・冷泉と両流に別れ、(それらとは別に)為兼(が京極という)一流ということで三つの流派があって、大自在天の三つの目のようである。(三家は)お互いに上げ下げして褒めたり(けな)したりしているので、いづれか(一流派)を軽蔑したり、いづれか(一流派)をもてはやしたりするべきであるということもないのであろう。これらの流派は皆かろうじて一つの歌の体(だけ)を習得して、(それだけを武器に)互いに争い合っている。全くその(ような)末流には目を向ける必要はない。かなわないまでも定家の(和歌の)作風と精神をそうなりたいと願い学ぶのが良いと考えます。(このような私の意見に対し、)「それは(禅宗で説く、言語・思考の及ばない最上の境地を意味する)『向上の一路』というようなもので、凡人の考えの及ぶところではない」と言って、「その子孫の歌風を目標として見るべきである」と申す連中がおりますけれども、私が考えますには、「最上の道を学ぶことで、(ようやく)中程度の道を得る(ことができる)」と申しますので、(たとえ)及ばないまでも最上のところを目標としてこそ、思い通りにならなくても中程度の道を得ることができると思うのである。仏道の修行でも(修行の成果である)悟りこそを目標として修業すべきであって、「頼りない(悟りに至る途中の)三つの釈迦の教えのままで終わりにしよう」という志で修行するのが適当であるということはないだろう。ただし、(定家の)その歌風を学ぶといっても、てにをは(などの助辞の)言葉を(うわべだけ)似せますのは、みっともないことである。どのようにでもその(定家の和歌の)作風と精神や心の働かせ方を学ぶべきである。

 八月二十日は定家卿の忌日である。我々《が》幼少の頃は、(冷泉家の)和歌所でこの日は追善に(定家に捧げる冠字)和歌が詠まれたものである。

  (夜が)明ければまた秋も半ばを過ぎてしまうに違いない。沈みかける月が惜しいのみだろうか(いやそんなことはない)(定家・新勅撰集・秋上・二六一)

という(定家が詠んだ)一首を(冠字和歌のお題として)、一字ずつ和歌の一文字目に置いて(神仏に捧げる時に行なわれる冠字和歌が)詠まれたのであった。この歌には「らりるれろ」がないから(ラ行のないやまとことばでも和歌が詠めるから)である。これ(=この和歌)で詠まれたのである。



【二七】

 為兼は、もってのほかみめわろき人なり。大内にて女房のありしに、手をとらへて、「今夜」と契り給ひければ、女房の返事に、「御主のかほにてや」といひければ、詞の下にて、

  さればこそよるとは契れ葛城(かづらき)の神も我が身もおなじ心に

とよみ侍る。


 *


 (京極)為兼は、意外なほど見た目の悪い人である。内裏にて女房がいたので、(その)手を取って、「今夜(はどうですか)」と言い寄りなさったところ、(その)女房が返事に、「あなた様の(その)顔でですか」と言ったので、言い終わるか終わらないうちに、

  そうであるから夜に寄るとお約束したのです、(醜さ故に明るい昼間を避けたと名高い)葛城の神も私も同じ気持ちで(おりますので)

 と詠んだのです。



【一九三】

 歌は極信(ごくしん)に詠まば、道はたがふまじきなり。されどもそれはただ勅撰の一体にてこそ侍れ。さしはなれて堪能とはいはれがたきか。これはただ流に分かれしから、か様になりもてきたるなり。為兼は一期の間、つひにただ足をもふまぬ歌を好み詠まれしなり。同じ時に、為世はいかにも極信なる体を詠まれし程に、頓阿・慶運・静弁・兼好などいひし上足(じゃうそく)も、皆家の風をうくる故に、極信の体をのみこの道の至極と任じて詠み侍りしかば、この頃ほひよりも歌損じけるなり。流に分かれざりし以前は、三代ともに何の体をも詠まれけるにや。


 *


 和歌は(逸脱のない実直な詠風を意味する)極信(の歌体)で詠むならば、道に背いて裏切ることはあるまい。しかしそれ(=極信体)は単に勅撰集の一つの歌体でこそあります。(しかし勅撰集から)切り離せば(和歌に)堪能であるとは言われにくいだろう。これは全く(御子左家が三)流に分かれてしまって以来、このようになっていったのである。(京極)為兼は一生涯の間、最期までひたすら足でも踏まないような(奇矯な)歌を好んで詠まれたのであった。同じ時代に、(二条)為世はいかにも極信である歌体を詠まれたので、頓阿・慶運・浄弁・兼好といった(二条派の)特に秀でた弟子も、皆(師である二条派の)家の(歌)風を授かっているために、極信の歌体ばかりをこの(歌の)道の到達点と自任して詠みましたので、この頃から歌(は)駄目になったのである。諸流に分かれていなかった以前は、(俊成・定家・為家の)三代ともにどんな歌体をも詠まれていたではないか。

 二条派は大勢を占めているだけで求心力は既に地に落ちている時代を生きた、冷泉派の流れを汲む定家フリークから見た為兼が垣間見られる作品。


 二条派は王道、京極派は邪道という流れはやはりそのままらしい。

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