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『増鏡』の中の為兼。

【作品名】『増鏡』

【成立時期】南北朝時代(一三三八年~一三五八年の間か。為兼没後六~二十六年の間)

【筆者】著者不明

【ジャンル】歴史物語

【内容】歴史の正確性よりも、優雅な貴族社会を年の順に描くことに力を入れた作品。

【第十 老のなみ】

 又の日は、伏見津(ふしみつ)に出でさせ給ひて、鵜舟(うぶね)御覧じ、白拍子御船に召し入れて、歌うたはせなどせさせ給ふ。二、三日おはしませば、両院の家司(けいし)ども、我劣らじといかめしき事ども調(てう)じて参らせあへる中に、楊桃(やまもも)の二位兼行(かねゆき)桧破子(ひはりご)どもの、心ばせありて仕うまつれるに、雲雀(ひばり)といふ小鳥を荻の枝につけたり。源氏の松風の巻を思へるにやありけん。為兼の朝臣(あそん)を召して、本院「かれはいかゞ見る」と仰せらるれば、「いと心得侍らず」とぞ申しける。誠に、定家の中納言入道書きて侍る源氏の本には、荻とは見え侍らぬとぞ承り給はりし。


 *


【第十 老のなみ】

 また(別)の日(に)は、(淀川の上流にある)伏見津(ふしみつ)にお出かけになって、鵜飼い舟をご覧になり、白拍子(の歌舞を生業とする舞女)を御船に召し入れて、歌を歌わせなどなさる。二、三日滞在なさったので、(後深草院と亀山院の)両院の(院の御所の庶務の担当である)職員たち(は)、自分が劣るまいと盛大なことなどを調達し申し上げ合っているところに、(藤原道綱の子孫であり、後に)二位(の()の位に就いた)楊桃兼行(やまももかねゆき)が、(ひのき)の薄板で作った上等な弁当箱などで、心遣いしてお作り申し上げた弁当箱などに、雲雀(ひばり)という小鳥を荻の枝につけている。『源氏物語』の「松風」の巻を想像したのだろうか。(藤原定家の曾孫である京極)為兼の朝臣をお召しになって、本院(と呼ばれた後深草院が)「あの者はどのように見るか(聞くように)」と(御自身のおそば近くの者に)おっしゃったところ、(聞かれた為兼は)「それほど精通していません」と(本院のおそば近くの方に)申し上げたのだった。そうそう、(為兼の曽祖父である藤原)定家の中納言入道が書写しております『源氏物語』の本には、荻と(いう字は)は見えませんと(いう話を)お聞きなさったとか(ただし現存する定家本には「小鳥しるしばかりひき付けさせたる荻の枝」の記載あり)。





【第十二 浦千鳥】

 院の上、さばかり和歌の道に御名高く、いみじくおはしませば、いかばかりかと思されしかども、正応に撰者どもの事ゆゑ、わづらひどもありて、撰集もなかりしかば、いとど口惜しう思されて、


  我世には集めぬ和歌の浦千鳥むなしき名をやあとに残さむ(新後撰和歌集・雑上・1331番歌)


など詠ませおはしましたりしを、今だにと急ぎたたせ給ひて、為兼の大納言うけたまはりて、万葉よりこなたの歌ども集められき。正和元年三月廿八日奏せらる。玉葉集とぞいふなる。この為兼の大納言は、為氏の大納言の弟に為教の兵衛督といひしが子なり。限りなき院の御おぼえの人にて、かく撰者にも定まりにけり。そねむ人々多かりしかど、さはらんやは。この院の上、好み詠ませ給ふ御歌の姿は、(さき)の藤大納言為世の心地には、変はりてなんありける。御手もいとめでたく、昔の行成(かうぜい)の大納言にも勝り給へるなど、時の人申しけり。やさしうも強うも書かせおはしましけるとかや。


 *


【第十二 浦千鳥】

 (第九十二代天皇である伏見)上皇様(は)、たいそう和歌の道に名高く、はなはだ(和歌がお上手)でございましたので、(和歌集をお作りになれば)どんなにか(立派な勅撰集を編纂したい)とお思いになっておられましたが、正応(六年)に(任命したはずの京極為兼・二条為世といった)撰者たちの(配流といった)事件のせいで、心配など(が)あって、勅撰集(作り)もございませんでしたので、たいそう残念にお思いになって、


  我が治世の間には集めぬ(まま)和歌の浦にいる千鳥(たちのような和歌の数々)よ、(単なる和歌好きに過ぎない帝という)空虚な名を後の世に残すのだろうか。(新後撰和歌集・雑上・1331番歌)


など(と)お詠みになっておられましたが、(院政を執ることになったのでせめて)今からでもと急ぎ思い立たれたので、(京極)為兼大納言はお引き受け申し上げて、『万葉集』以後の歌をお集めになった。正和元年(1312年)三月二十八日(にその一部を)奏上なさる。(名を)『玉葉和歌集』と言うのである。この(京極)為兼大納言は、(二条)為氏大納言の弟で(京極)為教右兵衛督と言った人の子である。この上なく(伏見)院のご信任の厚い人であって、このように(『玉葉和歌集』の)撰者にも決まったのであった。嫉妬する人々は多かったけれども、支障はなかったのだろうか(いやあっただろう)。この(伏見)上皇様(が)、好んでお詠みになった御製の歌風は、(さき)の藤大納言(と呼ばれた二条)為世の考えとは、異なっていたことだ。ご手蹟もたいそう見事で、昔の(三蹟の一人とされてきた、藤原)行成大納言にも勝っておられるなどと、その当時の人は申し上げたのだった。優美にも力強くもお書きになられたとかいうことだ。

 他に、「為兼紫革、為道は藍白地なりけり。為兼とは、為氏の大納言の弟兵衛督為教と言ひしが子なり。」(第十 老のなみ)とか、「其の暮れつ方、頭の中将為兼の朝臣、御消息もて参れり。」(第十一 さしぐし)なんて記述もあったり。


 正確性を大切にしない作品として名高い『増鏡』のいうことではあるものの、為兼の定家愛が垣間見られたり、『玉葉和歌集』をめぐる裏話が垣間見られたりした(気がする)作品。

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