『徒然草』の中の為兼。
【作品名】『徒然草』
【成立時期】鎌倉時代末期(一三三〇年・元徳二年頃とする説あり。為兼七十七歳頃)
【筆者】兼好法師(吉田兼好とも)
【ジャンル】随筆(日本三大随筆の一)
【内容】長短不ぞろいの二四四編からなるエッセー集。『枕草子』を日記文学の亜種に分類なさっている石田穣二先生の説に拠るならば「わが国最初の自覚的随筆集」と言えるのかも知れない。
【第一五三段】
為兼大納言入道召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率て行きければ、資朝卿、一条わたりにてこれを見て、「あなうらやまし。世にあらん思ひ出、かくこそあらまほしけれ」とぞ言はれける。
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(一三一五年に、六十二歳の)京極為兼大納言入道(一二五四~一三三二)が(鎌倉幕府が差し向けた安東重綱率いる数百人の軍勢に)捕らえられて、武士どもが取り囲んで、六波羅にある役所(いわゆる六波羅探題)へと連行していったところ、(一三二四年の正中の変で佐渡に配流されることになる)日野資朝卿(一二九〇~一三三二)は、一条のあたりでこれを見て、「ああうらやましい。この世に生きているという思い出には、このようでこそありたいものだなあ」と言われたということであった。
和歌の絡まない、政治家・京極為兼に関する記述はこれだけかも。
※結果、為兼は二度目の配流(今回は手始めに土佐。その後、和泉・河内に移され河内で没した)となった。今回は伏見天皇(第九十二代)の身代わり説、後伏見天皇(第九十三代)の陰謀説アリ。




