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『野守鏡』の中の為兼。

【作品名】『野守鏡』

【成立時期】鎌倉時代(1295年9月成立)

【筆者】不明(六条有房/源有房説は採らない)

【ジャンル】『大鏡』形式の歌論書

【内容】二条派を重んじる正統主義の立場から、新風である京極派に反感を持ち、京極派を論理的に排斥することに主眼を置いた、「播磨国の書写山円教寺に参詣した際に老僧から聞いた話を書き記した」とする、自作自演形式の異端弾劾の書。

 上巻(一万六千字弱)では、歌道の家から発生した為兼を「獅子身中の虫」扱いした挙句、あの手この手で叩きに叩くというスタイルを貫くのに対し、

 下巻(一万四千字弱)では、天台密教礼讃&禅宗・念仏宗非難の合間に思い出したように為兼を叩くというスタイルに様変わりしている。

〈上巻〉

「この頃為兼卿といへる人、先祖代々の風をそむき、累葉家々の義をやぶりて、詠める歌どもすべてやまと言の葉にもあらず」

訳】「近頃(京極)為兼卿言とっている人(は)、先祖代々の(歌)風を背き、代々家々の道義を破って、詠んでいる歌たち(は)すべて日本古来の(歌の)言葉ではない」



一、心を種として心を種とせざること

訳】(良い)心を種として、(悪い)心を種としないこと


為兼卿の歌は、心を種とするぞとなれば、ともかくも、ただ思はんように、その心をただちに詠むべしとて、言葉をも飾らず、物語りをするやうに詠める、今様姿の歌ども、げに玉津島の明神も、和歌の浦波に、御耳をや洗ひ給ふらんと覚え侍り。

訳】為兼卿の歌は、心を(歌の)種とするぞということになれば、とにもかくにも、ただ思うであろうように、その心情をすぐに詠むべきであるとして、言葉をも飾らず、おしゃべりをするように詠んでいる、(そういう)現代風の表現の仕方の歌ども(に対しては)、本当に(和歌の神を祀る)玉津島(神社)の明神も、和歌の浦の波で、(穢れた話を聞かされて耳を洗ったという故事のとおりに)御耳をお洗いになるであろうと思われます。


かの誤りいよいよ疑ひなく覚へ侍り。すべて歌の趣をそむける上は、わきて申すべきにはあらねど、殊にかの卿の秀歌なりと言へる二首の歌を、これかれに通はして、その難を申し侍るべし。

  鳴けとなる有明方の月影よ郭公なる夜のけしきかな

  萩の葉をよくよく見れば今ぞ知るただ大きなる薄なりけり

訳】あの(為兼卿の歌論の)誤り(は)いよいよ疑いないと思われます。総じて歌の趣から背いているからには、特別に申し上げるべきではないけれども、特にあの(為兼)卿の秀歌であると(私が勝手に)言(い張)っている二首の歌を、あれこれと行き来しながら、その欠点を申し上げるつもりです。

  鳴けとなっている明け方頃の月の光よ。ほととぎすである夜の景色であることだ。

  萩の葉をよくよく見ると今こそ知ったことだ、ただ大きな薄なのだなあ。



一、心を素直にして心を素直にせざること

訳】心を真っ直ぐにして心を素朴にしないこと


かの卿は歌の心にもあらぬ心ばかりを先として、(ことば)をも飾らず、節をも作らず、姿も繕はず。ただ実正(じっしゃう)を詠むべしとて、俗に近く卑しきを、一つのこととするが故に、皆歌の義を失へり。

訳】あの(為兼)卿は歌の心ではない心ばかりを優先して、言葉をも整えず、節回しも作らず、(和歌の)表現の仕方も整えない。ただ真実を詠むべきであると言って、(風流とは逆の)世俗的なものに近く卑しいことを、(実正と)一緒くたのこととするが故に、皆、歌の意義を失ってしまった。



一、(ことば)を離れて詞を離れざること

訳】(俗世間の)言葉から(は)離れて(やまと)言葉から(は)離れないこと


かの歌は(ことば)つたなきが故に、文にもこよなく劣りて見え侍り。これ一人思ふにあらず。いまだかの歌を感ずる人を聞かず。ただかかる風情、詞をも詠むべきにやと、疑ふ人多し。かつは、かく山(がつ)のそしりを負ひぬるも、あまねく人の心に適はざる故なるべし。また上古の歌もさのみこそ侍るめれとて、やまひ、禁忌をも除かざること、ゆゆしき過ちにて侍り。

訳】あの(為兼卿の)歌は詞がつたないが故に、手紙に(さえ)もこれ以上ないほど劣って見えます。これ(は私)一人(が)思うことではない。いまだあの(為兼の)歌に感動する(という)人(の話)を聞かない。ただこのような風情(や)、言葉までも(わざわざ歌として)詠む必要があるのだろうかと、疑う人(は)多い。一つにはこのように身分の低い(まともに和歌を学ぶこともできていない)者(であるという)非難をされているのも、全ての人の心に(良い歌として)適合しない理由であるに違いない。また上古の(きちんと和歌が整備される前の『万葉集』の)歌もそのようにこそしているようでございますということで、歌病(と呼ばれる和歌の修辞上の欠陥)、禁忌(とされる和歌において避けなければならないとされている禁止事項)をも排除しないこと(は)、重大な間違いでございます。



一、風情を求めて風情を求めざること

訳】(あくまでも古い風情の中の、歌い残された新しい)風情を求めて(古い風情とはかけ離れた今風の良くない)風情を求めないこと


かの卿は俗に近くして、歌の風情にもあらぬ今めかしきことどもを、めづらしき風情と思へり。昔より詠むべからざるによりて、詠まざる心、(ことば)を詠める、さらにめづらしきにあらず。

訳】あの(為兼)卿は(風流とは逆の)世俗的なものに近くて、歌の風情ではない現代風のことなどを珍しい風情と思っている。昔から詠むべきではないということで(避けられてきたために)、(普通の人は)詠まない心や言葉を詠んでいる、決して珍しいことなのではない。



一、姿を習ひて姿を習はざること

訳】(一般的な歌の)表現の仕方を学んで(自己流の歌の)表現の仕方を学ばないこと


もしかの卿は、この義などを悪しく心得て、大方の姿をさへ心にまかせて、改め侍るや。

訳】ひょっとしたらあの(為兼)卿は、この(和歌の)本義などを悪く心得て、世間一般の(歌の)表現の仕方さえ(自分の)心にまかせて、(勝手に)お変えになるのだろうか。


かの卿の説には、おのおのともかくも心にまかせて、思ひ思ひに詠むべきにて侍るうへは、当世様といふことあるべからずと申す由、ある人語り侍りき。もしまことにて侍らば、みづから知ることの難き故に、常世様あるべからずと思へるなるべし。かの卿、古き歌の姿に詠めるをば、例の風情と言ひて目をそばむるが故に、おのおの今めかしきことどもを心にまかせて詠めり。これにつきて、いかでか今めかしくみだりがはしき姿なからんや。

訳】あの(為兼)卿の(歌の)説は、それぞれとにかく心にまかせて、思い思いに(歌を)詠むべきであるということでございますからには、現代の方面(の歌である)ということがないはずがないと申し上げる趣旨(のことを)、ある人(が)語っていらっしゃいました。もし本当でございますならば、自分自身で知ることが難しいために、永久不変の方面(の歌が)あるはずがないと思っているに違いない。あの(為兼)卿(は)、(皆が)古い(古今の)歌の表現の仕方で詠んでいるのを、いつもの風情と言って嫌うために、それぞれ現代風のことなどを心にまかせて詠んでいる。これに関して、どうしてか軽薄で無作法な表現の仕方でないことがあろうか。



一、古風をうつして古風をうつさざること

訳】(古今の)古風をうつして(万葉の)古風をうつさないこと


かの卿、及ばざる万葉の風を願へるにや、ただ大薄(おほすすき)のおほやうなる歌ども多く聞こえ侍り。為家卿はかの集の歌を、本歌に取ることをだに戒め侍りき。その子孫として、などや鶯のかひごの中の時鳥にて(しも)は侍りける。

訳】あの(為兼)卿(は)、(歌の世界が完全に成熟してから作られた、手本とすべき『古今集』には)匹敵しない(和歌集の祖ではあるけれども未成熟な)万葉の(歌)風を望んでいるのだろうか、ただ(先述の)大薄の(ような)大雑把な歌なども多く耳にします。(為兼卿の祖父である藤原)為家卿はその(万葉)集の歌を、本歌に取ることさえ戒めました。その子孫として、どうして(『万葉集』の長歌に「鶯の卵子(かひご)の中にほととぎす」とあるように、美しい声で鳴く)鶯(のような為家)の卵(=子孫)の中にほととぎす(のような為兼がいるようなもの)で、(技術的に)劣ったものはいらっしゃったのしょうか。



〈下巻〉

 かの卿、つつがなくして勅撰を承り、今様姿の乱れがはしき歌どもを撰びおきなば、和歌ここに絶えぬべきものなり。

訳】あの(為兼)卿(が)、無事に勅撰(集の撰者の座)をお引き受け申し上げて、現代風の表現の仕方の無作法な歌どもを撰び置くならば、和歌(は)ここで途絶えてしまうに違いないものである。


 かの卿、偽り飾ることをば実正(じっしゃう)にあらずとて、戒め侍りて、かへりてはまことの心を失へるなるべし。

訳】あの(為兼)卿(が)、偽り飾ることを真実ではないということで、戒めまして、かえって真実の心を失ってしまっているに違いない。


 かの卿ことばをも選ばず、心をも(すぐ)らずして、ただ思ふさまに詠むべしといふ義を立て侍ること、歌の道を失ふのみにもあらず、法理を破するものなり。

訳】あの(為兼)卿(が)言葉をも選ばず、心をも選りすぐらないで、ただ思うように読むべきであるという教義を(押し)通していますこと(は)、歌の道を失うだけでなく、仏法の(ことわり)を損なうものである。

 為兼叩きの詳細がよく分かる作品。


 ちなみに「為兼の秀歌」という体で紹介されている二首はこの『野守鏡』にしか登場しない歌で、そもそも為兼の歌なのかどうかから疑わしい。また、『玉葉集』や『風雅集』に採られていないことからも分かるように、実際には「為兼の秀歌」などではない。こうした「叩きやすい歌」「添削しやすい歌」を引っ張り出してきてドヤ顔で添削してみせるという自作自演的なやり口は、正岡子規にも受け継がれている。――正岡子規のやり口が気になる方は、『子規は何を葬ったのか―空白の俳句史百年』(今泉恂之介、新潮社、2011年)を参照されたし。


 ボリュームがありすぎるので、ダイジェストでお伝えしました。

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