『中務内侍日記』の中の為兼。
【作品名】『中務内侍日記』
【成立時期】鎌倉時代後期(一二九二年頃成立。為兼三十九歳頃)
【筆者】藤原経子
【ジャンル】日記文学
【内容】伏見天皇の東宮時代から即位を経て、病で退職するまでの十三年間の宮廷生活の回想記。
〔弘安三年(一二八〇年)十二月〕
ただかかる世のそぞろごとのみ心にしみて忘れがたき中にも、弘安三年、伏見殿の御懺法とて、院の御方は御留守なりしに、十五夜の月も雪うち散りて、風も冷やかなる枯野の庭の気色、物あはれなれど、同じ心に見る人もなし。ひとり眺めむもすきずきしかりぬべければ、入りて臥しぬるに、春宮の御方、釣殿に出でさせおはします。御供、左衛門督殿・内侍殿、男には左中将ばかり参る。宰相殿・宮内、三人寝ぬるを、「御所になりぬる」とてあれば、皆起きて参る。
〔弘安三年(一二八〇年)十二月〕
ただこのような人の世のちょっとした思い出ばかり心にしみて忘れがたい中でも、弘安三年、(後深草院の離宮である)伏見殿の(法華経を誦読して日頃の悪行を懺悔する法要である)法華懺法の法会(を行なう)ということで、後深草院はご不在であった時に、(十二月十五日の)満月(だけれど)も雪が少し降って、風も冷ややかである枯野の庭の様子(は)、なんとなくしみじみとした風情があるけれども、同じ気持ちで見る人もいない。一人で眺めるようなのも風情があったに違いないので、部屋に入って横になって(庭を眺めて)いると、東宮であった(後に伏見天皇となられる)熙仁親王(が)、釣殿にお出かけになられる。お供(として)、(まずは女房では)左衛門督殿・内侍殿、男性では左中将(である京極為兼)辺りが(釣殿に)参上する。宰相殿・宮内卿(と私と)、三人(とも)寝ているところに、「東宮がおいでになった」ということであるので、皆起きて参上する。
◆
〔弘安六年(一二八三年)四月〕
弘安六年四月十九日、例の嵯峨殿の御幸なりて還御なる。御夜の後、春宮の御方、土御門少将ばかり御供にて、院の御方ざまに忍びて御覧ぜらるる。南殿の花橘盛りなる頃なれば、「香を懐かしむ時鳥もや」と待たせおはしますに、心尽くしの一声もあかず恨めし。その頃、左中将、何事にかありけん、隠りて久しく参らざりけるに、「有明の空に鳴きぬる一声を寝覚にや聞くらん」など、かたじけなくも思し召し出づるは、「夢の中にも通ふらんを」と思ひやらるるに、
思ひやる寝覚やいかにほととぎす鳴きて過ぎぬる有明の空
と御気色あれば、内侍殿、たどたどしき程の有明の光に書きて、花橘に付けられたり。さるべき御使もなくて明けぬべければ、土御門少将、人も具せずただ一人、馬にて行きぬ。手づから馬の口を引きて門を叩くに、頓にも開けず。空は明け方になるもあさましくをかし。門を開けぬるに、思ひ寄らずあきれたりけんも理なり。さらぬ情だに折から物は嬉しきに、かしこき御情も深く、「色をも香をも」と思し召し出づるも、御使の嬉しさはげにいかなりけん。同じ類ならん身は、げにいかでかうらやましからざらん。ありがたき面目、生ける身の思ひ出でとぞ、よそに思ひ知られて侍りし。ほのぼのと明くる程にぞ、返り参りたる。
宮のうち鳴きて過ぎけるほととぎす待つ宿からは今もつれなし
その日、土御門少将に、
あしびきの山ほととぎす 強ひてなほ待つはつれなく 更くる夜にとばかりたたく 真木の戸はあらぬ水鶏と まがへてもさすがに開けて 尋ぬれば繁き草葉の 露払ひ分け入る人の 姿さへ 思ひもよらぬ 折にしもいともかしこき 情とて伝へ述べつる 言の葉を我が身にあまる 心地してげに世に知らぬ 有明の月にとどむる 面影の名残までこそ 忘れかねぬれ
言の葉にいかに言ひてもかひぞなき顕れぬべき心ならねば
返事に、少将、
ひさかたの月の桂の 影にしも時しもあれと ほととぎす一声名乗る 有明の月毛の駒に まかせつついともかしこき 玉章をひとりある庭の しるべにて尋ねし宿の 草深み深き情を 伝へしに袂にあまる うれしさはよそまでもげに 白雲の絶え間に日影 ほのめきて朝置く露の 玉鉾の道行く人の 呉織あやしきまでに 急ぎつるそのかひありて ちはやぶる上下ともに 起き居つつ待つにつけても 住吉の岸に生ふなる 草の名の忘れがたみの 思ひ出でやこれ
顕ればなかなかいかに恨みまし心にこむる忘れがたみを
内侍殿、少将にことづけ、
時しもあれ御垣に匂ふ橘の風につけても人の問へかし
返事、
めづらしきその言の葉も身に沁むは有明の空に匂ふ橘
二十日、内侍殿に、左中将、
いかならん世にか忘れん橘の匂ひも深き今朝の情を
返事に、
橘の匂ひにたぐふ情にも言問ふ今ぞ思ひ知らるる
〔弘安六年(一二八三年)四月〕
弘安六年四月十九日、いつものように嵯峨殿へお出かけになられて(いた後深草院が、院の御所に)お戻りになる。(院が)ご就寝になった後、春宮(であり、後に伏見天皇となる熙仁親王は)、土御門少将(と呼ばれた源具顕)だけをお供にして、院の方に忍んで(庭を)御覧になる。南向きの正殿の花橘が盛りである頃なので、(東宮は『源氏物語』の和歌として名高い「橘の香を懐かしみ時鳥花散る里をたづねてそとふ」という古歌を思い出して)「(橘の)香を懐かしむほととぎす(のように鳴く)かもしれない」と(ほととぎすの鳴き声を)お待ちになっていらっしゃったのに、散々待たせたうえでの一声では満ちたりず恨めしい。その頃、左中将(と呼ばれた京極為兼は)、何事があったのだろうか、(自宅に)閉じこもって久しく(宮中に)参上しなかったので、(東宮が)「有明の空に鳴いた(ほととぎすの)一声を(為兼も)寝覚めに聞くだろうか」などと、恐れ多くもお思いになり始めたので、「(東宮の御心は為兼の)夢の中にもお通いになるだろうよ」と推察されるところに、
【思いやることだ、あなたの寝覚めの思いはどんな思いかと。ほととぎすが鳴いて過ぎていく有明の空(を眺めながら)】
というご意向があったので、(東宮の女房の一人である)内侍殿(が)、(辺りが)はっきりしないほどの有明けの(薄暗い)光の中で(その和歌を)書きつけて、花橘(の枝)にお付けになった。(その歌を為兼に届けるのに)しかるべき使いの者もいなくて、(手はずを整えていると夜が)明けてしまいそうなので、土御門少将(と呼ばれた具顕)が、(供の)人も連れずにただ一人で、(東宮の使者として為兼の許へ)馬で行った。(具顕が)自分の手で馬の口を引いて(為兼邸の)門を叩くけれども、すぐには開けない。(夜が明けて)空は明け方になるのも(少将の身分に合わない使いを非公式で務めているのを他人に見られてしまいそうで)体裁が悪いが面白い。(いざ)門を開けたところ、(東宮からの使者だとは)思いも寄らずに(為兼が)驚いていたのももっともである。東宮からではないお心遣いでさえタイミングの良いものは嬉しいのに、(まして)恐れ多い(東宮の)お心遣いも深く、(紀友則の「君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る」という古歌があるように)「色をも香をも」と(為兼のことを)お思い出しになったのも(勿論)、(それをわざわざ伝える)使いの者(までいただいた為兼)の嬉しさは本当にどれほどであろうか。(同じように東宮にお仕えしている)同僚であるような身としては、本当にどうして羨ましくないことがあろうか(いや、羨ましいことだ)。滅多にない名誉、生涯の思い出であるとこそ、他人(ながら我がことのよう)に思い知らされたことでございます。ほのかに(夜が)明けるくらいに、(為兼からの)返歌を手に(具顕が)参上したのだった。
【東宮御所の中をちょっと鳴いて通り過ぎたというほととぎすは、(鳴き声を)待つ(私の)家であるのに今も冷淡なことです】
その日、土御門少将(と呼ばれた具顕に)に(贈った為兼からの長歌と反歌)、
【山ほととぎす(の鳴き声を)むやみにやはり待っているのはつれなくて 更けていく夜にしばらく叩く(ための)真木の戸はない。水鶏(の鳴き声)と(聞き)間違えてもさすがに(戸は)開けて(戸を叩く者の名を)尋ねたところ、(人に手入れされていないせいで)繁っている草葉の露(を)払い分けて(我が家の庭に)入ってくる人の姿さえ思いも寄らなかったちょうどその時、たいそう恐れ多い(東宮からの)情愛であると(使者であるあなたが私に)伝え述べた言葉(というもの)を、私の身には余る心地がして、本当に世の中には知られていない有明の月にとどめている面影の名残りまでこそ忘れかねてしまうよ】
【言葉でどんなに言っても甲斐がない、(この感謝の気持ちはあまりにも深すぎて)言葉に顕れなくて当然の感情なのだから】
返事として、(土御門)少将(と呼ばれた具顕より贈られた長歌と反歌)、
【月に生えているとされる桂の木の光にさえもちょうどこの時、というわけで、ほととぎす(が)一声(鳴いて)名乗る(のを)、有明の月毛の駒に(身を)任せながら非常に恐れ多い玉のような素晴らしい文章を一人たたずんでいる庭の道標として、尋ねた宿の草が深いので(その草くらいに)深い(東宮の)情愛を伝えたのに袂に余るほどの嬉しさは他人にも知られるのも本当に、白雲の絶え間から太陽の光がほのかに煌めいていて、朝置く露が玉になっている(、そういう)道を行く人が怪しむほどに急いでいるその甲斐があって東宮も女房も(寝ないで)起きたままで待つにつけても、住吉の岸に生えるという草の名の忘れがたいのを思い出せよ、この時に】
【(あなたは「言葉に顕れないから甲斐がない」というが全てが言葉に)顕れてしまえばかえってどんなに残念だろうか、心に包み隠している忘れがたい忘れ形見を】
内侍殿(が)、(土御門)少将(と呼ばれた具顕)に(為兼宛の)私信(として託した歌)、
【ほかの時もあるのによりによって宮中の垣根に匂う橘の(香のする)風(が吹く)につけてもあなたが尋ねるよ】
(為兼から内侍殿への)返事、
【(あなたからの)久しぶりの(和歌の)言葉とともにしみじみと身に沁みるのは有明の空に匂う橘(の香)であるよ】
(翌)二十日、内侍殿に、左中将(からの歌)、
【どのような世にこれを忘れるなどということがあり得ましょうか、橘の匂いも深い今朝の(あなたからの)友情を】
(内侍殿からの)返事に、
【(懐かしさの象徴とされる)橘の匂いに(私の気持ちを)なぞらえてくださった(あなたからの)友情につけても、歌を交わした今こそ(あなたの心の深さを)思い知ることができました】
◆
〔弘安十年(一二八七年)十二月〕
二十五日は、北山殿へ御方違の行幸始なり。また雪降りて、月だにあらばと覚えし。剣璽の役、花山院宰相中将。役の内侍、勾当と新内侍となり。典侍に権大納言典侍。按察殿・少将内侍・伯耆殿。設けの御所へ参り向かひて、勾当と急ぎ髪上げて、母屋の御簾のうちにて、御輿待ちまゐらせて侍ふ。入御なりぬれば、御裝束、御引直衣召し替へて、月もなき頃なれば、殿上人ども紙燭さして雪御覧ぜらる。入らせ給ひて御会あり。男には左中将為兼ばかりなり。警固の姿にて参りたる。いと優しく見ゆ。権大納言典侍殿・新宰相殿。女房三人、男三人、数に漏れぬ身、我ながら嬉しうこそ覚ゆれ。還御はほのぼのと明くる程になりぬれば、雪打ち払ふ警固の姿ども、優しくおもしろく見えたり。
〔弘安十年(一二八七年)十二月〕
二十五日は、北山殿へ方違えの行幸始(という行事を行なう日)である。また雪が降って、せめて月だけでもあればと思った。(行幸の時に剣璽を取り扱う)剣璽の役(は)、花山院宰相中将(が務めた)。(女房側の同じ)役が内侍、勾当と新内侍(である私)となる。典侍に(は)権大納言典侍(が就いた)。(他には)按察殿・少将内侍・伯耆殿(もいた)。五十殿の準備がしてある北山殿へ(一足先に)向かって、勾当と急いで(女房の正式の髪型である)髪上げ(をし)て、母屋の御簾の内側で、(伏見天皇のお乗りになった)御輿(を)お待ち申し上げていました。(帝が)北山殿へお入りになったので、御裝束、御引直衣(を)お着替えになって、月もない頃であるので、殿上人は小さい松明を持って雪を御覧に入れる。母屋にお入りになると歌会があった。殿上人は左中将(であった京極)為兼だけであった。近衛武官の姿で参上した。とても優美に見える。(自分以外の女房は)権大納言典侍殿・新宰相殿。(歌会の出席者は全部で)女房三人、男性三人(という少数精鋭であったが)、(その)数に漏れない(我が)身(であったことが)、我ながら嬉しいとこそ思う。(院の)お戻りはほんのりと(夜が)明けるほどになったので、雪を打ち払う近衛武官たちの姿は、優美で趣深く見えた。
為兼の若かりし頃の一瞬が垣間見られる作品。
長歌の訳の不自然さはいかんともしがたく。




