雑歌〈述懐歌〉上
『玉葉和歌集』一八一首(雑歌五)、『風雅和歌集』四一七首(雑歌中下)より。
〈玉葉和歌集〉
紀伊国に行幸侍りける時、結び松を見て詠み侍りける
二四三六 後見んと君が結べる岩代の小松が末をまた見つるかも(柿本人麻呂)
訳】(文武天皇が)紀伊の国に行幸なさいました時に、(有間皇子がなさったとされる岩代の)結び松を見て詠みました(歌)
二四三六 (運よく無事であったなら、また帰りに見よう、)後で見ようと君(=有間皇子)が結んだ岩代の小松の枝の先端を(処刑されてしまった皇子はご覧になれなかったけれども、)また(私がこのように)見たことだ。
※有間皇子の「自ら傷みて松が枝を結ぶ歌」(『万葉集』(一四一))を本歌として詠まれた一首。
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顕輔卿、詞花集撰び侍りける時、歌を尋ねて侍りければ、まづ権中納言俊忠を遣はすとて、詠みて添へける
二四三七 このもとに朽ち果てぬべき悲しさに古りにし言の葉を散らすかな(藤原俊成)
訳】(歌の師である藤原)顕輔卿(が撰者として)、(六番目の勅撰集である)詞花集(を)撰びました時、(私に)歌を尋ねましたので、まず(父親である)権中納言(藤原)俊忠(の歌)を贈ろうとして、詠んで添えた(歌)
二四三七 (木の下に散った葉が朽ち果ててしまうのが悲しいように、)子(である私)の許で朽ち果ててしまうに違いない悲しさによって(我が父親の)古びてしまった(和歌の)言葉を(師に向かって)言いふらすことだ。
※父親の入集を師に訴える一首。「このもと」は「木の下」と「子の許」の掛詞。
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返し
二四三八 家の風吹き伝えずはこのもとにあたら紅葉の朽ちや果てまし(藤原顕輔)
訳】返歌
二四三八 もし家の歌風(を体現する父上の歌を撰者である私に)勢いよく伝えてこないならば、
(風に吹き散らされて)木の下で折角の紅葉が(朽ち果ててしまうように、子であるあなたの許で折角の俊忠殿の優れた歌は)朽ち果ててしまっただろうよ。
※父親の入集を歓迎する一首。「このもと」は「木の下」と「子の許」の掛詞。
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(雑御歌の中に)
二四四二 嬉しのや憂き世の中の慰めや春の桜に秋の月影(遊義門院)
訳】(雑の御歌の中に(あった歌))
二四四二 嬉しいなあ、つらい世の中の(嬉しい)慰めだなあ。春に(咲く)桜に、秋に(輝く)月の光(は)。
※「憂き世の中の嬉しの慰めや」(つらい世の中の嬉しい慰めだなあ)を「嬉しの憂き世の慰めや」と破格にした一首。
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鳥羽院に出家の暇申し侍るとて詠める
二四六七 惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは身を捨ててこそ身をも助けめ(西行法師)
訳】(北面の武士として仕えていた時に)鳥羽院に出家の(ための)暇(乞いを)申し上げようということで(鳥羽院に宛てて)詠んだ(歌)
二四六七 惜しもうとして(最後まで)惜しみきることのできるこの世でございましょうか(いや、そんなことはございません)、身を捨てて(出家をして)こそ(悟りを得ることができ、本当に我が)身をも助ける(ことになるのでございます)。
※出家遁世について詠んだ、「西行」を生むきっかけとなったと言える一首。
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月を見て
二五一二 月見れば老いぬる身こそ悲しけれ遂には山の端にや隠れむ(清少納言)
訳】月を見て(詠んだ歌)
二五一二 月を見ると年老いた(自分の)身こそ悲しく思われることだ、最後には(あの月が)山の端に隠れる(ように、私もこの世から姿を消すの)だろうよ。
※月をめぐる述懐を詠んだ一首。作者は天武天皇の裔(天武天皇-舎人親王-〇-〇-貞代王-清原有雄-道雄-海雄-房則-深養父-春光-元輔-清少納言)。『枕草子』、『百人一首』(六二)でも知られる。
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続古今集撰ばれ侍りける時、撰者あまた加へられ侍りて後、述懐の歌の中に詠み侍りける
二五三六 玉津島あはれと見ずやわが方に吹きたえぬべき和歌の浦風(藤原為家)
訳】(為家が)『続古今集』を(一人で)撰ばれておりました時、撰者がたくさん追加されまして後、述懐の歌の中に詠みました(歌)
二五三六 (和歌の道をお守りになる)玉津島の女神様も不憫だと見てはくださいませんでしょうか、私の方角には吹き絶えてしまいそうな和歌の浦からの風を(和歌の家としての御子左家の伝統も私自身の面目も全て途絶えてしまいそなこの状況を)。
※祖父の無念を拾い上げた一首。
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雑歌の中に
二五六七 いかにせん越え行く波の下にのみ沈み果てぬる海人の捨て舟(京極為教)
訳】雑歌の中に(あった歌)
二五六七 どうしようか、越えていく波の下にばかり沈み果ててしまった海人の捨て舟(のように、他人に官位を追い越されて出世もできず、沈んでいくばかりの我が身)を。
※思うように出世できないままの嘆きを詠んだ一首。作者は為兼の父であり、京極家の創始者ではあるが、京極派歌人とまでは言えない。
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雑歌の中に
二五九四 折に触れ時に覚ゆる悲しさを類ひあらじとながめてぞ経る(奨子内親王)
訳】雑歌の中に(あった歌)
二五九四 折に触れて時に(従って自然と)思う悲しさを(他には)類もあるまいとぼんやりと物思いに浸って月日を過ごすことだ。
※生きているだけで感じる悲哀を詠んだ一首。作者は後宇多天皇の第一皇女。
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懐旧の心を
二六一一 いかなればつらき昔と思へどもなほ偲ばるる慣らひなるらむ(法印行深)
訳】懐旧の心を(詠んだ歌)
二六一一 どういうわけで、つらい昔(だった)と思っていても、やはり(つらいはずのその昔を)偲んでしまうという習性になるのだろうか。
※時間の経過によって過去を美化してしまう心理の不思議を詠んだ一首。作者は法印行任男というが、それ以外は不明。
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〈風雅和歌集〉
題知らず
一八二三 命をば軽きになして武士の道より重き道あらめやは(源致雄)
訳】題知らず
一八二三 (主君のために己の)命をば軽いものとして、(武士として主君に仕える)武士の道より重い道があるだろうか(いや、あるはずがない)。
※武人としての心意気を詠んだ一首。『愛国百人一首』(四〇)としても知られる。作者については伝未詳。
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百首歌奉りし時
一八三九 言の葉の六種のうちにさまざまの心ぞ見ゆる敷島の道(足利直義)
訳】百首歌(を)奉った時(に詠んだ歌)
一八三九 (歌の)言葉における六種類(の和歌の姿)の中に、さまざまの(人の)心が見えているよ、敷島の道(と呼ばれる和歌の道)は。
※和歌への述懐を詠んだ一首。
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世を逃れて木曽路といふところを過ぎ侍るとて
一八五五 思ひ立つ木曽の麻布浅くのみ染めてやむべき袖の色かは(卜部兼好)
訳】俗世を逃れて木曽路というところを通り過ぎますというので(詠んだ歌)
一八五五 決心して(俗世から逃れたからには)木曽の麻布(が)浅くだけ染めてやめてしまうべき袖の色だろうか(いや、やめてしまうべきではない)。
※世を逃れた決意を自らに言い聞かせた一首。作者は卜部兼顕の子で、『徒然草』の作者としても知られる。




