雑歌〈哀傷歌〉上
『玉葉和歌集』二四二首(雑歌四)、『風雅和歌集』二四四首(雑歌下)より。
〈玉葉和歌集〉
東三条院かくれさせ給ひにける又の年の春、いたく霞みたる夕暮れに、人の許へ遣はしける
二二九八 雲のうへの物思ふ春は墨染にかすむ空さへあはれなるかな(紫式部)
訳】(一条天皇の母である)東三条院(が)お亡くなりになった翌年の春、たいそう霞んでいる夕暮れに、人の許へやった(歌)
二二九八 (国母が崩ぜられて)宮中の(喪に服して)物思いに沈んでいる春は、(皆が身にまとっている喪服の)墨で染めたように霞む空さえも哀れ深い様子であるなあ。
※為兼が意図的に改変して、紫式部による東三条院哀悼歌に仕立て変えた一首。『紫式部集』に拠れば、夫宣孝の喪に服していた紫式部の許へ、ある人が贈ってきた歌であるという。
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小式部内侍亡くなりて後、詠み侍りける
二二九九 あひにあひて物思ふ春はかひもなし花も霞も目にし立たねば(和泉式部)
訳】(娘である)小式部内侍(が)亡くなった後(に)、詠みました(歌)
二二九九 (悲しみの中でもどうにか生き長らえて、巡り来た春に)逢うには逢いはしたけれども、物思いに沈む(今年の)春は(生きている)甲斐もない。花も霞も目立た(ず、目に映ら)ないのだから。
※一人娘に先立たれた悲しみを詠んだ一首。
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題しらず
二三〇六 幾程か長らへて見む山桜花よりもろき命を思へば(亀山院御製)
訳】題しらず
二三〇六 (この先)どのくらい生き長らえて見るのだろうか、山桜を。(吹く風にたやすく散る)花より(儚く)もろい命だと思うので。
※悲しみを春に寄せて詠んだ一首。作者は後鳥羽院の曾孫(後鳥羽院-土御門院-後嵯峨院-亀山院)。
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本院の女御隠れて、またの年四月一日、侍従が許に遣はしける
二三一一 ほととぎす去年見し君もなき宿にいかに鳴くらむ今日の初声(藤原伊尹)
訳】本院の女御(が)お亡くなりになって、翌年の四月一日、(本院の)侍従の許にやった(歌)
二三一一 ほととぎすは昨年お会いした(主である)あなた(=本院の女御)もいない家でどのように鳴くのだろうか、(夏になったばかりの)今日の(今年)初めての鳴き声を。
※悲しみを夏に寄せて詠んだ一首。作者は冬嗣の来孫(藤原冬嗣-良房-基経-忠平-師輔-伊尹(兼家の兄))。謙徳公とも。『百人一首』(四五)でも知られる。
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御心地例ならずおはしましける秋、詠ませ給うける
二三二一 虫の音の弱るのみかは過ぐる秋を惜しむ我が身ぞ先づ消えぬべき(近衛院御製)
訳】お気持ちが尋常ではなくていらっしゃった秋、お詠みになった(歌)
二三二一 虫の音だけが衰え弱ってゆくだけだろうか、(いや、)過ぎてゆく秋を惜しむ私の身こそ、先に消えてしまうに違いない。
※自らの死の予感を詠んだ一首。作者は鳥羽院の皇子。十七歳で崩御。
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後嵯峨院失せさせ給ひける年、世を背きて、九月尽に
二三二二 憂き世をばあき果ててこそ背きしかまたいかなる今日の別れぞ(宗尊親王)
訳】(父院である)後嵯峨院(が)お亡くなりになった年(に)、(父院の死を機に)出家して、九月末日に(詠んだ歌)
二三二二 (この)つらい世の中をすっかり嫌になって、秋の最後の日に俗世を捨てて出家したのに、またさらにどうして今日(、悲しい秋という季節と)の別れがあるのだろうか。
※鎌倉幕府の将軍を解任された親王が、最後の拠り所であった父院を亡くした悲しみを、秋に寄せて詠んだ一首。「あき果てて」は「秋果てて(九月尽)」と「飽き果てて」の掛詞。
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親の思ひにて山寺にまかりて、仏経供養などして帰りける道にて
二三五〇 帰りてはまづたらちねを見しものを今日は誰にか逢はんとすらむ(源道済)
訳】(死んだ)親の喪で山寺に出向いて、(経文を書写して仏前に供え、法会を営むという)仏経供養など(を)して帰ってきた道で(詠んだ歌)
二三五〇 (以前は家に)帰るとまず両親に会ったけれども、(その親を亡くし、供養を済ませて帰る)今日は、誰に会おうとしているのだろうか。
※親を失った子の虚しさを詠んだ一首。「たらちね」=両親、親。作者は光孝天皇の来孫(光孝天皇-源国紀-公忠-信明-方国-道済)。
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右大将道房身まかりて法事の日、服着たる人々を見て
二三六〇 見渡せばみな墨染めの衣手は立ち居につけて物ぞ悲しき(源師房女)
訳】(藤原道長の嫡孫で)右大将(を勤めていた藤原)通房(が二十歳で)亡くなって法事の日(に)、喪服を着ている人々を見て(詠んだ歌)
二三六〇 見渡すと(法事に参加している)皆(が)喪服姿なのは(行事のために)立ったり座ったりするにつけても物悲しいことだ。
※法事の日の悲しみを詠んだ一首。作者は醍醐天皇の玄孫(醍醐天皇-村上天皇-具平親王-源師房-師房女)。
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小式部内侍身まかりけるころ、人に遣はしける
二三六二 旧れば憂し経じとてもまたいかがせむあめの下より外のなければ(和泉式部)
訳】(娘である)小式部内侍(が)亡くなったころ(に)、人にやった(歌)
二三六二 (娘と死別したまま)年月が過ぎればつらい、(死ねないままに)月日を過ごすまいと思っても、またどうしようか。(悲しみの涙の雨が降る)天の下(のこの世)より他の(居場所が)ないので。
※娘に先立たれた親の悲しみを詠んだ一首。「あめの下」は「雨の下」と「天の下」の掛詞。
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鳥羽院隠れさせ給ひて御わざの夜、昔仕うまつり馴れにしことなどまで思ひ続けて詠み侍りける
二三七三 道変はる行幸かなしき今宵かな限りのたびと見るにつけても(西行法師)
訳】鳥羽院(が)お亡くなりあそばして御葬儀の夜(に)、昔仕え申し上げ慣れ親しんだことなどまで思いを歌に詠もうとして詠みました(歌)
二三七三 (いつもとは)道が異なる(ご葬儀所までの)行幸が悲しい今夜だなあ。(最後の行幸の機会である)死出の旅であると見るにつけても。
※主君を見送る悲しみを詠んだ一首。「たび」は「度」と「旅」の掛詞。
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権中納言俊忠の遠忌に鳥部野の墓所の堂にまかりて、夜更けて帰り侍りけるに、露の茂かりければ
二三八六 分け来つる袖の雫か鳥部野の泣く泣く帰る道芝の露(藤原俊成)
訳】(父である)権中納言俊忠の十三回忌に鳥部野の墓場のお堂に出向いて、夜が更けて帰りました時に、(道端の雑草に)露がたくさんあったので(詠んだ歌)
二三八六 (草をかき)分けて来た(私の)袖の雫(が残っているのだろう)か。(亡き父を偲びつつ)泣く泣く帰る鳥部野の道端の芝草の(上のおびただしい)露(は)。
※父の死を悼んだ一首。二十二歳の作。作者は十歳の時に父を亡くした。
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世の中常ならず侍りける頃、朝顔の花を人の許に遣はすとて
二三九一 消えぬ間の身をも知る知る朝顔の露と争ふ世を歎くかな(紫式部)
訳】(疫病が流行して)世の中が変わりやすくありましたころ、朝顔の花をある人のところにお贈りになるということで(詠んだ歌)
二三九一 死なずにいる間だけの身であるということをよくよく知っている(けれども、それでもやはり)朝顔の露と(消える後先を)争う(ほど人の死が続く)この世を歎くことであるよ。
※人が死んでいく嘆きをはかない朝顔に託して詠まれた一首。
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世の中の常なきことを思ひて詠める
二三九九 春の花咲きては散りぬ秋の月満ちては欠けぬあな憂世の中(藤原信成女)
訳】世の中が無常であることを思って詠んだ(歌)
二三九九 春の花(が)咲いては散ってしまう、秋の月(が)満ちては欠けてしまう。ああつらい世の中であるよ。
※対句法が京極派好みの一首。殷富門院大輔の名でも知られる。
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前中納言定家、母の思ひに侍りける頃、「たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人恋ふる宿の秋風」と詠みて侍りける返事に
二四〇五 秋になり風の涼しく変はるにも涙の露ぞしのに散りける(藤原俊成)
訳】前中納言(であった息子の)定家(が)母(である私の妻)の喪中で(私の側に)おりましたころ(に)、「ほんの少しの間さえも玉のような(草木の)露も(私の)涙もとどまることがありません。亡き人(である母上を)恋しく思っている家に吹く秋風(には)」と詠んで(その場に)おりました返歌として(詠んだ歌)
二四〇五 秋になり風が涼しく変わっても(妻を亡くした悲しみの)涙の露がしきりに散ることだなあ。
※『源氏物語』御法の帖を下敷きにした一首。俊成が妻を紫の上に重ね合わせたことがうかがえる。
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題しらず
二四三二 ならひぞと知りても憂きは目の前に人に後るる別れなりけり(北条時村)
訳】題しらず
二四三二 (人との死別は世の)習いだと知ってはいてもつらいのは、(実際にすぐ)目の前で人に死に後れる(という死の)別れなのだったなあ。
※人に死に後れた悲しみを詠んだ一首。作者は北条時政の曾孫(北条時政-義時-政村-時村)。
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〈風雅和歌集〉
文永九年二月十七日、後嵯峨院かくれ給ひぬと聞きて、急ぎ参る道にて思ひ続け侍りける
一九六八 悲しさは我がまだ知らぬ別れにて心も惑ふ東雲の道(宗尊親王)
訳】文永九年(一二七二年)二月十七日、(父である)後嵯峨院がお亡くなりになったと聞いて、(ますます)急いで(父院の許へ)参上する道(中)で苦しみ続けました(時に詠んだ歌)
一九六八 (このような)悲しみは私がまだ経験したことのない別れ(の悲しみ)であって、心も途方に暮れながら(急ぎ駆けつける)明け方の道(であるよ)。
※父院危篤の一報を受けて駆けつけている最中に、崩御の続報を受けて詠んだと思われる一首。
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父亡くなりて後、常盤の山里に侍りけるころ、三月ばかりに、源仲正が許に遣はしける
一九七九 春来ても訪はれざりける山里を花咲きなばと何思ひけむ(寂念法師)
訳】父(である藤原為忠が)亡くなった後、常盤の山里に降りました頃、三月辺りに、源仲正の許に贈った(歌)
一九七九 春が来ても(亡くなった父上が)訪ねて来られることなど(二度とありはし)ない山里なのに、「桜の花が咲いたら」などと(私は)何を思っていたのでしょう。
※父親の死を父親の盟友と共有しようとする一首。作者は藤原冬嗣の裔(藤原冬嗣-長良-国経-忠幹-文信-惟風-惟経-知綱-知信-為忠-寂念法師)。
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返し
一九八〇 もろともに見し人もなき山里の花さへ憂くて訪はぬとを知れ(源仲正)
訳】返歌(として詠んだ歌)
一九八〇 (その昔)一緒に(桜を)見た人(であるあなたの父・為忠)もいない山里の桜さえ(あなたの父・為忠との思い出を思い出させるのが)つらくて(あなたの許を)訪れることができないのだと分かってください。
※友人を亡くした悲しみの深さが感じられる一首。
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(前大納言為家身まかりて後、百首歌詠み侍りけるに)
二〇一六 悔しくぞさらぬ別れに先立たでしばしも人に遠ざかりぬる(安嘉門院四条)
訳】(前大納言(である夫の藤原)為家(が)亡くなって後、百首歌(を)詠みました時に(あった歌))
二〇一六 悔しいことに(夫である為家との死別という)避けられない別れに(私が)先立たなかったので、(私も死んで死後の世界で再会できるようになるまで)しばらくの間も(あの)人に遠ざかってしまったことだよ。
※為兼の祖父である藤原為家への情愛が感じられる一首。
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女の亡くなりて侍りけるに、服着るとて詠める
二〇一八 我がために着よと思ひし藤衣身にかへてこそ悲しかりけれ
訳】娘が亡くなりましたので、(喪)服(を)着るということで詠んだ(歌)
二〇一八 「私の葬式のために(あなたが)着なさい」と思って(仕立ててお)いた喪服(なのに)、私が(あなたの葬式のために)着ることになってしまって悲しくてならないことだ。
※娘の死を悼む一首。作者は平兼盛女(赤染衛門母は赤染衛門を妊娠したまま平兼盛と離婚し、赤染時用と再婚したとされる)。夫は大江匡衡。『百人一首』(五九)でも知られる。




