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賀歌上

『玉葉和歌集』六七首、『風雅和歌集』五六首より。

〈玉葉和歌集〉


  題しらず

一〇三七 塩竃(しほがま)の磯のいさごを包みもて御世の数とぞ思ふべらなる(壬生忠岑)


訳】題しらず

一〇三七 塩竃の磯の(数限りない)砂を(袖に)包み持って、(これを永遠に続く君の)御代の数(である)と(誰もが)思うに違いない。

 ※屏風絵の中の人物を見て、もしくは祝宴での指示で詠んだと思われる一首。作者は『古今和歌集』の撰者の一人(先祖不明)。


     ◆


  (従一位倫子六十賀し侍りける時、后三人行啓侍りて、人々歌詠み侍りけるついでに)

一〇三九 珍しき今日のまとゐは君がため千世に八千世にただかくしこそ(藤原行成)


訳】(藤原道長の妻の一人である従一位(源)倫子(のための)六十歳の祝いをなさいました時(に)、(長女の一条院后彰子・次女の三条院后妍子・四女の後一条天皇后威子の)后三人(が)お出ましになられて、人々(が)歌(を)お詠みになった機会に(詠んだ歌))

一〇三九 (世にも)珍しい今日の(人々が輪になって座っている)団欒は、君のために、千代も八千代も(永遠に)ただこうしていることでしょう。

 ※「君が代」の下敷きとなった古今集(三四三)を本歌取りして詠んだ一首。作者は藤原基経の来孫(五代子孫。藤原基経-忠平-師輔-伊尹-義孝-行成)。


     ◆


  小一条左大臣五十の賀の屏風歌とて、人の詠ませ侍りけるに

一〇四四 大空をめぐる月日のいくかへり今行く末に逢はむとすらむ(藤原道綱母)


訳】小一条左大臣(と呼ばれた、義理の叔父の藤原師尹(もろただ)の)五十歳の祝いの(ために作られた)屏風(に書き付ける)歌ということで、(師尹の兄である)師氏が詠ませなさったので(詠んだ歌)

一〇四四 大空をめぐる月日が何度も(めぐって限りがないように)、(左大臣は)今(から)行く末に(かけて、何度も限りなく計賀の喜びに)巡り会おうとなさることでしょう。

 ※夫・兼家の叔父である藤原師尹(もろただ)の五十歳を祝うために詠まれた一首。作者は藤原兼家の妻の一人で、藤原北家を興した藤原冬嗣の来孫(五代子孫。藤原冬嗣-長良-高経-惟岳-倫寧-道綱母)。藤原倫寧女、右大将道綱母とも。『蜻蛉日記』・「百人一首」(五三)でも知られる。


     ◆


  題知らず

一〇四八 千々の春(よろづ)の秋に長らへて月と花とを君ぞ見るべき(源実朝)


訳】題知らず

一〇四八 何千年もの春や何万年もの秋を長らえて、(物のあはれの象徴である)月と花とを(我が)君こそが見るに違いない。

 ※「千々の春」に「万の秋」という京極派好みの対句的表現を取り入れた一首。ここでの「君」は後鳥羽院を指す可能性が高い。


     ◆


  堀川院の御時、中宮、近衛の御堂に渡らせ給ひて、松久緑といふことを講ぜられけるに

一〇五〇 松影の映れる宿の池なれば水の緑も千代やすむべき(源俊頼)


訳】堀川院の御代(に)、(堀川院の)中宮(である篤子(とくし)内親王が)、近衛の御堂に渡らせ給ひて、「松が久しく緑である」ということを(歌題として)読み上げたので(詠んだ歌)

一〇五〇 松の姿が映っている池の庭であるので、(その)水の緑も(松の緑のように)千代に澄み、(また中宮篤子も)千代に住むに違いない。

 ※松に寄せて長寿を祝う一首。


     ◆


  御かへし

一〇五二 祝ひつる言霊ならば百歳(ももとせ)の後も尽きせぬ月をこそ見め(醍醐天皇御製)


訳】返歌(として詠んだ歌)

一〇五二 祝福している言葉に(言葉に宿ると信じられている)霊力(=言霊)があるならば、(生まれてきた子は)百歳の後にも尽きることのない月を見るであろう。

 ※村上天皇の生まれた際に贈られた祝いの歌に対する返歌として詠まれた一首。作者は宇多天皇の皇子。現在に至るまで臣籍の身分として生まれた唯一の天皇として知られる。


     ◆


  正応二年三月、鳥羽殿に行幸ありて、花添春色といふことを講ぜられし時

一〇五九 桜花おのが匂ひもかひありて今日にしあへる春や嬉しき(西園寺公衡(きんひら)


訳】正応二年(一二八九年)三月、鳥羽殿(とも呼ばれた鳥羽離宮)に行幸があって、「花、春色を添ふ」ということを読み上げた時に(詠んだ歌)

一〇五九 桜の花(よ、)自分の照り映える美しさも(そのように咲き誇った)甲斐(が)あって今日(の晴れがましい行幸)に逢うことのできた(この)春こそが嬉しいだろうよ。

 ※桜を擬人化して呼びかけた一首。作者は西園寺実兼の子。権門歌人。


     ◆


   関白、少将にて慶び申し侍りける次の日、前関白の許へ詠みてつかはしける

一〇六三 さしのぼる光につけて三笠山影なびくべき末ぞ見えける(二条為氏)


訳】関白(である鷹司冬平が)、(弘安七年(一二八四年)に近衛府の右)少将になられたということでお喜び申し上げました次の日、(その父親で)前関白(であった鷹司基忠)の許へ(お祝いとして)詠んで送った(歌)

一〇六三 さし昇る(朝日の)光によって(藤原氏の氏神である春日大社の後ろにそびえる神聖な山である)三笠山(に例えられる近衛府の、少将になられたご子息)の影が(当然)靡くに違いない(影靡く星の異名を持つ内大臣の位に当然就くに違いない)将来が見えることだ。

 ※別称を駆使して個人的なお祝いを述べるために詠まれた一首。


     ◆


  承保二年四月、清涼殿にて久契明月といふことを講ぜられけるついでに

一〇六八 静かなる気色(けしき)ぞしるき月影の八百万代を照らすべければ(白河院御製)


訳】承保二年(一〇七五年)四月、清涼殿にて「久しく明月に契る」ということを読み上げた機会に(詠んだ歌)

一〇六八 (世の中が)平穏無事である様子がはっきりと分かった、月の光が(この先)いつまでも栄え続く世を照らすに違いないのだから。

 ※「八百万代」と「月」の取り合わせが珍しい一首。作者は後三条天皇の第一皇子。院政を始めたことで知られる。


     ◆


  文永三年三月、(しょく)古今集竟宴(きゃうえん)を行なはせ給ふとて、詠ませ給うける

一〇九四 三代までに古今(いにしへいま)の名も()りぬ光を磨け玉津島姫(後嵯峨院御製)


訳】文永三年(一二六六年)三月、(十一番目の勅撰和歌集である)続古今和歌集(の編纂を終えた後の祝いの席である)竟宴(きょうえん)をなさるということで、お詠みになった(歌)。

一〇九四 (古今集の醍醐天皇の代、新古今集の後鳥羽院の代、今回の続古今集の私自身の代の)三代までに「古今」の名も時を重ねた。(その栄)光をいっそう立派なものとしてくれ、(和歌の神の一人である)玉津島姫よ。

 ※続古今集竟宴(きょうえん)和歌としては巻頭歌。


     ◆


〈風雅和歌集〉


  百首歌奉りし時

二一五六 限りなき恵みを四方に敷島の大和島根は今栄ゆなり(二条為定)


訳】(貞和二年に)百首歌を献上した時(に詠んだ歌)

二一五六 限りのない(主からの)恵みを(国内の)四方に 広くゆきわたらせて、日本の国は今まさに栄えているところである。

 ※愛国百人一首(四一)にも採られた一首。「敷」は「敷く( 広くゆきわたる)」と「敷島」の「敷」との掛詞。「敷島の大和島根」=「日本の国」。


     ◆


  (宝治百首歌の中に、寄日祝といふ事を)

二一六三 我が君の大和島根を出づる日は(もろこし)までも(あふ)がざらめや(花山院師継)


訳】(宝治百首歌の中に(あった)、「寄日祝」ということを(詠んだ歌))

二一六三 我が君の(治めている)日本から昇る太陽は唐の国までも仰ぎ見ないだろうか(いや、仰ぎ見るだろう)。

 ※「日本は日出づる国であり、我が君は日出づる処の天子である」という意識が透けて見える一首。作者は藤原道長の雲孫(うんそん)(八代後の子孫。藤原道長-頼通-師実-家忠-忠宗-忠雅-兼雅-花山院忠経-師継)。


     ◆


  後鳥羽院御時、五人にニ十首歌を召して百首に書きなされける時、祝歌

二二〇一 逢ひがたき御代にあふみの鏡山曇りなしとは人もみるらむ(藤原秀能(ふじわらのひでよし)


訳】後鳥羽院の御代に、五人に(それぞれ)二十首の歌を提出させなさって(全部で)百首としてお書きになった時(に提出した)、祝いの歌

二二〇一 めったに遭遇することのできない(素晴らしい後鳥羽院の)御代に遭遇する(ことのできた我が)身は、近江国の鏡山(の名)のように(一点の)曇りもないと(私は元より)人々も見ているであろう。

 ※本心を歌にしたと思われる一首。作者は承久の乱での後鳥羽上皇側の大将軍を務めた藤原秀康の弟で、後鳥羽院の北面の武士。


     ◆


  仁安(にんあん)元年大嘗会(だいじゃうゑ)辰日(たつのひ)退出音声(たいしゅつおんじゃう)、音高山

二二〇七 吹く風は枝も鳴らさで万代(よろづよ)と呼ばふ声のみ音高の山(藤原俊成)


訳】仁安元年(一一六六年)(十一月十五日から四日間行なわれた六条天皇の)大嘗祭の(二日目である)辰の日(の節会の楽人たちの)退出のための音楽(のために)、「音高山」(という歌題で詠んだ歌)

二二〇七 吹く風は枝も鳴らさない(ように天下泰平)で「万代」と呼び続ける声だけが(近江の)音高山(のように音高く響いている)。

 ※近江の音高山(あるいは音+高山の形で高山に音を添えたもの)を詠んだ一首。「吹く風は枝も鳴らさで」は世が泰平であることの比喩。


     ◆


  暦応(りゃくおう)元年大嘗会悠紀方(ゆきがた)神楽歌、近江国鏡山

二二一一 岩戸あけし八咫の鏡の山かづらかけて(うつ)しき明らけき()は(九条隆教(たかのり)


訳】暦応元年(一三三八年)(に行なわれた、光明天皇即位後の)大嘗会の(左右のうち)左方の(歌である)神楽歌、近江国(の歌枕である)鏡山(を決まりに沿って詠み込んだ歌)

二二一一 (天の)岩戸を開けた(時に天照大神の姿が映ったとされる)八咫の鏡の(名を持つ)鏡山の山かずらを頭にかけて(踊った天鈿女命(あまのうずめのみこと)のお陰で天の岩戸が明けられたように)、(光明天皇の御代は)現実に存在する明るく良く治まった輝かしい(御)代(になるだろう)よ。

 ※神話を踏まえてよくまとめられた一首。『風雅和歌集』の巻軸歌。作者は歌道家・六条藤家の嫡流で、藤原不比等の裔(藤原不比等-房前-魚名-末茂-総継-直道-連茂-佐忠-時明-頼任-隆経-顕季(六条藤家の祖)-顕輔-重家-顕家-知家-行家-隆博-隆教)。

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