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こころが先かことばが先か―『為兼卿和歌抄』を真剣に読む。  作者: 村咲 春帆
私家版『為兼卿和歌抄』。
130/180

読解篇

語釈篇では細切れだった「訳文」を、一括掲載にしてみました。

遂に野望を叶えることができました。

市販では見かけたことのない全文完訳をお楽しみいただければ幸いです。


教科書風を標榜するならば、各章のタイトルは、(『伊勢物語』における「東下り」のような)独自のものをつけるべきなのでしょうが、勝手につけるのはおこがましいということで、『枕草子』形式を採用しています。

(一)歌と申しますものは(頁001~頁004行008)


 歌と申しますものは、近ごろ花下連歌に群がり集まるアマチュア歌人などが広くお思いのところだけではありません(イマドキのアマチュア歌人たちが集まって好き勝手に詠んでいるものだけが歌なのではありません)。(弘法大師の『文筆眼心抄ぶんぴつげんじんしょう』に言う)「心にある(もの)を志と言い、言葉に現れる(もの)を詩歌とする」と(いう言葉)は、皆知っていますけれども、耳で聞いたり、口ずさんで楽しんだりしますだけで、(歌の)本質を身につけます点(については)、はっきりしませんので、ただ知らないのと同じことに成り果てておしまいになったということ(を)、問題とします。しかしながら、我も我もと(どの歌論が正しいかという)戦の勝負を(どの歌論が正しいかという)戦の勝負を競い、学識を目立たさせます以前は、どちらが正しくどちらが間違いか、知りがたいように見えましたけれども、この(和歌の)道は(『近代秀歌』に言うように)浅いように見えて深く、易しいように見えて難しく、(仏の説いた教えである)仏法とも同じものでございますので、(歌論の)善悪を問い極めなさいますような時(に)は、私心を抱くことがあるようなところは(正しい歌論とは)条件が合致しないのではないでしょうか。そうであるから日本と中国の字(である、かなと漢字)に基づきまして、(唐の歌である)漢詩・(やまとの歌である)和歌とは申しますけれども、内心で揺れ動く感情を表に明らかにして紙に書きますことは、まったく変わるところがないのではないしょうか。「文」と申します(語)も(日本と中国で)同じことばでございますということは、弘法大師(と呼ばれた空海)の(お書きになった『文筆眼心抄』の)ご内容にも詳しく見えているでしょう。対象と一体になりきることで起こる心情を声に出しますことは、(『古今和歌集』に言う)「花に鳴く鴬、水に棲む蛙」(のような)すべてのあらゆる生き物をひっくるめてみな同じことでございますので、(『古今和歌集』の仮名序の一節として名高い)「この世に生きているすべてのもの(のうち)、どれが和歌を詠まないと言えようか」とも言い、あるいは植物一般を風が吹いて枝を鳴らすのも「柯は歌なり」と言って、それさえも和歌であるということ、樸揚大師(と称された智周)も説明なさっていらっしゃる」とかいうことだ。そうであるから、「天地(あめつち)を動かし、鬼神(おにがみ)をも感ぜしめ」(と古今和歌集真名序に言い)、(新古今和歌集仮名序にいう)「世を治める道」ともなり、(「多くの徳のはじめ、多くの福のもと」を意味する『新古今和歌集』真名序の一節)「群徳(ぐんとく)の祖、百福(ひゃくふく)(しゅう)なり」とも定められ、(物事の)善悪を問いただすことは、和歌よりも手近なものはない」などと言うのでしょうか。




(二)そもそもすべてのことを成就するには(頁004行008~頁008行010)


 そもそもすべてのことを成就するには、ふさわしいことを第一となさるからであろうか、伊勢神宮・石清水八幡宮・賀茂神社をまず第一とし申し上げて、日本に神の姿となって国民を救うために現れた多くの神々も、仏陀や菩薩も、神仏の化身も、代々の天皇も、(中でも)仁徳天皇・聖武天皇・聖徳太子、弘法大師・伝教大師以下、皆これ(和歌)をお詠みになる。東大寺を建立して落慶供養があろうという日(に)、行基菩薩は難波の岸にて(当時)婆羅門僧正(であった菩提僊那(ぼだいせんな))をお迎えになる時にも、


霊鷲山(りゃうじゅせん)の釈迦の御前で約束した永久不変の真理(というべき約束)が廃れずに(あなたと)再会したことだなあ」


とお詠みになる返歌にも、南方インドをはじめとしてやってきた婆羅門僧正(である菩提僊那)も、


「(釈迦生誕の地である)カピラバストゥでかつて(あなたと)約束した甲斐があって文殊菩薩(の化身とも言うべきあなた)の御尊顔に再会したことだなあ」


と(天竺にはない文化であろう和歌を天竺人の菩提僊那が)お詠みになるのも、(わが)日本国にやってきたので(それに)相応の言葉を(使用することを)第一として、和歌を詠んでいる(と言える)。総じて(わが)日本国は「神が支配し守護する国」であるから、神はとりわけ和歌を用いてだけ、多く(の場合)は(神の御)意向をも(和歌で)表現なさるのも、(和歌が神に)相応しいからだと申しあげるのでしょう。そうであるから(和歌の)道をも守り、(それによって)神仏の霊験があらたかであるということも先例が多くてございますのではないでしょうか。


 そもそも、物事に関連づけて言葉と心とがつり合っている間柄を念入りに理解することは、必ずしも(『古今集』に言うように)植物や動物だけに限るべきではないので、全ての分野の善悪もこれ(=和歌)に心を向けたと言えるでしょう。四季折々の風物によって心を和歌に向けて(和歌で心を)表現すようなのも、(風物に)関心を寄せ、並大抵でなく心に深く思い込んだからであろう。(空海も)「絶対にしっかりと四季に相応しい(言葉)を使え。春夏秋冬の雰囲気を(その)頃合いに応じて心を集中させて、これ(=言葉)を使え」ともありますので、春は桜の雰囲気、秋は秋の雰囲気に、心をしっかりと合わせて、(対象から)心を離さずに(歌を)作って言葉に表現するならば、四季折々の表現内容の真実味も表現され、宇宙全体の意図にも相応しいに違いないでしょう。(空海も)「生まれ持った性質は天の(ことわり)に合う」ともありますからでしょうか。




(三)(歌作りの)稽古に力を入れる人も(頁008行010~頁014行009)


 (歌作りの)稽古に力を入れる人も、才能と学識をえり好み、(和歌の)道理を考えてばかりいながら論争している時、昔の優れた歌人の言葉をも自分の側の趣旨に(合うように)だけ解釈し、心を込めないで間違って判断し、(そのせいで)自分のものとして身につけるものがない。身につけるものがなければ上達もない。(自分が歌を)詠み始める段階でも、疑問点を挙げる折にも、(それ以前と)同じ周囲の中から超越することがないということ(を)、問題としているのです。そうであるから、長年にわたって「花下連歌」ばかりをずっと好んで精を出す様子であっても、昔の歌人でそれほど心がけて(和歌に)励んだとかいうことだとは思われなかった歌人に(比べて)も、(花下連歌に入れあげる歌人の)詠んだ歌の品格(は)、遥かに隔たっていて(昔の歌人に)及ぶことがない。


 京極入道中納言定家(が)、千首(もの歌)を詠んで(定家に)送る人への返事に書いたように、「歌は必ずしも千首・万首(と数)を詠むまでもない。その(和歌の)道を心得て詠む人は、(たった)十首・二十首によって(その成果が)現れるであろう。そうであるから(もし)千首万首もの歌を詠むほどの求道心であるのであれば、(正しい)歌の様式を(師に)問いただして詠むのがよい」と(定家が)言っているのは、最も重要であるに違いない。


 身分の低い階層のアマチュア歌人の中に、疑問点を口に出し、学識を目立たさせる人であっても、「ひさかたの空」とはどうして(そのように)言うのか、「あらかねの土」とはどのような気持ちで言い出したのか、などという(些細な)ことばかりを質問しているのを、素晴らしいことと(勘違い)している。これも本当にすべき質問ではあるけれども、このような質問はただそうと知るだけであって、(わざわざ質問するほどの)大きな利益はない。歌とはどのようなものか、どのように(心が)傾いて、どのように詠むのが良いのか、上手とはどのような(歌)を言い、下手とはどのような(歌)を(言うのかを)理解するべきか、昔と今の(歌の詠みぶりが)変わったのはどこが変わってしまったのか、どのようにすれば(その)歌人が巧みである(とか)劣っている(とか)をも理解する(ことができるのか)、(どのようすれば)自分も歌人となって上達することができる(のか)などは、真っ先に(抱くべき)ひたすらの疑問点にもきっとされるべきであるのに、そのようには皆(歌に)向き合わずに、入れない方面から(歌の道に)入ろうとし、叶わない方法によって昔(の歌人)にも匹敵しようなどとばかりする連中(は)、自分の愚かさによって、他人の心がこのように(当然の)質問することをもねたみ、不都合な方面へばかりことさらに強調して言うのである。


 古歌を多く覚え、(歌道の)家々の(それぞれの歌の)注釈書を見るだけによって歌が上手に詠まれるのであれば、後世の人こそ(歴代の古歌名歌を)順に見ると、必ず(和歌が)巧みになって当然である。しかし(実際には、歌聖と崇められている)柿本人麻呂・山部赤人をはじめとして、(歌を詠むのは)自分から真実のあるところであって、誰かを真似したり、誰かを手本としたりはしなかったけれども、これに匹敵しないことを恥じることは、昔の優れた歌人たち全体の(思っている)ことである。昔の(優れた)歌人に肩を並べようともし思うならば、昔の(優れた)歌人に劣らないところ(を持つに)は、どこより(始めて)どのようにするのこそが良いだろうかと、対抗できないまでも、このように考えることこそが詳しく大事なことであってもよいのに、ただ(歌の)表現の仕方・(歌の)言葉の上辺を真似ただけで(昔の優れた歌人たちと)肩を並べている気がしているようでは、(昔の優れた歌人たちに)対抗できますでそうか(いや、できないでしょう)。昔の優れた歌人は自分から(和歌への)愛情を(歌として)述べる。当代の歌人はそれを真似ようとする考えであるから、(上辺を真似るだけとは)大いに異なっているのである。




(四)京極入道中納言(定家卿が『近代秀歌』の中で)、「(宇多天皇のご治世であった)寛平年間以前の歌に肩を並べようと(頁014行009~頁017)


 京極入道中納言(定家卿が『近代秀歌』の中で)、「(宇多天皇のご治世であった)寛平年間以前の歌に肩を並べようと(歌を)詠んだのは、物事の本質(を)理解しわきまえていない人は、(歌に関する)新しいこと(が)生まれることで、歌道(が)新しくなってしまっていると(勘違いをして)言うであろうに違いない」と言っている。本当にその理屈(には)厚みがあることであろう。そうであるから鎌倉右大臣(と呼ばれた)征夷大将軍・源実朝に(定家卿が師として)歌道を伝授し申し上げる(時)にも、寛平年間以前の歌に肩を並べようと詠むべきであるということを申し上げる。(数ある)年号の中で寛平と指名する真意は、(それ以前の)光仁天皇のご治世(に)、参議(であった)藤原濱成(ふじわらのはまなり)(が)、(『歌経標識』と名づけられた)和歌式(という書物)を作り、宇多天皇のご治世(である寛平年間には)、孫姫・喜撰法師(までもが)(それぞれ『孫姫式』『喜撰式』という形で)積み重ねて(和歌の)作法を作り、歌の修辞上の欠陥を定め、同じ言葉(を一首のうちに)二度は詠んではならないことになり、(歌を詠むのに不可欠な歌を詠もうという)心(さえ)も生じない連中(であって)も、題詠という詠み方が盛んに行なわれて、折句・沓冠など(の和歌技法)までも(その)人の才能(ということ)にして詠む(という)表現の仕方が、寛平年間から盛んになってしまった。これを非難して、(定家卿が、宇多天皇のご治世であった)寛平年間以前(を手本に)とは言うのである。『古今和歌集』でも、仮名序・真名序ともに歌(が時代が下るにつれて)劣化していっていることを述べている。『万葉集』の時代は、(歌を詠むのに不可欠な歌を詠もうという)心が生じるところにまかせて、同じ言葉(が一首のうちに)二度言われる(こと)をも嫌がらず、(歌に)公私(の区別)もなく、歌語(か)、(歌語ではない)ただの言葉(か)と(区別すること)も言うことなく、(歌を詠むのに不可欠な歌を詠もうという)心が生じるに随って、思いにまかせて(歌として)口に出して言っていた。(だから万葉集の時代の歌人は)心の本性を使い、(胸の)内に揺れ動く心を(歌として)外に表現するのに巧みで、(歌の)趣向も(歌の)言葉も(歌の)様式も(歌の)本性も(歌の)優美さも(歌の)勢いも、一様に作者の□□□□□、あれもこれもすべて(万葉時代と現代とでは)別のことであるから、(万葉時代の歌は)高尚でも(あり)深みも(あり)重々しくもあるのである。




(五)これに肩を並べようと(『万葉集』に)向き合っている(歌人の)人々が(頁018~頁025行006)


 これに肩を並べようと(『万葉集』に)向き合っている(歌人の)人々が、(歌を詠むのに不可欠な歌を詠もうという)心を優先して(歌を詠むための)言葉を思いのままに使う場合(に)、(一首の中に)同じ言葉をも詠んだり、先人の詠まなかった言葉をも遠慮するということなく詠んでしまった(という)ことは、入道皇太后宮大夫(だいぶ)(と呼ばれた)俊成、京極入道中納言(と呼ばれた定家)、西行、(死後に)慈鎮和尚(と呼ばれた慈円)など(に至る)まで殊更に多い。


 そうであるから五条入道(と呼ばれた俊成)が(「思へば」を一首の中に二度入れた)、


「(見てもまた)思へば夢ぞあはれなるうき世ばかりの惑ひと思へば」


とも詠み、「暦を巻き返してなほ春と思はばや」とも「(ほた)さし合はせて」などの(ように先人が使わなかった言葉を新たに使っている)例(も)多い。(一首の中に)同じ言葉(を)二度(使うことが)あるのも、人によって(は)正式な歌合でも非難しない。


 慈鎮和尚(じちんかしょう)(と呼ばれた慈円)が、百首(が)そっくりそのまま勅撰集に入集するほどの(出来の)歌を詠んで日吉大社に納めようということで詠まれた時も、初句の五文字に(先人が歌に用いたことのない言葉である「参る」を用いて)「参る人の」とも(漢語由来の言葉である「(らち)」を用いて)「埒の外なる人の心は」とも詠まれている、(他人が詠まないような歌の)ありさまばかりではあるけれども、後鳥羽院(が)すべて(に)良しの印をお付けになって、(慈円の私家集である『拾玉集(しゅうぎょくしゅう)』に)収まっている。


 『新古今和歌集』(編纂の時)にもこのような論議まで出てきてしまった証拠に、昔の優れた歌人の歌ではなくて、今の世の(歌)人の中で(こうした語彙を)詠んでしまったとしても、良さそうな(歌)を、わざわざ入集するべきであるということ(を)、(後鳥羽院が)お命じになって、たくさん(そういう歌が)入集する中で、家隆卿(の)、


「逢えたと思ったら何事もなく夜が明けてしまったことだ。はかない夢の忘れがたい形見であることよ」


(と、)「なし」という(否定の)言葉(が)二か所(に)あるけれども、(『新古今和歌集』には)掲載されている。


 京極中納言入道(と呼ばれた定家卿)の歌にも、この(家隆卿の歌のような議論の対象になりそうな)表現の仕方も同じ(ような)和歌を詠んでいるけれども、自分の心に合う歌を、百首や十首の中でもそれだけを(評価して)覚え、(自分の)心に合わない歌を、昔の優れた歌人の歌であるから悪くは言わないけれども見捨てて、「その人の和歌の姿はこうでこそある」とだけ言うのも、すっかりその(定家の思考の)様子が見えることである。


 そうであるから右府将軍(と呼ばれた鎌倉幕府三代将軍で右大臣の源実朝公)は(奇抜な仮定を詠み込んだ)「山は裂け海は干上がってしまうような」とも(「得る」と「売る」という同音かつ反意の掛詞を使った)「市に現れる絶えることのない民衆も自分の思う人を売って得るとは聞かないことだなあ」など(独特の)風流な趣の歌も多くあるのです。


 入道民部卿(と呼ばれた祖父・藤原為家卿)も、


「自然と、まだ色を染めない木の葉を(紅葉と一緒に)吹き混ぜて、色色とりどりに吹き過ぎて行く風よ」


と詠んだのを、人々、「(この歌には)木の字が二つある。上の句(の第三句)を『染めぬ下葉』とは、どうしてしないのですか」と申したのにも、本当に「下の方の葉」と言えば、(時雨は上の方の葉から染めて行くので)染め残す(という)心も(歌に)込めている様子となって、(木の字を二度使うという)歌の修辞上の欠陥もなくなるので、人々(の中には)そういう由来のある方はいらっしゃるでしょうけれども、(吹き混ぜる)風に従って(目の前を)通り過ぎる木の葉に向かっては、(どれが)木の下の方の葉だろうか、上の方の葉だろうか、実際には分からず、ただ木の葉とばかり見えるのに、(下の方の葉を意味する)下葉と言うと歌の姿が、整わなくなる、(だから改変せずに)ただそのままにしておくべきであるということを、申し上げて(そのままにしたのであって実際には)、(和歌の)修辞上の欠陥ではございます。それとは別にその(充分吟味した上で和歌の欠陥を受け入れるという)心境には落着せずに、上辺ばかりを真似て、わざわざ先人が詠まない言葉を(先人が詠んでいないからという理由だけで選んで和歌に)詠み、(一首の中にわざと)同じ言葉をも詠むようなのは、どう考えてもそれをするだけの甲斐がない。


 今このような新風を求める東宮歌壇の意欲的な活動に加わって、古歌の姿(さえ)も理解し果たしていない連中も、かろうじて(東宮歌壇の活動を)真似て詠むこともあるので、これ(=古歌の中にある改変することのできない欠陥)を探り出してて(不要な)ことを言い添えてしまう。それとは別に思いもかけない句を取り替え、様々のことを新しくこしらえ上げて、披露する例(を)耳にする。(三条)実任(さねとう)侍従の歌で、「軒の雀の巣に通う声よ」と詠んだとかいうことだ。この歌をも当代の和歌の姿として愛でもてはやされる歌としようとして、「なげしの上に雀(が)巣食っている」などと(軒をなげしに)改変して披露する人があるということを耳にする。(そういう改変は)どう考えても前述の(先人が選ばない言葉をわざと選ぶような)無益さと同じように見えるのではないか。そもそもは、雀(は)、(『古今和歌集』の仮名序で知られる紀)貫之卿も歌題として出し、京極中納言入道(と呼ばれた藤原定家卿)も(歌に)(「鳴子引く田のもの風になびきつつなみよる暮れのむら雀かな」と)詠んでいる。鴬(の歌)にも(「鶯の去年(こぞ)の宿りの古巣とや我には人のつれなかるらむ」のように)「古巣」とも詠む(例があるのだから)、(燕が巣に通うと詠むことに)どうして差し障りがあろうか(いやない)。この侍従(であった三条実任は)、このような(二条派の)歌風で、新風を求める東宮歌壇の意欲的な活動を詳しくお聞きして詠む(という歌風)でもないので、どうなろうとも良いけれども、このような(無駄な添削が話題になる)例(は)多い。




(六)ただ明恵上人が(自ら撰んだ)『遣心和歌集』(の)序文にお書きになっているように(頁025行006~頁028行009)


 ただ明恵上人が(自ら撰んだ)『遣心和歌集』(の)序文にお書きになっているように、「(歌が)風流であるのは(詠み手の)心が風流なのである、(『万葉集』の時代から)今でもまだ必ずしも言葉(の風流さ)に拠りはしまい。(歌が)優美なのは(詠み手の)心が優美なのである。どうして表現の仕方に限ってあることだろうか(いや、表現の仕方とは限らないかもしれない)」ということで、心に思うことはそのまま(歌に)お詠みになっているので、(上人の歌は)世間並みの(趣向)でも趣深い(歌)もあり、みっともないほどの俗語たち(を使った歌らしくない歌)も、まるで『万葉集』のように(自由自在に)お詠みになっているけれども、心の傾け具合は、決して少しも(万葉歌人たちと)変わるところはございますまい。(上人は)今もその歌風を誓い定めて(しかもその歌風を)好んで詠み、(歌が)趣向を凝らし過ぎて嫌味になって問題になるということもない。


 桜でも桜でも月でも、夜の明け(たり)日の暮れ(たりす)る様子でも、あることに(心を)傾けてはそのことになりきり、その真実の姿を表現し、その様子をいつまでも心に留めて、それに対して自分の心の働く様子をも、心に深く委ねて、心に言葉(の選択)を任せると、趣が深い風流なこと(が)、(和歌の)味わいをすっかりずっと深くする(という)のは、(それだけ自分が)考えを及ぼすだけであるから、(自分の考えの範囲を広めてくれるような)他人の干渉(を)、一途に嫌がる必要もないことである。言葉(という方法)で心を詠もうとする(こと)と、心にまかせて言葉がだんだんと美しく輝いていく(こと)とは、変わっているところがあるので。どんなことでもあれ、そのことに(もし)直面するならば、それになりきって、(なりきるのを)妨害したり(そのこと以外のことと)入り混じったりすることはなくて、内(面の心と)外(界の事物とが)調和がとれて(一体化を)成し遂げること(は)、道義によって実行するのと、すっかりその(ようにしようという)心地になって実行するのとでは、(結果が)はるかに異なることなのである。




(七)このことを拠り所として古い歌でも(頁028行009~頁031行005)


 このことを拠り所として古い歌でも謎かけのような歌も、また(貫之が)「(朝露のおくての山田)かりそめにうき世の中を思ひぬるかな」と(古今和歌集に)詠まれたけれども「白露のおくての山田」(と詠むことで「白露の置く」と「晩稲の山田」)という言葉も(掛詞によって)結びつけ連れ添わせているが、またそれによってもっともなこと(に)、詠み手の意識によって、昨日は悪いということ(を)、今日は良いと言い、(ある)一人(の詠み手)に(は)長く(考え込んで)詠まない方が良いということ(を)言って、それとは別に他の詠み手には(長く考え込んでも)良いと言うこともある。京極中納言入道(と呼ばれた藤原定家卿が)新たに(歌を)詠んだものの、和歌所では今となっては(使用を)おやめになるべきであるということ(を)、指図(の)あった言葉なども、多くの人(が)本当には疑念がなくなっていないのに好みで詠む(という行為)を嫌って言っていること(なので)、詠み手によって見逃すのも、先例もあり、理由もあることである。


 世間一般(に対して)は、「天に関する現象と地に関する現象(が歌題として出された場合)はその文字(そのもの)を確実に(歌の中に)詠め」、「(歌題中の)用言の字は(そのまま歌に流用せず、)表現を構想することで(歌題の)意向を詠め」、「(複数の題を結び付けて出題される)結題(で詠む場合)は(一首の)上の句と下の句にその(題の)意向を分けて詠み入れよ」、「(歌に使う)言葉は三代集の中において追い求めるのがよい」ということも教え(ているが)、(歌に)深く入り込んで(詠むことができて)いる詠み手に向けては、それとは別に異なる(内容を教えている)こと(が)多い。それ(は)全て前述の理由(を)深くして、ただこのように言い残そうとだけ、昔の賢人の仕業・昔の優れた歌人の詠んだ歌、(これら)すべて(に)、自分の考える方法の(歌の)風情を付け加え(ることで)、しだいに(己の)取り分にさえもなっていくことであろうか。




(八)歌というものを特別な位置に置いて(頁031行006~頁036行002)


 歌というものを特別な位置に置いて、(そういう偏見を基に)その心を理解して、問題とする詠み手と、(偏見なく)本当に歌の心を理解する詠み手とでは、(歌への理解度が)異なっていること(である)。(例えば)花下連歌(に集まる程度)の連中風情のアマチュア歌人が問題とする(歌の)心とは、上の句に「旅衣」と言った時に、(「旅衣」の縁語「重ぬ」から連想して)「日数重ねて」とも(言い、「旅衣」の縁語「たつ」・「かへる」から連想して)「また立ち返る」とも言ったのは(安易でありきたりにもかかわらず)深い心を込めていると決め(つけ)、衣(という字)の(縁語が持ち合わせている)学問上の知識や理解(というものを)すみずみまで精査せずに旅の嵐(や)夜半の露にしおれる衣の様子によっていっそう「故郷が恋しい」などと(安易に)言い繕うだけでは一首としての構成力が足りない、などと決め(つけ)るのも、必ずしもそれほどする必要がないことだったのではないだろうか。


 立派である人々(が)集まった歌会で、(ある)殿上人(が)、


(『万葉集』の一首である)「浅香山の影までも見える(ほど澄んだ)山の(天然の)井戸の(ように)浅くは(あなたという)人を思うだろうか、いや思わない」


といった歌(のこと)を(話題として)言い出して、(天下の『古今和歌集』で)「歌の親」と言うほどの歌(であるから)、無用な言葉はまさかあるまいと思うけれども、(「(浅香山の)姿が映る山の天然の井戸」を意味する)「影見ゆる山の井」(という言葉)によっては(充分に)理解できますのに、(「までも」を意味する)「さえ」という言葉(は)、どうして詠み入れたのだろうか、不審であるということ(を)、申し上げたところ、それぞれ学問の見識のある人々(が)、「本当にこのように言う場合には疑わしい」(という同意)によって(その日の会が)終わってしまったけれども、かの采女(が)、この歌を詠んだ心(は)、どのような理由で起こって、どのように詠まれるべきところから(歌が)生じたのかと、(歌の)根源(と言うべき原典である『万葉集』)を拠り所として判断せずに、「山の井」と言っているので(単純に)それに心を傾けて詠んでいるように理解して(しまうことで)、疑問点(が)良い方へ向かわないのではなかろうか。(原典と言うべき『万葉集』の左注に拠るならば、この歌を詠んだとされる采女は)人妻であって他人に姿を見せて当然の身でもないのだけれども、(国司の)もてなし(が)良くないと(葛城王が)責めるので、(夫である)男が言うのに従って、(不機嫌な)かの葛城王(を)なだめようということで(接待のために酒席に)出てきた身であるので、(采女自ら)酒杯をとって(酌をして)でも、この(不機嫌になってしまった)葛城王をなだめようと思う気持ちであって、見せる必要もない(采女)自身の姿をまでも(葛城王に)見せ申し上げるのは、(国司が葛城王を)いい加減には思わないぞと言う(ため)に(采女が葛城王のそばに)寄って来た(ことで使われた)山の井(という言葉)であるから、(葛城王をもてなすための)話の種として(采女を)呼び寄せたことによってこそでございますのを、そのまま「山の井と言うのだから」ということで、この(「までも」を意味する)「さえ」(が修飾する言葉)を山の井自身と(いうことに)して理解するならば、本当に不審である。(采女)自身の影(ということ)にして理解してみると、疑わしいこと(は)ない。このようなことをさえ見分け(られ)ずして、(歌について)あれこれと思いめぐらしているような人々は、このように(低い程度に)ばかりであるに違いない。




(九)中納言入道(と呼ばれた藤原定家卿が)申したように(頁036行002~頁039)


 中納言入道(と呼ばれた藤原定家卿が)申したように、「(唐の不幸な女性として名高い)上陽人をも歌題として漢詩をも作り、和歌をも詠むのであれば、その学識だけを求めて(文字を)連ねて詠む(というだけの)中にも(作品の)良し悪し(の差)は多くあるけれども、(結局は)同じ程度を出ない(ような作品群)である。そうした作品群とは別にそれよりは(上陽人の)心情に入り込んで、上陽人は(どのような気持ちで)いただろうかと想像して詠んだのは、しみじみとした趣も勝り、古い歌の風体にも似るのである。ますます(上陽人の心情への理解が)深くなっては、そのまま上陽人(と呼ばれた不幸な女性)になった気持ちがして、(白居易の漢詩「上陽白髪人じょうようのはくはつじん」の一節のように)泣きながら故郷を恋しく思い、雨(音)を聞き(ながら夜を)明かし、朝夕を過ごすたびに自然と耐え忍ぶべき気持ちもしなくなっているようなところをも、よくよく(上陽人に)なりきってみて、その(なりきった)心から詠むような歌こそ、しみじみとした趣も深く(胸を)貫き、(詠んだ歌を)ちらりと見る、(それだけで)真情に感応したところもあるに違いありますまい」と殊勝に心をゆだねるのも趣深い。そうであるから恋の歌を(代詠しようと、夜具か何かを)頭からかぶって(引きこもり)、依頼人の気持ちに成り代わるとしても、(さも当事者であるかのように)泣きながらその(当事者の)心情を思いやって詠んだということだ。このように(自分自身の心と)向き合わない人の歌は、すっきりしていて、楽しい様子ではあるけれども、どういうわけか(歌の)優美さがさらに増し、(歌の)形勢が並大抵でないということはなくて、(その点が)古歌とは異なっていることである。


 そうであるから紫式部も(『紫式部日記』の中で)言っているように、「いやはやそれほどまでには(歌に)精通していまい、口によってたいそう歌が(自然と)詠み出されるらしい、こちらが恥ずかしいと思うほど立派な歌人だなあとは思われない。本当の歌人ではないのでしょう」などと言ったので(あろう)。

 お陰様で連載開始時に想定していた最終回を迎えることができました。

 もう少しお付き合いいただければ幸いです。

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