こころが先かことばが先か。
和歌を詠むために最も必要なものは何かと考えた時に、「こころが先かことばが先か」という論争がかつて、わが国ではあった。これが鎌倉期の京極派と二条派の争いである。ちなみに京極為兼(1254~1332年)擁する京極派がこころ派、二条為世(1250~1338年)擁する二条派がことば派である。――なお、第14代勅撰和歌集(のちの『玉葉和歌集』、1313年成立)の撰者の座を巡っての両者の罵り合いと泥仕合については「延慶両卿訴陳状」(1311年)に、二条派贔屓(筆者不明)による為兼叩きについては『野守鏡』に、本居宣長(1730~1801年)による為兼評については『玉勝間』(1793~1801年執筆、1795~1812年刊行)の「為兼卿の歌の事」に、為兼叩きについては『排蘆小船』(1752~1756年頃執筆か)や『うひ山ぶみ』(1798年執筆、1799年刊行)にそれぞれ詳しい。
「和歌はことばを得てのち、その心を表すものなり」(by『野守鏡』)つまりは「はじめにことばありき」(=選ばれた特別な言葉として伝統的に磨き上げられてきた『歌のことば』という手札を駆使して歌を詠む)というスタンスの二条派に対し、反二条派を突き詰める形で花開いた京極派は「心を先としてことばを欲しきままにする」(by『為兼卿和歌抄』)もしくは「心のままにことばの匂ひゆく」(by同上)つまりは「心の絶対的尊重」と「ことばの自由化」(=和歌とは心を表現するためのツールに過ぎず、自分の心を和歌という形にするためならばどんな言葉を使ってもいい)というスタンスを打ち出した。
往年の権威をすべて失って落ちぶれきっていた当時の貴族にとっての「和歌」は、「自分達と貴族の黄金期(=王朝文化の時代)とを結びつける最後のツール」「貴族に遺された最後の矜持」といった非常に特別な位置に祀り上げられたものであったから、「選ばれた特別な言葉(=平安貴族が使っていたことば)」で、いかにも平安貴族たちが行なっていたような「伝統的」な表現や歌風で和歌を詠む、ということが当時の貴族たちの心の隙間を埋め、世相への不安を和らげるためにはとても大切なことであった。平安貴族を理想とし、平安貴族の真似事をすることに命を懸けていた、と言っても過言ではないかも知れない。
そういった状況であったから、「伝統を重んじ、特別な学習をした選ばれた者にしか詠めないものとして和歌を特別視する二条派」が当時の和歌の主流であり、「自分の心と深く向き合ってより心に適う言葉を突き詰める努力さえ怠らなければ誰もが詠めるものとして和歌をただの自己表現の手段化してしまった格好になる京極派」が傍流に過ぎなかったこと、しかも室町初期には消えてしまったことは当然の結果であったろうと言える。江戸時代には本居宣長をはじめとして二条派を齧った国学者から異風と貶められたのもまた致し方なかったと言える。今でこそ「口語自由詩」(明治40年〔1907年〕~)と呼ばれる自由な詩の世界が広がっているけれども、詩と言えば「唐歌(漢詩)」か「やまとうた(倭歌・和歌)」しかなかったご時世である。自由さというものは時代に求められていなかったのかも知れない。――だからこそ本居宣長は為兼とは真逆の「心に思うことをありのままに思う通りに言うと必ず、歌の体をなさない(心に思ふことをありのままに思ふ通りにいへば、歌をなさず)」(by『排蘆小船』)・「歌の言葉さえ本物であれば必ず、心はさほど深くなくとも、自然に言葉の美しさに引っ張られて心も深くなるものだ(詞さへ麗しければ、意はさのみ深からねども、自然と詞の美しさに随うて、意も深くなるなり)」(by同上)と主張したのかもしれない。
では、大部分の人が「和歌の権威」とやらを必要とはしない現代ではどうだろうか。
もし現代で「こころが先かことばが先か」という論争が起こったならば、またしても「ことば派」が勝つのだろうか。仮に「やまとことばで歌うからやまとうた」「やまとことばで歌うものだけがやまとうた」といった言葉の制限があったとしても、短歌(≠和歌)を生み出した現代に、「正しい言葉、歌専用の美しい言葉が使われたものだけが短歌」という理論は「心を詠む」という絶対的な使命を果たし得るだろうか。
「いや、『こころ派』が勝つだろう、むしろ勝ってほしい」と思う私は、「こころ派」を増やしたくて、京極派唯一の歌論書『為兼卿和歌抄』を真剣に読むことにした。
どのくらい真剣にかと言えば、「宮内庁書陵部蔵為兼卿和哥抄」を自分で翻刻しつつ、陽明文庫蔵本並びに時雨亭文庫蔵本と校合して古文の本文を作成、なおかつ文法全解した上で、現代語訳しながら読んでいこうとする程度には真剣に、である。
興味のある方は、お付き合いください。




