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第3話 家庭教師

「今日から、家庭教師(ガヴァネス)をつけることとする。お前ももう6歳だ。倒れていた遅れを取り戻さねばな。しっかりと励むのだぞ」


 朝食のあと、ナタリアが口を開いて街に出たいという前に彼女の父親はそう言った。有無を言わせない口調で、少しだけ娘に語りかけるような優しさを内包して。

 あくまでも優しげな言葉であったが、


「はいっ!」


 ナタリアは、さながら軍人のように強く同意の言葉を発していた。父はそれに微笑み頭をぽんぽんと撫でてから彼は執務室へと向かう。

 年下の父親にそんなことをされても嬉しくはないが、臆面にも出さない。それよりも仕事に行く父親を見送る。彼の仕事は多い。今は戦争はやっていないが、常に魔物という危機がある。それに備える必要があるし、それだけでなく領主として仕事は多いのだ。


 母親は従者を引き連れて街へと出ていく。最近出来たという機関サロンにでも顔を出すのだろう。公爵夫人として社交場での自慢話をしつつ話を聞くのだ。

 豪奢な服装は忘れずに大きな帽子を被り、煤避けの傘をさして優雅に出て行った。共働きの子供の気分である。まあ、子供なのだが。


 弟は世話係に連れられていく。まだ幼い彼は世話係と遊んだりするのだろう。羨ましい限りである。ナタリアもまたメイドに連れられて部屋に戻った。そして、


(勉強!? やりたくない!)


 今更ながら拒否を示した。問答無用、有無を言わせぬ空気というのには、前世のおかげで反射的に頷いてしまう自分を殴りたいナタリアであった。

 企業の上司などその典型だ。出来るよね? と言われてしまえば、出来ないとは言えないのが木端社員の悲しい現状なのである。


 それでも、貴族の令嬢や子息ならば誰もが通る道だというのでやる以外に選択肢がない。逃げ出したくもあるが体面がある為逃げ出せないのである。

 しかも、やることが多い。


(えっと、やるのは礼儀作法に歴史、算術、国語、剣術、魔法、蒸気機関学などなど? いやいや、多い。六年かけてやる? 社交界デビューまで? …………今更勉強なんてしたくない)


 貴族の令嬢として必要そうなのは少なくとも礼儀作法に歴史、算術に国語くらいだろう。嗜みとして剣術はあるかもしれないが、蒸気機関学は意味がわからない。

 蒸気機関が異常発達していることはナタリアもわかっているが、それを貴族の令嬢が学ぶ理由がまったくもって不明だ。


 いや、実はその理由は知っている。レディ・ジャスミンという女性が原因だ。彼女は才色兼備を地で行く女性であり、彼女は男が仕事をし女は家事や後ろに立って男を引き立てるのが普通のところで男顔負けの活躍をして見せたのだ。

 それによって世の女性の意識や価値観を大きく変えたという。女性が前に立つことが出来るようになったのだ。それが女性の社会進出に繋がり、今ではジャスミン主義と呼ばれているという。


 その広がりは尋常ではなく貴族は男児が継ぐ者であるのが、女児でも継げるようになり大貴族の令嬢でも多方面の知識や家の格式にあった実力が必要とされるようになった。

 そのため、多くの知識を詰め込む必要があるのだとかなんだとか。そんなことはしたくないが、気になるのも事実だった。


 蒸気機関。そんなものは前世ではとんとお目にかかれるものではない。それが、普通以上に異常発達しているとあればその実態を知りたいと思うのは人の性だろう。

 それで一教科増えるとあっては嫌にもなるが、気になるのもまた事実なのである。


「でも、勉強はしたくない」


 家庭教師を待っている最中、ナタリアはやる勉強について聞いたことを何度も反芻するが、興味は引かれるもやはり結論はやりたくないの一言に収束する。

 どうして死ぬまで働いてそのあと生まれ変わってまで勉強しなければならないのだろうか。生きるのに必要なことだとわかってはいるが、やりたくないと思うのは当然だろう。


 死ぬまで働いたのだから何もしたくない。諸々自由になってタガが外れると本当に何もやりたくなくなるのだ。

 しかし、やれと言われればやってしまうのが社畜の性。やりたくなくてもやらなければならないとなってしまう。さっさとこの性は治してしまいたいのだが、どうにもまだまだかかりそうだった。


(どうしよう。サボる……のは、駄目だ。あとで辛くなる。だったら……)

「全部終わらせよう。早急に」


 そして、そんな結論に至った。全部終わらせる。勉強する項目が終われば家庭教師はいなくなる。それ以降は何もやらないで良いのではないだろうか。

 メイドを呼びつけて話を聞いてみれば、全ての過程が修了したのであれば家庭教師に出る幕はないという。


「よっし!」


 ならば、あとの話は単純だ。習う範囲全てを一夜漬けでもなんでもして、終わらせる。これに限る。


「良し、やるぞ」


 ナタリアは、無駄にやる気を見せて最初の礼儀作法の授業に臨むのであった。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 礼儀作法の授業を行うのは中流階級の女である。公爵よりもいくらか格は落ちるもののれっきとした貴族が家庭教師としてみっちりと授業を行う。

 この場においては、先生と生徒。何をするにも全て先生に任されている。責任は重大だ。公爵令嬢がどこかで粗相をしたともなれば、その責任は全て家庭教師に向かうのだから。


 そのため、選ばれるのはそれなりの人物になる。なにせ、そんな重大な役割を担えるほどの人物と言ったらそれなりの大人物くらいしかいないからだ。

 だが、それでもこれはないだろうと、ナタリアは目の前に現れた人物を見ていた。


「あら、私の顔に何かついているかしら? レディ・ナタリア?」

「いいえ、レディ・ジャスミン、ええ、なにも。とてもお美しいです」

「そう? ありがとうレディ・ナタリア。あなたも可愛らしいわ」


 そう、あのレディ・ジャスミンと呼ばれる女性である。深い紫色の瞳と不思議な髪の毛をした女性。眼鏡に女教師特有のスーツといういかにもな姿をしている彼女は、自分からあのジャスミン主義を話す際に必ず登場するレディ・ジャスミンと名乗ったのだ。

 本にあるとおり、古ぼけた蒸気映写機でとられたらしい写真とまったく変わらない容姿の彼女を本人と認めるのはそう時間がかからなかったが、問題がいくつか生じることとなった。


 問題1。まず、レディ・ジャスミンと言えば、王国において最も有名な女性であるということ。そんな女性に家庭教師をさせているというのはとても申し訳ないことこの上ない。

 しかも、そんな彼女をさっさと追い出そうとしている。そのうち何か天罰だとかの罰が当たるんじゃないかとすら思うほどだ。


 問題2。いや、これは問題というほどでもないが証明の為に見せられた本が作られた年代が、少なくとも40年は前だということ。活躍し始めたのが彼女が20代の頃らしいので本当ならば60歳を過ぎている。

 だというのに、目の前にいる女性は二十代後半とかそのくらいにしか見えない。その事実に驚いてそれについて聞いてしまい、氷点下の視線を向けられたのは、もうトラウマになっているほどだ。


「では、さっそく授業に入りましょうか」

「はい、よろしくお願いします」


 にこりと微笑んだ、そんな所作すらも出来る女感バリバリのレディ・ジャスミンは、機関製本された教本を手に取る。それから始まったのは普通に家庭教師との授業だった。

 構えていたほどではなく、難しいことを言われるわけでもなく、わかりやすく丁寧に礼儀作法、喋り方などを一つ一つ教えられていく。


 無論、礼儀作法やマナーなど企業接待などで鍛えられた社畜からすればそれほど苦労するほどでもない。男女での違いはあったが、そのくらいだ。

 宮廷における作法や社交界での喋り方などなど多岐に渡り、レディ・ジャスミンの知識の深さには感服するばかりだ


 話はまったく退屈でなく面白いと思う辺り、流石は才女と言わざるを得ない。しかし、だ。それでも勉強は勉強である。

 これが本来のナタリアであったのならば、何も知らずホイホイと勉強させられていたんだろうが、中身はおっさんのナタリアからすれば、これもまたれっきとした勉強だ。勉強だとわからない分だけ詰め込まれる為厄介極まりない。


 壁にかけられた機関式時計がいつの間にか夕刻を示しているのが良い証拠だ。途中まですっかり乗せられていた自分にナタリアは腹が立つ。

 美人だからと言って、気を緩めたのが駄目だったか。何しろ胸も大きければ腰が細くくびれていて、エロいのがいけないのだ。


 それでいて格好は如何にもな女教師姿。エロすぎる。エロビデオの女優と言われた方がまだ自然だ。ほほえみを浮かべた表情は妖艶できっと男ならば誰もが食われてしまう錯覚を感じることだろう。

 下手をすれば女でも喰われてしまいそうなほどなのだ。それでも、機関製柱時計の鐘の音によって我に返ったナタリアは、すぐさま行動を開始した。


 随分と時間を無駄に使ってしまったのだ、ここからこのレディ・ジャスミンにこの礼儀作法の全工程を聞き出す。時間は少ない。


「レディ・ジャスミン」

「何かしら? 今の話でわからないことでもあったかしら?」

「いいえ、ありません。ただ、少し見せてほしいのです」

「何をかしら?」

「全てを。この礼儀作法の授業で(わたくし)が習うこと全てを、見せていただけないでしょうか。それを見て、お手本としたいと思うのですが」


 いつの間にか一人称まで変えられている。()に恐るべし女教師レディ・ジャスミン。


「…………」


 思わず吸い付きたくなるような形の良い唇に指を当てて考え込むレディ・ジャスミン。実に様になっているその格好のまま少しだけ経って、


「良いわ。良く見ていなさい」


 そう言った。


「ありがとうございます」


 そして、彼女は部屋の真ん中に立つと、見事な所作で礼などの礼儀作法を行い始めた。宮廷での笑い方、王への謁見の仕方、したくない男性との話題の切り方や男への迫り方、夜の奉仕の仕方まで。

 最後の方は実にエロかった。女でなければ確実に股間がアレなことになっていただろう。顔が赤いのは仕方がないと言える。


「これが、貴女に教える礼儀作法の授業の全てよ。参考になったかしら?」


 その全てを終えるとレディ・ジャスミンは疲れた様子も見せずにそう言った。


「ええ、ありがとうございました。参考になりましたわ」


 無論、ナタリアはそれら全てを記憶した。記憶力は悪くない。見せられた内容は実に多岐にわたるが、大元は全てに共通している。

 大樹のようなものだ。枝葉は多いが辿れば根本は一本である。そこさえマスターしてしまえば、あとはそこから派生させていけばいい。


 仕事など教えられない、自分で見て覚えて考えろが当たり前だった前世。見て覚えることは何よりも得意で、そこからなんとかするのは20年以上の仕事生活によって存分に鍛えられている。

 更に言えば前世と違って教えられるだけ恵まれているので、出来ないはずがなかった。教え方が巧いレディ・ジャスミンの力も大きいだろう。


「良かったわ。さて、そろそろ時間ね。今日はこれくらいにしましょう」

「ええ、ありがとうございました」


 時間だと言って去って行く彼女を感謝しつつ見送る。


(本当、レディ・ジャスミンには感謝ですわ。あとは、これを完璧にマスターして、彼女を納得させて帰らせるだけ。それで、礼儀作法の授業は終わり。次に行けますわ)


 一人になった彼女は、そこから練習を始めた。いつの間にか口調まで変えられているが、とにかく、終わらせる為に礼儀作法の復習と見せられた全ての反復を練習、更に明日の授業の為の予習を始めた。

 寝なくても数日は問題ない。栄養ドリンクという増強剤がない以上、それほど無理はきかないが若い身体であるしスペックは扱っている限りかなり高いので数日ならば問題なく徹夜出来る。


 まずは礼儀作法を一晩かけて習得する。身体に擦り込むように休むことなく反復していく。慣れてくれば、一通りの礼儀作法を高速で周回できるようになる。そうなれば更に効率よく反復できるようになった。

 機関灯の灯りが消えて、雲の向こう側に四つ子の太陽が昇るまでナタリアは黙々と練習を続ける。その頃には、完璧と言えるまでに身についていた。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 翌朝、昨日と同じように着替えと礼拝、朝食を済ませると授業の時間となる。今日の授業は、歴史。この日も現れたのはレディ・ジャスミンであった。

 算術も国語も蒸気機関学ですら、レディ・ジャスミンが教えるという。彼女ほど多方面に秀でた才女は他にはいないということだ。


 日数にして四日。栄養ドリンクなしでの徹夜して大丈夫な境界線。そこからの一日休憩をはさみながら一か月間。そこで、ナタリアはレディ・ジャスミンと対峙していた。

 全ての彼女の授業内容を終わらせて今、彼女は立っている。これから始まるのは、レディ・ジャスミンを納得させて帰らせるための戦い。


「全ての範囲を終わらせました。よって、授業を終了してもらえませんか」

「……そう、なんとなく思っていたけれどそう来るのね。良いわ。私の出すテストにあなたが合格できたのなら、認めましょう? レディ・ナタリア」

「ええ、喜んで」


 まずは、礼儀作法。彼女の言うとおりに実践していく。その尽くをナタリアは乗り越えていった。この四日で身体にしみ込ませた礼儀作法は何の問題もなく発揮される。

 続いて算術。これはもとから問題ではない。簡単な計算から複雑な四則演算まで。微分積分などないただの計算問題などお話にならず一日空いた時間で予習や復習ができたほどだ。


 歴史、国語は少しばかり厄介であるが、歴史書を読んで覚えるだけの作業だ。国語などは言語が違うだけで、やることは普通と一緒である。

 統合された記憶のおかげで言語に不自由はしない。読み書きも普通に出来る。あとは、貴族らしい言い回しを身に着けるだけで良かった。


 一番問題だったのは、蒸気機関学。まったくの新しい学問を一から習得するのは骨であった。だが、初めてではあれど興味のあることは捗るもの。

 元男として蒸気機関や歯車機関などの武骨な機械類は嫌いではない。その点に関してのみ勉強ではあったが苦にはならなかった。


 何よりわからないことはすべてレディ・ジャスミンに聞いて解決させたのだ。わからないことは直ぐに聞いた。少しでもわからなければ聞いた。

 何も教えてくれない上司と違って親切に教えてくれたレディ・ジャスミンは本当に神様のように優しいと思ったほどだ。


 そのおかげで、


「良いわ。合格よ」


 授業を開始してから一ヶ月で全てのテストの合格を言い渡された。


「ありがとうございました」


 それに一安心する。何とかできると思ってはいたが、前世以上に身体のスペックは高い。子供であるがゆえに記憶力も高いのが良いところだ。


「やっぱりね。貴女ならそうすると思っていたのだけれど、貴女、本当に子どもかしら」

「おっしゃる意味がわかりませんが?」

「……そう。まあいいわ。貴女はとても優秀だったということね。私としても箔が付くことになるから、ありがたいわ。じゃあ、私の授業は終わりだけど、これからは剣術と魔法の授業、頑張りなさい」


 剣術と魔法の先生はそれぞれ別の場所から呼んでいる。何やら事件があったらしく、遅れていたのがついに到着するらしい。


「――そこのレディ・ジャスミンの授業のように終わらせられると思わないことだ」

「――はい?」


 不意に声が響く。少年の声。そちらを見ると、眼鏡にローブをまとった青い髪の少年が立っていた。


第三話です。レディ・ジャスミンとか、ジャスミン主義とか女性の社会進出とかスチパンぽい要素を出しつつ、主人公鬼の徹夜によって授業をさっさと終わらせました。


次はファンタジー要素である魔法と剣術のどちらか、それとも両方。とりあえず魔法は確定ですかね。


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