春~4月第2話 契約2
「お願いします、おばあちゃんには言わないで! おばあちゃんは何も悪くないんです。おばあちゃんが保証人になったのは……私のためだったんです」
私は、伊織さんに頭を下げて懇願した。
もともと、おばあちゃんは借金だとかツケだとか大嫌いな性格だ。いくら貧乏でも身の丈に合った生活を良しとする性質。だから、保証人になんて絶対首を縦にふらない。
そんなおばあちゃんだけど私が小学生の時、PTAや父母会でリーダー格の人に、その娘に私の面倒を見てもらうことを条件に借金の保証人になった。
私が人付き合いが苦手で友達が居ないことをおばあちゃんが気にしてたことは知ってた。いくら口が悪くても、おばあちゃんは私を心配してくれる。だから、自分のポリシーを曲げてまでそうお願いしてくれたことが嬉しかった。
なのに結局、おばあちゃんはいいように利用されただけ。借金はその人じゃなく顔も知らない親戚のもので、借り主が夜逃げしたために借金だけがおばあちゃんに残された。
つまり、この借金はもとはと言えば私のせい。高校の頃から必死にバイトをして返してきたけど、利子と僅かな返済が出来たに過ぎない。
おばあちゃんにはもう少しで終わると誤魔化してきたけど……年が明けて借り入れ先から“もうこれ以上延ばせない”と申し入れされていたんだった。
深夜のバイトをもっと増やしてみたけど、体を壊したせいでおばあちゃんに辞めさせられ。返すあてなんかなくて、どうしようも無かったのは事実だった。
それでも、おばあちゃんや人様に迷惑はかけられない。借金の原因である私が返済する義務があるのだから、身を削ってでも何とかしなきゃ。それまではおばあちゃんに知られるのは嫌だ。私は伊織さんへ頭を下げ続けた。
「お願いです! 借金は私が何とかして返しますから」
「何とかと言うが、具体的にはどうするつもりだ?」
伊織さんは冷淡に、冷静な指摘をしてきた。
それを訊かれれば弱いけど、私に答えられるのはこれしかない。
「は、働きます! これから日雇いでも何でもして……いろんなところから借り入れて……何とか用意します」
「今日は4月10日……3週間で全てを用意出来るとでも? 世間知らずの無謀だな」
ハッ、と鼻で笑われて言葉に詰まった。自分でも世間知らずと解っているけれど、私は他の方法なんて知らない。
「第一、どこかの社員でもない二十歳にしか過ぎないあんたに、200万という金額を貸すマトモな信用機関があると思うのか? あったとしたら不法なヤミ金しかない。労働で稼ぐなら、体を売るか――それくらいしかないだろう」
「それは……」
私は何も言い返せなくて、着ているシャツの裾をギュッと握りしめた。彼の言う通りに、私の見通しは甘過ぎるとしか言えない。
「そんな覚悟もなしに、中途半端な努力でどうにかしようとしたのか? だから、世間知らずだと言ったんだ。何も知らない子ども(ガキ)のくせに、一人前に責任だけ背負おうとするな」
全く、伊織さんの言う通りでぐうの音も出ない。悔しくて情けなくて……ぼろぼろにこぼれそうな涙をグッと堪えた。
(泣くな……伊織さんは教えてくれただけなんだ、私がどれだけ馬鹿だったのか。だから……泣くんじゃなくありがとうって言わなきゃ)
涙を堪えるために、まぶたをギュッと閉じる。少しだけ……そう思った瞬間、だった。
ふわり、と頭に軽くあたたかい感触がした。
ポンポン、と2・3度、柔らかい動きを感じて。 伊織さんに頭を軽く叩かれたと知るのは、数秒遅れてからだった。
「そう、思い詰めるな」
「え……」
今まで冷たく突き放すだけの伊織さんの声が、ほんの少しだけ優しく響いたのは。優しさに飢えた私の願望だったのかもしれない。
だけど……。
伊織さんは確かに、私を慰めてくれた。
「あんたは張り詰め過ぎだ……今まで走りっぱなしできたんなら、少しは休んだって良いだろう?」
「……はあ」
急に優しくされても、頭が着いていかない。伊織さんの変貌ぶりに戸惑いながらも、やはり彼の術中にはめられていく。
「1年、簡単なバイトのつもりで好きなことをすればいいだけだ。表沙汰にならなければ、好きな男と付き合ってもいい。 夫婦としての義務は時折接待に顔を出す程度でいい。それ以外は求めない。
何より、今あんたが頷くだけで祖母の借金が全て帳消しになるんだ。悪い話ではないと思うが?」
ぐらり、と気持ちが揺れた。とりあえず、返済期限が迫る借金を無くせる。おばあちゃんの大きな心労を一つ無くせるなら……一時間以上悩んだ後、私は断腸の思いで彼の提案を飲んだ。
「……わかりました。そのお話をお受けします。ただし、借金はいずれ私がお返しをします。それから、慰謝料もマンションも要りません。生活費も折半でお願いします」
その日伊織さんは迎えに来た車に乗って帰ったけれど。翌日、改めておばあちゃんに挨拶をしに来た。
“碧さんと結婚させてください”――と。
事前に打ち合わせておいた内容だと、私と伊織さんは1年前に出会い、半年前には付き合い始めたという設定にしておいた。
けれど、たぶんその嘘はおばあちゃんに見破られると思う。だって、私が誰かと出掛けることすら滅多にないって、おばあちゃんはよく知ってるから。
私だって正直に言えば胡散臭いと感じた。だから、おばあちゃんは許してくれるはずがない。それならそれで話は断ろうと考えていたんだけど。
なぜか私は話の途中で部屋を追い出され、おばあちゃんは伊織さんと2人で話すことを選んだ。いくら伊織さんが口が巧くても、おばあちゃんから許可を得るには相当難問だと思ったのに。
私が店番をしながらそわそわ待って二時間後、扉が開いて2人の雰囲気から悟った。
どんな手段を使ったかわからないけど、伊織さんがおばあちゃんの許可をもぎ取ったことを。
そして伊織さんが帰った後、駄菓子屋の奥にある和室でおばあちゃんに改めて訊ねられた。 「碧、本当にあのひとに着いていくのかい?」、と。
おばあちゃんは口が悪いしうるさいくらいに言葉が多いけど、肝心な時はいつも言葉少なになる。そして、私が大切な選択をする際にはごちゃごちゃ言わずに黙って見守る。
今も、たぶんそうだ。憎まれ口など一切叩かずに、ただジッと私を見詰めてくる。私が答えを出すまで、決して口を挟まない。
それはきっと、おばあちゃんも解っている――私とおばあちゃんは血縁じゃないから、本来ならば自分が口出しする領分でない、ということを。
私は、正座をした膝の上で握りしめた拳に力を込める。おばあちゃんに嘘をつかなきゃいけない後ろめたさや罪悪感はあるけれど、おはる屋を助ける唯一の方法なんだ、と自分に言い聞かせて、ゆっくりとうなずいた。
手汗をかいて震えそうな指にますます力を込めて、両手を握りしめる。まっすぐに見合ったまま、静寂だけが部屋を満たす。
ふう、とおばあちゃんが小さく息を吐いて、わずかにだけど厳しい顔を和らげた。
「……いつかあんたがここから嫁に行くのは覚悟してたけど、思ったより早かったね」
そして、こうも付け加える。
「だけど、碧。あんたは何があろうとあたしの孫娘だから。辛いことがあれば、いつだって帰ってきてもいいんだよ。あのバカ婿にはよく言い聞かせといたがね」
「おばあちゃん……」
伊織さんとおばあちゃん。2人がどんな会話をしたのかわからないけど、きっとおばあちゃんは私の不利になるような話はしなかったはず。ジンと胸に込み上げてくるものがあり、思わずおばあちゃんに抱きついた。
「なんだい、良い年をした娘が子どもみたいに。あたしを抱き潰す気かい」
その後はいつもの調子のおばあちゃんがいて、笑えるやら泣けるやらで大変で。おばあちゃんに「そんな不器量を人前に晒すんじゃないよ」って憎まれ口を叩かれたけど。何だか安心して笑ってた。
(そうだ……私とおばあちゃんだってもとは他人だったんだ……努力しよう。あの人と一時でも家族になれるように)
彼からすれば余計なお世話かもしれないけれど。私は、そう決意を固めた。
せめて伊織さんと家族になろうと決意をした……のだけど。
彼が次に家に来た時、既に心が折れそうになった。
だって契約結婚の条件として提示されたのが、予想外のものだったから。
1・お互いにプライベートやプライバシーに干渉しない。
2・恋愛沙汰は自由。
3・夫婦としての義務は一切果たさない。(社交は除く)
4・家事や家のことは一切手出ししないこと。ハウスキーパーは日常的に派遣されているが、更に必要な場合は契約会社へ依頼をすること。
5・家でも外でも必要以外は話しかけないこと。
6・1日も欠かさずプリンを作ること。
7・困ったことがあれば、まず秘書の葛西へ連絡し指示を仰ぐこと。自己判断での処理は禁止。
8・生活費は月に50万。好きに使ってもいいが、こちらのものを勝手に購入は禁止。
Etc.……
見事なまでに徹底的に接触を拒まれてる。これじゃあ居候より気まずい他人じゃないでしょうか?
何のために一緒に住むのかがわからない。
そして、契約にまたプリンのことがある意味がわからない。 どれだけプリンが好きなんだろう? 理由を訊こうとしたけど、拒まれてる空気を醸し出されて訊けるはずもなくて。
(プリンが食べたいだけなら、希望すればいつでも作ってあげるのに)
一緒に住む、夫婦のはずの他人――。
いいえ、きっと。何の縁もない赤の他人同士の方がまだ温かな絆を期待できる。
それなのに……私と伊織さんは他人より遠い夫婦。たぶん仮面夫婦ってやつだと思うけど、妻としての仕事や義務を一切取り上げられ、家でも話しかけられないなんて……。
一緒に住む意味、本当にあるの?
経緯も動機も何もかも意味が解らない。それでも私は伊織さんに逆らう訳にはいかないから、どんな条件でも黙って頷くしかなかった。
借金は昨日、利子を含めてすべてが弁済された。私の希望で伊織さんには借用書を書いてもらってる。
(利子を含めて600万か……1年後に働き始めたら、少しずつでも伊織さんに返そう)
何だかんだ言って、伊織さんは私とおばあちゃんを助けてくれた救世主だ。だから、どうせ一緒に住むなら……なにか役に立ちたかった。
月に50万の生活費は家庭のものでなく、私個人のものらしい。私名義の口座に振り込まれると伊織さんの第一秘書である葛西さんから説明があった。
給料のようなものだと思えばいい、と葛西さんは言ってたけど。そんな高いお金は必要ない。
駄菓子屋の店番でおばあちゃんがバイト代をくれるようになったから、何とかその範囲でやりくりするつもりだった。




