番外編~2年目7月 この子、誰の子?5
正男は“関係ねえ”って凄むと思ったけれど、何かを感じたのか案外大人しく美鈴ちゃんを抱いたまま。その顔をジッと見てる。
誰もがその動向を見守る中……ぽつり、と正男がこぼした言葉は意外なもの。
「ババアに……抱きしめられた記憶なんざねえ……」
ババアなんて言い方は悪いけど、たぶんお母さんのことだ。正男は口元を歪めて皮肉な笑みを作る。
「……親が揃ったってな、ガキがしあわせって限らねえんだよ! あれこれ口し出されてオレの意思なんざ一度たりとも聞いてい貰えた試しがねえ。オレが……バイクが好きで働きてぇっつっても……“桂の人間には相応しくありません”ってなもんだ。ただガチガチに縛られた道を歩かせるのが親で、そんなのでも幸せって言えるのかよ!」
正男はそれだけ叫ぶように喋ると、驚いてむずがり出した美鈴ちゃんを見て口を歪めた。
「親なんざ、居ねえ方がいい時もあるんだよ!
こんな下らねえ親父なんざ居ねえ方がコイツのためだろ……
オレだって分かってっさ。てめえがろくでなしで大した人間じゃねえってな。
ガキを育てるなんざ責任、背負いきれねえよ。まだガキ過ぎるオレには荷が重いだろ」
ふっ、と眉尻を下げた正男は美鈴ちゃんを私へ向けて差し出す。
「オレが言えることは……金なら払う。だけどな、こいつの親父はもっと別のマトモな男がなるべきだろ。オレみてえなろくでなし……親父にはなれねえ。なっちゃいけねえんだ」
そう言い切って美鈴ちゃんを手放そうとした瞬間……
美鈴ちゃんを呼ぶ声が聞こえて、すぐに彼女は別の腕の中へ収まる。突然現れた見知らぬ女性は美鈴ちゃんをギュッと抱きしめ、ごめんなさいと泣いていた。
「美鈴……ごめんね、ごめんね」
おそらく母親だろう女性は、美鈴ちゃんを抱きしめさめざめと涙を流した。誰もが何も言わずに見守るなか、彼女は美鈴ちゃんを抱いたまま顔を上げる。そして、周囲へ深く頭を下げた。
「私は美鈴の母である結城 美里と申します。この度はとんだご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ありませんでした」
「あなたが……美鈴ちゃんのお母さん」
「はい……」
私がもう一度確認するように問いかけると、目を濡らしたまま美里さんはしっかりと頷いた。
「……実は……つい先日パート先から解雇を言い渡されてました。理由は不明でしたが……事情を知る情報通の同僚によると……美鈴の存在を知った桂の圧力でないかと。私が美鈴を盾に……父親に……伊織さんに結婚を迫るのではないかと。だから……追い出そうとしていると」
「実際には伊織さんではなく正男さんが父親でしたが……」
「……はい。私もつい先ほどお知らせいただきました」
美里さんはハンカチを握りしめて正男をちらっと見た。
正男は憮然とした顔をしている。さっきは愁傷な態度だったけど、自らを偽って騙した上に妊娠までさせた相手を前にしているからか、やはり平静ではいられないらしい。
けど、彼の口から出たのは想定外の言葉だった。
「……ほら、見ろ。あのババアどもは息子だけでなく、嫁や孫まで思い通りの型に填まらないと排除しようとしてるだろうが。あんな連中の思い通りになって、おまえは悔しくねえのかよ!?」
突然正男がそんな話を出すとは予想外だったのか、美里さんは目を見開いてる。そんな彼女に焦れたのか、正男は眉を釣り上げた。
「あんた、真面目にやってきたんだろ! 正社員に負けないって頑張ってたじゃねぇか。
やっと認められたとか笑ってただろ。それなのに……どう考えても不当解雇だろ! 何でホイホイ受け入れちまうんだ」
肩を怒らせた正男はその場で拳を床に叩きつける。その音にビクッと体を揺らした美鈴ちゃんが、ふぇえ……とむずがり出した。
「美鈴、大丈夫。大丈夫だから」
実の母親だからか、美里さんが少しあやしただけで美鈴ちゃんは落ち着く。やっぱり実母は違うんだなあ……って、寂しく思いながら見守った。
「……ありがとうございます、私のために怒って下さって。でも、もういいんです。あの会社に未練はありますが……両親に頭を下げて一緒に暮らす許しをもらってきたんです。 父のつてで短時間の事務の仕事も見つかりましたし。
これで、何とか美鈴を育てる目処がつきましたから。明日にも地元に帰ろうかと。
今まで申し訳ありません……お世話になりました。
正男さん、美鈴を産んだのは私の決めたことですから、あなたに責任を求めるつもりは一切ありません。
ですからご安心ください。鹿児島に帰る以上もう二度とお会いすることも、関わることもないでしょう」
美里さんはそう言い切って静かに微笑んだ。全てを振り切ったような清々しい笑顔は、二度と美鈴ちゃんを手放すような迷いは感じられない。
やっと美鈴ちゃんはお母さんと一緒に幸せになれる。これでよかったんだ……と思ったのだけど。
「……おい」
「はい?」
美里さんに声をかけたのは、意外なことに正男だった。彼は何かを決意したように、思い詰めた顔をしている。
「美鈴、だっけか……そいつ、オレの子どもで間違いねえな?」
正男が確認するように問いかけたけど、美里さんは一瞬目を開いたあとにゆっくりと首を横に振る。
「……いいえ、この子は誰でもない、私だけの娘です」
「んな訳ねえ!だってあんたはあん時初めてだったろが! それでこいつを……」
「違います! 美鈴は……美鈴は……私が育てます。お話ししたように、あなたに責任を求めるつもりはありません。そっとしておいてください」
正男から守りたいように、美里さんは娘をギュッと抱きしめる。そして、彼にしっかりと目を向けた。
「私は……美鈴を産んで後悔はしてませんが、あなたにだけは申し訳ないと思います。あなたは望まないのに勝手に父親となった……何も知らせずに父親にするなんて理不尽、お怒りになるのも当然。でも……その恨み辛みは私だけに。美鈴には何の罪もありません。どうか美鈴が生きることは許してください」
謝罪のため深々と頭を下げた美里さんに、正男は「は!」と鼻を鳴らした。
「そりゃ不愉快に決まってら! だから、あんたにゃ責任を取ってもらう」
「はい……」
普通は正男が責任を取るべきなのに、あべこべな話に思わず口を開きたくなるけど。伊織さんに肩を掴まれ止められた。無言で“見守ってやれ”と諭され、仕方なく成り行きを見守る。
そして、正男は意外なことを言い出した。
「責任を持って、オレを鹿児島に連れてけ。あんたの親に会わせろ」
「え?」
美里さんは何を言われたかわからない、というような顔で目を瞬く。正男は臆することなく、彼女をまっすぐに見返した。
「そいつはオレの娘。経緯がどうあれ、オレにも責任はあるだろが。おまえは一人で産んだかもしれねえが……作ったのはオレでもある。父親にとは言わねえが、あんたが育てるのが苦しいのは判った。だからな、せめて金銭的な援助はさせてくれや。あんただってシングルマザーで父親が知れねえガキを連れてきゃ、親だってあんたを怒るし責めるだろ? 1人怒られるよか、2人の方がマシだろ」
「正男さん……」
「騙したオレが言えるこっちゃないが……本当はあんたを捨てたつもりなんざ無かった。なのにあんたから連絡を絶たれたからな。未練はないと突っ張ったが……ホントはずっと気になってたんだ」
「…………」
美里さんはうつむいてしまうと、ギュッと美鈴ちゃんを抱きしめる。そして、ぼろぼろと涙を流し始めた。
「私は……怖かったんです。妊娠を告げたら捨てられると。間近な人が同じ状況で相手に逃げられ、泣いていたことを思い出して。だから……私からさよならしなければと」
でも、と美里さんは濡れた瞳を正男に向けた。
「きちんと話せばよかったんですね……ごめんなさい……あなたを信じきれなくて」
しゃくりあげる美里さんの肩に、正男は手を乗せる。そして、こう言った。
「仕方ねえよ……こんなオレを信じられないのは。てめえでもろくでなしな人間って解ってっから。だがな、これからは心を入れ替えるつもりだ。いつかこいつが成長した時オヤジと呼ばれても恥ずかしくないように。だから、待ってろよ美里。いつかおまえたちを迎えにいくからな」
そう言い切った正男は、別人のような清々しく頼もしい一人の男性としての顔になってた。
結局、正男と美里さんは元サヤというやつで。美里さんはしばらく親元で美鈴ちゃんを育てて、それまで正男は経済的な援助をし。一人前になったら迎えに行くと決めたようだった。
伊織さんは2人への餞に、既に購入したベビー用品を譲ると申し出た。これから物要りだろうし、と私も賛成したけれど。肝心の美里さんは首を横に振る。
「お申し出ありがとうございます。ですが、これからは私と正男さんで力を合わせ美鈴を育てます。今まで本当にありがとうございました」
迷惑をかけたお詫びとお世話になったお礼に、と美里さんは手作りのお菓子を置いて正男に付き添われ帰った。美鈴ちゃんとともに。
そして、その日の夜。みんなが帰ったリビングはシンと静まり返ってた。
たった2日しかいなかったのに。美鈴ちゃんの存在がどれだけ大きかったか……。
ベビーベッド代わりに使った篭が置いてあった場所を眺めると、そこだけぽっかりと大きな穴が空いたようで。私は思わずため息を着いてた。
いつまでも痕跡を眺めても仕方ない……と私は想いを振り切り、その場所を後にして一度自室へ戻った。
正式な夫婦になってから同じ寝室を使うようになった私たち。さすがに深夜0時近いと眠くなるから、就寝の支度をしてから寝室のソファに座ってた。
まだ伊織さんはいないから……とスマホを眺めてると、「なんだ、まだ寝てなかったのか?」とお風呂から上がったらしい伊織さんは、バスタオルで髪を乾かしながら寝室へ入ってきた。
「あ、はい。まだ……」
慌ててスマホを隠そうとすると、時すでに遅くて。伊織さんにばっちりと見られてしまいました。
「その写真、美鈴か……珍しく笑顔だな」
「はい……ファミレスではちょっと笑ってくれましたから」
「そうか……」
伊織さんはそれから黙ってジッと美鈴ちゃんの写真を眺めてる。今さら引っ込めるわけにもいかなくて、私も一緒に写真を見てたら。伊織さんはぽつりとこぼした。
「……子どももいいものだな。この手に抱いてみて、初めてわかった。この子が碧とおれの子どもだったらと……心底望んでた」
「……伊織さん」
「たった1日でも……つらいものだな、居なくなるのは」
「……そうですね」
伊織さんは後ろから私を抱きしめると、頭に軽くキスをしてささやく。
「碧、おれたちも……」
伊織さんが甘く熱い囁きをくれた瞬間――
なぜか、胃の中がひっくり返ったように急に気持ちが悪くなった。
洗面所に駆け込んだ私が落ち着いたころ、伊織さんが心配そうに顔を覗かせた。
「大丈夫か? 気分が悪いなら横になれ。薬は何を用意すればいい?」
伊織さんはずっと私を心配して外で待っていたみたいで。なんだか胸がほんわかとあたたかくなった。
薬は断り、口をゆすいでオレンジジュースを飲むと、だいぶさっぱりして落ち着いた。
キッチンで冷蔵庫から離れた瞬間、伊織さんは急に私を抱き上げる。頬に熱が集まるのを感じながら、彼が気遣ってくれる優しさをひしひしと感じた。
「もう、寝よう。今日は何もしないが……明日病院に行くか? なんなら連れていってやるが」
「いえ……明日は仕事ですよね? 私だけで大丈夫ですから」
「いや、やはり心配だ。どれだけ重要な会議があろうが蹴って連れていってやる」
身体を気遣ってかゆっくりと寝室へ戻った伊織さんは、そっと私をベッドへ下ろしてくれる。
そして、そのまま布団の中で遠慮がちに抱きしめられた。躊躇いがちではあるけれど、まるで私を失いたくないようにしっかりと。
「気分は?どこか痛いとか暑いとか寒いとかないか?気持ち悪さや違和感があるなら教えてくれ。不快感があれば今からでも薬局に行ってくる。欲しいものがあれば遠慮せずに言うんだ。24時間開いてるスーパーやコンビニもあるからな」
私の体のあちこちをさすりながら心配してくれる伊織さんは、葛西さんがくるみさんに向ける溺愛を呆れてたのに……どうやら彼はそれ以上に過保護なようです。
「そんなに心配しなくてもいいですし、それに葛西さんだって公私はきっちり分けているでしょう? 大丈夫、きっと病気じゃありませんから」
私がクスリと笑うと、伊織さんは不思議そうな顔で「なぜわかる?」と言ってましたけど。
実はさっき洗面所に入って備え付けの棚を見た私は、今月使ってないあるものを見てもしやと思った。
「……もしかすると、明日は嬉しい報告ができるかもしれませんよ」
私は伊織さんへむけて微笑むと、そっとお腹に手を当てる。
――ベビー用品が必要になったのは……藤色の花が満開になるころのお話。
(終わり)




