番外編~2年目7月 この子、誰の子?2
「…………」
「…………」
沈黙が下りてます現在、ただ今夜の9時過ぎです。
伊織さんが帰宅していつも通りにダイニングルームに入ってきた途端、篭に入ってたものを見つけて……スーツを脱ぎながら固まった。
ちょうど眠りから目が覚めた赤ちゃんは、じいっと伊織さんを見てるから。互いに無言で見つめあってるんだけど。ひとまずはフリーズした伊織さんを何とかしないと。
(もしかすると伊織さんが父親なのかも……しれないし)
その可能性を考えただけで、ズキッと胸が痛む。夢中でお世話をしている時は考えまいとしていたけど、今こうして親子かもしれない2人が対面したという事実は。隠してきた悲しみや焦りが滲みそうになる。
もしもこの子が本当に伊織さんの子どもなら、彼がそうだと知った時。きっと責任を取ろうとする。だって、伊織さんは一見冷たく見えて情が深い。見捨てるなんて、絶対にないだろう。
きっと、伊織さんも知らない子どもだったに違いない。存在すら知らないなら、責任の取りようもなかったけど。こうして知ったなら……。
(きっと、父親として責任を取るよね)
それはつまり……その母親と結婚する……伊織さんならそれくらいしかねない。
(そうなったら。私は……同意……しなきゃ……いけないよね?)
まだ、私と伊織さんに子どもはいない。結婚して1年と数ヶ月経つけど、本当の意味で夫婦になれて1ヶ月かそこらしか経っていないから。赤ちゃんなんて無理だ。
なら……やっぱり私は。
「碧」
伊織さんに呼ばれた瞬間、ドキッと心臓が跳ねた。
何かを堪えたような、感情を押し殺した声。きっと彼の顔も強張ってる。
恐れていた瞬間が来た――。
震える手を見られないように努めながら、さりげなく伊織さんに顔を向ける。
「はい」
私が見た伊織さんは、目を見開いたまま眉にシワを寄せてる。やっぱり不審に思うよね……どう話そうか悩んでいると。彼の口から予想外の言葉が放たれた。
「いつの間に生んだ?」
「……は?」
今、何か耳を疑うような言葉が聞こえたけど。まさかそれを言ったのは。
「おれと碧の子どもだろう?」
「…………………」
いや……“どうだ、言い当ててやったぞ!”と言わんばかりの得意満面な笑顔で仰られましても。どこをどう突っ込んだらよいのやら。
「……伊織さん……鳥でも卵を産んだら2週間は暖めないと駄目なんですよ? 猫でも2ヶ月はかかります」
「そういうものなのか? そういえば、葛西の妻が初めて妊娠した時。報告してきてから出産まで半年以上掛かってたな」
伊織さんは心底不思議そうに首を捻ってましたけど。冗談半分でなく、本気でそう考えていたらしいと知って……流石は伊織さんと思ったのは内緒です。
「と、とにかく。人間の妊娠は約10ヶ月なんです。それだけ長い間何もないのにいきなり生まれたりしません。それに、こんな大きな赤ちゃんなんて普通に産めませんよ」
私も今日育児書で知ったにわか知識だけど、どうやら伊織さんは私以上に妊娠出産について無知な様子。三十代になるのに……。
いつも通りにマイペース伊織さんに、緊張もとっくに緩んでます。
それでも、きちんと話をしなきゃと私はしまってあったメモを引き出しから取り出して伊織さんに渡した。再び緊張して震える手から渡ったメモを、訝しげな目で伊織さんが眺める。
「美里?」
眉間にシワを寄せた伊織さんは、しばらくメモを睨み付けて――フッと息を吐く。そして、「くだらないな」とメモをピンと指で弾いて捨てた。
「えっ?……ちょっ、このメモは大切なメッセージじゃないんですか?」
慌てて舞い落ちるメモを両手でキャッチすると、伊織さんはまた眉間にシワを寄せ不愉快さを隠そうともせずに言い放った。
「人違いだ。おれには美里という知り合いすら居ない。女性経験がないとは言わないが、いつも避妊は完全にしていたし、一度きりの相手ばかりだった。
それに、碧が言う妊娠期間が本当ならば、こいつはおれの子どもではあり得ない。最後に女としたのは5年前だからな」
「え、あずささんとは?」
去年あったあずささんとの密会疑惑。あれで精神的にダメージを受けたけど。伊織さんはなんだそれ? と言わんばかりの表情だった。
「確かにあずさと2人で会ったことはあるが、あくまでも仕事仲間としてだ。春に発表した通りに、おはる屋をモデルにした新店舗作りのことでな」
「えっ……」
あまりにあっさりとあずささんと会ったことを認めた伊織さんは、何の後ろ暗さもないと言い切った。
伊織さんを信じない訳じゃないけど、彼が嘘をつく時の癖(無意識にどこかに触れる)が出ていなかったからホッとした。彼は良くも悪くもプライベートでは正直なんだよね。
「そうでしたか……ごめんなさい。実は去年……ファミレス前で2人を見たので」
「ああ、あの時か。確かにホテル街を通って帰ったからな……」
伊織さんは唐突に私の体ごと引き寄せると、ギュッと息苦しいほど強く抱きしめてきた。
「……済まなかった。不安な気持ちにさせてしまって。ずいぶん悩んだろう?もう二度とああいう紛らわしい真似はしない」
彼らしい真摯な謝罪を受けた後、そのまま額とまぶたに口づけられました。
「伊織さん……」
見上げれば、彼は眉尻を下げて本当に申し訳なさそうな顔をしてる。少しだけ幼くなる顔つきに、クスリと笑ってこちらからもお返しをしてあげました。
「!」
「そんなに謝らなくても、伊織さんの気持ちはよくわかりました。ちゃんと信じていますから……」
私からの軽いキスに目を見開いた伊織さんは、やがてSっけたっぷりの意地悪な笑みに変わった。
「そうか……そんなにおれが欲しいか。ならば、夫として妻の期待には応えないとな」
ひょい、と視界が変わって「え?」ときょとんとしていると……いつの間にかお姫様抱っこされて。伊織さんは獲物を狙う獣さながらの顔で当然のようにおっしゃいました。
「おれたちも頑張ってみようか、碧」
な……何を頑張るんですか!
「今晩は眠らせないからな、覚悟しろ」
「え……で、でも。夕食がまだ」
「そんな些末なことより、おれは今すぐ碧が欲しい」
ちゅ、と伊織さんから軽いバードキスをされただけで、顔中に血が集まって頬が熱くなる。彼に抱き上げられたまま、ダイニングルームから出ようとした瞬間。
「ふんぎゃあああ~」
……まるでタイミングを計ったように、赤ちゃんが盛大に泣き声を上げました。
「大変!またお腹が空いたのかも。ミルク作りますから、下ろしてください」
「……ああ」
伊織さんは渋々と言った様子で私を床に下ろしてくれましたけど。今、舌打ちしましたよね?
2回目ともなると多少は手順もわかって、さっきよりはまだスムーズにミルクを作れる。熱さを確認してから赤ちゃんを抱き上げてみようとするけれど……。
ふと、思い付いて私は赤ちゃんを伊織さんに向けた。
「伊織さん、抱いててください」
「は? おれが!?」
何の必要があるんだ? と不機嫌極まりない目付きで睨んでくるけれど、ちっとも怖くはありません。きっと私との……そういう時間を邪魔されて、彼のご機嫌は地を這ってるけれど。私は敢えてそんな伊織さんに赤ちゃんを託した。
ギャン泣きする赤ちゃんを押しつけるように強引に抱かせれば、「お、おい」と困ったように伊織さんの眉が下がる。
「なぜ、おれが見知らぬ他人の子どもを抱かなきゃならないんだ?」
「パパになる予行練習です。おばあちゃんも言ってました。子どもを持つならちゃんと考えておけって」
そして、哺乳瓶を彼の手に持たせる。
「一度、ミルクをあげてみてください。自分の子どもだと思って」
「あ、駄目ですよそんな抱き方。ちゃんと頭を上にしてください。それから腕はこうして……」
育児書にあった抱っこの仕方を手を添えて教えると、伊織さんは「は? 抱き方に違いがあるのか。面倒だな」とぼやいた。
そりゃあ男性からすれば面倒なだけだろうな、ギャン泣きしてる他人の子どもなんて。可愛さの欠片もなくて、五月蝿くて鬱陶しいだけに違いない。
だけど、だからこそ敢えて私は伊織さんに赤ちゃんを託した。
「そうそう、そうやって頭を支えて……利き手でミルクをあげてみてください」
「碧がやればいいだろ」
「それじゃあ実際にパパになった時に困りますよ? 予行練習と思って、頑張ってみてください」
「……あ~……わかった! わかったからそれを寄越せ」
伊織さんは渋々椅子に座って赤ちゃんの頭を支えると、私が差し出した哺乳瓶を受け取り赤ちゃんに向ける。
「ほら、飲め」
「ほぎゃあああ」
「碧、おい、飲まないぞ?腹が減ってるんじゃないのか」
伊織さんはしかめっ面で赤ちゃんを睨み付けてる。それ、怖いから止めてください。
といいますか……。
「……伊織さん。ちゃんと吸い口を向けないと赤ちゃんが吸い付けませんよ?」
「は?」
伊織さんはきょとんとした顔で哺乳瓶と赤ちゃんを見比べてるけど。
そりゃ、吸い口が上向きで赤ちゃんの顔が下にあれば飲めるわけないですよ。
「近づければ勝手に飲むんじゃないのか?」
「赤ちゃんは自分じゃ動けないんですから。ちゃんと吸い口を向けてあげてください」
「そうなのか?」
……こりゃ、いろいろと伊織さんもお勉強が必要みたいです。
「ふぎゃあん!」
「な、何だ? 量は足りてるだろう……わっ!」
赤ちゃんがけぷ、けぷ、とえづいた後にミルクを吐き戻した。どうやら空気まで一緒に飲み込んだらしい。
(あ~目を離しちゃダメだったな)
ちょっとはご機嫌でミルクを飲んでたから、安心して伊織さんに任せていたんだけど。やっぱり慣れない授乳では勝手がわからないよね。
「ごめんね、苦しかったよね」
タオルで濡れた顔や服を拭いてると、伊織さんは憮然とした顔でふてくされてた。
「おれなりにやってみたが。不機嫌に泣かれた上、こんな目に遭って怒られたんじゃ割に合わない」
大の大人で社長さんなのに。赤ちゃん相手にまるで子どもみたいにすねて、思わず噴き出してしまいました。
「笑うな」
「だ……だって。伊織さん、嫌がってもちゃんと悩みながら一生懸命やってくれてたんですね」
今度は私が抱き上げて哺乳瓶を持って授乳する。涙目のままんくんく、と飲み始めた赤ちゃんは可愛らしくて思わず頬が緩む。
赤ちゃんに自然に微笑んでいると、伊織さんがぼそっと呟いた。
「……いいもんだな」
「え?」
伊織さんが何を言ったか聞こえなくて顔を上げると、彼は何とも言えない優しい笑顔で。ドキッと心臓が跳ねた。
「おまえがそうやって赤ん坊を世話してるのは……」
「伊織さん?」
パチパチと目を瞬いていると、伊織さんはこう告げてきた。
「その赤ん坊が、おれと碧の子どもだったら良いのにな」
伊織さんの言葉がゆっくりと頭に浸透してゆき、意味を理解し完全に飲み込めた時。 頬に熱が集まるのを感じた。
伊織さんは、赤ちゃんが私と自分の子どもならいいと言った。それはつまり――私との子どもを望んでくれたわけで。
夫婦だから最近になってそれらしい触れ合いの時は避妊はしてないけど、漠然と考えていた望みがはっきりとした形になって。彼が心底私との子どもを欲しがってくれた。その事実に胸が熱くなった。
恥ずかしくて何も言えずに俯く私の顔は、絶対真っ赤になってる。その自覚があるだけに顔を上げられない。
赤ちゃんの飲む量に気をつけながら、また吐き戻さないように哺乳瓶を傾ける。満足したところで2度目のゲップをさせて、ついでにオムツをチェックしてから寝かしつけた。
お腹いっぱいになったからか、ぐずる事なく直ぐに寝入ってくれてひと安心。ホッとした私は育児書を手にしようとして……伊織さんに阻まれた。
「せっかく眠ってしまったなら、さっきの続きをしないか?」
熱っぽい眼差しで見つめられて、顔が燃えそうなくらいに熱い。子どもが欲しい発言の直後なだけに、どうしても伊織さんを意識してしまって。恥ずかしさもひとしお。
「そ、それもそうですけど……明日赤ちゃんの為にいろいろと買わないと。必需品はおばあちゃんが買ってきてくれましたけど、細かなものとか……」
伊織さんをさりげなく避けながら、私は必死に彼を退けようとした。
だって……
伊織さん、めちゃくちゃ色っぽくて鼻血出そうですって!
なんとなく危機感を感じてさりげなく避けていたのに、伊織さんが赤ちゃんも一緒に、と寝室に連れていってくれたから。今日は何もないと安心して着いていけば。
しっかりと抱き込まれて美味しく頂かれてしまいました……。




