番外編~2年目4月 ある春の日の伊織さん1
「大変だ……花子の様子がおかしい」
少しだけ顔を青くしながら、伊織さんはそう言いました。
契約が終わって本当の夫婦になった私と伊織さんだけど、あまり以前と変わらない日常。
相変わらず毎日プリンを欠かさずに食べるから、その材料は欠かせない。
そうそう。
伊織さんは半年前に土地を購入して新居を建ててくれたけど、そんなに以前から私と暮らすことを決意してくれていたことが嬉しい。あの時ちゃんとプロポーズしてくれ、感動し過ぎて一時間泣いたことは内緒。
初めて入った洗面所の鏡に写った自分の顔は悲惨だったけど……。
伊織さんは、“ありのままのおまえでいい”って言ってくれて。
目と鼻は涙のためだったけど、耳まで赤くなってたのは絶対伊織さんのせいだ、うん。
三階建ての新居の一階はおはる屋との共用部分で、子どもたちと地元の人たちの交流スペースとして造られたみたい。
さすがは伊織さん、って感心したな。
で、一階にはリビングもある。大抵ミクと太郎と花子もそこにいて、太郎と花子用には立派な水槽とちゃんとしたアクアリウムの設備も用意されて。たくさんの水草の中で二匹も気持ち良さげに泳いでる。
もちろん、お世話は伊織さんがかかりっきりでしてるけど。最近彼が何だか無口になってきてるのが気がかりで、思い切って訊ねると。彼の口からは最初の言葉が返ってきたわけでした。
ちなみに、花子がメスの赤い出目金。太郎がオスの黒い出目金。去年の夏祭りで私と伊織さんが共に掬った金魚だ。
あれ以来伊織さんがほぼ一人でお世話をしてる。温泉への家族旅行で、二匹が車の助手席だったのは今も複雑な思いがありますけどね。 人間として。
つまり、伊織さんは太郎と花子を我が子のようにかわいがってる。目に入れても痛くないってのはああいうのを言うんだろう。
そんな大切な家族の一員に一大事があれば、私も心配になってくる。青ざめた伊織さんが少しは安心できるよう、彼の握りしめた拳をそっと手のひらで包みこんだ。
「花子に何がありました? ゆっくりでいいので話してみてください」
落ち込んだ様子の伊織さんに微笑みかけると、彼はゆっくりと顔を上げて「ああ」とうなずいた。
「数日前から違和感はあったんだ。だが、昨日からは確かにはっきりと出ていた。あらゆる手を尽くしてみたが、今朝やはり花子の体はおかしいままなんだ」
「花子の体がおかしいんですか?」
「ああ……異様に膨らんでいる。いくら餌を食べたとしても、あれほど膨らむのは異常だ。太るにしても急すぎる……」
花子の体が膨らんだ? 空気でも吸いすぎた……って。肺呼吸でもないのにそれはないか。
2人でいろいろと考えてみるけど、原因や対策は何も思い付かない。強いて言うなら素人なりに伊織さんがしたことは全て無駄だったから、何も知識がない私が考えても改善策は見つからないわけで。
「獣医さんに……というか、出目金を見てくれる獣医さんっているんでしょうか?」
「近隣遠方手当たり次第に電話したが、魚は診ないと言われた」
明らかに落ち込んだ伊織さんが何だかかわいそうで、私は彼を励ますつもりで言った。
「大丈夫、私も調べてみますから。一緒に頑張りましょう。一人より2人の方がまだ何とかなりますよ」
「……そうだな」
ほんの少しだけど、伊織さんが笑ってくれてほっとした。
伊織さんは渋々仕事へ行った……というか葛西さんに拉致同然で強引に連れて行かれました。
葛西さんがにこやかに
「伊織くん?キミ、仕事詰まってるの判ってる~? そんなに会社の椅子をなくしたいかな? 別にぼくは次の社長が誰になろうが構わないけどね」
なんておっしゃいますからね。
仕事の鬼だった伊織さんも最近は定時に合わせて出社するし、帰宅も早くなってきてほっとする。持病が心配なままだから、少しでも負担が減ってるなら安心。
とはいえ、今日は花子の異常事態にずいぶんと心を痛めてた。彼はこの数ヶ月我が子のように太郎と花子をかわいがってきたから、仕方ないことかもしれない。
(さてと、おはる屋に行く前に駅前の書店にでも行ってみようかな)
一通りの家事をこなした後、午前10時にオープンする書店の開店に間に合うよう、小屋に置いた自転車を取り出して駅前まで走らせる。
スマホでも調べものはできるけど、相変わらず通話しか使わないしネットよりは本の方が信頼性が高いかなと考えて。古い考えかもしれないけど。
花が終わってほとんど葉桜になった桜並木を通り抜け、橋を渡り駅前通りに出る。
だどり着いた書店でまず最初に探したのは、魚の飼育やアクアリウム関連の本。
いくつか見つけた私は、手当たり次第に広げて捜してみた。
(へえ、出目金って泳ぎが下手なんだ。初めて知った)
あまり数はないから、飼育本全てをパラパラと捲って探してみた。
出目金は金魚のいち種類で、泳ぎがゆっくりだとか。餌を食べるのが上手くないとか。初めて知ることも多くて勉強になる。
(今まであんまり関心が無さすぎたかな。伊織さんに任せっぱなしで……たとえ金魚でも、大切な家族だからもっと真面目に考えないと)
去年の藤祭りで初めて関心を持った伊織さんは、夏祭りの金魚すくいで掬った二匹をとても大切にしてる。きっとそれはただのペットというだけでなくて、子どもの頃に経験できなかった思い出の貴重な証拠だから。
海水浴と夏祭りと花火……あの1日は伊織さんが子どもに帰れたんだと思う。辛い過去を上書きできる、何でもなくても大切で幸せな記憶。だから、太郎と花子に対する思い入れは人一倍強い。
伊織さんにとって、他の出目金では代わりにならない。あの日あの時あの場で……自分の手で手に入れたからこそ、大切な存在。
だから。花子になにかあれば伊織さんは相当なダメージを受ける。今は治まってる胃潰瘍も再発するかもしれない。
(……私も、もっと真剣にならなくちゃ)
私にとっても、太郎と花子は欠かせない家族の一員。心配になるし、何とかしてあげたい気持ちもある。
参考になりそうな本を二冊ほど選んで、支払いを済ませるとその本を持ったままおはる屋へと向かった。
基本的に私の生活パターンは1年前とそう変わらない。
おばあちゃんの用意してくれたごはんを食べて、昼から夕方5時まではおはる屋で店番をして、近くのスーパーで買い物をしてから帰る。
帰る先がマンションからおはる屋の隣にある新居に変わったことが、変化と言えば変化だけど。
「ねえ、おばあちゃん。金魚って何にもないのに体が膨らむものなの?」
本をパラパラ見ただけじゃわからなかったから、お昼ご飯の時に人生経験豊富なおばあちゃんに訊いてみた。
ちなみに、今日のメニューは鯖の味噌煮とふろふき大根にほうれん草のお味噌汁。やっぱりおばあちゃんの味はほっとする。
「知らないよ。あたしゃ魚なんざ飼ったことはないからね」
おばあちゃんはきっぱりばっさりと、私の疑問を両断する。確かにおはる屋では猫すら飼ったことはないけど。
「伊織さんが心配してるんだ。去年の夏祭りで掬った出目金の様子がおかしいって」
「ふん、おおかた春だからじゃないのか」
「え?」
おばあちゃんは箸を止めることなく、鯖を綺麗に骨から剥がしながら呟く。
「あたしゃ魚の生態なんざ知らないがね。暖かくなるこの時期、人間も動物も頭がおかしくなるもんだろ」
「頭がおかしく?」
たしかに……日もぬるめば変態さんの出没は増えるって聞いたことはあるけど。それとおばあちゃんの言わんとしてることがわからない。
「春で浮かれるのは人間だけじゃない。生き物も一緒さ。命を繋ぐためにも必要なことさね」
パクリ、とおばあちゃんは最後のひときれを口に放り込んだ。
(春だから……かあ)
店番をしながら、時折飼育本を眺める。とはいえ月末に近いから、伝票整理も忙しい。
おばあちゃんは計算が苦手だ、って絶対手を出さないから。私がやらないと。
一生懸命に電卓を叩いてると、入り口から懐かしい声が聞こえて顔を上げれば。詰め襟の制服を着た堅くんがそこに立ってた。
「堅くん! 久しぶりだね」
「おっす。碧姉ちゃん、相変わらず忙しそうだな」
「そりゃ月末だからね」
いつもと変わらないやり取りだけど、堅くんは一ヶ月以上ぶりにおはる屋に現れた。たぶん、中学に進学したからだと思うけど。心愛ちゃんの危惧が当たり、めったに来なくなってた。
「こちらはいいけど、心愛ちゃんとちゃんと遊んでる?」
私が彼女のことを持ち出せば、突然堅くんの顔がパッと赤くなる。照れくさいのか顔を手のひらで隠して、急に言葉少なになった。
「……心愛のことは……別に、いいだろ」
「そう?心愛ちゃん寂しがってたよ?堅くんとまたここでアイスが食べたいって。ソーダアイスを半分こするんだよね?仲がよくてうらやましいなあ~」
私がそう堅くんをからかえば、彼はますます赤くなって耳まで染まる。
ふふふ、可愛い! なんて、悪いお姉さんになっていたのは内緒です。
そういえば、堅くんも夏祭りの金魚すくいでだいぶ掬ってたなって思い出した。
「ねえ、堅くんの金魚は元気?」
「金魚?」
何の脈略もなく訊いたせいか、堅くんも訳がわからないって顔をしてたから、説明を付け足す。
「去年の夏祭りでたくさん掬ってたよね? 金魚すくいの金魚」
「あ、それか。ん~10匹以上掬ったけど、今は2匹しか残ってないよ」
「そっかぁ……」
伊織さんが聞いたら憤死しそうだから、絶対に黙っておこうと思う。いや、別に伊織さんが他の金魚まで無条件に溺愛するとは思えないけど。いろいろと……ね。
「うちにはまだいるよ。赤の出目金と黒の出目金。伊織さんがかわいがってる」
「あ~あのおじちゃん、すんげえ金魚Loveだもんな」
堅くんが思い出したのか、カラカラと笑いながら言ってくださいました。
「太郎と花子って金魚に名前付けて、周りドン引きしてるの気づかないくらい金魚しか見えてなかったじゃん。あん時碧姉ちゃんも眼中になかったんじゃね?」
「おほん……いや、まあ……ね」
大人の威厳を保とうとして失敗。堅くんの指摘はごもっともなだけに、ちょっぴりとだけ寂しい。
「碧お姉ちゃんもさ、もっと甘えりゃいいじゃん」
聞き慣れた声がして堅くんとともに振り向けば、いつの間にか心愛ちゃんがおはる屋の前に立ってた。
そして、なぜかにんまりとチェシャ猫のように笑う。
「碧お姉ちゃんも伊織さんも、せっかくソーシソーアイなんだから。もっとくっつくといいのに、ね! 堅」
いきなり堅くんの腕を取った心愛ちゃんは、彼に抱きついてべったりと体を密着させる。堅くんはギシッと固まり、私はぽかーんと間抜け面でしたでしょう。
い、今どきの小学生って……積極的なんですね。
堅くんには金魚について訊こうと思ったのに、心愛ちゃんとの親密さにあてられっぱなしでしたよ。
(心愛ちゃんもやるなあ……でも)
心愛ちゃん、最近は以前にも増してオシャレに気を配ってる。昔から私より女子力は高かったけど、今はもっともっと磨きがかかってきてるんだよね。
中学生の堅くんと小学生の心愛ちゃん。2人の1年の差は大人が考える以上に大きい。心愛ちゃんがああやって積極的にスキンシップを取ろうとするのも、可愛くなろうとするのも、きっと不安だからなんだ。
それを考えると、私はまだ恵まれてるよね。伊織さんとは夫婦で同じ家に住んでいるんだから。
“碧お姉ちゃんもさ、もっと甘えりゃいいじゃん”
不意に、心愛ちゃんの言葉が思い浮かんでドキンと心臓が跳ねる。
“せっかくソーシソーアイなんだから、もっとくっつくといいのに”
く、くっつくて……い、いったい何を!?
堅くんに抱きついた心愛ちゃんの姿を思い出すだけで、顔がかっと熱くなる。たまらなくてギュッとまぶたを閉じた。
(む……むり! 伊織さんにあんなふうに……なんて。恥ずかしすぎる)
別に誰かがいるわけじゃないのに、隠すように両手で顔を覆う。今、顔が絶対真っ赤になってる。
心愛ちゃんにはなぜか見抜かれてるんだよね。私と伊織さんにはまだ何もない……って。
自分でも奥手過ぎるとは思うけど、こういうのは自然な形に任せるのが一番だと思う。伊織さんも無理強いしてくる様子はないし。
ただ、現在妊娠中のくるみさんには「伊織さんとの赤ちゃん欲しくないの?」って訊かれたことがある。
「今頑張ればこの子と同じ学年よ」って。なんのことかよくわからなくて、曖昧に笑っておいたけど。
やっぱり……伊織さんも……赤ちゃん……欲しいのかな?
赤ちゃん……私と伊織さんの子ども。
想像しただけで、顔に集まってた熱が頭にまでのぼってくる。きっとお湯が沸騰するくらい熱くなった頭では、何にも考えられない。
(あ……あ、赤ちゃんって……わ、私と……伊織さんの!?)
想像するだけで叫びたくなりそうなほどに恥ずかしい。どうやったら赤ちゃんが出来るのか……先輩としてくるみさんが……ほんの少し教えてくれた。
だけど……
伊織さんが新居を“俺たち家族の新しい家だ”って言ってくれた時。すごく嬉しかったことを覚えてる。
家族……
私には今までおばあちゃんしかいなかったし、これから増えるなんて想像もつかなかった。
自分はずっとおばあちゃんと一緒で。おばあちゃんが先にいなくなることは避けられないけど、そうしたら一人ぼっちでおはる屋を守っていくんだと思ってたし。寂しくても仕方ない未来だってあきらめ受け入れてた。
だけど、思いがけず伊織さんが現れて。むちゃくちゃな出会いから、最初は契約から始まった歪な関係だったけど。いつの間にか彼を好きになって、彼の幸せを願ってたけど。何の奇跡か伊織さんが私に、“本物の夫婦になろう”とプロポーズしてくれたんだ。
つらい子ども時代を過ごした伊織さんには、ずっと家族の暖かさに触れて欲しいと願ってきた。最初はお母様を憎んでた伊織さんも、今は時折電話で会話をする程度には和解してきてる。
親子は、憎しみだけじゃない。もっと素敵なものがあるんだって、感じてもらいたい。
(自分の……子どもだったら。伊織さんはどんなふうにするのかな?)
太郎と花子でさえあんなに可愛がるんだし、自分の血をわけた子どもなら尚更可愛がりそう。想像しただけでおかしくなってきた。
はっ、と気づけば子ども達の視線を感じて。コホンと咳払いをして真顔に戻る。またおばあちゃんに叱られないうちに、真面目に店番をしなきゃ。
花子の病気を治すためにも、と飼育本を再び広げる。
(金魚の体が膨らむ病気は……腎臓の病気……腹水病……他にも腸や卵巣とかいろいろか)
金魚も意外と内臓系の病気にかかりやすい、と初めて知って何だか心配になってきた。治療法として他の水槽に隔離したり、絶食したり、塩浴やココア浴まで紹介されてる。
(ココアか……家にないから小さいの買っていってみよう)
なんでも試してみないとわからない。おはる屋の店番が終わってから、すぐにスーパーに寄ってみた。
でも、私の判断で勝手に花子を治療するわけにもいかない。スマホを取り出すと、伊織さんはまだ仕事中だろう時間。
なら、電話でなくメールで伝えてみようと入力に四苦八苦しながら、なんとか一通を書き上げるのに10分かかった。
【おしごとお疲れさまです。きんぎょの本で、病気をなおすのにここあがいいと書いてありました。ここあをかって帰っていいですか?】
時々ひらがななのは、急いだせいです。フリック入力はどうも慣れなくて、誤字脱字のオンパレードでしたから。
(こんな出来で恥ずかしい……けど、今は花子の方が心配だから。えいっ!)
震える指で送信を押すと、緊張が抜けてふうっと息を吐く。
たぶん返ってくるのはだいぶ後だろうな、とスーパーのかごを持って店内に入った瞬間。スマホがブルブル震えてドキッと心臓が跳ねた。
(え……早い。仕事中じゃないの?)
疑問に思ってメールを開けば。
【おれもスーパーに行く。今食品売り場か?】
「は!?」
思わず、目が点になりそうになりました。
伊織さん、仕事はどうしたんですか?




