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春~4月第1話 契約



ええっと……戸籍謄本と、転入届けと……それから。



「……」



今、自分の目の前にある書類が未だに信じられない。何度目を擦っても何も変わらずに、これは現実だと知らしめてきた。



「何をしてる? 必要な書類が揃ったならさっさと出しに行くぞ」


「あ、はい」



私をそう急かすお方は、これから1年私の夫になる(はずの)和泉いずみ 伊織いおりさんです。



ダークネイビーのダブルボタンのスーツをピシリと着こなしてらっしゃる彼は、今日も今日とて眉間に深いシワを寄せて不機嫌さ全開。“面倒くさい”オーラがばんばん出てますよ。



それもそのはず。だって、今は彼のお昼休憩を使って市役所へ婚姻届を提出しに来てるんですから。



なぜかと言えば、彼はこれから1ヶ月先はそんな時間がないからだって。ろくにお休み無しな上に、細切れで海外出張や地方への出張があるからと。



“面倒くさいことは先に済ませるに限る”

なんて言い切ってたからなあ。



…………。



(別に……愛を期待するなとは言われてるから、優しくして欲しいとは言わないけど……何だか寂しいって思う……のは私のわがままなんだろうな)



最初から、夫婦らしくだとか期待はしてない。でも、いくら契約としても、夫婦ってこんなふうに味気なくなるものなのかな? って思う。



私には親しくしてるご夫婦や家族がいないから、あくまでも想像に過ぎないけれど。






婚姻届は事前に何度もチェックしていたから、何の不備もなくあっさりと受理された。



「はい、問題ないですね。おめでとうございます」



年配の職員さんに義務的にそう言われたから、思わず頭を下げて「あ、ありがとうございます!」なんてお返しをしたら。


……何だか……伊織さんからの視線が痛い。



「さっさと出るぞ」


「あ、あの……ついでに婚姻届受理証明書が必要なので、いただいていきたいのですが」



婚姻届を役所に提出して受理されたとしても、新しい戸籍に反映されるまで数日掛かる。その間に戸籍謄本や戸籍抄本は使えないから、代わりに婚姻届を受理したという証明書を使うことになるって聞いた。


だから、もう少しだけ待って欲しいってお願いしたんだけど。伊織さんは腕時計で時間を確認すると、あからさまに舌打ちをした。



「……悪いが、これ以上は付き合えない。すぐに重要な会議が始まる。帰りはこの金でタクシーでも使え」



伊織さんは高級そうな(たぶんブランドもの)の財布から数枚のお札を取り出すと、私の手に押し付けてからビジネスバッグを手にする。すると、秘書の男性が伊織さんを迎えに来た。


彼と二、三言葉を交わした伊織さんは……



こちらを振り返ることなく、私に背を向けてまっすぐ市役所から出ていった。







伊織さんはタクシーを使えと言ってたけど、歩ける距離ならと散歩するつもりで外へと足を踏みだす。

市役所は国道に面しているだけあって、少し歩けば開けた街並みが見えてきた。



「わぁ……!」



近くには桜並木で有名な川岸とお城があって、中心街は様々なお店が建ち並ぶ。あまり大きな商業施設はなくて個人店が中心だけど、そこそこの賑わいがあった。



おばあちゃんは今日はお休みにしてくれたし、時間があるならと少しだけのつもりでお店を覗いてみる。



並木道をゆっくり歩いて見てるだけで楽しい。お金はないから買えないけど、ガラス工芸のお店が近くにあるなんて初めて知った。


(考えてみれば、こんなにゆっくりウィンドウショッピングするのは初めて)



高校の時はおばあちゃんと駄菓子屋を切り盛りしながら、アルバイトに励んでいた。家事とお店とバイトと勉強と……で部活に入るひまも無かったし、遊ぶ時間がなくて友達もできなかった。



もともと、ぽっちゃりで地味で貧乏な私に興味を持ってくれる人なんていなかった。自分が女性として何の魅力もないとちゃんと理解してる。



だからこそ、どうして伊織さんが契約とはいえ私と結婚したかがわからない。



彼は仕事のためとは言っていたけれど、やっぱり不思議だしとても不自然に思う。



ガラス工芸店で繊細なガラス細工を眺めながら、1週間にあった伊織さんとの会話をぼんやりと思い出していた。










1週間前、私は深夜のアルバイト先で雨に打たれ熱を出した伊織さんを拾って家に連れ帰った。


彼は翌日の昼過ぎに起き出してきたんだけど。私が作ったプリンを食べた途端、いきなり結婚しろと言い出した。



しかも、愛がない前提の1年間限定の契約結婚。その代わりにおばあちゃんの駄菓子屋を助けてくれる、という交換条件を提示してきた。



最初私は何を言われたのかが解らなくて、彼をぼうっと見てたんだけど。 伊織さんはますます眉間のシワを深くして言葉を重ねてきた。



「1年だ。1年我慢してオレの妻を勤めれば、二度と困ることはない。借金は全てを清算するし、婚姻期間の間は月に幾らか援助する。離婚の際は慰謝料で1000万。その上今住んでるマンションの権利書。これでも不足か?」


「い、いっせんまん!?」



突然提示された桁違いの額に、私は本気で目が飛び出すかと思った。



「だ、ダメです! 仮にお受けするとしても、そんなにいただけません! それに借金だって何とかして返します。ですからこのお話は……」



伊織さんは私の言葉を聞いた途端、胸ポケットにしまっていたスマホを取り出して操作する。


たぶんずっと電源を切っていたであろうそれは、すぐに繋がったようだった。



葛西かさいか? ああ、そう喚くな。とりあえず生きてる。問題ない。それより、すぐに調べて欲しいことがある」


伊織さんは葛西という相手に必要最低限の内容を告げた後、すぐに通話を切ってスマホをポケットにしまう。



一連の手慣れた様子は、伊織さんが人への指示に慣れた人間だと知るには十分で。(バイトちゃんの話から知っただけだけど)ブランドもののオーダーメイドスーツを着こなしていることからも、自分とは違う世界に住む人なんだと痛感した。



そりゃそうだ。



離婚の慰謝料で何の躊躇いなく1000万とマンションと言える人だ。きっと彼にとって、そんな金額なんて痛くも痒くもないに違いない。


1000万。私の深夜のバイトの時給で同じ金額を稼ごうとしたら、単純計算で1万時間働かなきゃいけない。何年バイトで働けば手にできるのかとぼんやり考えて、ハッと我に返った。



バイト……そう、もうすぐバイトの時間だ。あと30分で始まっちゃう!



腕時計で時間を確認した私は、とにかく断ろうと伊織さんに声をかけた。



「あの、私はもうバイトに行かなくちゃいけません。せっかくですが、このお話はお断りさせていただきます」



すると、伊織さんはもう一度スマホを取り出し電話を掛け始めた。



「私は和泉という者だが、店長はいるか?」


どこに掛けているんだろう?と疑問に思いながらも、この隙にと伊織さんから離れてバイトに向かおうとしたのに。彼は、一瞬距離が出来た腕を掴んで痛いほど握りしめてきた。


「ああ、店長か?私は和泉という者だが、今日シフトに入っている篠崎 碧は休ませてもらう……理由?それは体調不良だ」


「!」



伊織さんが放った言葉に、一瞬耳を疑った。



「ちょ……どうして、勝手に休みにするんですか!」



取り消させようと伊織さんに詰め寄ると、彼は私のことなどお構い無しに話を進めた。



「私が誰だと? 碧の婚約者だ。彼女は昨夜雨に打たれ熱を出した。我慢強い彼女だからギリギリまで私に知らせず、つい先ほど偶然知って無理に休ませることにした……かなりの高熱で酷く消耗している以上、数日は休ませてもらう」


伊織さんは一気に言い切った後、たぶん返事を聞かずに通話を終えた。会話を止めるためにスマホを奪おうとしたけど、リーチと身長差でどうにも太刀打ちできない。



「どうして、あなたが勝手にお休みにするんです!? 私が働かないと借金だって返せないじゃないですか!」



あまりの傍若無人ぶりに悔しくなって、じわりと涙がにじんできた。ブルブルと震える私を見ても、伊織さんの冷静な表情は変わらない。



何の説明も言い訳も釈明もないまま、しばらく気詰まりな沈黙が続いた後――伊織さんのスマホが鳴って着信を知らせた。



「伊織だ。ああ……」



伊織さんは電話を受けてすぐ、わずかにだけど口元を緩める。


それは――笑っているようにも見えた。



「……わかった。十分参考になる。それと、迎えは20時におはる屋まで来てくれ」



伊織さんはスマホの通話を終了させると、腕を掴んでいた手を緩める。これはチャンスと彼からすぐに離れて振り向いてから、ギョッとした。



伊織さんが――笑ってたから。



花壇に座ったままの彼は、両手を組んで顎に当てると楽しそうに私を見上げてる。



そして、その薄い唇が言葉を紡いだ。



「――4月30日と5月27日」


「!」



伊織さんがその日付を口にした瞬間、私は衝撃で動けなくなった。



当てずっぽうで言える日付じゃない。しかもそれが二件重なるとなると、偶然というにはあまりに苦しい。



息を詰めた私に、伊織さんは愉しげな目を向ける。それは、間違いなく獲物を追い詰める獣の瞳だった。



「……200万の借金と300万の借金の、それぞれの返済期限。今までは温情で利子のみで返済を延ばしてもらっていたが、それぞれの借り入れ先が資金難で返済を延ばせないと言われているだろう?」



知られた……。



あまりのショックで一瞬気が遠くなりそうだったけど、何とか持ち直した私は、伊織さんの前にそのまま膝を着いた。




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