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冬~2月第3話 涙







まさか……こんなことになるなんて。



あまりに突然な出来事に、びっくりするやら何やら。信じられないし、頭がついてきません。



雅司さんの発案で桂興産の本社に突撃した子どもたち。偶然顔見知りの佐倉さんに会い、なんと社長自ら直々にお出でくださいまして。



心愛ちゃんが緊張しながら

「お願いします! みんなおはる屋が無くなると困るんです」と訴えつつ、3000人分の署名を手渡せば。



「これは思ったよりもすごい反響だね」



広報部部長を伴った社長さんは、書類をペラペラと捲りながら話してたけど。



隣にいた広報部部長さんを見て驚いた。



だって……その人は。出張ついでにおはる屋に来たというあのサラリーマンさんだったから。



椙村すぎむらくん、キミも話してたここに、私も興味が湧いた。会議などキャンセルして皆で行ってみようじゃないか」


「は!?」



社長の独断に、目が点になったのは他のお偉いさんたち。



「ちょっ……っと待ってください! 今からの会議は各支社の支社長が集まる重要な」


「そんなの、コミュニケーションを取るためのレクリエーションに変更。みんな疲れてるんだから、童心に返るのも悪くないだろ」



何かいろいろとお茶目な社長さんは、ブーイングもものともせずに。支社長さんがたをぞろぞろと引き連れて、おはる屋へやって来ました。



なんという予想外の展開……



もしも失礼があったらと思うと、胃と頭が痛くなりそう。だけど、子ども達は大喜びだった。









カチン!と青空に独楽こまがぶつかる音が響く。



おはる屋の店の前にあるアスファルトの駐車場で、2つの独楽がぐるぐる回りながらぶつかったけれど。独楽のひとつがもうひとつを見事に弾いた。



「あ~っ、やられた!」


「ふっふ~ん。どうだ、参ったか!」


「参った、参った! いや、 まさかここまで強いとは思わなかったよ」



ポンポンと白髪頭を叩くのは、桂興産の中部支社長。彼の前で得意顔なのは堅くんだった。



桂興産の社長さんの独断でおはる屋へやって来た支社長さんたち。最初は渋々で「なんでこんなことを」ってはっきり顔に書いてあった。



だけど、堅くんがおじさま達に勝負を申し込んだところで空気が変わった。



“負けたらおはる屋をあきらめる”――おばあちゃんもまだ売る方へ傾いてるし、もしもこれで駄目になるなら諦める。と子ども達の総意で大人たちに真剣勝負を申し込んだ。



いい加減に社長の独断専行に呆れていたのか、主導権を握れるかもしれないと支社長さん達が意気込み、支社長の中から強い人を出して勝負をした結果。



独楽遊びでは三勝一敗と子どもたちが圧勝。次にメンコ勝負では二勝二敗と五分五分。


そして、次の勝負はけん玉。どれだけ長く続けられるか、一発で剣先に収められるか、で勝敗が決まる。



おじさま方も昔とった杵柄か、なかなかの手さばきでけん玉を操る。けれど、やっぱり時間の隔たりがあるのか、毎日遊ぶ現役の小学生に押されてく。



カチン、とあと僅かなところで玉が剣先から滑り落ちる。


「あ~惜しい!」


「もう、見ていれん! 佐藤さん、私に貸しなさい」



拳を握りしめた東京支社長が、北陸支社長のけん玉を奪い華麗なけん玉さばきを披露する。



「お、研さんなかなかやるねえ」


「そりゃそうですわ。私の子ども時代はこういう遊びが主でしたからな」



そんな風に自然に思い出話をしたおじさま方は、皆さんいつの間にか笑顔を浮かべてた。



「よ、よし! 勝ったぞ」



子どもたちに勝って無意識のうちにガッツポーズを取った北陸支社長さん。周りの視線に気付いたのか、すぐに赤くなって「ごほん」と咳払いした姿が何だかかわいかった。







いつの間にか日が傾いて、空が茜色と紫色に染まりつつある。カラスがカアカアと鳴いてねぐらへ帰る空を見上げながら、いつの間にかそれぞれ穏やかな時間を過ごしてた。



おじさま方はビー玉が入ったラムネで一杯やりながら、清々しい笑顔で語り合ってた。



「私の頃は給食の牛乳ビンのキャップをメンコがわりにしてましたよ」


「そうなんですか。私のところは牛乳は三角パックでした」


「私は揚げパンが楽しみでしたな」


おじさまの給食談義に、堅くんが加わる。



「へ~揚げパンってのがあったんだ。オレはソフト麺とミートソースと冷凍みかんが好きだな」


「お、キミも冷凍みかんが好きか。話がわかるじゃないか」



中部支社長が堅くんのラムネに自分のビンをカチンと当てる。



結局、支社長チームと子どもチームの勝負は五分五分。決着は着かなかったけど。いつの間にか仲良くなって、世代を越えた会話をかわしてた。



「思い出すなあ、母が呼びにくるまで夢中で遊んだ時代ときを」


「ですね」



社長と広報部部長もラムネ片手に、世代を越えた交流をして賑やかなおはる屋を眺めてた。



「こりゃ、買うに買えませんね社長」


「……そうだな。最初は脅され仕方な……ゴホン。いや、正直な話まったく興味は無かったが。来てみるものだな。これだけ人びとが必要とするものを、そろばん勘定だけで潰すのは惜しい」



そして、社長は昔懐かしい練り消しを眺めながら、ギュッと手のひらで握りしめる。



「……価値は目に見えるものだけでない、か。桂グループ創業者の言葉が身に染みるな」



一度瞼を閉じた社長さんは嘆息すると、長い間静かにしていた。まるで、その場の空気に浸るように顔を上げる。そして――目を開いた社長さんは、決意をみなぎらせ強い瞳で子どもたちへ宣言した。



「わかった。君たちの頑張りに感服した。この土地は一旦こちらで買い上げるが――おはる屋に寄贈することにしよう」



社長さんがそう約束した瞬間、子ども達は飛び上がって。支社長さん達は腕を振り上げて喜んだ。






「はい~ありがとうございます! さすが寛大な社長サマです。ご英断ですね」



喜びに沸き立つおはる屋の和室からニュッと顔を出したのが、いつの間に来ていたんですか? な葛西さんだった。



「わ、わぁっ!?」



なぜか桂興産の社長さんは葛西さんに相当驚いて、商品だなに頭がつきそうなほど体を仰け反らせていた。 私は彼に疑惑の目を向けながら訊いてみる。



「葛西さん……一体何をしました? 社長さんが怯えたような白い顔をしてますけど」



カタカタ震える社長さんを見てると、気の毒なほどに青白い顔をしてる。 これは絶対に腹黒な葛西さんが裏で何かをやらかしているとしか思えない。





「イヤだな~碧ちゃんまでそんなことを言うの? ぼくはただ、ちょっとだけ協力してねって社長さんに頼んだだけだよ?

“あなたのこれが明らかになれば、会社が傾くどころか沈みかねないですね”ってとある資料を手にお願いしたの。ね? 優しいでしょう」



………………。



いや、それは確実に脅迫でしょう。



「ゆ、許してください。ちゃんとやりましたから」


「うんうん、ぼくの最愛のくるみがさ。ここが無くなるのが悲しいって言ってたからね。社長さんが頑張ってくれて嬉しいよ。もしもここ無くしたら、たぶん明日からあなたは無職になってたね~よかったね」



ニコニコとにこやかに末恐ろしいことをおっしゃる葛西さん……やっぱり、一連の上手く行きすぎたおはる屋のこと。あなたが裏で糸を引いてたんですね。


そして、今まで取材に徹していたカメラマン兼ジャーナリストの雅司さんは、取材用の機器を下ろすと葛西さんに向けて手を振る。2人はパン!と互いの手を合わせて叩いた。



「おっと、良介。協力サンキューな」


「おう、雅司もな。助かったよ」



その親しげな様子は、どう見ても2人が親友としか思えない。


つまり、雅司さんが現れたのは偶然ではなく葛西さんの入れ知恵で。マスコミも彼の思惑で動かしたようなもの。



何だか完全に葛西さんの手の内で踊らされた感じがします。



葛西さんはにこにことみんなを見守ってくれてるけれど。桂興産の社長さんさえ無職に出来る力を持った彼を怒らせたり敵に回すのはやめよう、と心底思いましたよ……。









正治しょうじさん?」



聞き覚えのある声が社長さんを呼んだからそちらを見れば、風呂敷包みを持った葵和子さんがお店の前で立ってる。 どうやらおばあちゃんに用事があって来たら、偶然社長さんに会ったみたいだ。



「葵和子さん、お知り合いなんですか?」


「え、ええ。正蔵さんの長男である正志まさしさんの息子で、今は桂興産の社長をされてますけど……今日はどうしてこちらに?」


「あんたですか……ひっ」



正治さんと呼ばれた桂興産の社長さんは、葵和子さんを見た瞬間嫌悪感を露わにしかけたけど。彼は近づいてきた葛西さんのにこやかな笑顔に顔をひきつらせた。


その気持ちわかります。葛西さんが笑みを深くしている時ほど、後が恐ろしいことはないんですよね。



「そういえばあんた、昔うちの社長の伊織いじめたんだっけ~?」


「ひっ……」


「知ってる? 桂家から追い出された伊織、あんたらのお陰で死にかけたんだけど。 同じ目に遭いたい? あ、あんたじゃなく、息子を同じような目に遭わせるってのもアリかな~」



出た……一見すごく親しみやすい最高の笑顔だけど、体の芯から凍らされそうな葛西さんの悪魔の笑みが。



完全に真っ青になった社長さんは、ガタガタと震えた後に突然その場で土下座をした。



「ゆ、許してください! あれはほんの出来心……わ、私が愚かでした!」



桂家社長の突然の謝罪に、葵和子さんは唖然としてるけど。葛西さんはそれだけで許すつもりはないようだった。



「あんたらのせいで今後葵和子さんと伊織に何かあったら……わかってるよね?」


「は、はい! わたくしめが皆にしっかり言い聞かせます。それでご勘弁してください!!」


「いいお返事だね~和泉と違ってさ。和泉家はどこまでもゴネたからさ~社会的に制裁して二度と表舞台に立てなくしてあげたんだよね。うん、今後一切葵和子さんや伊織たちに影響がないように完全に排除したけど。桂家がそうならなくてよかったね~」



凄みのある笑顔で凍りつきそうなことをおっしゃる葛西さん……あなた本当に何者ですか。



あれだけプライドが高い桂家の人をあれだけ従順にさせることが出来るなんて……。


恐ろしい……と私は心底葛西さんが怖くなりましたよ。



だけど。



葛西さんが後でこっそりと耳打ちしてくれたことが、また私の心をざわめかせる。



「ホントは僕もここまでするつもりもなかったんだよ」



だけど、と葛西さんには珍しく困った顔を作る。



「どっかの無愛想男がさ~駄々をこねたの。“おはる屋を助けてやってくれ”ってさ。頭まで下げてきたんだ、あのプライドの高いやつがさ。“大切なひとの大切な場所だ”って。そのためにあの無愛想もかなり動いたんだけど。内緒にしろって口止めされたんだよね」



でもさ、と葛西さんは耳を掻きながら言う。



「あんまり素直じゃない無愛想男に代わって教えておくよ。あいつ、君のために頑張ったってさ。いろいろすれ違いしてるのわかるけど、一度ちゃんと顔を合わせなよ。でないとあのじめじめ鬱陶しい面をいつまでも見なきゃいかんし。頼むよ~」



葛西さんは喋るだけ喋った後で、さっさと立ち去ろうとする。はっと顔を上げて私は急いで「ありがとう」と伝えた。



彼は、後ろ姿のまま片手を挙げて応えてくれる。じわじわと嬉しさが胸を温かくして、涙で視界がにじんだ。



(伊織さんは……おはる屋を気にかけてくれたんだ。現状を知ってたくさん頑張ってくれたんだね)



ありがとう……と。逢えない彼にしあわせな気持ちで心の中でお礼を言う。



(やっぱり忘れられない……けど……それで、いい)








はぁ、とため息をつく。



私は1ヶ月ぶりに伊織さんのマンションを訪れていた。



ほんのちょっとの間離れていただけなのに、すごく懐かしくて涙が出そうになる。



あの道で寒さに震えてたら、伊織さんに羽織を頂いた。


あのロビーでは太郎と花子の袋が破れかけて、伊織さんが水漏れを大騒ぎしたっけ。



ひとつひとつの景色に思い出が染み付いていて、郷愁の念に駆られる。



だけど、と私は、手元にあるクーラーボックスを見てため息をついた。



(いつまでもぐずぐずしてちゃいけない。日中だから、伊織さんが居ないとは思うけど万が一もあるし……それに私はここに居ちゃいけない人間。目的だけさっと済ませて離れなきゃ)



ギュッと持ち手を掴むと、息を吐いて正面玄関へと近づいた。


今日は2月14日――つまりバレンタインデー。せめてこれだけは食べて欲しい、と作ったチョコプリンが手元にある。この1週間伊織さんが好むであろう完成度まで、何回も試行錯誤を繰り返した。



(今なら伊織さんがいない代わりにハウスキーパーの鈴木さんがいるはず。プリンを彼に渡して、代わりに離婚届を持って帰ればいいよね)



よし、と深呼吸をしてから、マンションの正面玄関の外側に設置されたインターホンのチャイムを押す。



今、私は住人じゃない以上は招かれてないと中へ入れない。今のマンションは外側のインターホンで確認し、住人からロックを解除されないと正面玄関すら通れない仕組みになってる。もっとも、コンシェルジュや警備員もいるから、怪しい人は通れないんだけどね。



しばらく沈黙していたインターホンから『はい』と応答があった。だけど、てっきりハウスキーパーの鈴木さんと予想していた声は……女性のもの?



呆然としてインターホンを眺めていると、たぶんカメラを通してこちらの姿を確認したらしい彼女の声が続いた。



『どちら様? あ、碧ちゃんね。待ってて、今開けるから』



聞こえた声に、自然に体が強張るのを感じた。


……あずささん?



今の声……確かにあずささんのものだった。



衝撃的な現実に動揺した私は、どうやってマンションのドア前に行ったかまったく憶えていない。



気がついたら、ドアが開いて目の前にバスローブ姿のあずささんがいた。彼女の髪はまだしっとりと濡れている。



「ごめんなさいね、こんな格好で。伊織なら今寝てるわ」



恥ずかしそうにそこまで言われて、何があったかわからないほど私も子どもじゃないつもりだ。



「それじゃあ……これをみんなで召し上がってください。お邪魔しました」



私はあずささんに押し付けるようにクーラーボックスを渡すと、ペコリと頭を下げてから走ってマンションを後にした。



「碧ちゃん、待って!これは……」



あずささんが私を呼んだような気がしたけど、これ以上あの場にいて平気そうな自分を保てる自信がなかった。



(お邪魔しました……か。そうだよね……私はお邪魔虫なだけだ)



溢れそうな涙を堪えながら、とぼとぼと歩いてアパートへ戻る。



「なんだ……やっぱりもう私なんていらないじゃない」



あずささんは宣言からわずか1ヶ月で伊織さんと同棲して深い仲になれるほど、魅力的だったんだ。



ほらね、やっぱり。私なんかと比べ物にならない。彼女は本物だから……伊織さんが選んで当たり前。



いくら努力をしても何とも思われず、1年近く一緒に暮らしてもキスひとつなかった私とは大違いだ。



やっと着いたアパートの部屋で、じわりと滲むものをごしごしとぬぐう。



(これで決まったな……伊織さんが決意をしたなら、やっと離婚できる。なら、おはる屋に帰ってもいいよね)



もともと正蔵さんとの約束では離婚が決まるまで、の一時的な住まいとしてお世話になったアパートだ。 伊織さんが離婚を決めたなら出ていくのが筋だ。



「荷物……まとめなきゃな」



もとから物は買わないようにしていたから、荷物は多くない。それでもマンションの時より多少増えたから、温泉旅行に使った大きめのバッグを開いた。


(あ……そういえば洗濯物だけ出して中身はそのままだったっけ)



あの旅行は楽しかったけれど少々疲労困憊だったから、洗濯物と服だけ取り出して片付けは後回しにしたまま忘れてたんだ。仕方ないなあ、と中身を出して……その中に見慣れないものがあると気付いた。



「あれ……これ、何だろう?」


若草色の柔らかい和紙の封筒。なんとなく見覚えがあるような。



何気なく開いた封筒には一枚の便箋が入ってた。封筒には宛名がない。もしかすると伊織さんが葵和子さんに宛てた手紙?それ以外思いつかないけど、違う場合だってあるかもしれない。


(……もしかして伊織さんが他の人に……最愛のひとに宛てたお手紙?)



気付いた可能性に手が震える。だけど、これがありましたと伊織さんに返すのは気が引ける。今や葵和子さんと伊織さんは手紙を郵便でやり取りしてるから、葵和子さんを通じて返すのが無難な方法だろう。



だけど、伊織さんが誰宛に書いたものか確認する必要はある。もしも葵和子さん宛なら直接渡せばいい。


(そう……全部読まなくても最初だけ確認すればいいよね)



言い訳しながら仕方なく内容を確認するため、手紙に目を落として。




一瞬、息を飲んだ。



だって……



手紙の書き出しには

“碧へ”とあったから。


伊織さんの字で。







“碧へ


これを読んでいるということは、おそらく俺と別れようとしているのだと思う。

それも仕方ないだろう。

今までよくこんな面倒くさい男に付き合ってくれた。


最初、おまえを捕まえたのはプリン目当てだった。

家族として唯一の懐かしい味……それはおそらく、俺が人としてあるために必要なものだった。俺にとって食事とはただ生きるための栄養摂取で、それ以上の意味などないし、ましてや楽しみなど見出だせなかった。

他人に関してもそうだ。


他人は損得に関わる部分で必要か不要かを判断し、不必要ならすぐ切り捨てた。


自分でも人間として欠陥品だと思ったよ。誰が困ろうが泣こうが喚こうが、何とも感じなかったのだから。


だが……おまえと過ごし同じ時間を重ねるごとに、不思議と他人が煩わしく思わなくなった。

食事が楽しくなった。食べる楽しみや他を可愛がることを覚えた。


他にもたくさん、書ききれないことを学べた。


家族、人間。今まで何の意識もしなかった他人との関わりを考えて、ようやく人間らしくなった気がする。


ありがとう。


おまえのおかげで俺はやっと一人の人間になれた。


だが、それでも。


俺のわがままだろうが。


許されるなら、おまえの笑顔をいつまでも見ていたい、と思う


きっと俺は本当の意味でおまえを得るため、行動を起こすだろう。信じられない気持ちになるだろうが、どうか信じてほしい。

きっと、迎えにいく――



201×年11月22日 和泉 伊織”




「伊織さん……」



思いがけない伊織さんからの言葉に、胸が熱くなりパタパタと涙が床に落ちる。



そっと手紙を抱きしめながら、声を上げて泣いた。



嬉しくて幸せな涙を――。



(ありがとう……伊織さん。私にはこれだけで十分です)



愛の告白ではなかったけれど、伊織さんからの包まれるような深い想いが心を満たしてくれる。




その、暖かな感情を生まれて初めて感じた私は――伊織さんから夏祭りにプレゼントされた黒い猫のぬいぐるみと雪のペンダントを抱きしめた。



――これで、いい。



私の初恋は実らなかったけれど、短期間でも結婚できて幸せだった。これだけ深い想いを抱いてもらえた。



もう、いいんだ。私には……一生ぶんの思い出を貰えたから。彼の幸せを願って独りで生きていこう。



伊織さんがくれたたくさんの思い出を、想いを胸に前を向いて歩いていく――。

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