冬~1月第3話 あるべき場所で
ならば、と正蔵さんからはひとつの提案をされた。
正直な話、それも受けるのは断ろうと思ったけれど。今の伊織さんの態度を見たら、契約期間終了までこのままうやむやになる気がする。
だから、とても申し訳ないと思うけど。それだけはお受けすることにした。
密かに準備を進める。
伊織さんに知られないようにするのは大変だったけど、これは必要なことだからと隠れて用意をした。
もともと荷物は少なかったから、まとめるのはそれほど苦じゃない。食事の心配はあるけれど、それはハウスキーパーの鈴木さんに頼んで、段階的に進められるようにレシピを作っておいた。
太郎と花子は彼が熱心に世話をしているし、ミクは鈴木さんの世話で事足りる。後の家事は鈴木さんに任せてある。
以前と同じ状態に戻るだけ。
あるべき場所へ戻るだけ。
正蔵さんと話した一週間後、私はマンションを出てひっそりとアパートに移った。
別居。
私が本気だと伊織さんに示すため。そして、彼が心変わりするのを待つために決断した。
たぶん、今の伊織さんは餌を与えられる雛鳥のようなもの。私を餌をくれる親鳥だと勘違いしてるだけ。
離れて頭を冷やせば、冷静になれば正しい判断ができるはずだ。私みたいな地味で何の取り柄もない女より、あずささんの方がよほど魅力的だと。
顔や容姿の美しさも女子力もキャリアも頭の回転の良さ、教養に性格のよさ、血筋に両親。家名に後ろ楯……彼女は私がないものをたくさん持ってる。
ちょっと腐ってたけど、あれだけの良い条件の人はなかなかいない。
うん、大丈夫。誰が見比べてもあずささんの方がいい。自虐ネタになるけど、男性が100人いたら100人ともあずささんを選ぶだろうから。
別居して数日経ったころ、珍しいお客さまがおはる屋を訪れた。
「へえ、初めて来たけど懐かしい匂いがする。なんだか子ども時代を思い出すわね」
黒いツーピースを着たあずささんは、今日もメイクも髪も完璧な美人さん。キャリアウーマンとして、貫禄すら感じられる。
「急にごめんなさいね。営業の途中なのだけど、どうしても話したいことがあって」
和室の畳の上で正座をしながら湯飲みを持つあずささんは、正統派の和風美人。大和撫子と言っても差し支えない。
「急にどうしたんですか?」
「とりあえず、一番はこのお店のことね」
「え?」
あずささんはぐるりと店内を回し見ると、無くなるのは惜しいわねと呟く。
まただ。
以前訪れた正男というひとも、ここが無くなると言ってた。
どういうことか問い詰めようとしても、おばあちゃんは気にするんじゃないよ! とにべもなくて。訊くに訊けなかったんだ。
「どういうことですか? この“おはる屋”がなくなるって」
「簡単な話よ。ここは借地で、地主が売却を決めたから……だから、無くなるの」
「えっ!?」
初めて聞く話は衝撃的で、頭で整理するまで時間が掛かった。
借地というのも初めて聞いたけど、既に売却先まで決まってたなんて。
借地なら、借りてる以上は返さないといけない。契約で借りてる立場の方が弱い。
地主が売ると決めたなら……
「で、でもおばあちゃんが住んでいるんですよ? それなのに売っちゃったんですか!?」
動揺する私の問いかけは、強い言葉で。まるであずささんが悪いと責めるような口調になってしまっていた。彼女は親切に知らせにきてくれただけなのに、とハッと我に返って口をつぐむ。
だけど、おはる屋の行く末は私にも大問題だ。今は正蔵さんの伝で用意して頂いたアパートで暮らしているけれど、離婚が成立したらおはる屋に戻って以前と同じ生活をするつもりだった。
それに、私はこのおはる屋で拾われ育てられた。言わば生まれ故郷で“家”。私の人生はこのおはる屋とともにあった。この温かい場所は、私にとって“家”以上の意味を持つ大切な場所。どんな豪邸よりも、このおはる屋はかけがえのない存在なのに。
子どもたちにだって。
どうして、そんな話が出たのかわからない。だって、私は全然聞いてないし、ましてやおばあちゃんはここで暮らして……そう思ってたのに。
「どうやら、あなたのおばあちゃんは同意したらしいわ。その売却話に」
「え……」
あずささんの予想外な言葉に衝撃を受けた私は、一瞬自失呆然となった。やがて、コトリ、と湯飲みが落ちる音で我に返る。慌てて布巾でちゃぶ台を拭いてると、あずささんは「大丈夫?」と訊いてきた。
「すいません、ドジで……いやですね、アハハ」
「動揺するのも無理はないけどね、あんなお話があっては。私もさすがにお気の毒と思うわ」
あずささんはひたすらちゃぶ台を拭く私へ、そんな優しい言葉をかけて下さる。自分に無関係なのに少なからず心を痛めてくれている現実に、ああやっぱり優しいひとだな……と感じて。ツキリと胸が痛んだ。
いやだな……私。伊織さんが愛する人はもしかするとあずささんかもしれないって。勝手に勘ぐって、勝手に傷ついてる。自分から離れようとして身勝手なことをしてるのに……最低だ。
きっと今、私はひどい顔をしてる。あずささんへのいろんな感情が出てるとわかってるから、どうしても顔が上げられない。
とっくにお茶は拭き取れているのにまだ無意味に雑巾を動かす私への背中へ、あずささんは声をかけてきた。
「あなたには同情するし、辛いとは思う。けど……追い打ちを掛けるようで悪いけど、これからが私の本題」
あずささんがコトリと湯飲みを置くと、まっすぐに私を見詰める視線を感じた。
「どうして、勝手に勝負を降りたりしたの?」
「………」
あずささんの言葉に主語はないけど、伊織さんのことだというのは直ぐに解った。
「葛西から聞いたけど、数日前から別居してるんですって?
“伊織が腑抜けてるから何とかしてくれ”ってあの腹黒に泣きつかれたわよ。どういうこと?」
静かに問い詰めてくるあずささん。騒がないからこそ、彼女の怒りの深さが窺い知れる。
彼女には伊織さんのことでお世話になってる。隠し通すのも無理だと判断するしかなかった。
「……離婚……したいからです」
思い切って出した言葉は、ボソッと不明瞭なものだった。
「伊織さんの将来や彼の幸せを考えたら、私は障害にしかなりません。だから、伊織さんと話し合おうとしましたけど、剣もほろろでお話にすらなりません」
「だからといって、伊織さんの同意無しに勝手な行動をしたの?ずいぶん身勝手ではない?」
あずささんは明らかに怒り、私の行動を非難してきた。
「それを言われると痛いですけど……伊織さんは私がいなくても大丈夫なはずです。
だって……私はそう大したことはできませんし……伊織さんだって……私が好きだから結婚した訳ではないので。
もっと彼に利点がある相手とか、本当に好きなひとと結婚するには私がいては邪魔なだけじゃないですか」
「それ、伊織さんから直接聞いた言葉なの? なら仕方ないけど、あなたの勝手な思い込みで判断してない?」
「……」
確かに、あずささんの言う通りだ。私は伊織さんに確認もせず逃げ出したんだ。
きっと、また拒まれ傷つくのが怖かったから。臆病風に吹かれた小心者なだけ。
俯いた私に、あずささんは大きなため息をつく。
「……もっと骨があると思ってた。だけど、見損なったわ」
スッと彼女は立ち上がると、 ビジネスバッグとコートを手に持つ。
「だけど、それでも。私はあなたが一番のライバルと思ってる」
「……?」
何が言いたいのかわからなくて顔を上げると、あずささんは私をジッと見下ろしてきた。
「……今、私の実家の中村家は伊織さんと私の縁談を纏めようとしてる。私は、その機会を逃すつもりはこれっぽっちもないわ」
次第に挑みかかるような強気な光を宿す、あずささんの焦げ茶色の瞳。強い芯を感じさせるそれは、今まで数多の修羅場を潜り抜けてきた自信をみなぎらせていた。
「碧さん、私は本気で伊織さんの心を奪いにいく。悔しかったら全力でかかってきなさい」
おはる屋の土地が売却される。
おはる屋がなくなってしまう。
あずささんのライバル宣言とともに二重のショックで呆然としてると、バタバタとおはる屋へ駆け込んできたのが堅くん。
「碧姉ちゃん! さっきのおばちゃんから聞いたけど、おはる屋が無くなるってマジか!?」
「……わからない。私にはわからないよ」
両手で顔を覆って顔を見られないようにした。今、目を開けてしまえば、子どもの前なのにみっともなく声を上げて泣いてしまいそうだ。 グッと歯を食い縛り必死に涙を堪えた。
「ばあちゃんに訊いてみる!」
私に訊けないと悟ったらしい堅くんはスニーカーを乱暴に脱ぎ捨てると、ドタドタと和室を駆け抜けて襖を開く。
「ばあちゃん! おはる屋がなくなるって……!?」
堅くんが一瞬、息を飲んだ音が聞こえた。そして、彼は戻ってくると私の肩を揺さぶった。
「碧姉ちゃん、大変だ! ばあちゃんが倒れてる!!」
「えっ!?」
堅くんの言葉にすぐ立ち上がり、和室を通って台所に駆け込んだ。
「おばあちゃん!」
堅くんの言う通り、おばあちゃんは台所の板敷きの部分で仰向けに倒れてた。顔は青白く、呼吸が浅い。いくら呼びかけても返事がない。
「おばあちゃん、おばあちゃん! しっかりして。返事をしてよぉ……」
いやだ。
おばあちゃんまで、私を独りぼっちにするの?
おばあちゃんがいなくなったら、私はどうすればいいの!?
動揺して呼び続けるしかない私に、堅くんが「救急車呼んでくる!」と店先にある電話に走った。
どうしよう。どうしたらいいの?
おばあちゃんがどんどん冷えてく。呼吸が浅くて早い……顔色も悪いよ。
助けて……
誰か、おばあちゃんを助けて!
ぐちゃぐちゃな頭で必死に祈る中――
思い浮かぶのはただ一人。
伊織さんだった。
『おい、どうした!?』
はっ、と我に返ったのは伊織さんの声が聞こえたから。どうして? と意味がわからなかったけど、自分がいつの間にかスマホ片手に電話をかけていたことに気づく。
無意識のうちに、伊織さんに助けを求めていたんだ。
なんで? 自分から手を放したのに、今さら頼るなんて図々しい。今すぐ切るべきだ……
そう思うのに。
伊織さんの声が聞こえた瞬間、どうしてか少し安心してた。
「伊織さん……おばあちゃんが……おばあちゃんが台所で倒れて」
つい、気が緩んで。すがるように伊織さんに話してた。
『なに? それで、意識はあるのか?』
「意識は……ありません。呼びかけても答えがないんです」
『呼吸は?』
「浅く速いです」
『肌の色はどうだ。特に唇の色は』
「顔は青白いです……唇は少し紫色で」
『おそらく呼吸不全でチアノーゼが起きてる。早く医療施設に運ぶ必要がある。救急車は呼んだのか?』
「あ、はい。さっきおはる屋に来てる子どもが呼んでくれました」
『それならばすぐ毛布で包んで体温を保つようにするんだ。無理に動かすな。吐いた痕はありそうか?あれば吐瀉物が気管に入る危険がある』
伊織さんはひとつひとつ確認しながら、テキパキと指示を出してくれる。彼の指示に従いながら、おばあちゃんを毛布にくるみ救急車の到着を待った。
『俺もすぐ病院に行く。気をしっかり持て! いいな。静子さんは必ず助かる!』
「……っ、はい」
伊織さんの力強い声だけが、私がすがれる光のように感じた。
「碧!」
今まで名前を呼ばれてこれだけ嬉しかったことがあっただろうか。
伊織さんが処置室の前に駆けつけてくれた時――私の中ではっきり形づくられたものがある。
伊織さんは仕事中で急いで車を飛ばし、ここまで走ってくれたんだろう。いつもきっちりした髪は乱れ、真冬というのに汗だくで。こんな時なのに胸がギュッと締め付けられた。
「お仕事で忙しいのにごめんなさい……」
「謝らなくていい。それよりも静子さんの容体は?」
「今、治療中だけど……検査結果によっては手術になるかもしれないって」
「そうか……」
伊織さんは私の肩を抱くと、そっと長椅子に座らせる。私の隣でそっと髪をすいてくれた。
「大丈夫だ。あの静子さんがおまえを置いて逝くはずがない。俺が不甲斐ないばかりで……きっと地獄の底からでも蘇って叱りつけにくるさ」
「おばあちゃんは地獄前提ですか……」
「ああ、あのたくましさだ。閻魔王だろうがやり込めて帰ってくるさ」
伊織さんの軽口に、泣きながら笑ってしまった。
「……おまえは、そうやって笑っておけ。泣くな……俺も自分なりに決着をつける。だから」
伊織さんは口をつぐんでそれ以上は言わなかったけど。なんとなく、うなずいておく。
そして……
何時間か経ったか解らなくなったころ、ようやくお医者様が処置室のドアを開いた。
「……意識が戻りました。命に別状はありません」
その言葉を聞いた瞬間、安堵のあまりに伊織さんの胸で咽び泣いた。
「まったく、まずい飯さね。砂を食べた方がましだよ」
「おばあちゃん、そんなふうに言わないの。体のために薄味なんだから仕方ないじゃない」
倒れてから数日後、病院に行けばいつもと変わらないおばあちゃんがいて、すごく安心した。
「いつまでこんな辛気臭い場所に押し込めるつもりだい! そんなに早くボケて欲しいのかね」
「そんなことないって。もうちょいだから我慢して!」
おばあちゃんのいつもの憎まれ口だけど、本当は解ってる。
入院費の心配をしているんだって。
確かに、今のおはる屋の収入じゃあ入院費を払うのは厳しい。長引けば長引くほど、経済的に苦しくなる。
「お金のことなら心配しないで。私が何とかするから安心して体を治してよ。今までの無理がたたったんだから」
そうおばあちゃんに言って病院を出たものの、本当は宛てなんかない。
短期で稼げるバイト……といえばやっぱり深夜だな。
以前バイトしてたファミレスはよく募集の張り紙をしてた。それを見に行こうと夜道を歩く。
そして……
足を、止めた。
だって……
ファミレスの程近い場所にあるホテル街。そこからあずささんと連れ立った伊織さんが出てきたら。
呆然とした私はしばらく2人を見てたけれど、近づいてくるに従って慌てて近くの看板に隠れる。ドキドキしながら見つからないように祈っていると、2人は私に気づかずに横を通りすぎていった。
「……もう、伊織さんったら頑張りすぎなんだから」
「あの程度でか? まったく心外だな」
「そう? でもさすが評判なだけあるわ……自分でもあれだけ熱くなったのは初めてよ」
「それは光栄だが、約束は忘れるなよ」
「わかってるわよ。やっと発表にこぎ着けることができるのよね。これでやっとみんなに認められるわ! 長かったわね」
(なに……今の?)
2人の会話が信じられずに、頭が真っ白になったけど。
ただひとつわかったことは……
伊織さんはあずささんを選んだ、という現実だけだった。




