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冬~12月第3話 過去2


結婚して二年目に葵和子さんは妊娠。それでも増える借金に追われるように働き、体を壊しかけても誰も同情もしてくれない。



汗水流して稼いだお金は全て実家に渡すも、それは一円残らず贅沢の為に使われて。



あろうことか、和泉家は葵和子さんの懐妊をダシに桂家に更なる援助を要求し始めた。



そのため、葵和子さんの肩身はますます狭くなる。



出産直前まで働いた葵和子さんは、わずか二十歳という若さで一人で病院へ行きひとりぼっちで伊織さんを産んだ。 誰も喜ばず歓迎されなかった伊織さんの誕生。夫でさえ、顔を見に来てくれない。


入院するお金が無かった葵和子さんは、出産した日に伊織さんを連れて歩いて桂家へと戻った。連絡しても誰一人迎えになど来なかったから。



せめて子どもが生まれればと夫への期待は、その瞬間に断たれて。葵和子さんには虚しい絶望しか残っていなかった。



かわいそうな息子……でも。どう接すればいのかがわからない。愛されたことがないから、愛し方がわからない。



夫に似た我が子を見るのが辛く、それでもこの子を守れるのは私だけ、と独りぼっちで必死に育てた。 誰もが伊織さんを居ないものとして扱い、世話などしてくれなかったから。


けれど、実家の借金の金額が増え続ける中、いつまでも子育てだけに関われない。葵和子さんは断腸の思いで家政婦を雇い、伊織さんの世話を任せ働きに出た。



そして、和泉が跡取りを葵和子さんが産んだから、と莫大な金額を桂家に要求。両者が争う醜さ。そして和泉が葵和子さんにタカる現実。



やがて、義理の息子やその子ども達に伊織さんが激しいいじめを受けていたと発覚。 葵和子さんはやむなく伊織さんを離れたマンションに隠して育てることに決めた。



けれど、それこそが伊織さんの不幸の始まり。



まさか――密室を利用して家政婦が伊織さんを虐待しているなど。多忙な葵和子さんは夢にも思わなかった。





家政婦をしていたのは高校時代の唯一の親友で、困ってるならば手伝ってあげたい。と申し出てくれたから信頼して任せた。



とても仲がよく何でも相談できて、気心の知れた唯一無二の親友。信頼も厚く家族よりよほど信頼できる。



そして、今は唯一の味方。



そんな相手が裏切るなど、どうして考えられるだろう?



実家と嫁ぎ先と勤務先とマンションと。四ヶ所を飛び回る葵和子さんは、1日2~3時間の睡眠などざらで。我が子を見られるのが、夜に眠ってしまった時間のみ。



それでも、親友でもある家政婦から1日にあった出来事を聞くのは唯一の楽しみで。我が子の成長を励みに、必死に頑張っていた。



けれど、おかしいと感じ始めたのが伊織さんが八つになろうという頃。



あれだけ子どもらしくやんちゃだった伊織さんが外に出ず、常に怯える様なおどおどした様子を見せるようになったこと。


それまで順調に育っていた体も成長が鈍り、育ち盛りなのに1年で2センチしか身長が伸びてない。青ざめた顔に目だけがやたら落ち着きなく動く。ちょっとした物音に驚き怯える。



それだけでない。見覚えがない請求書がやって来たり、あったはずのものがなくなってたり。更には家具の位置まで変わる違和感。伊織さんが“知らない男が来た”と話した時、家政婦の友達は模様替えだから、人手を借りるために入れたのだと話した。



用心深く注意を払い様子を見ようとするけれど、友達はいつもと変わらない態度で微笑む。


伊織さんから聞き出そうとしても、怯えて決して口を開こうとしない。



よそに移そうにもあてがなく、信頼できる人間がいない上にお金がない。しかし、我が子の危機だと葵和子さんが何とか時間を捻出して警察に相談に行き、しかるべき機関へと保護を求めようとした矢先――。



伊織さんが瀕死状態となり、すべてが発覚した。






家政婦を勤めた人間は伊織さんが預けられるようになった3つの頃から、ゆっくりゆっくりと食事に薬物を混ぜ込んでいた。



長きに渡る薬物中毒――どんなに美味しそうなご飯やお菓子やジュースにも、手作りの品には必ず毒が仕込んであった。

市販品の食べ物でも必ず薬物を混入して与えられたのだ。



家政婦の7年に渡る犯罪はそれだけじゃない。



最初は、軽いものだった。



伊織さんが言うことを聞かなければ、頬や手をつねる程度だった。



けれど次第にエスカレートし、頭を叩いたり服に隠れ見えない部分をつねったり。逆らえないと知ると、暴力が伴うようになった。



お腹を蹴られたり、頭を殴られるのもしょっちゅうで。見えない部分には常に傷や痣が絶えることがない。



そして、次第に増長し自分がやるべき仕事を伊織さんにやらせるようになった。手抜きをすれば激しい折檻が待っている。必死に働く伊織さんの傍らで、家政婦は男や友達を呼び、ばか騒ぎ。あろうことか伊織さんの前で抱きあうことすらあって。


男が来たと喋った伊織さんに氷水を浴びせ、裸にした上で雪の積もる真冬のベランダに立たせたりと信じられないことを振るう。



そして、常に伊織さんに言葉の暴力を浴びせた。おまえの母はおまえを捨てた。金の為に男を捕まえたアバズレだ。おまえは何の価値もない。あたしが生かして使ってやってんだ感謝しろ。誰もおまえを必要としていない。誰もおまえが生まれて喜んでいない。誰もおまえを愛さない。



呪詛のような言葉に精神を、薬物と暴力と過酷な労働に身心共にボロボロになった伊織さんは……。



十の頃に一時心肺停止状態になるほど、追い詰められてしまったのだ。


そして……家政婦の悪事は暴かれたけれど。



伊織さんは、母である葵和子さんを憎むようになり。二度と目を合わせなくなった。



病院のお粥すら受け付けなくなったのも、この頃からだったという。






あまりにも過酷な伊織さんの過去に、私は何も言えなかった。いいえ。言えるはずもない……本当の悲しみや不幸を前にすれば、下手な慰めなど上滑りするだけだ。



「わたくしが……もっと気をつけていたら。十の時の伊織は……わずか八歳の体重と身長しかなかったのです」


目を真っ赤に腫らした葵和子さんは、ハンカチで目尻を押さえた。



「あの子が一切固形物を受け付けなかったのも……プリンしか食べなかったのも。すべてが子ども時代のトラウマ。3つから10歳までの7年間の根深い傷なのです。それだけ難しかったのに……碧さん、あなたが伊織をきちんとした人間に戻してくれたのですよ」



葵和子さんはテーブルにつきそうなほど、深々と頭を下げてきた。



「本当に、ありがとうございます……何もかもあなたのお陰です。これからも息子をよろしくお願いします」


「き、葵和子さん……顔をあげてください」


「いいえ、碧さんが頷いて下さるまで上げません。伊織が幸せになるには、あなたが必要不可欠なのですもの。伊織があなたと幸せになるためでしたらこれくらい……」


「それは困りますね」



突然、壮年男性の声が割り込んできて、驚いて葵和子さんの後ろを見れば。一人のスーツ姿の男性がこちらを向いていた。



黒地にストライプ柄のダブルボタンスーツを着た、黒髪をリーゼントでまとめあげたメガネの男性。線が細く40過ぎだろうか。神経質そうな細い眉が八の字を描く。



「伊織さんにはこちらの定めた婚約者とご結婚していただき、桂グループの跡取りとなっていただく必要がございますからね」



葵和子さんの夫である正蔵さんの秘書である佐倉という男性は、メガネを煌めかせこちらを見下す視線を向けた。



「でなければ……あなた方すべてが不幸になる未来しか待ち受けておりませんので、あしからず」








「碧ちゃん、どうかした?」



くるみさんに声をかけられて、ハッと我に返る。


いけない、いけない。今は葛西家のマンションで、着付け教室の最中なんだ。



「あ、いえ……ちょっと寝不足でぼんやりしてました。ごめんなさい」



へへ、と下手な誤魔化し笑いをすると、くるみさんはおっとりと笑う。



「そうでしょうね~伊織さんが頑張って夜も眠らせてくれないんでしょう? 碧ちゃんはカワイイもの。伊織さんの気持ちがわかるわ~」



くるみさんに着物ごとギュッと抱きしめられ、頬擦りまでされて息苦しいです。



「ぐるみざん……い、いぎが……」

「あらあ~ごめんなさい。でも、伊織さんは毎日早く帰ってるみたいだから、今が一番いちゃいちゃじゃない? うらやましいわ~」



ふふふ、と笑うくるみさんだけど……



「伊織さん……早く帰ってるんですか?」



聞き捨てならない情報に唖然とした。くるみさんはうん、と頷く。



「そうよ~近ごろ定時で帰ってるんだって。出張も断ってるとか。仕事を最大限に効率化して、やる気があって結構って良介さんが喜んでたわ~うふふ、よほど碧ちゃんがかわいいのね……碧ちゃん?」



くるみさんからの思いがけない話に、私は胸がギュッと締め付けられた。



……最近、伊織さんの帰宅は毎晩遅い。以前より遅くて泊まりも珍しくないのに……。



帰ってきても、伊織さんはこの頃上の空だ。分厚い資料や本を手にしていろいろと考え事をしている。お仕事は定時で終わっているのに、その後帰ってくるまで何をしているのか。私が訊こうとしても、全然話しかける雰囲気になれなくて。



もしかすると、対人関係が改善されて私以外に話せる相手が出来るようになったのかもしれない。



……特に、異性とか。



私は……要らなくなってきたのかな。



“伊織さんとお別れください。こちらには切り札もございますので。早めの決断が後々お互いの為になります。ご安心ください。あなたとの汚点はこちらの力でなかったことにできますから”



先日現れた伊織さん父の秘書の声が、私の中でぐるぐると反響する。



汚点……私との結婚が汚点。葵和子さんは否定してたけれど。桂家にとって私はそれだけでしかないんだ。



なんだか、泣きたくても涙が出なかった。













部屋の姿見に写ったピンク色のワンピース……。薄い生地はフワリと広がって、まるで蝶のように舞う。



(私には似合わない……よね、やっぱり)



滲んできた涙で視界が白く濁り、ゴシゴシと手のひらで拭う。


葵和子さんと会った時、プレゼントさせてくださいなと選んでくださった服。よく似合うわと微笑んだ彼女には悪いけど、とても自分に合うとは思わない。



それでも……愚かな私は、期待をしている。伊織さんに少しでも可愛いと思って欲しいって。



慣れないメイクを必死に施して、髪もハーフアップにしてる。おはる屋でのパーティーの後は、伊織さんと待ち合わせしてるから、直ぐに行けるように荷物を点検する。



大きめのバッグに入った二つの紙袋。



“これを、伊織に”と葵和子さんから託されたものと。

葵和子さんと選んだ、私から伊織さんへのクリスマスプレゼント。



伊織さんにすれば迷惑かもしれない。でも、初めてで最後のクリスマス。婚姻届を書く時も互いの個人情報は見ない取り決めがされていたから、いつが彼の誕生日なのか知らない。だからせめて……これだけは。



私は、最近リビングの隅で見つけたものを考えまいとして首を振る。


掃除をしている時に液晶テレビの裏で見つけたのは、ブランドものを特集した雑誌。それにはアクセサリーのページに折り目がついてた。



わからないように元に戻しておいたけれど、きっと伊織さんは契約とはいえ妻である私に配慮して言い出せてないだけなんだろう。“贈りたいひとが他にできた”ということを。



きっと、近いうちに別れが来る。伊織さんが本当に愛するべき人が誰か気付いているなら、後は彼が正しい決断をするだけ。



それぞれ、本来いるべき場所へ戻るだけ。



私は、伊織さんの選択ならどんなことでも従う。それが、私にとって彼のために出来る唯一のことだから。



彼が本当に幸せになるために、私は喜んで身を引こう。



そして、二度と会わない。



それが、誰もが幸せになれることなのだから。






「今度は碧お姉ちゃんの番だよ!」


「あ、うん」



おはる屋の和室を使ったクリスマスパーティーで、今はみんなとゲームを楽しんでる。心愛ちゃんの声で、次は私の番とサイコロを振る。人生を扱ったボードゲームではなかなか波乱万丈な人生を歩んでた。



「うわぁ、借金1億ってあり得ね~!」



空くんが頭を抱えてたけど、現実の借金で人生がおかしくなった身からすれば笑えない。



伊織さんや葵和子さんだって……。



“正蔵様は伊織さんが戻られれば、和泉の借金は全て弁済されると申されてます”



喫茶店で聞いた佐倉さんの声が頭に響く。葵和子さんは未だに働いて実家の借金を返し続けてる。それで夫である正蔵さんに頭が上がらないらしいけど、あの佐倉という秘書には激しく怒ってくれた。



「碧さんまで思いのままになさろうとしないでください!」と。葵和子さんなりに必死に守ろうとしてくれた。



でも……結局。その場で秘書を追い返しただけで、根本的な解決はできなかった。



「碧姉ちゃん? どうかした?」



思わずため息をつくと、空くんの怪訝そうな眼差しに気づく。



「あ、ごめんね。次は結婚したいな~なんて……」


「あ、あたしなんて子ども生まれたよ! みんなからお祝いがっぽりいただきました」



ほくほく顔の心愛ちゃんは、現実リアルで同じことをしそうだ。思わず噴き出すと、空くんがホッとしたような顔をした。



「よかった、碧姉ちゃんやっと笑った」


「え、私そんなに無愛想だった?」



私の言葉に違うよ、と空くんは首をふる。



「なんか落ち込んでるように見えたからさ。何かあるなら……おれ……みんなに話せばいいよ。大した力にはなれないかもしれないけど」


「そうだよ! 恋の悩み相談ならあたしが鉄人だからね」


なんて心愛ちゃんにまで励まされて。彼らの思いやりに、ありがとうって目元をぬぐった。



私はその時それで2人を誤魔化せたと思っていたのだけど。



まさか、パーティーの間も後もずっと空くんが私の様子を窺っていたなんて、まったく考えもしなかった。




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