秋~9月第2話 母親
「……あの子が戸籍すら抜いて分籍し和泉を名乗るのも、わたくしを母と認めないのも当然です。わたくしは母らしいことをなにもしてやらなかったものですから」
葵和子さんのグラスを包む両手は震え、カタカタと氷が鳴る。彼女がギュッと掴むように握りしめたグラスは、たくさんの汗をかいてた。
それだけを告げて目を伏せた葵和子さんの目尻には、確かに光るものが見えて。ズキッと胸が痛んだ。
(葵和子さんは……伊織さんに嫌われてるのを知っているんだ。それでも母親として気になって……私を通じてでも良いから様子を知りたいと)
これが、親心以外のなんと言うんだろう?
寂しそうに微笑む葵和子さんは、私が「一度会ってみては?」と提案しても首を横に振るばかりだった。
「これ以上わたくしがあの子の生活を乱すつもりはありませんの。ただ、無事に健康で……幸せで暮らしていたら、それでいいのです。
碧さんのお話を聞けてよかった。あなたのお陰で伊織も落ち着いてきている様子。ありがとう」
それだけでいいとおっしゃるけど。本当は、そんなはずない。
お腹を痛めて生んだ血を分けた子どもだからこそ。顔もみたいはずだし、声も聞きたいはず。
(たしか……伊織さんは今日は地方への出張で帰って来ない)
伊織さんの不在に気づいた私は、思い切って提案した。
「あの……よかったらマンションにいらっしゃいませんか? 伊織さんは今晩出張でいませんから」
こんなことをしたら絶対に伊織さんは怒るし、嫌がるだろうな。それくらい鈍い私にも解る。
直に会ってなんて図々しいお願いはとても私から言えない。彼は絶対に承諾しないだろう。たとえ私が離婚を条件にしても。
それくらい伊織さんは親や家族の事には一切触れない。以前一度何気なく訊いただけで逆鱗に触れ、半月は一切口をきいてくれない、プリンや手作りのものを食べないほど頑なになった。この事はそれくらい伊織さんにとってデリケートな問題。
だけど、と私は思う。やっぱり葵和子さんはこの世に2人といない、彼の実のお母さんなんだ。
生まれてすぐ捨てられた私は自分の親を知らないし、今生きているのかどうかすら判らない。捨て子だからといっていじめられたり、寂しい思いやコンプレックスだってあった。
もしもお母さんがいたら、優しく抱きしめてくれただろうか? お父さんがいたら、いじめっ子を叱りつけてくれただろうか?
私の寂しさはおばあちゃんが埋めてくれたけど、やっぱりお母さんとお父さんという存在は特別だった。
顔も知らない親に対して、許せない気持ちももちろんある。なぜ、自分を捨てたのか。要らないならなぜ産んだのかと。いくらでも文句は言いたい。
けれど、それは私が本気で捜すか親から会いに来ない限りは不可能だ。伊織さんのツテを使えば親を捜すことは出来るかもしれない。
けど、生まれて20年生きてきておばあちゃんに育ててもらって、今更名乗り出られてもきっと違和感がある。もしかすると、親には新しい家族がいて私なんて邪魔になるだけかもしれない。それが怖くて知りたい気持ちは萎えていった。
どちらにしても、おばあちゃんとともに生きてきた私は、今更親を知っても他人も同然にしか思えないだろう。
だけど――葵和子さんの話を聞く限りでは、伊織さんは葵和子さんの手元で育てられただろうし、何よりも2人ともまだ生きている。
親の生死すらわからない私からすれば、2人が私を通じて距離を縮めていき、いつか一度でも逢えればいいと思う。
余計なお節介かもしれない。
だけど、伊織さんが家族のトラウマを抱えてるうちは、彼が本当に幸せになれない気がして。それを克服するために、少しでも手伝いたい気持ちがあった。
「お邪魔します」
葵和子さんをマンションに招くと、彼女は優雅にお辞儀をして草履を脱ぐ。きちんと履き物を揃える癖は伊織さんと一緒で、やっぱり親子なんだと微笑ましくなった。
玄関ホールに入ってすぐ左手にあるアンティーク棚。その上に洋風には似つかわしくないものを見つけた葵和子さんは、足を止めて見入ってた。
「あ、それ。伊織さんが夏祭りで掬ったんです。太郎と花子ですよ」
「まあ」
葵和子さんは金魚鉢に泳ぐ赤と黒二匹の出目金を見つめながら、ふと顔をほころばせた。
「あの子はむかしと変わらず動物が好きなんですね……優しいままで安心しましたわ」
「伊織さんは動物好きなんですか?」
「ええ。幼稚園の時だったかしら……段ボールに捨てられた子犬を拾ってきて。黒いオスに太郎、白いメスに花子って名付けてかわいがってたの」
ふふ、と微笑む葵和子さんは、母親そのものの優しい顔をしてる。そんな思い出がスラスラ出てくるのなら、どうしてこんなにもすれ違ってしまったのだろう?
本当なら客間かリビングにお招きするのがベターだろうけど、普段の伊織さんを少しでも感じて欲しくてダイニングルームにお通しする。
伊織さんの私室までは勝手に入れられないから、家では私室の次によく過ごすここが最適だと考えて。
案の定リビングテーブルではミクが伊織さんの椅子にデンと居座り、苦笑いした私は鈴木さんに来客のお茶を頼んだ。
(あ、そういえば昨日の夜作ったプリンが余ってたっけ)
今朝は伊織さんがサンドイッチを食べたから、プリンはいつもより少ない個数で済んだ。伊織さんのお母さんなら甘いものは大丈夫かな? と思う。
飲み物にこだわりはあるけれど、和菓子や洋菓子は区別なく楽しむ気がした。
「あの、なにかお召し上がりになりますか? プリンならご用意できますが」
「プリン?」
「はい。もし苦手でなかったら、ですが」
私がそう問いかけた次の瞬間、どうしてか葵和子さんの口がキュッと引き結ばれた。
「ええ……お願いします」
「それじゃあコーヒーにしておきますかね」
「すみません、鈴木さん」
葵和子さんがプリンを召し上がるならコーヒーがいいだろう、とハウスキーパーの鈴木さんが気遣ってコーヒーを淹れるために、カプセルタイプのコーヒーメーカーをセットする。 葵和子さんのモカという希望に合わせ、苦みがある独特な香りがダイニングに広がった。
(そういえば、どうして葵和子さんは私に話しかけてきたんだろう? 伊織さんが結婚したと聞いても驚かなかったし)
せっかくだから、とプリンをお洒落なカットグラスに入れ直し、ミントの葉や生クリームや果物で飾る。
トレイに載せて運んだものを葵和子さんの前に置くと、彼女は木のスプーンを手にプリンにジッと見入ってた。
「いただきます」
綺麗な挨拶をした葵和子さんは、ゆっくりとスプーンでプリンを掬って口に運ぶ。
ひとくちプリンを口にした葵和子さんは、驚いたように目を見開いた。
「碧さん……このプリンの作り方はどこで教わりました?」
「え……おばあちゃんに、ですけど?」
「……そう……そうだったの」
葵和子さんは一人で納得したようにジッとプリンを見詰める。一体なんだろう? と不思議に思ってると、彼女がぽつりとこぼした。
「……どうりで、懐かしい味がしました。静子さんの味……わたくしにとって、一番幸せな時代の象徴ですから」
そして、と彼女は躊躇いながら続ける。
「伊織にとっても……ね。伊織が7つの誕生日に一度だけ、わたくしが作ったプリン。静子さんのレシピを一度だけ作ったことがあるの。あの時……家族が唯一集まって人並みに伊織の誕生日をお祝いしたの。だから、彼はこれが忘れられなかったのね」
はらはら、と涙を流した葵和子さんは、ハンカチを取り出すとそっと目もとを押さえる。
「こんな風に、絶縁された息子にいつまでも関わろうとして気持ち悪いでしょう。でも……どうしても気がかりで。悪いとは思いましたが、定期的にあなた方のことを報せていただいてきたのです。直接会わないこと、生活を乱さないことを条件に。その方だって、伊織のことを心配してますから。わたくしと会うことは決して良しとしないでしょう」
葵和子さんの涙が止まるまで、ただ静かに聞こうとした。
だけど……
バタバタバタと乱暴な足音が廊下から聞こえて、ギクッと体が強張る。
(この足音……まさか、伊織さん? でも、彼はもう出張の新幹線に乗って仙台へ行ったはずなのに)
だけど、現実というものは容赦ないもの。この家に入れる家族なんて私と伊織さんしかいない以上、やって来るのが彼なのは明白で。
スワロフスキークリスタルのオーナメントがじゃらり、と舞い上がってすぐ。鬼のような形相の伊織さんが姿を見せた。
「なぜ、アンタがここにいる!?」
「伊織……」
葵和子さんはスッと立ち上がると、息子に向かって何かを言いたげに口を開く。
だけど、それはうまく言葉にならないのか。やがて諦めたように口を閉じた。
「ごめんなさい……勝手に上がり込んで。わたくしが頼み込んだだけ。碧さんを責めないで」
「黙れ!」
伊織さんは葵和子さんの紬の袖を掴むと、そのままものすごい勢いで彼女を引きずろうとする。あまりに突然な出来事で、葵和子さんがバランスを崩して倒れかけたのに、伊織さんは全く気にもしない。
慌てて私が葵和子さんの体を支えて、伊織さんに必死に言い募る。
「伊織さん! いくらなんでもこれはあんまりです。そのままお帰りいただけばいいだけでしょう。独断で勝手に上げたのは私です。怒るなら私だけにしてください」
「五月蝿い! 赤の他人が口出しするな!!」
いつにない怒りに満ちた声に気圧され、それ以上は何も言えない。だけど、このままだと葵和子さんは伊織さんに何をされるかわからない。そのために決して体を離すまいと、彼女にすがり付いた。




