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夏~8月第2話 海と夏祭りと



大人にとっては短い夏休みの8月。それでも楽しもう、とみんなを誘って海に来ていた。



あまり楽しみにしていない、どころか面倒だと言わんばかりに無関心な伊織さんだったけれど。おばあちゃんにビーチパラソルから追い出され、なぜかビニールボートを借りてきた。



「先に乗れ」


「は、はい」



促されて恐々ビニールボートに乗ろうとしたけど、タイミングが下手すぎてつるりと体が滑った。



「きゃ!」



海に落ちる! と思ったのに。いつの間にか後ろにいた伊織さんががっしりと抱き留めてくれて、何とか落ちずに済んだ。



「……あ、ありがとうございます。ご迷惑をお掛けしてすいません」


「まったくだ」



無愛想に返されたけど、彼はそのまま私を抱き上げてビニールボートの上に乗せてくれる。



男性だから、当然と言えば当然かもしれないけど。



予想以上の力強さと逞しさに、顔が火照りドキドキと鼓動が速くなる。



思いがけず密着した肌が熱い……。



伊織さんはなんなくビニールボートに乗ると、慣れた様子でオールを動かし漕ぎ出した。



ゆっくり、ゆっくりと周りにの景色が動いて浜が遠ざかる。キラキラ輝く水面はまばゆくて。それでも透明度が高い海だから、水色の下に様々な生き物が生息してる様子が見れた。



「わ……カニがいる。わわっ! 海藻? あれ海藻かな」



何もかも初めての体験なだけあり新鮮で。子どもみたいにはしゃいでしまいました。





一通り騒いでから、慌てて両手で口を塞ぐ。伊織さんは騒がしいのが嫌いなのに……。



恐る恐る伊織さんを横目で見れば、不機嫌なはずの彼の顔はこちらを向いてない。それどころか、彼もボートの下を覗き込んでた。



「い、伊織さん?」



落とし物でもしたのかな? と心配になって、伊織さんに声をかけてみた。だけど、彼は反応せずひたすら下を……水面を眺めてる。



「あの……なにか落としたんですか?」


「違う」



即座に否定した彼は、オールを立て掛けて腕を伸ばす。ちゃぽり、と海水を空いた手で掬いとると――何を考えたのか、それを口にして顔をしかめた。



「……塩辛い」


「あ、当たり前です! 海水にはナトリウムが入ってるんですから。……って言うか、生の海水なんて飲んだらお腹を壊します!」



念のために持ってきた水筒を開けると、コップにもなる蓋にお茶を注いで伊織さんに無理矢理押し付ける。彼は渋々口にするけど、「熱い」と再び顔をしかめた。



「水遊びでは体が冷えますから、熱いくらいのお茶が体にいいんです」


「……初めて聞いたぞ」



伊織さんは眉間にシワを寄せながらも、注いだぶんのお茶を飲みきってコップを返してきた。



そして、ぽつりと漏らす。



「俺は、ずっとこういうのは無縁だったからな……こういった経験も、案外悪くない」






伊織さんが初めて自分のことを話してくれた。



それはもしかすると遮るものがない大海原の解放感から来る、本心の発露で独り言みたいなものかもしれない。



……でも、でも。



伊織さんが、聞かせてくれた。私に。私だけに……。



少しは、心を開いてくれてると思っていいの?



あなたの心に、ほんのちょっぴりとでも私の居場所があれば……とても嬉しい。



独白に近い言葉だったのに、私にはどんな耳障りのいい言葉より貴重で、重みがある。決して聞けないと思ってたから尚更に。



滲む涙をゴシゴシと手のひらで拭うと、私はにぱっとなるべく明るく笑う。



「そうですよ! 今まで無縁だったなら、どんどんチャレンジすればいいんです。私が、そうさせますから。

私が一緒にいます。一緒に楽しみましょう」



勢いのあまりにぐぐっと前屈みになり、伊織さんが呆れた顔になってから気づいた。



彼の視線の先……



ブカブカで隙間が空いてるせいで、見えていたのは……晒してしまってごめんなさい、とその場で土下座したくなる貧しい胸でした。



「ひゃああああ!」



反射的に両手で押さえると、そのまま後ずさって後ろに向く。


(み……見られたけど。伊織さんはむしろ被害者)



泣きたくなったし、顔が絶対真っ赤になってる。だけど……謝らないと。



「ご、ごめんなさい! こんなものを見せてしまって……」



土下座したかったけど、彼を見るほどの度胸はなくて。うつむいたまま謝った。






てっきり、いつものように冷たい言葉が来ると身構えてたのに。 しばらく経っても何の反応もない?



一体どうしたのかと気になって、伊織さんの様子を窺うために上目遣いでチラッと彼を見たら……。



バチッと視線が合って、慌てて逸らしたけど。気のせいか伊織さんまでが目を逸らしたように見えた。



「あまり騒ぐな」


「は……はい」



彼らしい言葉ではあったけど、口調がいつもより柔らかくて。突き放すような冷たさを感じられない。



その後はしばらく黙って海を見つめていた。潮騒を聴きつつ穏やかな波に揺られていると、何だか何もかもがどうでも良くなってくる。



潮風の独特な薫りも、まろやかな感触も。騒いでいた胸を落ち着かせる効果があるのかもしれない。



こんなにも穏やかな優しい時間を、伊織さんと過ごすことが出来るなんて。



そろそろ大丈夫かな、と伊織さんへ視線を向けると同時に。急に彼が倒れ込んできた――。



「伊織さん!?」



まさか、胃潰瘍が再発したかと心配になって呼びかけてみたけど。揺すっても起きない。



私の肩に前のめりで寄りかかった伊織さんは……



すうすうと穏やかな寝息を立ててた。



いつもの眉間にシワを寄せた不機嫌な顔じゃなく、本当に安心したような。



「伊織さん……」



私のそばだと、安心してくれるの?



くすぐったくあったかい気持ちになった私は、そっと伊織さんの体を倒して彼の頭を膝に乗せる。



寝入った伊織さんの頭をゆっくりと撫でながら、どうか彼が少しでもいい夢を見られるように、と願った。








あの後伊織さんは30分くらいで起き出して、何も言わず黙ってボートを浜へ戻した。 どうやらボートが離岸流に乗りかけていたらしい。彼の危機察知能力は凄い。



意識してるのはきっと私だけなんだろうな、と考えるだけで寂しくなるけど。思いがけずに穏やかな時間を過ごせたから、これ以上求めたらバチが当たるって自分に言い聞かせた。



お昼はどうせなら好きなものを、と思い思いに買って食べることに。



ただし、やっぱり伊織さんはまだ普通の食事がとれない。



彼の好みを考えて、パンプディングと果物を用意してきた。



伊織さんは最近ちょっとずつなら果物も口に出来るようになってる。私が創意工夫する努力よりも、本人が克服しようとちょっと前向きになったのが大きい。



「どうですか、味は?」


「……悪くない」



ビーチパラソルの下で黙々と平らげるのがパンプディングなんて、ちょっとシュールだけど。彼がちゃんと最後まで完食してくれたのが嬉しい。



「はい、薬はこれとこれです。ちゃんとお水で飲んでくださいね」


「わかってる」



渋い顔をして薬を飲み込む伊織さんは、すぐ水無しで薬を飲もうとするから油断できない。忘れることや指示を守らないこともしょっちゅうだし。


会社では葛西さんが監視をしてるから、家では私がしっかり見てないと。



せっかく仕事をセーブして病気も改善してるのに、またぶり返したら元の木阿弥だから。



……本当は彼のお世話が堂々と出来るのが嬉しいだなんて。きっと不謹慎だから、誰にも言えないけど。









午後はスイカ割りゲームをしたり、ビーチボールで簡単なゲームをしたりと、なかなか楽しめた。



夕方近くになって人が減ると、思い出のためにみんなで貝殻拾いをする。



きっと、私はこの夏の出来事はずっと忘れないだろうな。



来年の春に契約が切れて伊織さんと永遠に別れるとしても。彼との思い出は、そっと胸の奥にしまっておける。



伊織さんがもっと人間らしくなって、他に魅力的なひと……たとえばあずささん……と本当の結婚をしても。



それまでは、私は精一杯彼の妻としての役割を果たそう。たとえ偽物の妻であっても、出来ることはあるから。








「さあ、男どもは出た出た!」



夕方。おばあちゃんとくるみさんの手で、女性陣は浴衣を着付けてもらった。おばあちゃんの知り合いの海の家を貸してもらい、手慣れた様子で着付けをするくるみさんは凄い。彼女自身も完璧なスタイルの着こなしをしてる。



さすがにあの葛西さんが溺愛するだけあって、見た目だけじゃないんだなって感心する。



「私も着物の着付けを覚えたいんですけど」



おばあちゃんは私が不器用だから、と一切教えてくれなかったから。くるみさんにこっそり打ち明ければ、彼女はあらあらと微笑む。



「わたしで良ければお教えしますよ。一応師範の免許はありますから~」


「ほ、ホントですか?」


「はい~他ならぬ伊織さんの奥さんの頼みですからね」



伊織さんの妻という条件なのは仕方ないけど。これでちょっとだけ教養がつけられる! と嬉しかった。伊織さんの妻として恥ずかしくないように、必要最低限のことは覚えたかった。








夕方から夜にかけてのメインイベントが、近くの神社で行われる夏祭りと花火大会。



海で打ち上げられる花火は三千発という規模で、今まで観たくても機会が無かったからすごく楽しみ。



打ち上げは夕方6時から始まるらしいけど、本格的に打ち上げられるのが夜の7時から。集合場所を決めて、それまでは自由時間としてお祭りを各々楽しむ。



「ほら、賢! 真理ちゃんも、千尋ちゃんも。金魚すくい行くよ」



海での出来事で懲りたのか、心愛ちゃんはどうやら幼い女の子達も巻き込む作戦にしたようだ。



心愛ちゃんは今どきのフリルとレース付きで裾が短いハート柄の浴衣。おばあちゃんは眉をひそめてたけど、くるみさんの手で可愛くアレンジされてる。


「心愛お姉ちゃん、真理も金魚欲しい~」


「うんうん、わかってるよ。賢よりたくさん掬ったげるから」

「お、言ったな! オレが負けると思うのか」


「どうだか?」



真理ちゃんのお願いをきっかけに、心愛ちゃんと賢くんは楽しそうに言い合いながら幼い妹達を連れて人混みに消えた。その後を大地くんが「待って」と追いかけていく。



そして葛西さんと言えば、「ハニー……なんて美しさなんだ」とくるみさんを人前でしっかり抱きしめ……ちゅっ……と始めましたよ。



公然とヒワイ行為をするな、と伊織さんが2人をテントで隠してましたが……よけいに危ない気がするのは気のせいでしょうか?







「あ、碧姉ちゃん!」


「は、はいっ?」



後ろから突然呼ばれたせいで、ついびっくりしてしまいました。だって、なんでいきなり茂みから出てくるの!?



私を呼んだのは空くんで、彼はやたらと周りを見回してる。ホッと息を吐いた後、やっと茂みから抜け出した。



「どうしたの? そんな場所から出て」


「ちょっとね。食いついて放さないすっぽんから逃げてきただけ」



額の汗を手のひらでぬぐった空くんは、私を見下ろすと何故か顔を赤らめる。なにかおかしかったかな? と自分の浴衣を見下ろした。



紺色の生地に金魚をあしらったベーシックなデザインに、赤い朝顔柄の帯を合わせたんだけど。男の子からすれば、浴衣に着られてる感が半端ないとか?



「ご、ごめん……太ってるのに浴衣なんて見苦しいよね。なにチョーシこいてんの、コイツって思うでしょ」


「ち、違うよ!」



空くんは顔を上げて私を見たけど、また顔を伏せてあ~とかう~とか唸ってる。



「違うよ……あ、碧姉ちゃん……す、すごく似合ってる。か、か……かわいいし! うん!!」



空くんは勢いよく頷きながら独り言のように呟くと、そのまま顔を手で覆い隠す。耳まで真っ赤になった彼を見て、私まで頬が熱くなった。



かわいいって……似合ってるって空くんが言ってくれた。



生まれて初めて異性から褒められて、嬉しくないはずがない。



私は、何とか「ありがとう」とだけ伝えると、猛烈に恥ずかしくなって下駄を履く足元に目を落とした。




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