夏~7月第2話 伊織さんの異変
砂糖と牛乳も混ぜて……バニラエッセンスで香りづけ。後は秘伝のアレを入れて、と。ヒタヒタに浸したものを一晩置いた翌朝。4時に起きてオーブンに火を入れた。
「……なんだこれは?」
猫のミクに棚からお腹にダイブされ、朝から不機嫌な伊織さんがお腹を押さえながら無愛想に言う。
「パンプディングです。せっかくなので、焼きたてを召し上がっていただきたかったんです」
テーブルに載ったココットに入った、熱々焼きたてのパンプディング。材料も味もいつものプリンと同じだけど、違うのはゼラチンが入ってないことと、パンが入って熱々だという点。
パンプディングを選んだ理由は2つ。伊織さんにパンという固形物を食べて欲しいという思いと、焼きたて熱々の食べ物がどれだけ美味しいのかを体験して欲しいこと。
ついでに、ちょっとでも会話をして“食事は楽しいもの”という認識を持って欲しいという思いもあった。
「いつもの普通のプリンと味は変えてありません……騙されたと思って、食べてみてください」
彼の銀のスプーンを差し出したまま、ドキドキと成り行きを見守る。まだまだ彼が食べてくれる確信はない。だから、一応普通のプリンも用意はした。
伊織さんは射殺さんばかりにココットに入ったパンプディングを睨み付けてる。
「この食べ物のコンセプトは何だ?」
「は?」
伊織さんは腕組みをしたまま、ジロリと私を睨み付ける。その瞳は厳しい光をたたえていて、いい加減な態度は許さないと言われてるよう。
(って言うか……コンセプトっなに?)
そんな横文字聞いたこともありませんから、意味がわからなくて答えられるはずもなく。焦った私はとんでもないことを口走った。
「すみません! バカすぎてコンセプトの意味がわからないので答えようがありません」
土下座する勢いで伊織さんに頭を下げれば、彼はふうと盛大なため息を着いた。ごめんなさい、アホすぎてごめんなさい。
「テーマや目的と言い換えればわかりやすいか?」
「あ……はい!」
椅子からガタッと立ち上がった私は、コクコクと勢いよく頷くと今回の目的を伊織さんに告げた。
「伊織さんがパンを食べられるようにすることと、焼きたてのお菓子やお料理がどれだけ美味しいか知ってほしいんです。
あと、一緒にご飯を食べて、食事は楽しいものって理解してもらえたら……って」
伊織さんへの説明は私が考えたまんまだけど、それが嘘偽りない気持ちで私の真実だったから。
「わ、私と伊織さんは……来年3月まで家族ですから……す、少しだけでもいい思い出を作りたいんです」
「わかった、それ以上は喋るな」
手のひらを向けてきた伊織さんは、不愉快そうに眉を寄せて愛用のスプーンを手に持つ。
そして、パンプディングの隅っこのプリンの部分だけを掬って嫌そうに口に入れた。
ゴクリ、と喉を鳴らして彼の反応を見守る。ドキドキと胸を押さえていると、プディングを飲み込んだ伊織さんの硬さが和らいだ気がした。
「……悪くない」
「やっ……た!」
思わず片手を振り上げてガッツポーズを取ってしまいました。
「うるさい」
伊織さんにはバッサリ斬り捨てられましたけど。ごめんなさいと謝りながらも、なおも頬が緩むのを押さえられない。
自分用には同じパンプディングをメインに、トマトとレタスとキュウリにハムのシンプルなサラダとじゃがいもの冷製スープを用意しておいた。
ダイエットには野菜をメインにしてカロリーを抑えながらも、たんぱく質なんかの基本的な栄養は必要だと本に書いてあった。だから、サラダにはそういったものを+すると良いとか。
昨夜2時まで熟読した上での4時起きだから眠いけど。伊織さんがちゃんと私の作った物を食べてくれた。しかも、私も同じものを食べてる。それだけで心が浮き立って仕方なかった。
朝ごはんは黙々と食べてお互い会話は無かったけど、伊織さんはパンプディングをぜんふ食べてくれたんだ。3ヶ月前の偏食ぶりからすると、ものすごい進歩だよね?
おはる屋のレジでパラパラとダイエット本を捲りながら、伊織さんのことを考える。
伊織さんは今朝6時に家を出ていった。どうやら早い時はハイヤーやタクシーを使うみたいだけど……。
(いくらなんでも早すぎる。朝6時に出ていって、帰りは午前2時とかだなんて。絶対体に良くないよね)
そういえば、今朝彼はやたらとお腹を押さえてた気がする。どうしたか訊いても、「おまえには関係ない」とにべもない。
ミクがお腹にダイビングしたせいじゃないかって心配しても、「余計なことは考えなくていい」って斬り捨てられたし。せめてと腹痛の薬を伊織さんのビジネスバッグに忍ばせておいたけど。頑固な彼のことだから、薬なんて意地でも飲まないだろうな。
ちょっとだけ近づいたと思っても、すぐに突き放されて距離が出来る。私と伊織さんは最近はそんなのばかりだ。
(もっと会話をしたくても、伊織さんが望まないとどうしようもないし)
難しい……。
ダイエットのための文章を目で追っているのに、頭に浮かぶのは伊織さんのことばかりで。どうやったら彼とコミュニケーションが取れるのかと悩んだ。
(今日はお腹に優しいプリンにしようかな)
ダイエットレシピを眺めながら、体に優しいものを作ろうと思案してた。
もうすぐ5時。今日はまっすぐ帰ろうと雑誌を置いた瞬間、ポケットに入れたスマホがブルブルと震える。
(あ、そういえばマナーモードにしてたんだっけ)
スマホの番号を知ってるのは決まった人しかいない。今は仕事中だから、後でかけ直そうと放置する。
だけど、電話は留守電に繋がらずに鳴りっぱなし。いつかは切れると思ってたのに、呼び出しが続くとだんだんと不安が募っていく。
(まさか……伊織さんになにかあった? ううん、まさか。彼がわざわざ私に連絡してくるはずないし。何かあったとしても、私に連絡するなと葛西さんに命令するはず)
伊織さんにとって私は妻であっても書類上のこと。所詮は赤の他人で、気遣ったり気遣われたりなんてしたくないはず。今までの冷たい態度からすればそうとしか言えない。
だけど……
(だけど私は……伊織さんが心配だよ。迷惑と思われてると分かっていても)
着信は一度切れたけど、仕事が終わる5時になった瞬間再び鳴り出した。おばあちゃんに断って和室に駆け込むと、スマホを取り出して画面を見る。
――“葛西さん”と名前が出て、嫌な予感で心臓が音を立てた。
葛西さんはよほどのことがない限り、仕事中に連絡することはない。それなのにこれだけしつこく連絡してくるなんて。
震える指で画面をタッチすると、通話が始まった瞬間葛西さんのものとは思えない焦った声が耳に飛び込んできた。
『碧ちゃん! 伊織が血を吐いて倒れたんだ。急いで病院に来てくれ!!』
あまりにショックな言葉に、頭が真っ白になって呆然とした。
『碧ちゃん、聞こえてる? 伊織が倒れたんだよ!』
「……は……はい……聞こえてます……」
苛立ちが混じる葛西さんの声に、ようやくそれだけ答えた。その後、立て板に水で葛西さんは病院の場所を教えてくれる。必要な情報をくれた後、彼は慌ただしく通話を切った。
(伊織さんが……倒れた)
血を吐いて倒れた、という事実は衝撃的で。身体中から力が抜けてへなへなとその場に座り込む。ゴトッとスマホが畳の上に落ちた。
「まあ、これが仮にも結婚した女の姿かね、みっともない! 妻なら、夫の危機に一番に駆けつけるもんだろ!」
おばあちゃんの厳しい声が後ろから飛んできた。ハッと振り返ると、おばあちゃんは真面目な顔をしてカバンを手にしてた。
「ほら、主婦なのにそんなにうろたえてどうするんだい!? 夫を助ける大切な仕事があるんだろう。めそめそ泣いてる暇はないよ!さっさと行っといで」
押し付けられたカバンを抱えたまま、おばあちゃんが呼んだタクシーに乗り込む。
(お願い……どうか伊織さんが悪くありませんように)
タクシーの中では両手を胸の前で組んで、ひたすら伊織さんの無事を祈った。
着いた先は普段は寄らないような大きな総合病院。勝手が解らずに右往左往しながら、受け付けをたらい回しにされた上に伊織さんの病室に着いたのは、たぶん30分以上経ってから。
急ぐために早足でなるべく早く歩いたけど、内科病棟はあまりに遠かった。
(503……和泉 伊織……ここだ)
伊織さんは大部屋ではなく、個室に入ってた。ここにはたぶん葛西さんもいるはず。
(こわい……だけど、ちゃんと顔を見なきゃ)
もしも深刻な病気だったら……と想像しただけで、足がすくんで動けなくなりそうだ。
今まで私の家族で大切な人はおばあちゃんだけだったし、おばあちゃんは風邪ひとつ引かない頑健なひとだ。だから、身近でこんな事態は初めて経験することで。不安で怖くてたまらない。
(いつまでもぐずぐずしていられない……)
ふう、と息を吐いて震える膝を叱りつける。ためらいながら、コンコン、とドアをノックした。
「はい」
返ってきたのは――予想外に女性の声で。ドクッと心臓が嫌な音を立てる。
「す、すみません……私は碧と申します。伊織さんが倒れたと聞きまして」
名字まで知らせたら相手が結婚の事実を知ってしまうかも……そんな配慮で名前だけを名乗ったのだけど。
しばらくして、ガチャとドアが開かれる。
そして――現れた女性は。
本社ビルで伊織さんの隣にいた、あのキャリアウーマンさんだった。




