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夏~6月第3話 初めての会社訪問



「あくあくりすたる」で店主の美帆さんから伊織さんに関する話を聞かされた私は、今にもため息をつきたいような重い気持ちでいた。



(自分から親子の縁を切るなんて、昔によほどのことがあったんだ)



もしかすると伊織さんがプリンしか食べないのも、普通にご飯が食べられないのも。何かのトラウマなのかな?



何十年経っても癒えてないなんて。それはどれくらい深い傷なんだろう?



気がかりではあるけれど、たぶん私がそれを知る機会はないだろうな。所詮1年だけ契約した仲だから、きっと深く知る前にお役ごめんになる。



伊織さんだって、私が心配したところで迷惑だろうし。彼から話してくれる期待なんて、持つだけ無駄だ。



少し落ち込んだ私は、美帆さんに引っ張られリーズナブルなお店で服を揃えた。



おばあちゃんがバイト代の代わりにくれるお小遣いが今日はないから、懐が寂しかったけど。

何とか予算内で納得出来るツーピースを購入出来た。







そのあと、あくあくりすたるに戻って着替えた後。美帆さんに顔と髪をいじられて流しのタクシーに乗り込む。



そうしてやって来たのが、伊織さんが社長を務めるサクラカ興産本社ビルだった。



全面ガラス張りの10階建てのビルは螺旋のように捻れた奇抜なデザイン。その威容を目にしただけで、足がガクガクと震えてきた。


「愛しのダンナ様に会いに来たんでしょ。ほら、しっかりしなきゃ!」



お店を早めに閉めてまで付き合ってくれた美帆さんは、私の背中を景気よく叩く。



(そ、そうだ。私より小柄な美帆さんがこれだけ堂々としてるなら、私だって)



今は午後6時を過ぎているけれど、1年で一番日が長い時期だからまだまだ太陽が空に輝いてる。まばゆいばかりの青空を写し込む本社ビルからは、仕事を終えたらしい社員が三々五々出てくる。



今なら、日中より人が少なくなってる。薄いピンク色の封筒を胸元で抱き寄せながら、ゴクリと喉を鳴らした。



「い、行ってきますね」


「うん、頑張って。わたしは適当にぶらついてるから」

「はい。ここまでついてきてくださってありがとうございました」



ペコッと頭を下げれば、美帆さんはあははと笑って肩を叩いてきた。



「わたしと碧ちゃんの仲でしょ。それに、わたしだってミーハーで出張っただけだから、気にしないの」



じゃあね、と美帆さんはヒラヒラと手を振りながら、街中に消えていった。



これからは、一人で頑張らなきゃ!



よし、と頷くと、思い切って本社ビルへ足を踏み入れた……。





……と、意気込んでビルの正面玄関から入ろうとしたのだけど。



今、なぜか警備員に呼び止められてまして。玄関ロビーどころか受け付けがかなり遠い現状です。



「高校生がこんな場所に何の用かね?」



厳つい顔をした身長が2mはありそうな警備員さんに、腕をがっちり掴まれて尋問を受けてます。



「高校生じゃありません! 私、和泉 碧って言います。夫の伊織さんに書類を届けに来ました」


「お嬢ちゃん、嘘をつくならもっとマシな嘘をつくんだな。社長が結婚したって話は聞いたことがない」



もう一人いた白髪の警備員が呆れたような声を出して、ガタイのいい警備員さんにつまみだせと指示をした。



「あの! 私は本当に伊織さんの……」


「しつこいな。身分証明書もないのに信じられるわけないだろう!」



警備員さんに痛い点を突かれて、グッと言葉を飲み込んだ。



私は免許証やパスポートなんて持ってないし、健康保健証は伊織さんの名前があるけれど今は手元にない。悔しいけれど、童顔で二十歳と信じられないのも無理はない。



警備員に引きずられている間、玄関ロビーを横切る一団があって――その中に伊織さんの姿が見えた。



「伊織さん! 私です、碧です! 書類を届けに来ました」



精一杯手を伸ばして封筒を振るけど、海外の人と会話してるらしい彼は気づかない。何人か知らないけれど、通訳無しで直接会話できるなんて。きっと難しい専門用語も難なく話してる。



真剣な伊織さんの顔を見た瞬間、心臓がトクンと跳ねる。いつも冷たい瞳しか知らないから、あんなに真面目な眼差しをするなんて、初めて知った。







「いい加減にしろ! 警察に突き出されたいのか」



警備員さんに大声で一喝され、体が竦む。その間に伊織さんの一団はガラス張りのドアを通り抜け、車止めに停まっていた黒塗りの車に乗り込んだ。



もうダメだ、と諦めそうになった瞬間――



なぜか脳裏に浮かんだのが、嫌そうに野菜プリンを食べる伊織さんの姿だった。



彼に、普通のプリン以外を食べさせることに成功したのは、ねばり強く努力したから。諦めなかったから、だ。



(そうだ……諦めちゃダメだ。私は葛西さんに仕事を託されたんだ。彼の信頼を裏切らないために、頑張らなきゃ)



でも、たぶん。言葉でいくら説得しようとしても、聞く耳すら持ってもらえそうになかった。そうなれば、多少強引な手段を使うしかない。



もたもたしてると、伊織さんが車に乗り終えてしまう。



そう決意をした私は、素早く行動に移した。



私の腕を掴んで引きずる警備員では力で敵わないなら、隙を作らせる。前しか見てない彼の足元に狙いを定めると、思いっきり足を振り下ろした。



「ぎゃっ!」



予想通りに痛みから警備員の拘束が緩む。その隙に素早く抜け出すと、伊織さんに向かって走り出す。



「こ、この……待て!」



伸びてきた手を素早くかわし、床を思いっきり蹴って伊織さんに向けて呼びながら走った。



「伊織さん!書類です」



けど、もともと運動関係はまるで駄目な私が日頃鍛えてる警備員から逃げ切れるはずもなくて。



程なく腕を掴まれ、2人がかりで拘束された。





「こいつ、警備室に連れていきましょう」


「わしは警察に連絡しておくわ」



警備員さん2人がそれぞれの仕事をしようとした時、いつの間にか目の前に見覚えがある人が立ってた。



「か、葛西さん!」


「や、お仕事ご苦労様。でも、なんで彼女を拘束する必要があるのかな?」



葛西さんは紫色のスーツにピンク色のシャツという派手な格好をしていたけど、にこやかな顔なのに。警備員さんに向ける笑みは背中がゾッと冷えそうなものだった。



「は、はい……この女が社長に届け物をと。身分証明書もないうえに、自分が社長と結婚している等と虚言を言ってまして」


「職務に忠実ですごく助かるよ、うん。君たちの頑張りでこの会社は今日も安全だけど。憶えておいてくれるかな?」



葛西さんはこちらへ歩み寄ると、私を拘束する腕をそっと外させる。



「伊織……社長は彼女と結婚してるよ。1ヶ月以上前にね。公表がされてないのは、やつのわがままなだけ。近いうちにきちんとした発表がプレス向けになされるから。とりあえず、彼女はちゃんと伊織の妻で社長夫人だから」






「し、失礼しました!」



警備員さんは伊織さんから話を聞いた途端、それまでの横柄さをかなぐり捨て、敬礼までしてきた。



「社長夫人様とは知らず、とんだ失礼なことを。申し訳ありません!」



伊織さんより背が高い警備員さんに90度のお辞儀で謝罪され、こちらまで恥ずかしくなってくる。



「あ、あの……そんなに謝っていただかなくても。お仕事上あの対応は当然だと思います。私は気にしませんから」


「さすが、碧ちゃんだよね。あ、ホラ。無愛想が服来たヤツがこっちに来るよ」


「えっ!?」



葛西さんの言葉に、ドキッと胸が鳴る。恐る恐るそちらを見れば、不機嫌さ丸出しな伊織さんがこちらへ歩いてきてた。



「……なんでおまえがここにいるんだ?」


「おいおい、伊織くん。自分の妻に向かってその態度はないんじゃないの? 碧ちゃんはわざわざぼくに頼まれた書類を持ってきてくれたんだから。

感謝こそすれ邪魔者扱いはないんじゃないの」



葛西さんのいつもの軽い物言いに、伊織さんはため息を着いて眉間を指で押した。



「おまえな……何を企んでる?」


「やだな~ぼくが腹黒いような言い方やめてくれる~ぼくはただ単に、みんなに碧ちゃんを見てもらいたかっただけさ。はっはっは」



どこまでも軽い葛西さんの言葉は、伊織さんのため息で飛んでいってしまいそうだった。






伊織さんは私に向かって黙って手を差し出す。はて、と首を捻ると。苛立った彼に舌打ちされてしまいました。



「……持ってきたなら、寄越せ」


「あ、はい」



そういえば一番の目的を忘れちゃいけない、と封筒を伊織さんの手に渡した。



「……ご苦労だった」



ボソッ、と。本当に小さな小さな声だったけど、聞こえた伊織さんのひと言に耳を疑う。



顔を上げて彼を見れば、伊織さんはもう踵を返していて。さっきの海外の人に異国語で謝罪をしているようだった。



……今、労いの言葉が聞こえた。本当に、本当なの?



信じられない気持ちで伊織さんを見ていると、ふと視線に気づいてそちらへ目を向ける。



すると――そこにいたのは艶やかな黒髪が美しい、スーツ姿のキャリアウーマン風の美女。背筋をピンと伸ばした立ち姿がすごく綺麗で、表情からは女性としてもキャリアウーマンとしても、自信にみなぎるものを感じた。



伊織さんの、部下? それとも社長秘書のひとり?



でも、それはどちらでも関係ない。



私がショックだったのは、伊織さんのそばにあんな完璧な美人がいたという現実。



女っ気がないと言われる伊織さんがそばに置くほど信頼されていながらに、女性としても完璧なほどに美しい。それは自分のぽっちゃりな体型や、童顔というコンプレックスを刺激するには十分で。



間に合わせのディスカウント品を身に付けた自分がいたたまれないほど恥ずかしくなる。



……綺麗に、なりたい。



彼女ほどは無理でも、伊織さんの目に映る自分が少しでもみっともなくないように。



生まれて初めて、そう感じた。




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