夏~6月第1話 プリン攻防戦
「あっ……」
それを見つけたのは、本当に偶然だった。
いつも家のことはハウスキーパーの鈴木さんがしてくれる。掃除に洗濯にご飯の支度Etc.細かなことまで。彼は週に5日朝8時から夕方5時までいて、夕食の支度までしてから帰る。
さすがに下着は恥ずかしいから、これだけは自分で手洗いして部屋で干してるけれど。
だけど、仮にも妻なのに家にいても何もしないなんて身がもたない。考えてみれば物心ついた頃からおばあちゃんの手伝いをしたり、駄菓子屋で働くのは当然で。こんなにジッとしていなきゃならないのは苦痛でしかなかった。
最初は伊織さんの命令ということで、ガチガチに守ってたけど。一緒に暮らしはじめて1ヶ月以上経った今、さすがに限界が来てた。
だから、今は鈴木さんに頼み込んでちょっとずつ家事を手伝ってる。
何てことのない用事ばかりだけど、“働かざる者食うべからず”をモットーにしてるおばあちゃんに育てられた身からすれば、ちょっとでも役立てれば嬉しい。
最近はゴミの回収が不燃物が隔週の火曜日、燃えるごみが毎週月曜日と木曜日だと初めて知った。
そして、今日も張り切って家のゴミを集めている時――キッチンの三角コーナーで捨てられたものを見た。
半分だけ食べられた跡がある、りんごあめを。
「伊織さん……食べてくれたんだ」
せっかくプレゼントしたものを、食べかけで捨てるなんて。本来なら怒るべきかもしれない。
だけど……
普段はサプリメントや栄養補助食品で済ませて、唯一食べるものがプリン。そんな伊織さんが、全部食べられなかったとはいえ、違う食べ物にチャレンジしてくれたことが嬉しい。
きっと、限界まで頑張ったんだろうな。
ゴミを前に泣くなんておかしなものだけど、今の私は彼のちょっとした変化が涙が出るほど嬉しい。
たとえ気まぐれで口にしてみたのだとしても、きっとこれは大きな一歩になるはず。伊織さんがプリン以外を食べられるようになるために。
「奥さま、ゴミ集められました?」
「あ、はい! 今持っていきます」
ゴミの回収は当日朝の8時までに出さなきゃいけないんだっけ。時計を見上げると今、7時55分でギリギリだ。慌ててゴミをまとめると、口を縛って玄関先へ走った。
まずい……あんまりバタバタしていると気付かれる。だけど、30階建ての最上階だから、エレベーターを使っても数分かかる。ゴミ捨てに間に合わせるためには仕方ない。
焦って玄関に走った瞬間、黒い陰が目の前を横切る。
「にゃあ」
「ちょっ……ミク、今あなたと遊んでるヒマはないんですけど」
かわいらしい刺客。それは、雨の日に拾った子猫のミクだった。
伊織さんと藤祭りを楽しんだあの日。終わり際にひどい雷雨に遭ったんだ。
伊織さんはさっさと走っていったから、てっきり私は置き去りにされたと思い、捨て猫らしき子猫を拾って一緒にいたんだけど。
激しい雷の中、伊織さんが駆けつけてくれて……。
そこまで思い出して、ボッと頬が熱くなる。
(や、やだ……朝から何を思い出してるのよ、私は!)
頭をブンブン振って一生懸命忘れようとした。けど……いくら振り切ろうとしても、彼の体温や逞しさが忘れられない。
その度に、心臓がドキドキして胸がキュウッと鳴る。
(なんだろう……私、ちょっとおかしい?)
思わず胸に手を当てて押さえていると、鈴木さんが玄関ドアを開いてすっとんきょうな叫び声を上げた。
「お、奥さま! 顔が真っ赤ですよ!? 熱があるんではないですか? 苦しいなら後は私に任せて横になっていてください!」
なにやら誤解された鈴木さんに部屋へ押し込められ、やれ氷枕だやれ風邪薬だと騒がれた。
「あの……だいじょ……ぶぐっ」
ドスッ
わずか半月で体重が倍に成長したミクが、容赦なく私のお腹に座り込んで。危うく食べた朝ごはんのすべてを出しそうになりましたよ。
「……」
「……」
その日の夜10時頃に帰宅した伊織さんは、目の前の黒い生き物を射殺さんばかりに睨んでた。
なぜかと言えば、ダイニングでいつも使う椅子――彼は定位置に座る――に、黒猫ミクがどっかりと座り込んでくつろいでたから。
「……おい」
「はい」
冷蔵庫からプリンを取り出していた私に向かって、珍しく伊織さんが声をかけてきた。ミクの態度がよほど腹に据えかねたらしい。
「退かせろ」
「はい。でも、無理だと思いますよ」
プリンをダイニングテーブルに置いた私は、ミクを退かせるべく体に触れてみる。
「シャアッ!」
ものすごい速さで引っ掛かれた。牙を剥いて威嚇してくるミクに業を煮やしたか、伊織さんが不機嫌な顔で彼女を退かそうとしていた。
「これくらいで怯むな。所詮はただの猫……」
カプリ、と見事な音が聞こえそうだった。
伊織さんの手のひらにミクが噛みついて、そのままブランとぶら下がってる。
「……」
「……」
ミクのすごい根性と顎の力……って感心してる場合じゃない。
「きゅ、救急箱持ってきますね」
無表情なままいつまでも噛みついて離れない猫を眺めてる伊織さんも、どうやらミクからすれば下に見られてると想像しただけでおかしかった。
ペーストにしたにんじんを裏ごしして……それからあまり色が変わらないように気をつけて混ぜ合わせて……と。
こちらはかぼちゃとさつまいも。あまり色を出したくないけど、仕方ないか。
できるだけ甘みの強い野菜を使って、違和感がないように仕上げるのは一苦労。1週間ほど試行錯誤して出来上がったものを、おはる屋の子ども達に試食してもらう。
野菜嫌いの子ども達も気づかずにぺろっと食べちゃって。これはいける! と確信を持ってからマンションで本番へ向けて完成度を高めた。
「……なんだこれは?」
あ、不機嫌さが増したな。最近は私もちょっとだけ彼の感情の動きが解るようになってきた。
深夜12時。仕事から帰宅した伊織さんを待ち受けた私は、ダイニングに現れた彼に黙って3つのプリンを出した。
私服に着替えた伊織さんは眉間のシワを深め、ただ目の前にあるグラスを凝視してる。ちなみに、席争奪戦に破れた彼の椅子ではミクがゆったりくつろいでる。
「お野菜を入れたプリンです。違和感ないように仕上げてみました」
「……余計な口出しはするな、と言ったはずだが?」
ギロリ、と睨まれて背中にひんやりした震えがくる。やっぱり社長を務めるだけあって、威圧感が半端ない。
けど、私だって10日かけて頑張ったんだから! と拳を握りしめ自身を励ました。
「そうですけど! い、一応あなたの妻ですから……体のことを考えたいんです。それのどれかを召し上がらなければ普通のプリンはあげませんから」
私は冷蔵庫の前に陣取ると、通せんぼみたいに両手を広げて彼を見据えた。
“絶対妥協はしませんからね!”
伊織さんは絶対口を出すななんて言ってたけど、サプリメントと栄養補助食品と。固形物がプリンだなんて食生活、絶対体にいいはずがない。
そんな味気ない食生活で健康でいられる方が不思議なくらい。これが20代前半ならまだ無理は利くかもしれないけど、伊織さんはもう30代。体にいろんな不具合が出てくる年齢だ。
生活習慣病のリスクだって高まってる。心臓病やなんかの疾患だって。
もともと毎日午前様の上に1ヶ月休みなしなんてざら。海外出張の次の日に地方への出張だってある。そんなむちゃくちゃな毎日で、体に負担がないはずがない。
今は平気でも、将来的には絶対あちこちがボロボロになってる。むちゃくちゃな食生活のせいで心疾患や脳卒中や糖尿病のリスクも高まる。
そういった病気はバカにできない。最悪死に至るんだから。
だから伊織さんの妻でいられる今のうちに、食生活を改善することが一番の目標。
りんごあめを食べることができたなら、もう少し頑張れば野菜入りのプリンを食べられるんじゃないか? そう考えた。
もちろん、これは私の勝手な押し付けって自覚はある。彼が望みもしないのに食べさせようとするのは相当厚かましいって解ってるし。
でも、だからこそ。
いくら怒られようが冷たく突き放されようが、私は伊織さんの体のためにと野菜プリンを作った。
そんな私の思惑を話すつもりはない。それこそ押し付けがましくなる。
“あなたのためを思って作ったんだから、食べてくれて当たり前でしょう”だなんて。
私は、あくまでも伊織さんの選択に委ねるつもりでいた。
野菜プリンを食べないというなら、それでいい。
ただし、プリンはもう二度と作らない――と。
プリンが大好きな伊織さんからすれば、相当な理不尽に違いない。疲れて仕事から帰ってみれば、赤の他人からこんな意地悪をされて。
でも……でも!
ほんのちょっとでも、私と暮らしていてよかったと思うなら。せめて一口だけでも野菜プリンを食べて欲しかった。
「……これ食べなければ、二度と作るつもりはない、と?」
地を這うような伊織さんの声は、苛立ちが最高潮に達しているからか逆に冷静に聞こえた。
足元からひんやりしたものが伝染し、膝が震えて冷や汗が背中を伝い落ちる。狩人のような底光りする瞳に射竦められて、心臓が縮んだ。
だけど、勇気を振り絞って彼の鋭い視線を見返すと、ゆっくりと口を開いた。




