76話 暗躍と『信用』と『信頼』と
「なあおい、聞いたか」
長い仕事を終え、やっとできた時間、空腹を満たしていると、彼の隣にいつの間にか座っていた同僚が話を振ってきた。
「何がだ」
「噂だよ噂。ここ最近王都の中でまことしやかに囁かれてる都市伝説!」
「……都市伝説なのに真なのか?」
うわさ好き野次馬馬鹿の同僚がこのように絡んでくることはよくある。だが、いつにもましてうっとおしい。
「おうよ。それもいくつもあってだな。ああと……『天を衝く劫火』、『娼館に夜な夜な現れる大富豪』、『彷徨う人魂』、『巨人の怒り』『福呼び死神』、『消えた大豪邸』とかとか」
こちらが望んでもいないのに、ペラペラと捲し立てる男。
楽しそうに語る男を見て、これは長くなりそうだと諦観を籠めて溜息を吐く。
別に、彼は男が嫌いなわけではない。むしろ社交性が少し欠けると自覚している自分に、率先して話かけてくれることに感謝すらしている。だが、それでも時折気が滅入る時はある。
とりあえず、これで休み時間がすべてつぶれることを覚悟して、これで以前の奢ってもらった串焼きの借りをチャラにしてもらおうと決める。
「……最後のはもしかしてあれか? 一日で三番街のはずれの屋敷が消えた件」
彼は自分の記憶を探るように頭に手を当てながら答える。
彼は、王都の財政の一端を担当している。
そのため、他の分野の金の動きにも少し明るい。
そんな彼が受け取った報告書の一部に、そんな記述があった。
「ああ。基礎工の跡も年月を経て日に焼けた地面も掘り起こした痕跡もなく、一切が謎の事件だ」
三番街の外。王都外壁の近くにそびえていた、大邸宅。
名目上、王都のある大商人の一人の所有する別邸として記録されていたそれは、数日前に突然消失した。
まるで、そこにはじめから何もなかったかのように、一切の痕跡を残さず。
衛士が調査を行ったが、本当にここに家があったのかとぼやいていたのをそこらで聞いた覚えがある。それほど異常な現象。
所有する商人へ聞き込みを行おうにも、その商人も失踪してしまい、完全に暗礁に乗り上げている。
民を不安にさせるわけにはいかないため、緘口令が敷かれてはいるが、その邸宅の存在を知っていた民も少なからずいたために、噂になっても仕方がない。
「それに、『天を衝く劫火』と『巨人の怒り』も、根拠があることだ」
「……一つは、この前の闘技場大崩壊の際のアレだろう? もう一つは何だ?」
彼は納得と疑問を呈する。
一つは彼も覚えがある。おおよそ一週間前に、闘技場が崩壊した際の大火炎。
当時はすわ天の怒りだこの世の終わりだと大騒動になったのを覚えている。
しかし、その騒動は三日もすると、次第に収まって行った。
ある噂が、王都、いや〈デルト〉中に出回ったからだ。
曰く、『あれは王家が隠していた神器によるものだ』という噂。
脅威に対する恐怖は、好奇心に代わり、それは納得へと変わり、最終的に安心へと落着する。
『神器』とは何かという好奇心。
王国建国の際、無双の力を発揮した神代の武器だという納得。
そんなものが存在する王族が守ってくれるという安堵。
それらはすべて、いつの間にか王都を駆け巡る噂が為した。
いかにも都合がいい噂があるものだと心の奥底で訝しんだのは、記憶に新しい。
「最近、王都で爆発音が続いてるだろ。それが巨人が怒って足を踏み鳴らしてると考えた連中が居て、そんな話に」
「あれか。なんとまあ、ロマンチストな」
ちなみに、その件は都市地下にたまっていた可燃性の気体が爆発した音だという説明が流れている。
よく考えればそんなことが起きたら地盤沈下でも起きそうなものだが、大多数はそこまでの知識がなく、有る者もその内容にわざわざ難癖をつけることをしない。
おかしいと思っても、じゃあ何が起きたんだと聞かれたら何も答えられない上に、それが間違いだと証明されればまた不安と混乱が起こるからだ。
不幸なことに、彼は後者にあたるので、日々釈然としない思いを抱えている。
「流れてる都市伝説の半分が、原因の実在が確認されている、と」
「ああ。だから他のうわさの信憑性まで上がっててな、結構な騒ぎになってる」
「お気楽なものだ」
言葉ではそういうが、彼の顔には笑みが浮かぶ。
そのような噂が流れるということは、つまり、それだけ余裕があるということだ。
〈魔の森〉調査隊が半壊して戻ったのは、つい昨日のコト。
そのようなことが起きれば、緊張して余裕がなくなりそうなものだが、どうやらこの国の国民と軍は、自分たちの安全を疑っていないらしい。
それは、怠惰ではなく信頼。
自分たちが居る国が、〈魔獣〉という脅威に対して最も安全であることの確信。
微笑む彼だが、ここで隣の男が真剣な顔をしていることに気が付く。
「どうした」
「……実は、まだ噂がある」
沈黙することで先を促す。
その男は、若干言いづらそうにしながら口を開く。
「『消える官吏』、『攫う悪魔』、だそうだ」
しばらく、何も言えなくなる。
わずか二つの単語のみで構成されたそれらは、それゆえにその内容を的確に表している。
「根拠はあるのか?」
「いや、この二つは全くない」
茶を啜り、一息つく。
「なら大丈夫だろ。所詮は噂だ」
「だが、『火のないところに煙は立たない』とも言う」
この時点で、彼はなぜ男が話かけてきたのか正確に察する。
「ありがとう。だが、所詮俺は居てもいなくても変わらない下級貴族の下級官吏だ。その噂が仮に真実だったところで、俺がどうこうなるとは思えない」
彼がそう言うと、相席者はしばらくして立ち上がる。
その去り際に、『それでも気を付けとけ』と言い残して。
その背中が去って行くのを眺め、彼は再び食事に戻る。
「困ったな。これでは借りがチャラにできないじゃないか」
むしろ、増えてしまった。
休み時間を終え、仕事に戻るために廊下を歩く。
歩を進める毎に、少しづつ気が滅入っていく。
右を見れば、煌びやかな衣服を来た貴族たちが談笑している様子が。
左を見れば、些細なことで部下を叱りつける上司の姿が。
溜息をこぼしそうになるが、それを表に出しては連中の余計な勘気を買いかねない。
全く息苦しいことこの上ない。
彼の家は、最も爵位が低い男爵の中でもさらに立場が弱い。
その理由は、代々文官は排出しているが、武官をほとんど生み出していないからだ。
彼自身も、文官の身であり、武の才はなかった。
〈デルト〉は戦士の国として名高い。それゆえ、武官が重用され、文官が倦厭される気風が出来てしまっている。
それを悪いことだとは、彼は思っていない。
その考えこそ、〈デルト〉を〈デルト〉足らしめる所以であるのだから。
同数であれば最強の軍を持つ国という矜持。それが支える国民の身の安全への安堵。魔獣など敵ではないのだという事実が、この国の価値を不動のものとしている。
それがなくなれば、この国は凡庸な小国と大差ないものと成り果て、他の大国に飲み込まれるだろう。
だから、これは正しいことなんだ。こうであるべきなのだ。
―――そう、納得させる。
実力がなく、先祖の財産を食いつぶしているごく潰しを見ても。
力だけの脳筋が、優秀な頭脳の部下をしいたげている様を見ても。
武の才が、知の才をしいたげている様が与える不快感を、奥底に封じる。
そうして、彼は生きてきた。
中には、あの友人のように武と優しさを兼ねそろえたものも居るのだから。
自分を認めてくれる者が居るのだから。
そんなことを考えていると、自室の前にたどり着いた。
「おやおや。『脳だけビート君』ではないですか。まだ城に居たんですね」
入ろうと扉に手をかけると、そんな、厭味ったらしい声が聞こえた。
無表情を貼り付け、そちらを見る。
「何ですか。ユスト候」
長い金髪に派手な飾りをゴテゴテに取り付けた、美の感覚を疑うしかない男がそこに居た。
「まったく。脳だけのくせして口の利き方もなってないのですか。実家の程度が知れるというものです」
嫌味はいいからさっさと本題に入れよこの樹鬼頭野郎。
彼は内心で、頭でっかち――物理的に――の代名詞として使われる〈樹鬼〉を引用して作り上げた独自の罵倒を吐き出す。
「このことは別に話す必要などないのですが、親切な私がわざわざ伝えに来てやったのです。感謝しなさい」
だから早くしろ、と罵倒を繰り返す彼。
だが、次の言葉にその無表情が崩れる。
「貴方が提出した法改正案ですが、あまりに見れたものでないのでこちらで処分しておきました。まったく。あんな提案で上の方々の手間を増やそうだなんてするものではありませんよ。貴方と違って我々は暇ではないのですから」
彼は、自分に武の才があればと願ったことはない。
今の自分に、それなりに踏ん切りをつけている。
だが、このときはじめて、それを欲した。
せめて、いまこの場でこいつを切り殺せるだけの力が欲しい、と。
「……あれは私が陛下に直接提出する書類として作成したはずですが。どうして貴方がそれを勝手に処分しているのですか」
「はっ! これだから低俗なものたちは困る。先ほど言ったでしょう、『上のものの手間を増やすな』と。あんな馬鹿な案を眺めるだけの時間を陛下に使わせるなど、不敬もいいところだ」
「それを判断するのは貴方ではない。陛下だ。陛下は我々下々の者でも意見を言う機会を与え、それを実行する意志を持っている。それを勝手に破棄するなど、それこそ不敬でしょう」
「全く。あんな言葉を本気にしていたのですか貴方は。あんなもの、陛下のお気遣いでしかないのですよ。どうしてわざわざ貴方のようなかろうじて貴族位に居るだけの凡夫の意見を陛下が容れると考えてしまったのですか。後で陳情しておかねば。貴方のお言葉を真に受けてしまった可哀想な人がいると」
理解した。
こいつの頭は、自分とは徹底的に違う。
陛下の言葉を、自分で勝手に解釈して、それを無にしている。
「成程。それは失礼しました。それでは私は仕事が有るので失礼します」
「おや、それは大変だ。頑張ってください。貴方のような人間は、来年まで残っている保障もないから必死に働かねばならないとは。何とも――」
その後も何かをグチグチ言っているようだが、それを無視して部屋へ入る。
占める間際。心底醜い笑みを浮かべる男の顔が視界に入った。
完全に閉じ、その場でしばらく固まる。
そして、深く、深く溜息を吐く。
―――次の瞬間、扉に、拳が突き刺さる。
重厚な扉は、びくともしない。
だが、それでも拳を止めない。
かれが考えた案は、もし実現されれば国全体が一歩前へと前進できるものだった。
資源豊かではない〈デルト〉の地で、それを有効に活用するため、循環させるシステム。
為れば、わざわざ諸外国から買い付けを行う必要が減り、国全体が活性化するはずだった。
その利益は、国民だけでなく、あまたの貴族にも及ぶ。
先ほどのいけ好かない樹鬼頭野郎にも、平等に。
だが、奴らはそれを、捨てた。
理由は簡単、はじめに被害をこうむるのが、奴らだからだ。
彼は怒っていた。
だがそれは、連中に対してではない。
自分に対してだ。
自分が、直接陛下に直訴できるだけの身分であれば、あれは実現できたかもしれない。
彼の目から見ても、陛下は聡明で、文にも秀でた賢君だった。
だが、その周囲の暗愚さが、ひどすぎる。
そして、そんなことにすら気づけず、あの案を提出し、そして、それが実現できればと、わずかでも希望を抱いていた自分が許せなかった。
分かっていたはずだ、こうなると。
あの馬鹿たちが、わずかの自分の不利益も認めるはずがないと。
彼の考えた案は、一極集中しがちな資源を、ほんの一時だけ回収し、それを使い国全体へ普及させるというもの。
だがそれで生じる不利益は、多数の貴族が共同して負うために、ひとりあたりの負担はごくわずかなもの。
連中は、それすら許せない。
黙って従っていれば、その何倍もの利益を得られるにも関わらず、それにすら気づかない。
分かっていたはずなのに、期待してしまっていた自分に、激しく腹が立った。
もう期待するのはやめよう。
その怒りを、いつも通り心の奥に封じようとした。
「面白いことを考えるな、貴方は」
その言葉を聞くまでは。
弾かれるように振り向くと、そこには黒髪の青年が優雅に卓に腰を掛けていた。
殴りつけていた目の前の扉が開いたはずがない。
つまり、この男ははじめからここにいたのか?
だが、どうして入ったとき気が付かなかった?
疑問が内心を埋め尽くすなか、男はにこやかに語る。
「内容の骨子は、誰でも思いつきそうな簡単なことだ。だが、随所で奇抜なやり方で欠点を補強し、確実性が信じられないほど高められている。普通、ここまでやろうとすれば無理が出るのに、実に自然に理論が構築されている」
その手に持っているものに見覚えがあった。
当然だ。自分が書いた書類なのだから。
「ただ、惜しむらくは、実現できないことを前提で書いてあることか。これはどうせ無理だから、こんなもので良いと妥協されたあとが多々ある。実にもったいない。まあ、連中の馬鹿さ加減を知っていれば、こうなるのも無理はないか」
「……なんだお前は」
やっとそれだけを口にした彼の声は、掠れていた。
得体のしれない者への恐怖。困惑。
「あ、これを私が持っているのが不思議かな。捨ててあったから拾ったんだよ。全く、廃棄するなら切り刻んだりして二度と読めないようにするのが基本だろうに」
だが、今はその甘さが役に立ったんだけど。
そう男はつぶやき、彼へと紙に向けていた目を向ける。
その眼の妖しい光に、彼は言葉を失う。
「イロイロと説明したいことはあるんだが、何よりもまず一つ聞いてくれないかな。すべてはそれからだ」
そう言いながら、一歩一歩彼へと近づいてくる。
それに彼は動けない。
蛇に睨まれた蛙のように、完全に硬直している。
眼前の男の口許は吊り上がり、その手が自身の肩に触れ、言いようのない怖気が背筋を襲う。
それを知ってか知らずか、男は口を開く。
「―――この国を、変えたくはないかな」
そして、耳朶は、悪魔の囁きを捉えてしまう。
その言葉に困惑する彼は、封じていた感情が、疼いたことに気が付かなかった。
◆◇◆◇
ガイアスは一日の政務を終え、自室へと向かっていた。
来るべき魔獣との決戦にむけ、最近はろくに休む時間が取れていない。
だが、これでも大分ましなほうだった。
令が動いていたおかげで、対魔獣の最前線となると見込まれている〈ルッソ〉は、既に防備が整っており、上からの許可さえあれば、直ぐに即応体制へと移行できる状態にある。
在りえないことだが、こちらから援軍を送らずとも、数日程度であれば持ちこたえるだろう。
魔獣の襲撃で最も恐ろしいのは奇襲。
予想できない魔獣の行動により、こちらの準備が整う前に犠牲が出ることが多いのだ。
その点で言えば、今回その懸念が消えたことは、望外の幸運と言える。
だが、それ以外にも問題はある。
そのことを想いつつ、溜息を吐きながら、自室の扉を開ける。
「やあ」
気さくに片手を上げる男。
さすが一国の元首の部屋と言うべきか、高級な家具の数々が並ぶ部屋でソファにふんぞり返り、茶を楽しんでいた。
「出てけ」
ガイアスは短く拒絶の意を示す。
「さてさて、ちょっと待ってくださいなー。只今貴方の分も淹れますよー、と」
聞こえないのか。無視しているのか。
ガイアスは後者だと確信している。
額に青筋が浮かぶ。気が付けば、無意識に腰の剣に手が伸びていた。
さすがに自粛した。
鮮血が飛び散った室内では、満足に寝られない。
「はいどうぞ」
相変わらずの手際の良さで、あっという間に目の前に熱そうな湯気が立つ茶が出される。
とりあえず、飲まなければ話が進まなさそうだったので、しぶしぶ手に取る。
口をつけると、華やかな香りが鼻腔を満たす。
怒りが静まり、疲れが少しだが楽になった。
「疲労回復のための香草数種と精神安定作用のある心菜の粉末を使ってる。それだけだと苦味が強いから、柑橘系の果物の果汁と皮の部分も入れてある」
「皮?」
「ミカンなんかは皮の方にも栄養があるんだが、食べづらい。表面を炙ると苦味がなくなり食べやすくなるからそれを刻んで入れてる」
「……また恐ろしく手の込んだものを」
また、という言葉に、疑問を抱く者はいない。
「そんな気遣いを見せるのなら、そもそも俺を怒らせるな。どうして毎晩毎晩事前の約束もなしに押し掛ける」
「だってその方が面白いんだもん」
「その腹立つ言い方も含め、今一気に俺の沸点まで来やがった、心の黒いものが。これでは明日の公務に支障が出るな。一太刀で勘弁してやるから切られてくれ。頼むから」
「嫌です」
茶を置き、剣に手をかけ震える手を何とか抑えるガイアス。
呑気に目を瞑って茶を啜る令。
非常に温度差のある二人。
だが、仲が悪そうには見えないのだから不思議である。
「それで、今日は何の用だ」
何とか二度目の自省を果たし、憮然と返す。
ただ、茶を飲む手は止まらない。気に入ったようだ。
そんな彼に、令は無言で籠を差し出す。
中にはパンに色とりどりな野菜や肉、果物を挟んだものがこれでもかと詰まっている。
「どうせろくにもの食べて無いんでしょう。話はそれからです」
令は落ち着いた様子で茶呑みを再開する。
ガイアスは、黙ってその籠を見つめる。
昨日は握り飯。その前は魔法で温めた具だくさんのスープ。確か最初は色彩豊かな茶菓子だっただろうか。
なんだか最近、胃袋を掴まれている気がしてならないガイアスだった。
「それで、今日は何のようだ」
人心地ついたところでガイアスは話を振る。
令はリンゴを剥きながら返答する。
「『報告』と『警告』と『確認したいこと』がありましてね」
剥いたリンゴを机の皿の上に置く。
繊細な産毛の一本一本まで再現された、兎がそこにいた。
目は赤い皮がその役割を果たし、見るからにふわふわしていそうな質感を放っている。リンゴなのに。
その無垢な目に見つめられ、ガイアスは目を離せなくなる。
「……お前はこれをどうしてほしいんだ? 食わせたいのか、観賞させたいのか?」
「お好きなように」
ここまで見事なものをつくられると、食べる気など全く起きない。
悲痛な鳴き声が聞こえてきそうだった。
妙な罪悪感に襲われながら、とりあえず、それを脇に置く。
そして目で先を促す。
「大体『掃除』は終わったよ。あと残ってるのは一つだけ。近いうちに殲滅する。そして、『発掘』の方もなかなか進んでいる。この調子で行けば、予定数の確保は問題ないだろう」
その言葉を聞いて、ガイアスは渋い顔で瞑目する。
「それに伴い、『例の件』、実行して構いませんか」
「…………………好きにしろ」
長い沈黙の末、ガイアスは呟く。
それは相手にというよりも、自分に言い聞かせているようだった。
「はい好きにします」
普通に切ったリンゴを食みながら、令は頷く。
「こちらでの情報操作にも限界がある。あまり派手に動くのは勘弁してほしいのだが。あの噂の数々。すべてお前が原因だろう」
「無理ですね」
ガイアスは、令が今行っていることについて知っている。
知りながらそれを放置し、それどころか噂を流すことでその行為を認めている。
とはいえ、あまり派手に動かれてはその限りではない。この調子では、いずれ庇いきれなくなる。
それを考慮しての言葉だったのだがすぐに否定される。
「俺にああいう場面で自制しろとでも。そんなことを本気で言ってんなら、まずあんたから沈めるぞ糞野郎」
瞳が溶けるように色を失い、代わりに純然な怒りを湛える。
「そうか。それはすまない」
令らしくない粗暴な言葉づかいに、一瞬で余裕を取り繕う暇すら失うほどの激情を捉えたと察し、ガイアスは素直に頭を下げる。
令を恐れたわけではなく、これから、また厄介ごとを背負い込もうとしている者への気遣い。
「それでもう一つの用件は何だ」
「それについては、もう少し経ってからのほうがいいかな。少し待ってください」
「……そうか」
訝しみながらも、ガイアスは近くの書類へ手を伸ばし、それを決済していく。
「ここでそんなものやっていいのですか」
「今更お前に対して隠すようなことがあるとでも?」
ここまで入りこまれている上に、情報統制が敷かれ一般に知られていない〈四剣〉のアリエルの個人情報まで知っている。
謎の凄まじい情報収集能力を持つ令に、集められないような情報は少なくとも今この場の紙面には載っていない。
「へえ……無いんですか」
前から視線を感じた。
「無いんですか、本当に。隠していること」
つい先ほどの激情が嘘のような、こちらを見透かす透徹しきった黒い瞳に見入られる。
「……あいつは元気にやっているか」
視線を逸らしてしまった。
唐突な話題提起。これでは答えを言っているようなもの。
自分らしくない、その反応に、自分で後悔する。
「今日は八回くらいですかね」
しかし令は気にせず、その話題に従う。
よく意味が分からなかったが。
「……何がだ?」
「怒鳴られた回数」
「何をしたんだお前は」
「後ろをついてきている時ばれないようにマキビシ巻いたり、寝起きに枕元に蛙を仕込んだり、スープの中に蜘蛛のおもちゃ入れたり」
「本当に何をしているんだお前は!?」
それで怒らなかったらその人間の方がおかしいだろう。
「最後の方なんかもう涙目になってて。……うっかりドキドキワクワクして自省できなくなるところでした」
「おい大丈夫なんだろうな!? お前と一緒に居させてることが凄まじく心配になったんだが!?」
「ガイアス陛下。貴方は知らないでしょうけど」
令は微笑む。
実に綺麗に。
「実は私、重嗜虐主義者なんです」
「知っているッ!」
むしろ、今までの会話と行動で予想できていない方がおかしい。
「まあ安心してください。さすがに心が折れるまでは悪戯しませんよ」
「今までの人生でこれほど胡散臭いセリフはドギツイ化粧をした娼婦の誘い文句ぐらいだな。お前自分の所業を理解していないのか」
「……まあ、ね。でも、必要が無ければそこまでやる気はないので」
「そうでなければ今すぐフレイナをここに連れてこい。お前と切り離す。そして二度と近寄るなッ!」
笑う令に、半ば本気でガイアスは怒鳴る。
この男は、どうも冗談と本気の境界が曖昧なために言うことがいちいち信用できない。
「やはり娘は心配ですか」
「当たり前だろうが。一人娘だぞ。その上、唯一の王位継承者だ」
親としても『王』としても、無関心でいられるわけがない。
「……娘、か」
ポツリと、令が呟く。
「その言い方だと、貴方にとっては彼女は『王女』である以前に『娘』なのだな」
その言葉に、ガイアスの頭が違和感を訴える。
だが具体的にどこがおかしいかは分からない。
見た目にも、令は黙って茶を啜っているように見える。
そのまま何事もなく静かな時間が経過し、ガイアスはその感覚を考えすぎだと結論づけようとしたとき、変化が訪れる。
扉をたたく、ノックの音。
「入るぞガイアス。……そしてレイ」
一応の断りを得て入ってきたのは、くすんだ金髪の老将。
「おい。せめてこちらの返答を待ってから入れ」
「気にするな。俺もお前が毎晩そこな男と密会を開いていたことを気にしない」
少量の苛立ちを籠めた皮肉は、痛いところをつかれ不発に終わった。
だが、それよりも気になることがある。
「まて。どうしてお前が俺とこいつの関わりを知っている」
一応、誰にも気づかれないようにしていたはずだった。妙な噂を立てるものなど掃いて捨てるほどいるのだから、気を付けるに越したことはない。
「そこのニヤついている男から密告があった」
「おい貴様」
「はっはっは」
「笑って誤魔化せるとでも思ってるのか」
詳しく話を聞いてみると、仕事を終えて自室へ戻ると、いつの間にか机の上に置かれていた紙が目に入ったらしい。
それにはガイアスの部屋へ来るようにとの指示と、今日までの令とガイアスの会談の次第が書かれていたとか。
「どうしてそう忍び込むことに拘るんだお前は」
「まあ、符で要請してもいいんですけど、それだと周りに誰かいた時不便ですから」
符では、その時々の相手の現状が分からないために、会話が聞かれるという不都合が出る怖れがある。
それに、こういう手というのは、あまり便り過ぎては肝心な時に不都合が出る恐れがある。もし故障したら。混線してしまったら。その時、それに頼ってばかりでは、いざと言うとき対応できなくなる。
だからなるべく、こういう手は封じておかなければならない。
「それでも個人的な空間にこうも好き勝手に入られるのはな」
「これで俺を呼んだのが下らん用事だったらただじゃ済まさんぞ」
「わあ怖い」
しかし、国家元首とその筆頭補佐を務める側近の一人の部屋へ無断で侵入する。その行為が容認されるべきではない。
一人は諦観を籠めて、もう一人は苛立ちを籠めて、微笑む令を睨む。
常人であれば気を失うであろうその眼力にも、男が怯む様子はない。
いや、そもそも、この男はそのような感覚が存在するのだろうか。
人は生きている以上、他の生物の感情に敏感になるものだ。
ここまでそれを完全に受け流せるとなると、それはもはや、豪胆や肝が太いといった言葉で言い表せないように思える。
―――まるで、そういうものを感じる回路がもともと存在しないかのようだ。
「登場人物はあと一人。それまでご辛抱を」
ガイアスのそんな考えを、令は底の知れない笑顔で塗りつぶす。
すると、廊下から荒々しい足音が聞こえてくる。
それはその足音のままに、部屋へ踏み込んでくる。
「れええいいい! お前俺のサーシャちゃんに何吹き込みやがった!?」
入るなり、必死そうな様子で令へと掴みかかるかかる大男。
彼、ザルツは若干涙目になっていた。
「どいつもこいつも、どうして人の部屋に許可を取らずに入ってくるんだ……」
最近、自分とは何なのだろうという哲学的に自問することがよくあるガイアス。
そのたびに『王』だという結論には達する。だが、最近はそれに『一応』という枕詞が付くようになっている。
なんというか、威厳が薄れてきている気がするのだ。
「言伝頼んだだけですよー。はっはっは」
「嘘つけえ! あんな顔赤らめてしおらしくなったあいつなんて初めて見たぞ! 今すぐ何をしたのか教えて、そしてそれを俺に伝授してくださいお願いしますッ!」
襟首掴まれて笑う令。がくがく揺らし、怒りながら懇願するザルツ。
何やらよくわからないが、言葉の形だけを捉えると、飛んでもなくくだらなそうな予感がヒシヒシと感じられる会話。
その予想は果たして、現実となる。
「いえ、ですから貴方お気に入りの娼婦に会って、『イロイロ』。それはもう『イロイロ』とやらかして最後に言伝頼んだだけですよ。別に特別なことは何にも」
「お前らは何をしているんだ!?」
「何って……『ナニ』を」
「下世話ですねガイアス殿。人の私生活に踏み込むとか」
「やかましいわッ!」
妙な連帯感を発揮して返してきた馬鹿二人に、ガイアスは頭が痛くなる。
どうして国家元首の部屋で、そんな馬鹿な話ができるんだろうか。
「まあ安心してください。本番まで行ってませんから」
「は? なんだそりゃ」
「私、女性遍歴は爛れきってますけど女性経験はゼロなんです」
「……お前、それ何語だ?」
「理解しにくいでしょうけど、間違ってませんよ。解説する気はありませんが」
しかも、まだ会話をやめていない。
「レイ。お前は話があって我らを呼んだのではないのか」
「ああそうでしたね。ではザルツ殿、その件はまたあとで」
「あの見た目清純そのものなのに中身は真っ黒な女を手玉に取った方法、後できりきりはいてもらうからな」
「……そこまで分かっていながら関係持つとか馬鹿なんじゃないですか」
「何とでも言え。男とは愚かな生き物だ」
「あ、馬鹿なんですね」
と、ガルディオルが軌道修正をしてくれたおかげでようやく話が元に戻る。
ザルツも落ち着きを取り戻し、ガイアスの隣に立つ。
その逆隣にガルディオルが付き、王の脇をしっかりと固める。
さすがは大貴族。公私の切り替えは完全にできており、ザルツに先ほどまでの浮ついた空気は微塵もない。
「これで全員なのだな。それで、話というのは?」
その正面に陣取る男は、時間が経ち温くなったカップの中身を口に含むと、口を開く。
「まず、これはただの予測ですが、来るべき戦いに現状の戦力で太刀打ちできない可能性が浮上しました」
沈黙。
ふざけた掛け合いの直後に言い放たれたその内容は、彼らから言葉を奪うには十分過ぎた。
「勘違いしないで頂きたいのですが、貴方がたは自らの役割を十分に成せていますし、この〈デルト〉という国自体の国力も、大国の名に恥じない素晴らしいものです。ただ、それだけではどうしようもないことと言うのが『この世界』にはあるというだけで」
「どういう意味だ」
「所詮は可能性の話。今、それを話すべき時ではありません」
「ならば、なぜ今そんな話をした」
これでは、ただ徒に警戒感を引き上げただけだ。
これでは、お前たちは明日死ぬと言われ、そのまま高笑いしながら去って行かれるようなものだ。
挑発と取られても仕方ないし、関係の悪化は免れない。
「嫌われるためですよ。貴方たちに」
そして続けられたのは、おおよそ、彼らの理から外れた言葉。
こんな夜更けに、こんな場所に、わざわざ嫌われるために来たという。
理解不能。
「いえ、勘違いを正す、というのが正しいでしょうか。私は貴方がたと手を取り合いたいと言いました。そして、貴方方はそれを受け入れました。この時点で、貴方方と私は仲間であり、協力し合う間柄になりました」
けれども、と令は続ける。
「ですが、味方だとも、敵でないとも言った覚えはありません」
静かに、真っ直ぐな目で。
「はっきり言いましょう。私は貴方がたを『信頼』しません。できないのではなくしません。これは、貴方方がどうこうではなく、俺がそういう人間だからです」
ですが、と令はつづける。
「私は貴方方を『信用』します」
どこか、覚悟を感じさせる声で。
「そして私は、自分を『信頼』します。ですが、『信用』はしません」
だから、と令は繋ぐ。
「貴方方も、そのように私を扱ってください。『信用』してください。『信じて利用』してください。『信じて悪用』してください。『信じて応用』してください。『信じて濫用』してください」
それでも、と令は結ぶ。
「私を、『信頼』だけはしないでください」
どこか、哀しみを覚える笑顔で。
それを三人は、黙って聞くことしかできなかった。
「お分かり、いただけましたか」
その言葉に、誰も答えない。
それが当然。それが正しい。
そう分かっている。
だが、それでも、過程と手段は到底容認出来はしないが、必死に動き続ける男に、それを言うのは躊躇われた。
「……仕方がないですね」
令は、溜息を吐くと、顔を『変える』。
感情の読めない、無機質な相貌。
「ガイアス殿。私は常々疑問に思っていた」
唐突に始まる会話。いや、一方的な宣言。
「貴方と、彼女の間のちぐはぐさについて」
彼女と、固有名詞を避けた言葉。
ガイアスの脳裏には、二人の候補が挙がる。
最近扱いに苦慮している女性と、大事な『娘』。
「彼女を、貴方は『娘』として扱っている」
この時点で、それは一つに絞られた。
「それがおかしいことだと、貴方は理解しているか」
だが、意味は分からない。
「貴方は王だ。私の目から見ても素晴らしく、そうであることが出来ている。だからこそ、彼女を、唯一の王位継承者を、『王女』である前に『娘』として見れていることのおかしさを、貴方は認識しているか」
心臓が、大きく脈打つ。
今まで、気づけないでいた、そのことに。
思えば、ガイアスの間違いは、すべてそこから来ている。
『王』としての彼は、彼女を『王女』として扱おうとし、『父』としての彼は『娘』として扱う。
その差異が、フレイナへの指導を間違わせ、令がその矯正へと動いた。
だが、これはおかしいことだ。
『王』としてある種の完成を得ているガイアスであれば、確実に『王』としての立場を優先していた筈なのだ。
なのに、それが出来ていない。
「つまり、貴方にとって、彼女を『王女』として見るには、何らかの障害が存在する」
もう一度、心臓が脈打つ。
先ほどよりも大きく。
「ガルディオル殿。あの彼女との戦いの時、冷静冷徹で知られる貴方としてはおかしいほど動揺をしていたな。最後の方は今にも私に食ってかかりそうだった。そんなに彼女が大事なのか」
老人へ。
「ザルツ。貴方の行動もおかしなものだ。ガルディオル殿とは正反対に、やけに冷静だったな。比較的、と着くが、第一王位継承者が、唯一の国の跡継ぎが死にかけたというのに、特に焦ることもなく私に話かけてきた」
壮年へ、視線を移す令。
そのたびに、ガイアスの焦りが大きくなっていく。
「まるで―――」
やめろ。
そこから先を口にするな。
それ以上先を言われては。
「彼女が―――」
―――お前を、殺さなければいけなくなる。
刹那、ガイアスの両脇を暴風が狂う。
それは正面の男の眼前で爆発し、室内の調度品を撒き散らす。
令の鳩尾には、壮年の右腕が押し当てられている。
指先まで槍のように真っ直ぐに伸ばされ、生身だというのに金属器のような圧倒的な重量感と威圧感を放つ、徒手。
それに巻き付くように、老人が腕を抱え込む。
腕の持ち主の剛力を完全に殺しながら、全く組織を圧迫しない、完全無欠の技巧の極み。
この図から判断できるのは、ただ一つ。
壮年、ザルツが令を殺そうとし、老人、ガルディオルが令を救った。
その事実に殆ど誰もが驚いている。
ザルツは、自分が何の躊躇いもなく兇腕を振るおうとしたことに。
ガルディオルは、頭でそうするザルツの行為を認めていたのに、身体が勝手に動いていたことに。
そして、ガイアスは、その結果をどこか冷静に俯瞰している自分がいることに。
「さすが、『現デルト王国最強』と『元デルト王国歴代最強』。正直肝が冷えた」
そんな中、ただ一人驚いているようには見えない男。
「でも、どうですか。みなさん」
その彼が、口を開く。
「―――自分って、『信用』できないでしょう」
それに反論できるものは、誰もいない。
たった今、自分がそれを実感し、証明してしまったからだ。
令は、固まる彼らをしり目に扉へと向かう。
「……一つ聞かせてくれ」
その背中に、この中で一番衝撃の小さかったガイアスが声をかける。
「お前にとって俺たちは……『駒』に過ぎないのか?」
令は扉を開け、廊下に出る。
「もし本気でそう思っているなら、私、割と本気で泣きますよ」
そして、閉めた。
後には、苦い表情の彼らのみが残された。




