73話 不快。ああ不快。
意識が震える。
それはほんの微かな覚醒。
夢の中にいながら、それが夢であると自覚するような。その程度のもの。
ただそれでも、ここ数一〇〇年で初めてのこと。
『それ』は次に、なぜそんなことが起きたのか疑問に思う。
そして知る。求めて望んで止まないもの。そのひとかけらを。
ただ、純度は低く、求めていたものの一雫にも満たない。
だから。
これで何かが変わるのか、知るために。
『それ』は戯れを起こすことにした。
『それ』にとってはただの遊び。
だが、力あるものの遊びは、あらゆるすべてを滅ぼす。
子供の無邪気が虫けらを引きちぎるように。
だから、『それ』は抑えに抑えて、遊びを行った。
倒れる女性に向かい歩いていく。
美しかった灰色の髪も熱に灼かれて、もはや見る影もない―――ように思える。
よく見ると、その身体は不自然だった。
四肢にも、服にも、長い髪すらも、僅かの欠落もない。
ただ、その身体は酷いやけどを負っている。
令は、彼女に手を添える。
すると、彼女の姿が包帯を解くように、解れていく。
後には傷一つない姿のアリエルが残る。
「……慌てすぎだよ<姫>。注意していれば気づけただろうに。まあそうさせなくしたのは俺なんだけど」
アリエルが焔に呑まれる刹那。令は彼女の首筋に手刀を叩き込んで気絶させた。焔に気を取られた彼女に一撃を加えるのは簡単だった。
そして、焔の中心を円形で空洞にし、あたかもアリエルが焼かれたかのように見せつける。魔法を完全に支配している彼に、その程度の小細工は容易い。
そして焔に隠れているうちに、彼女に《偽装》を施し、まるで大火傷を負ったかのように見せつける。
それもすべて、その横に気絶する人物を見極めるため。
倒れているその人を見る。
その身体は、薄汚れているが、傷一つない。
無数にあった裂傷はすべて塞がり、跡形もない。
あれだけの劫火に焼き尽くされたにも関わらず、である。
令は回りを見渡す。
微かに緋に染まりかけた空が、それを浮かび上がらせる。
もはや、建築物の様相を呈してさえいなかった。
壁面は蝋燭のようにグズグズに融け、地面は出来の悪い鍋のように深く陥没し結晶化してキラキラ輝きを放つ。
ただ一点、彼女らが重なって倒れていた場を除いて。
そして、最後に令は『それ』に目を向ける。
傷一つない、元通りの姿をしている、<神器>を。
確かに打ち壊した。間違いなく。
なのに、ここにある。なぜか。
アリエルを背負い、フレイナを抱える。
「ふむ。これが本当の『おひめさま抱っこ』かな」
血の喪失にふらつく身体を誤魔化すように、令は冗談を口にする。
そのまま、前と後ろを女性に挟まれるという、言葉だけを聞けば世の男性に恨まれそうな状況で、絶妙にバランスを保って歩を進める。
令は平衡感覚と三半規管を強制的に鍛えるために、魔の森という文字通りの魔境で二か月を樹上で過ごしたことがある。できないならばできるようにする。という無茶苦茶な理論だが、不安定な場所で日常生活をしたことで、この程度で体勢を崩すことはない。
落ちて魔獣に食われかけたり、枝が折れて下の尖った岩に貫かれたり、場所が場所だけに寝ても全く疲れが取れなかったりと、経験した苦労に見合うかは意見が分かれるだろうが。
「お望み通り、両者生命に別状はない。ご期待に添えたかな」
「……最大限に、あるいは最低に、だな。どちらなのか俺には分からん」
「気を遣わなくてもいいですよ。はっきりと言えばいい。『俺の娘に何してくれてんだテメエ』って」
令は、不自然なほど綺麗な笑みで言葉を吐く。
目の前に居る男性に、女性たちを押し付ける。
娘はともかく、アリエルを預けるときは慌てていたが、有無を言わさず抱き抱えさせる。
「っておい。何をしているんだお前!?」
ついで、彼女たちごとどこからか縄を取り出してその状態に無理やり固定する。
背中に娘、前に若い女性を抱く、壮年の男性。
やってから、言葉にしたらひどく怪しいなと令は思った。
思うだけで、解いてやらないが。
苦労した女性たちにそのぐらいの役得はあってもいいだろう。
「で、あれはどうにかならないんですか。というかあらかじめ説明ぐらいしといてくださいよ」
令の指さす光景を見て、ガイアスは縄を抜けられないかもがきながら返す。
「無茶を言うな。お前との共犯を結んだのは始める直前だろう。アリエルが居て説明できるか。そしてこれをさっさと外せ」
「まあそうでしょうけど、理屈で居心地がよくなるわけではないんですよね。怖い顔のおじいさんが理屈は分かっても感情が認められないのと同じで。あと却下です」
令が文句を聞き流しながら指を指した先では、若者が男性と口論をし、老人が目を瞑っていた。
若い男は自分の肩を掴んでとめる男性に捲し立て、それを諌められている。
そして、老人は一見眠っているようにも見えるが、その手が背に差した槍を掴んで震えているのを見ると、危機感が煽られて仕方がない。
令は溜息を一つ吐く。
「言いたいことがたくさんありそうだな。貴方たちは」
彼らのもとへ歩きながら、現状の改善策を脳裏で練る。
「どうしてこんなことをしたっ! 殿下も、アリエル殿も、あそこまでする必要がどこにあった!」
諌めるザルツの戒めを振り切り、オルハウストは令に捲し立てる。
普段の温厚な様子はなりを潜め、身内を傷つけられた怒りにあふれていた。
「そうする方がいいと思ったからだ。分かってるだろ」
だが、令は悪びれず、逆に問いかける。
茶かすような空気はなく、真面目くさった声で。
「やりたいこととすべきことの間でブレブレ。そんな状態で先の戦いに巻き込まれてみろ。どうなるかなど分かり切っている」
激昂していたオルハウストは、苦しそうに顔を歪めた。
魔獣の侵攻。
戦術も搦め手もない、文字通りの畜生が相手。
その上、相手が人間でないので、心情的に非常に戦いやすい。
だがその分、その烈しさは段違いになる。
何しろ、魔獣というのは基本的に退くことがない。
戦う前の落ち着いた状態であれば、本能で判断をして戦いを避けることもあるが、一度戦いになってしまえば決して止まらない。
闘争の本能と衝動に支配された彼らは、目につく他種が全滅するまで戦い続ける。
命乞いも、糾合も。あらゆる理性が意味を失い、無理やり戦いに捻じ込まれる。
一瞬の油断が身を引き裂き、躊躇いが頭蓋を喰い破る。そんな地獄。
あらゆる常識が通じない―――この令との戦いのような不条理が日常的に行われる世界。
「前線に出さないようにしても無駄だ。今回はそれでよくてもいずれまた同じことが繰り返される。その時、今回の急事に何の力になれなかったという負い目は、確実にあいつを弱く歪める」
戦わせなければいい。その反論は口に出す前に塞がれる。
戦わなければ、彼女が死ぬことはない。
だが、その瞬間、<デルト>の王女として戦い守ることを義務付けられた彼女は死ぬのだ。
それは彼女の今までの人生を否定するのと同じなのだから。
そして、そのことを誰よりも理解しているのは<四剣>と『王』。
故に、オルハウストは山ほどある不満を吐き出す場を無くされる。
「それに今更だが、今日やったことはすべてガイアス殿に許可を取っている。この闘技場を粉砕したことも、アリエル殿を利用したことも、<姫>を壊れるまで徹底的に痛めつけたことも」
オルハウストは絶句し、弾けるようにガイアスに目を向ける。
さすがにそれは予想できなかったのか、黙っていたザルツとガルディオルも反応した。
ガイアスはそれらすべてに首を縦に振り、肯定した。
そして懐から折りたたまれた紙を取り出し、公開する。
その中には、事細かに今回の流れについて記されていた。
初めの内は自分は押されるだろうということ。その後、<言霊>。<紅翼>。<紅人>。<アロンダイト>。様々な技能を駆使して相手を追い詰めたこと。そして彼女と繋がりが深いアリエルの乱入を煽るよう行動していたことも。最後の大魔導についても。
令が詳細をしらない、<神器>についてはさすがに一言も触れてはいなかったが。
「ガイアス殿も分かっていたということだ。結果的にどうなろうとも、死ぬよりはましだと考えた」
言葉の矛先がガイアスに向く前に、釘をさす。
「御大層な前振りだったが、まあそういうことだ。俺がすべき娘の尻拭いを、俺が他人しさせてしまったというだけのこと。だからお前たち。恨むなら俺にしてくれ。そいつは関係ない」
『娘』の教育。『王女』の教導。
そのどちらも、本来であれば彼がすべき筈のこと。
であるのに、感情がそれを邪魔し、ここまでずるずると先延ばしにしてきた。
何かを守るとき、それには犠牲が必ず付き纏う。
人でも。物でも。―――自分でも。
ガイアスは、それをフレイナに上手く教えることが出来ないでいた。
『母』のことで負い目を感じていたために。そして、フレイナの感情を理解できなかったために。
フレイナが、どれだけ力を得ても、それを毛嫌いし、いつも気に病んでいるのを知っていても、ガイアスにはそれが理解できなかった。
ガイアスは、フレイナが馴染めないことに、仕方のないこととそうそうに見切りをつけ、諦めた。
犠牲なくしては、何も生まれないのだと。
だから、頑なにそれを認めないフレイナは、その意味でガイアスの理解の外にあった。
それはほかの<四剣>も、アリエルですら同じ。だから、誰もそのことをフレイナに教えられるものが誰もいなかった。
―――これまでは。
「おいおい。そう難しく考えんなよ。坊ちゃんには衝撃か大きかったから言わずにはいられなかっただけさ。別に納得できないわけじゃねえよ」
ザルツはガイアスの頭をペシペシと叩き窘める。
ガイアスの顔は、安堵の自己嫌悪に侵され、とても見るに堪えないものになっていた。
「それに、それを言うなら俺たちも皆同罪だ。表面上はどうであれ、本心からそやつを責める奴はいない。表面上はどうであれな」
全然納得しているようには見えないが、ガルディオルもそうガイアスに不器用な気遣う言葉をかける。
ガイアスの顔が、少しだけ和らぐ。
「……気遣えるんだな」
男のその平坦な呟きを聞くものはいない。
「だけどな。一つだけ聞きたい」
冷えた声が、令へと向かう。
ザルツの鋭い視線が、彼を射抜く。
常人であれば硬直していただろうが、令はどこ吹く風だ。
「アレは、どう考えても必要なかったと思うんだがな。お前が手加減していなかったら、あいつは死んでた」
あれ、と固有名詞がない問いかけだったが、その程度誰でも分かる。
最後の大魔法。令が剣に纏わせた炎というのも生温い劫火についてだろう。
それ以前の段階で、フレイナは完全に戦意を喪失しているのはだれの目にも明らかだった。
度重なる令の悪意に心を蝕まれ、頼りとしていた武技は真向から否定され、無意識な心の拠り所だった<神器>を砕かれる。
果てには、最も仲の良い存在を目の前で壊された。
誰でも心が折れると断言できるほどの責めをフレイナは受けていた。
つまり、その時点で令の先ほど語っていた目的は達成されており、アレは明らかに不要だったということになる。
あんな、過剰殲滅な代物は。
魔法陣は完全な形で使われることで最も安定した状態で魔法を用いることが出来る。
もし不完全な未完成の魔方陣を用いたとしたら、その魔法は不安定で失敗。悪ければ暴発して術者を襲う。
だが、その不安定な状態を利用する術を令は考え出した。
不安定ということはつまり、外部から何かを取り込み安定化したい状態を示す。
そのことを逆手にとり、敢えて不安定な魔法を生み出し、もう一つの不安定な魔法と掛け合わせ、同化させる。
そして、強制的に組み合わせたことで肥大化した魔法を、外部から調整器、魔重剣を差し込み安定化させる。
それが令の切り札の一つ。<融合魔法>。
簡単な理屈だが、魔法が暴発するかしないかのぎりぎりを見極める感覚と、そして魔方陣と剣に刻む紋様の複雑怪奇な知識が求められる。
二つの魔法の足し算ではなく掛け算。成功すれば莫大な力を手にできるが、もし失敗でもしたら最悪の場合周囲すべてを巻き込んで焼野原にしてしまうかもしれない。
そもそも、およそまともな精神構造をしているなら使おうとすらしないだろう。
そこまでは理解出来ていないだろうが、あれほど強力なものを見せかけとはいえ一個人相手に使うのはおかしい。
それを受けて、笑みを深める。
「加減? そんなのしてませんよ」
その一言は、静かな爆発となって彼らの耳を潜り抜ける。
「殺すつもりだったと?」
問いかけのようだったが、それは返答を求めてはいなかった。
この中で最高齢の男は、槍を引き抜き、構える。
もはやいつ刃が飛んで来るか分からない。
「違う。一応の保険ですよ。役に立たないことを祈っているさ」
言葉の意味が理解できない。
相変わらず、奥底に表面上の何十倍もの秘密を隠したような物言いに、誰もが苛立ちを禁じ得ない。
「そもそも、どうして加減したなどと思ったのかな。ザルツ殿」
薄い笑みを混ぜた問いかけに、ザルツは顔を歪める。
「そんなもの、あれだけのものを防げるはずがないだろうが」
「へえ、どうしてそう考えるので?」
「この……!」
のらりくらりと言及を避けるような令の物言いに、ザルツの額に青筋が浮かぶ。
そして叫ぼうとした瞬間に。
「ねえ、どうして防げるはずがないと考えるのかな」
凄味を増した、令の笑みに抑えられる。
「<神器>。あの<姫>が持っていたもので言うならば、その特徴は破壊不可能と言ってもいいほどの絶対的強度。こちらの闘気の吸収と無効化。そして蓄積した闘気の解放」
その言葉に、誰もが心の中でうなづく。
それこそが、彼らの知る<ラディラ>の持つ、力。
とはいえ、その一つは目の前の男が文字通りぶち壊されたが。
令はそれをおくびにも出さず、告げる。
「―――本当に、それだけだと?」
さざ波が起きたような、静かな動揺が広がる。
「私も、<神器>についての知識を少しだけ有してましてね。不自然なほど端的なものですが、其処にはこうありました。―――神器の一つが、かつて全力をもって揮われた際、国が終わったと。不自然ではないだろうか。それだけの力があると言われているのに、それしか力がないなんて」
それについては、ガイアスたちも知っている。
「だがそれは、所詮は言い伝えに過ぎん。我らが扱ったときでも、一度もそれほどの力を発揮したことはないぞ」
所詮は言い伝え。伝説。眉唾物の話。
誰もそれを馬鹿正直に信じようとはしなかった。
「ええ。事実、私も本気にとってはいませんでしたよ。『これ』でぶち壊したときまでは」
令の手に、微かな『昏さ』が宿る。
剣に纏ったときのような、はっきりしたものではない。
だが、それだけでもガイアスたちの脳裏に、凄まじい不吉さを芽生えさせる。
「貴方たちはもう少し、物事について考察を深めるべきだと提案するよ<神器>についても。『魔獣』についても。―――『この世界』についても」
この中で、最も接点が希薄であるにも関わらず、令にはすべてを見透かしたかのような達観した空気がある。
「<神器>……『神』の、『器』。―――無知であることは免罪の対象であっても、免責の理由にはなりえない。気をつけなさいな。そういう意味では、諦めず、知ろうと、成長しようと嘆く<姫>が一番ましなのかもしれないぞ」
憎まれ口。
だが。そこにあるのは、確かにフレイナを認めるような響き。
「そこまで気にかけているなら、別の手で教え込む方法もあったのではないか? わざわざ傷つける方法を取らずとも、君なら――」
「『絶望』は、希望からしか生まれない」
オルハウストの困惑を、令は切って捨てる。
「そして、『希望』は『絶望』からのみ生じる。俺の持論だよ。オルハウスト。実体験と言ってもいい」
諦観に満ちた表情。
「壊れてもしまっても別に構わない。死ぬよりはましだ。強ければそこから立て直せる。何より、生きている限りは次がある」
あまりにも希薄な、力のない笑み。
「次がある。死なない限りは」
その表情に籠められた念に、オルハウストは口を噤む。
「あいつも。お前も。中途半端過ぎる。公と私を分けきれていないから、いちいち迷い、行動を渋る。それだけの『もと』がありながら、全く生かし切れていない」
なぜかは分かり切っていない。
令に対する憤慨も尽きてはいない。
なのに、自身の何かがそれを表に出すことを憚らせる。
「―――ああ、なんて気に入らない」
どんな思いからか、令は吐き捨てる。
「だから壊してやった。あいつの何もかもを。これまで培ってきたすべてを。大切な者を。大切だった感情を。―――あいつの可能性を縛る枷ごとな」
令の目に、力がこもる。
「許せないか。悪いと思うか。それもいいだろう。その感情はお前のものだ。俺はそれに一切口出ししない。否定もしない」
オルハウストを睨み、令は宣言する。
「―――だから、この感情も俺のものだ。だれが否定しようと関係ない。それが世間に言わせれば、どれだけ非道なことだろうとも」
あまりにも身勝手な物言い。
他人のことなど歯牙にもかけない、独裁者の宣言。
だが、そこに『温かみ』を感じるのはなぜだろうか。
オルハウストは、その温かさにもう言葉が続かなかった。
誰も言葉を発しない。
苦い顔。
明るい顔をするものは、誰もいない。
自分に惑い、言葉を告げれない。
「……それなのに、どうしてかな」
内を曝け出すのは、愚かであるから。
「どうしてこんなにも、不愉快なのかな」
それをためらわずできるのは、この場に一人だけ。
「俺は自分のしたいことをしたいようにしたはずなのに、それしかできないはずなのに、どうしてこんなにも不愉快なのかな」
令は大きく溜息を吐く。
「いい加減にしてくれよ。分からず屋どもが」
泣き出しそうな、揺れに揺れる声。
「なんだ。なんなんだ。お前らはどうしてそんなに望んで『立場』に縛られる。『戦士』。『娘』。『王女』。『子供』。『四剣』。だれもかれもが、あいつを『個』として見ていない。頭で分かっていて感情も認めてるのに、誰もそれを認めない」
溜めに溜めて、今にも破裂しそうなほど何かを籠める。
「戦えることにあいつの望みを捻じ曲げるほどの価値が有るのか。『親』に自分を見て欲しくはなかったのか。『王女』の色眼鏡を外してみてやったことはあるのか。都合のいい時だけ『子供』扱いをしていなかったのか。『四剣』ほどに強いからと弱さに目を向けなかったのか」
激したりはしない。荒ぶりもしない。
「お前たちは、あいつは、見て。考えて。行動して。感動して。笑う。そんな『人間』じゃないのか。『立場』がなんだ。『他人のため』。『国民のため』。そうして自分を殺して。他人を理由にして。一体どれだけあいつと、自分を傷つけてきた」
ただ、感情をぶつける。
「貴様らは、どうしてそんなにも『自分』を見失える」
令は震える声で吐き捨てるとガイアスを睨み付ける。
ガイアスは、その眼を直視できなかった。
「ガイアス。確かに『王』と『人』は相容れない。だがな、お前が王である以前に人間であることすら見失ったら―――今度は妻だけじゃない。すべてを失うぞ」
令は見放すように踵を返す。
「『王』は、孤高であっても孤独には成れない」
令は歩いていく。この場を終わらせるために。
「……すまん」
ガイアスの呟きが、風に溶ける。
「それを俺に言う時点で、貴方は間違ってるよ」
そして、一度も振り返らず、その背は見えなくなった。
「……それでも、すまん」
ガイアスは顔を伏せる。
ただただ、申し訳なかった。
男に自分の不甲斐なさを押し付ける形になったことが。
娘に要らぬ責苦を負わせてしまったことが。
―――男の『人間』としての心を傷つける形になってしまったことが。
「すまん……」
自身の情けなさに蝕まれながら、呟き続けるしかなかった。
『王』である以前に、ただ一人の『人』として。
音が響く。
水を満たしたボールを地面に叩きつけるような音が。何度も。何度も。
夕暮れであることを差し引いても薄暗い路地裏に。何度も。何度も。
その大元で、男は頭を壁に叩きつけ続ける。
堅牢な石造りの、明らかに戦を想定した壁がひび割れても。
額が割れ、胸元まで血塗られても。
―――不快。不快。不快。不快。不快。
激痛で思考を上書きしても。
血鉄の味と香りで満たし、感覚を塗りつくしても。
―――不快。不快。不快。不快。不快。
ただ不快。
視界に映る物。五感が伝える感覚。己の内に芽生える感情。
己を取り巻く何もかもが、彼に不快感を献上し続ける。
「馬鹿どもが」
吐き捨てるのは悲嘆。
どうしてああも自分を歪める。
どうして自分の嫌なことを続ける。
どうして自分よりも他人を気に掛ける。
「馬鹿が」
吐き捨てるのは哀惜。
どうして素晴らしい『夢』がありながらそれを諦める。
どうして『守る』ことが出来るのにそれを捻じ曲げる。
どうして『親』が居るのに『過去』に縛られる。
「この……馬鹿が……」
吐き捨てるのは悔恨。
思い出すのは、すべてを折られた表情。
どうしてあんな顔をさせた。
どうしてこんな思いをしている。
自分の感情に従ったはずなのに、それが自分を苦しめる。
意識と行動の乖離。知行の不合一。
行為を責める『自分』が居て、それを肯定する<自分>が居る。
行為を褒める<自分>が居て、それを否定する『自分』がいる。
誰に否定されようとも構わない。気にするのはただ一つ。自分の想い。
故に、自身に芽生えた不和は、彼を他の何よりも苦しめる。
何故。
どうして。
「……くそっ」
自身が無意識に、『だれか』を探そうとすることに気付き、毒づく。
「この……!」
こんな時、諌めてくれた人はもう彼のそばにはいない。
このようなときに、未だに縋ろうとする自分を感じ、それがまた不快感を煽る。
何度も呼吸を意識し、整える。
「まだだ。まだ何も終わっていない」
自分に言い聞かせる。
人がいる。
国がある。
親もいる。
有形無形。ありとあらゆる<想い>の山がある。
「まだ、どうとでもなる。あいつも、この国も」
だから、まだやり直せる。
そして、そのためならば何でもしよう。
「どんな手を、使ってでも」
この不快感を、消せるのならば。
だから、そのための行動を示す。
『―――こんばんは』
そして、出端をくじかれる。
鈴を転がしたような美声。
そういえば、と。彼女からの通信は防犯の都合上、こちらからの応答を待たず流れ込むように設定していたことを思い出す。
「何ですかセリア殿。私を置いてとっとと立ち去っておきながら」
『ええ。ちょっと言っておかなければならないことを忘れていまして』
明らかに友好的な声音ではないが、通話先の相手は何の躊躇いもない。
「一体貴女はいつ抜け出したんですか。こちらの情報を勝手に引き渡してくれて」
『あら。別に構わないでしょう。と言うよりも、あのほうが貴方としても助かったはずです。余計なひと手間をかける必要がなくなったのですから。とまあ、私は決着が明確になったあたり。具体的には紅い翼を出した辺りにお暇させていただきました』
舌打ちを漏らしそうになる。
別に、隔意があるわけではない。
だが、今のささくれだった彼には、自身の考えを見透かされていたことがまた、不快に感じられた。
令の考えは、フレイナにはじめにどうやって攻めさせるかが問題となっていた。
挑発するなりなんなり、手は様々あったのだが、それでもその手間が省けたのは、正直にありがたかった。
『私、今買い物に行ってるんです。結構良さそうなお肉が有ったので、結構ご機嫌なんですよ』
自分が戦っている中で、何をしていたんだこの女は。
令は段々と、ふつふつとした怒りを覚え始めていた。
―――不快感が、少しだけなりをひそめるくらいには。
『それで、私の言いたいことなんですが』
コホン、という咳払いの音。
『これからしようとしていることのあくどさは理解してますが、そうすることの意味も分かっています。ただ、私はそれにちょっと耐えられそうもないので、こうして離脱させていただきました。私は、貴方の行動を否定しません。そして、肯定もしません』
ああもう何でも言ってくれ。
そう内心で諦めのような感覚に陥る令。
『―――ですから。帰ってきてくださいね』
思わず、息を呑む。
『今日の夕食は、私が作っておきます。ちょっと豪華に行きますから、早く帰ってこないと私一人で食べてしまいますよ』
ああ、この感覚は知っている。
彼は、こういう返しを、以前されたことがある。
「……太りますよ」
『美味しいものは別腹です』
この返しも。
だから、その時のまま返してみる。
「その超常現象は、女性の、しかも甘いもの限定だと思っていたのですが」
『知らないんですか? 女の子には秘密がたくさんあるんです』
ああ、『女の子』を『人間』に変えれば、あの時のままだ。
『ですから、ご無事で』
通信が切れる。
ですから。何がだ。前後で何も意味が繋がっていないではないか。
「そんなところまで、『師匠』と同じか」
額と目の前を汚す血をふき取る。
そして、気付いた。
道理でまるでこちらの常態を見透かしたかのような物言いをしてくるわけだ。
そんなことにも気づかないほど追い詰められていた自身に、また不快を覚える。
「私は、貴女が嫌いだ」
だが、先ほどまでとは種類が違う。
「もう居なくなった、『師匠』を思い出させる、貴女が」
令は歩く。
その足取りは、この場への時よりも、ほんの微かに軽かった。
「―――ええ。私も嫌いですよ。貴方のことが」
壁を背にし、右手に食べ物の入った籠をぶら下げて、空いた手で札を弄ぶ。
「だれよりも優しい癖に、それを頑なに認めようとしないんですから」
遠ざかっていく足音に、聞こえないように独り言ちる。
目を瞑り、震える身体を抑える。
恐怖ではない。
いくら目的があっても、あんな人の心情を抉る行為をしていることの後ろめたさ。
「ああ、なんて不快」
その人の言葉を借りて、吐き捨てる。
こんな思いを、あの男は続けている。
誰に恨まれても、蔑まれても、嗤って哂って笑って受け流す。そのことをおくびにも出さない。
「なんて、愚かで、哀れで、優しいひと。―――どう思いますか。お爺様」
『少し、訂正があるな』
一人の言葉だけが響いていた中に、新たな声が加わる。
彼女の腰に巻かれた帯に縫い付けられた、通信符。
もしもの時、彼女の危機を即座にディックを経由し令へと連絡を渡すための措置。
『あ奴は別に、優しいわけではない。そうすることしかできないだけだ』
「というと?」
孫娘の問いかけに、ディックは暫し黙り、厳かに告げる。
「あいつには『個』があっても『我』がない」
「―――なるほど」
それだけで、納得してしまうセフィリア。
「でも、それはつまり、ある意味では私の『優しい』という考えもあっているということではないですか?」
再度、ディックは黙る。
『……本当に、大きくなったものだ』
隠しようのない、嬉しさと懐かしさを籠めて、ディックは感嘆する。
口許に手を当てて、セフィリアは笑う。
「では、ご褒美をいただけませんか。お爺様」
『褒美?』
「ええ」
難度か深呼吸をする。
彼女がこれから口にしようとしているのは、一つの禁句。
今まで、何度聞いてもはぐらかされてきたこと。
「次に会ったとき、すべてを教えてください。父のことを。どうしてガルディオル様がお爺様を知っていらしたかについても」
息を呑む音。
次いで、沈黙する。
一体どれだけそうしていたか。
セフィリアの口の中が、緊張で乾ききったとき、札が答える。
「約束しよう。『セラフィリアス』」
「それが、私の本当の名前ですか?」
「正しくもあり、間違いでもある。お前の両親は、あいつらはお前にただのセフィリアとして生きて欲しいと願いその名で呼んだことは一度もなかったからな。好きな方を選べ」
セフィリア――セラフィリアスは、目を閉じ、胸に手を当てる。
「では、セフィリアで」
そして、笑顔で告げる。
『ほう。なぜだ』
面白そうに震える祖父に、セフィリアは明るく、覚悟の籠った声を出す。
「あの人は、私をセフィリアとしてしか知りませんから」
笑顔で、軽く舌を出しながら。
札の向こうで、大きく笑う声が響く。
と、そこに聞き覚えのある、ディックを心配する声が耳に入る。
凛とした、声だけでその人の端麗さがうかがえる美声。
「……お爺様。どうして彼女が貴女の近くに居るのですか」
『ん? ああ、ちょっと気まぐれでな。いろいろと教え込んでいる』
自分が孫娘にジトメをさせている自覚がないのか、ディックの声に変化はない。
それで自分の考えるようなことには成っていないのだと察すると、セフィリアは気を取り直す。
「では、私も忙しいので。これで失礼しますね」
『なんだ、急いでるのか』
「ええ」
セフィリアは、通信を切る刹那に、相手に伝える。
「もし間に合わなかったら、後悔するくらいの食事を用意しなければなりませんから」
片手に籠を持ち。片手にこれから買うものを指折り数えながら。
綺麗な、青い髪を靡かせ、彼女は歩いていく。
自身とは反対の、紅い夕日の中を。




