70話 『悪魔降臨』
ほんの微かに。
『それ』は、己の身に違和感を感じ取る。
深い眠りの中でも感じ取れるそれは、実際は凄まじい激しさなのであろう。
だが、『それ』には関係のないこと。
だから、いつまでも眠り続ける。
―――未だ、『契約』が成る気配はない。
自身へ疾駆する影を令は両手にナイフを持ち見据える。
迅い。
素直にそう思う。
二度切りかかられたガイアスの動きと、なんら遜色がない。
髪がなびく紅い軌跡に目を取られながら、神経系を強化した反応速度で令は身体を半身に逸らし、迎撃の構えをとる。
ガイアスの半分に満たない年齢でそこまで達しているのは賞賛すべきことだが、言ってしまえばそれだけ。いくら速くともそれはまだ経験したことのある速さでしかない。
―――剣が振られる。
無駄のない身体の動作と、剣という武器の切れ味を最大に発揮する理想的な振り。
まるで名匠が描いた絵画のような、美しくすらあるその一撃。
令は右手に持ったナイフでそれを受け止める。
絵画のような、理想的な一撃。
それはつまり、誰もが思い浮かべるような教本通りのものでもある。
故に、それに身体が付いて来さえすれば、受けることは容易い。
フレイナは剣、神器を両手で持ち、令はナイフ、<クラウンズ>の一つを片手で扱う。
永く受けていれば押し切られる。
だから、令は即座に左手にもう一振りのナイフを取り出す。
それにより返撃を仕掛ける。
いま、フレイナの剣は令のナイフで受けているために、迎撃には用いれない。
令の一撃を阻むものはない。
その銀閃は、過たずフレイナの胸へと向かう。
そして、大きく吹き飛ばされた。
―――攻撃を仕掛けた筈の、令のほうが。
「うっはあ! 相変わらずすげえなあれ。速さだけならもう完全に超えられてんなあ親父殿?」
「そうだな。というよりも、あいつはその点ひとつのみをとればデルト歴代の勇士でも頂点にたてるだろうよ。……ってだれが親父だ」
「いいじゃねえの。お前はこの全員の父親みてえなものだろ。王ってのはそんなものだ」
「幼馴染とはいえ、仮にも大国の王をそこらのありふれた愚物と同列視するのはやめろザルツ」
「その王を散々餓鬼呼ばわりしてる爺さんに言われても説得力皆無だな」
「俺はいいのだ。貴様らよりも数段強いのだからな」
「……年寄は思い出補正が強くていかんね。あんたが英雄だったのは何十年前の話だよ。しかも、その英雄譚って最後は敵に負けたところで終わってるくせに」
「……野生児に近い男だとは思っていたが、まさか歴史書を読む教養すらないとはな。あれは引き分けだ」
「勝てなかったら負けも同じじゃねえか。接近能力皆無な魔導士相手なら」
「……おい。それは、あいつを侮辱しているのか?」
「そこまでですガルディオル様、ザルツ。話がどんどん脱線してもう最初の原型をとどめていませんよ」
「そうです。ガルディオル殿、<レーデハルト>から手をお放しください。ザルツ殿も熱くなりやすい癖をこんなところで発揮しないでいただきたい。今の我々は傍観者です。この件に賛成しておきながら文字通りすべてを吹き飛ばすおつもりですか」
なにやら非常に興味深く、そしてこの上なく物騒な会話の数々も、茫然と闘技場に目を向けるセフィリアには届いていなかった。
彼女たちが今居るのは、闘技場に無数に存在する観覧席の一角。
そこで渦中のふたりをみていたのだが。
「あの……今何が起きたのですか?」
セフィリアにしてみれば、今の現象は全く理解できないものだった。
二人が鍔迫り合いをし、令が追撃しようとしているところまでは分かった。
どちらも何とか彼女が捉えられる速さだったが、そこは理解ができた。
だが、次の瞬間、令が凄まじい勢いで吹き飛んでいるのはまったく意味が分からない。
フレイナは手を出せる状態ではなかったし、あの令がそうやすやすと先手を打たれるというのも考えにくい。
「んあ? 姉ちゃんは分からなかったんか?」
ザルツが不思議そうな目をセフィリアへ向けると、彼女はうなづく。
内心で、分かって当然のような空気になにか居心地の悪いものを感じた。
「ザルツ殿。彼女の反応は至極当然です。我々の判断基準で語らないでください」
そんなザルツを、オルハウストが諌める。
そしてセフィリアに解説を加える。
「殿下がやったことは簡単に言えば、『彼の後ろに回ってぶん殴った』です」
「……はい?」
セフィリアの顔が引きつる。
確かに簡単と言えば簡単だった。
この上なく分かりやすい。
だが、分かりやすいからこそ、分からない。
その行為が、どれだけ難しいことか理解できるために。
令は、異常なほど周囲の気配に敏感だ。
例を挙げると、一度、セフィリアはある悪戯をしかけたことがある。
椅子の上でうたた寝をしていた彼に、椅子を思いっきり引いて落とすというもの。
まるで子供だと言うなかれ。彼女は冷静な判断ができなくなっていたのだ。
今思えば、どうしてそんな自ら死刑執行書にサインをするような真似をしたのか分からない。
簡単に言えば、魔が差したのだ。
結論だけ言うと、まず行動にすら起こすことができなかった。
後ろに立つとかそれ以前に、それなりに離れたところで、良しやってやる、そう決心した瞬間に彼の意識が急覚醒し、こちらに笑顔を向けられた。
そして、まだ行動していないというのに弁明すらさせてもらえず、『世にも奇妙な体験』をさせられた。
『不思議』でも『嫌』でもなく、『奇妙』である。
彼女はその後、二度と一時の気の迷いに左右されないことを誓った。
つまり何が言いたいのかと言うと、それだけ鋭い人間がやすやすと後ろを取られるはずがないのだ。
「まあそう不思議に思うのももっともだが。そもそも恐らくあいつしか実践できんことだろうな」
複雑そうな顔でガイアスはそう独り言ちる。
自分の思考はそんなに分かりやすいのかと文句を言いたくなるのをなんとか抑える。
「彼女だけ?」
「あいつは、とにかく速い。その一点のみならば俺たち全員をはるかに上回るほどにな」
通常、戦いにおいて最も重要になりうる要素の一つ、速さ。
相手よりも速く反応する。
相手よりも速く身体を動かす。
相手よりも速く―――斬る。
速いというだけで、その一点のみでも誰よりも優れているというだけで、相手はただの木偶と成り果てる。
「しかも、その速さを生かす足運びも天性のものを持っていてな。普通なら不可能な動きを可能にする」
だからこそ、あのような芸当が可能になった。
令に剣を抑えられ、鍔迫り合いに持ち込まれるとフレイナは身体を回し、令の後ろを取った。
剣を抑える力、足の運び、膝の屈伸と全身の円運動。すべてが絶妙な力の配分を要求され、失敗してしまえば即座に均衡が崩壊し、危機に陥るそれを、彼女はこともなげにやってのけた。
「天才、なのだろうな。やはり」
なんと陳腐な言葉だと、彼は苦笑する。
だが、それ以外に表しようがないのだ。
持って生まれたものと、持たずに生まれたもの。
残酷なまでに、無慈悲な現実を突きつける、たった二文字の単語。
『才能』。
有すれば大成を約束され、無ければ諦めの道を示される、人の手にはどうしようもないコト。
「……とはいえ、有ることが必ずしもいいコトではないのだろうがな」
そう独り言ちるその顔は『苦い』。
決して、娘の才を喜んでいるようには見えない。
「しかしまあ、今日は随分と攻撃的だな。いつもなら初めは様子見をしてからかかるものなのだが」
だがその表情は直ぐに疑問に塗り替わる。
フレイナはじゃじゃ馬と称される気質の持ち主ではあるが、決して思慮浅くはない。
むしろ、何もかもを考えすぎてしまう故に、ああなっているとも言える。
そんな彼女は戦いに際して、まず探ることから始めることが多い。
じっと耐えて相手の出方を観察し、自分のできることを探していく。
そうして自分の力が及ぶ範囲を見極め、過激な手で、冷静に考えて動く。
「お、立ったな」
吹き飛ばされた令が立ち上がり首を鳴らしている。
見た目ではそれほどの傷を負ってはなさそうだ。
とはいえ、あれだけ派手に飛べば脳が揺れてまともに動けないかもしれない。
そんな令に、彼の娘は走る。
直ぐに剣戟の音が鳴る。
一〇合。五〇合。一〇〇を超えた。
常人であれば、目で負うことも難しい動き。
両者の得物が煌めき、二人の姿を覆う。
まるで銀色の風の中で動き回っているかのような、暴力的でありながら美しい光景。
どれほど経っただろうか。おそらくは分にも満たない時間ののち、そこから弾き飛ばされる身体。
令は飛ばされながらも、身体を翻し着地する。
二度吹き飛ばされながらも、その身のこなしは見事なものだった。
しかし均衡した状態から吹き飛ばされるという事実が、それがどちらが優勢かを何よりも雄弁に語っている。
体勢を調え切る前に、その劣勢な令の眼前にフレイナが『出現』した。
本当に速い。
ともすれば、見慣れているはずの彼ですら見失いそうになる。
見慣れていない令からすれば、おそらく瞬間移動を繰り返しているようにしか見えないだろう。
フレイナは怒涛の勢いで剣を打ち付け続ける。
まるで眼前の存在が、積年の怨敵かのように絶え間なく、只管に。
「どうしたんだあの馬鹿娘」
普段とはあまりに違う、攻撃的過ぎるそのさまに、ガイアスは眉をひそめる。
今の現状からして、その手法は間違ったものではないのだろうが、その様子に不安を抱かずにはいられない。
―――彼は気づかない。
彼の後ろの女性が『計画通り』とでも言うような黒い笑みを浮かべていたことを。
そして、事情を知る者たちが、彼女の横顔を盗み見て冷や汗を流していることを。
ある意味、この状況の生みの親とも言うべき女性は、その笑みを終えると静かに事の趨勢を見守る。
少し目を離した隙に、事態はさらに進行していた。
依然切り結んでいるが、合間合間に彼女の目が何とか捉えるその姿は対照的だった。
片やその衣服を擦切らせ、片や汚れ一つない。
このまま続けば、間違いなく彼は負けることだろう。
「……なあ、ガイアス。俺の勘違いかね」
「……おそらくだが、今お前が考えてることは間違っていないだろうよ。信じがたいことだがな」
何かに気が付き、怪訝な反応をし始める彼らに、彼女の思考はどこか冷める。
信じがたいものを見るような、信じたくないものを見ているような反応。
それも仕方ないと思う。
彼らが気が付いたそれは、最も多く彼の戦いを見る機会に恵まれた彼女でも気が付けたのだ、彼らが気が付かないはずがない。
一度、深呼吸をして、セフィリアは今の状況を鑑みる。
彼らが気づいたある事実。彼が抱える欠点。そして現在の傷ついた身体。
今の彼が、フレイナに勝る要素は何一つない。
それでも、セフィリアは確信を抱く。
「……在りえませんね」
―――彼が斃れるところが、欠片も想像ができなかった。
彼女がセフィリアから受けたもう一つの助言は、実に単純だった。
曰く。『どうなっても何が何でも攻め続けてください』。
自分の本来の戦い方を完全に無視しろと言っているそれを、フレイナは実行している。
仮にそれでうまくいかなかったとしても、注意し続けていれば挽回不可能な事態にはならない。そして事実、一つ目の助言はぴたりと当たっていたことから、フレイナはそれを試してみた。
その結果がこの現状。
完全に今の自分は、相手を上回っている。
自身は一つも攻撃を受けず、相手が一方的に傷ついている。
とはいえ、彼女の中には疑念が渦巻く。
今も得物をぶつけ合う目の前の男を見やる。
「ねえ。あんた、手を抜いてない?」
攻撃の手を緩めないまま、その疑問をぶつけてみる。
相手は自分が劣勢でも、相変わらず真意のしれない薄い笑みを消さない。
「ふむ。どうしてそう思う?」
手を抜いている。
目の前の男に彼女はそう思う。
「どうしてって……ふざけてるの?」
声音に、微かに怒りの色が籠る。
そのまま繰り出した両手持ちの斬撃を、令は振り下ろされる剣の横腹にナイフの二連撃を加え弾く。
それをフレイナは弾かれた勢いを利用し、ぐるりと全身を回して先ほどと逆側に遠心力を加えた一撃を見舞う。
両手に持ったナイフを使うことでなんとか逸らせた斬撃を超える一撃。
令は受けるも、衝撃で僅かに体勢を崩す。
その隙を見逃さず、フレイナは脚に力を籠め、<飛燕>を行使する。
唐突に自らの背後に出現したフレイナに、令は反応しきれない。
そのままフレイナは剣を振り下ろす。
奇妙な抵抗を感じたが、それは一瞬で『喰い』破る。
血飛沫が舞う。
右の肩口を切り裂かれつつも、令は慌てることなく身体を回し、フレイナと向き合う。
とうとうまともな一撃が入った。
今までは剣戟の合間を突いた拳撃や蹴撃だったが、今回入ったのは刃。彼女が最も得意とするもの。
奇をてらったものだけでなく、彼が最大に警戒しているものすら入る。
それは、彼女の動きに令がついてこれなくなっていることを意味する。
「ふざけてるねえ。全く何のことやら」
血を左手で掬いながらも静かに構えを直す。
その言葉にしかしフレイナは、目を細める。
「……ふうん。本当に手は抜いてないのね」
本当に微かに、令の笑みが強張った。
注視していたフレイナはそれを見逃さない。
「あら。本当に合ってたのね。自分でも自信がなかったのだけれど」
鎌をかけられたことを察した令が舌打ちをする音が聞こえた。
初めて、目の前の男に対し痛いところをついた手ごたえを覚えた。
「<闘気と魔力の同時不究の大原則>って分かるかしら。それを基にして考えてたことがあるんだけど」
令の笑みが、初めて消えた。
彼女は攻めを崩さない。
微かに令の眉が上がる。
<闘気と魔力の同時不究の大原則>。
原則とあるが、その実、この世界での常識といったほうが適しているかもしれない。
これが意味することは簡単。
つまり、『闘気と魔力は双方を究めることはできない』ということ。
闘気と魔力はその源泉が全く違う。
生命力と精神力。
身体と心。
物理と心理。
その両方を極めようとするのは、極めて非効率で、時間がかかる愚行だ。
そして、結果的に出来上がるのも器用貧乏で同世代で比較すれば圧倒的に劣る存在に成り果てる。
闘気を究めるものには暴力で薙ぎ払われ、魔法を究めるものには火力で消し飛ばされる。
この世界の人々が、闘気と魔法のどちらか一方しか身に付けないのは、そういう背景がある。
人がその二大技能を確認してより今まで、すべての時間で育まれてきた常識。
だが、それを脅かす者が現れた。
魔法で地形を消し飛ばし、闘気で一国の最高戦力とも渡り合える、そんな化け物が。
「ほんと。恐ろしいとかそんな言葉じゃ言い尽くせないくらいの衝撃だったわよ。それを見たときは」
当時の心境を思い出してか、フレイナの顔が微かに強張る。
自分には抵抗できない相手、相対したときに消されるしかないほどの圧倒的な力。
根源的な恐怖を呼び起こすには十分なほどに。
だが、彼女は強気に笑うと隙をついて令の腹へと膝をたたきつける。
令は右手のナイフでフレイナの剣を抑えつつ、左手でそれを受け止める。
左に持っていたナイフは、持っていてはその重みで動きが鈍り抑えが間に合わないため、地面に硬質な音を立てて転がる。
「でも、そんな都合のいい話がそうそうあるわけがない」
その瞬間、フレイナは剣から手を放す。
一瞬だけの無手。無防備に晒される優美な肢体。
驚きからか令の動きが僅かに固まる。
その刹那、フレイナは残った脚一本を地が割れるほど強化して踏み抜き、体当たりをかました。
抉りこむような肩を無防備に鳩尾に受け、たまらず令は後退する。
セフィリアが最も得意なのは、剣をつかう斬撃。
だが、それだけではない。
相手に損傷を与えられる身体すべて。それを存分に、ある意味で機械的ともいえるほど他者を降すことに腐心する、その動きすべてが彼女の武器。
せき込む相手に剣を構えながら、フレイナは呼吸を整える。
ここまでずっと、通常では考えられないほどの勢いを維持していた。
攻め続けることが大事だったとはいえ、いくら彼女とはいえど、無酸素運動をここまで続けては体力が続かない。
だからここで、一度落ち着かせる。
こうしていては、相手も回復することになるが、最後に鳩尾に一撃を与え呼吸器に衝撃を与えたので、その速度は彼女よりも遅れるはず。
「そう、考えてみれば分かることだった」
その間すら、彼女は無駄にするつもりはない。
この間に言いたいことを言う。
身体的だけではなく、精神的にも相手の優位に立つために。
「あんたが、『守り』を完全に捨てて、その力を得ていることくらい」
攻めと守り。
戦う力を求めれば、この二つを等分に伸ばしていくことは避けられない。
天秤の偏りがある程度であれば問題ない。
だが、一方が他方を大きく上回った場合に引き起こされるのは惨劇しかない。
初めて疑いを抱いたのは、オルハウストの弾雨を浴びた後の令の姿だった。
全身血塗れの穴だらけ。かろうじて急所のみが何とか残っているだけの身体。
あの時はその凄惨な様に気圧されて、しかもその傷を『予定通り』と言い次の魔法に応用する異常な在り方に、何も言えなかった。
だが、そもそも、何故傷を負う必要があったのか。
魔法が使えるならば、嵐を巻き起こすでも、鉄壁を創りだすでもいい。それで防げばいいではないか。
それだけならば、まだ発動が間に合わなかったとも考えられた。
だが疑念が強まることがさらに続く。
令は、彼女たちに囲まれた状況の打破のために彼女らの脚を封じた。
だが、何故そんなことをわざわざする必要があった。
その時も、魔法で何らかの防衛策を引き起こせば良かったではないか。
足を縛る程度では、彼ら<四剣>の行動を制限することはできても、止めることはできない。
ならば、確実に自身の身を守る手段をとった方が効率がいいはずだ。
普通ならば、偶然で片付けてもいいだろう。
だが、悪魔的な頭脳と緻密な計算により、ことごとくこちらの予想を覆してきた男が、そんなことをするだろうか。
それを彼女は考え、そして答えを出した。
それは今の戦いを見て、確信へと変わった。
つまり。
しなかったのではなく、出来なかったのだ。
通常、均等あるいはある程度同等に積み上げていく『攻め』と『守り』の技能。どちらかを極めるべき闘気と魔法。
それを令は、闘気と魔法、その二つの『攻め』の面のみを特化させるという手で、異常なまでの攻撃性を手に入れた。
だが、その反面、自らが守勢に回ってしまえば驚くほど脆い一面を持つこととなる。
一応、最低限の防護策は用意してはいるのだろう。剣を打ち付けるたびに手に加わる抵抗。何かは彼女には知る由もないが、その強度はなかなかのもので、大半の戦士や魔獣には破ることはできないように思える。
だが、その程度のものなど、彼らにとっては紙切れ程の障害にもなりはしない。
彼らから見ても脅威にしか思えない暴力を誇るも、それを守る力はそれに比すれば全く見合わない卑小なもの。
攻守の釣り合いが取れないということは、それだけで致命的と言える。
肥大化した攻めの力は、自身の身の程をわきまえない特攻を生み身を滅ぼす。
偏重した守りの力は、相手への対抗処断を削ぎ取りただ無残に嬲られ続けるだけの木偶とする。
調和を乱した力は、最後には持ち主を殺すしかないのだ。
「ふむ。成程ね」
フレイナに令は咽ながらそれだけ返すと、静かに彼女を見据える。
手や足を動かしたりはしない。
少しでも動けば、フレイナが話を切り上げると分かっているからだろう。
フレイナは、令が何もないところから魔法を使うことはできないと知っている。
魔方陣なり、補助兵装なり、必ず何なんらかの『基』が必要なのだ。
だから、わずかな不審な動きも見逃すつもりはない。
フレイナは気を抜かず、令の全身を観察する。
指の動き一つでさえ、この男相手であれば脅威になりえるかもしれない。
こちらの息が整いきり、相手がまだ回復仕切らない刹那の時を待つ。
言葉の攻めを崩さずに。
「私は、あんたのその態度もその辺が理由だと思ってるんだけど。どうなのかしら」
考えてみれば、令が見せる余裕と強気な態度は、ある種の防衛本能なのかもしれない。
攻めしか知らない彼は、守りを知らない。
それがゆえに、相手との交渉の場でも、相手を圧倒するしか手がないのではないか、そう彼女は睨んでいる。
一度相手に主導権を握らせてしまえば、もうそれを打開する術を知らない。だから彼は、あらゆる手を尽くして、相手を『攻め』て圧倒するしかないのではないか、と。
令の攻勢の凄まじさは逆に相手の危機感を呼び覚まし、反射的に身を守ろうとする。
そのために、令の抱える脆さは今まで面に出てくることがなかった。
それを令は、すべて計算して行っていたのだろう。
巧みに相手の心理を誘導し、これまで自身の欠点を誰にも気付かせなかった。尋常ではない。
今までの令の行動を鑑みても、この考えは矛盾していないように思える。
「おめでとう。大正解だ」
そして、肯定した。
フレイナに、令は態度も軽く声を掛ける。
「ねえ『おひめさま』。お前は『守る』っていうのがなんなのか分かるかい」
「何よいきなり」
突然の質問に、フレイナは訝しみながら答える。
「そんなの分からない方がおかしいじゃない」
非常に概念的なもので、理論立てて説明しろと言われれば悩むところだが、分かるかと聞かれれば答えは一つしかない。
ましてや、フレイナは王女としての教育としてその手のものは耳に胼胝ができるほど言われ続けてきている。民を守れ、国を守れと。
「そうなのか。俺には検討もつかない」
そんな彼女とは正反対な返答が飛んでくる。
思わず、目の前の男を凝視してしまう。
「本当に、なんでだろうね。俺はさ、『守る』っていうのが何なのか全く分からない。だから身を守る魔法は使えないし、唯一の防衛策の障壁も、ただ『壁』を創るという考えをもとにしてる」
魔法は術者の魔力、心を起源としている。
そのために。本人が分からないこと、考えられないことは、魔法とならない。
唯一の防衛策も、『守る』ことなど考えず、相手の攻撃を『潰す』ための壁。攻撃のための考えを基にしている。
つまり。
「俺はね、『守る』ってことをしないんじゃない。できないんだよ」
『守る』というものについて、欠片も理解ができないが故に、その行動はとることができない。
ただ、それだけのこと。
「狂ってるわね。あんた」
彼女からすれば、そのあり方には嫌悪しか沸かない。
彼女の信じる力は、何かを守るために存在する。
力を使い、弱いものを救う。
なのに、目の前の男はその前提そのものが崩壊している。
『守る』ことを知らない男が、その力を揮う先は、一つしかない。
他者への攻撃。破壊。殲滅。
そんな男のことを、認められるわけがない。
機が熟したとみたのか、これ以上の問答に耐えがたくなったのか。フレイナは令に切りかかる。
それを令は受け止めるが、その動きは先ほどまでよりも精彩を欠いている。
フレイナが剣を振るうごとに、令の手足に裂傷が走り、血が芽吹く。
その光景にすらも、フレイナは嫌悪を覚える。
この戦いをとおして、彼女は自分にないものを得られるのではないかと期待していた。
一人の人間を、短い時間で変えて見せ、こちらを手玉に取り続けた男。
そんな存在に対抗することで、自身をさらなる高みへと押し上げることができるのではないかと。
だが、蓋を開けてみたらどうだろう。
こちらの心は嫌悪に染まり、目の前の笑う男に対し怒りしか沸かない。
彼女が得られたのは、不快感と男のある事実。
―――令には、才能がない。
フレイナと令の力は、互角だった。
闘気を用い強化した上での、総合的な身体能力は、二人は完全に五分だったのだ。
<飛燕>という神速の移動術を体得しているフレイナではあるが、その速さを常時維持できるわけではなく、常の速さは令と比べ、上回ってはいるものの優位に立てるほどの差ではない。
はじめの何十と言える斬り合いの中で、フレイナはそのことを理解した。
であるのに、何故今彼女は優勢なのか。
それが先ほどの答え。令には、欠片も才能がない。
そもそも、互角の時点でおかしいのだ。令は、独自の理論に基づき、新たな闘気の運用法を確立している。
もし仮に、強化前の二人の素体が同格であるならば、令に軍配が上がって当然である。
なのに二人は互角。これが意味するものは、令の身体が、フレイナのそれと比べ格段に劣っていることを示している。
これは、フレイナが知らず、令のみが理解していることだが、令の身体を同量同質の闘気で強化したフレイナの身体と比べたとする。
その時、令の身体はフレイナと比べ、遥かに脆い。その強化効率は良くてフレイナの七割ほどしかないのだ。
これは、生まれの違いによる。
魔獣という脅威にさらされ続け、戦いの中で稀な力を示し王族にまでのし上がった英雄の末裔と、永い安寧のなかで平和に日々怯えることなく暮らしていた凡人の末席。
令の肉体は、そもそも闘気というものに対し慣れていないために、どうしてもその効率はこの世界のそれよりも下回ってしまうのだ。
令はそれを理解していたがために、自身のみの武器が必要だった。
その結果、必要にかられて生み出したのが闘気の高効率化。
それにより、令はようやくこの世界での最高位血統ともいえる王族とも渡り合えるまでになった。
だが、その結果。更なる残酷な事実が露呈することになる。
令には、才能がなかった。
剣の振り。足捌き。反射の速さ。ありとあらゆる面で凡庸。
その足りない面を、各身体器官を最善最良の選択で強化することで凌いでいた。
だがそれが、互角の相手であろうと、他が認める天才の前であるが故に裏目に出る。
才能があるというのは、乱暴に言ってしまえば異常に飲み込みが速いということ。
つまり、互角の鍔迫り合いをしては、相手はその中で成長し強くなってしまう。
令も同様に上達するかも知れないが、才能がない以上その速さが相手に勝ることはない。
力を得た結果が、戦う相手を強くするなど、皮肉という言葉でも言い尽くせない。
故に、彼は今、フレイナに追い込まれている。
それを理解しているからこそ、フレイナは先ほどよりも強くなってしまった今、男よりも力を得てしまった今、もう得るものなどないと結論を下す。
「―――とか考えてそうだなあ、小娘」
彼女の目に映る男の顔から笑みが消えた。
そして籠められた感情も。
愉悦から蔑みへと。
背筋を悪寒が奔る。
その場から今すぐ飛び退きたくて仕方がない。
だが、フレイナはそれを振り払うように剣を突き出す。
真っ直ぐ、相手の魂胆もろとも突き崩すために。
令は冷たい目でフレイナを見ている。
何も行動を起こそうとしない。回避も。迎撃も。
そして、フレイナの剣が深々と令の肉を抉る。
「な……!?」
フレイナの顔が、驚愕に染まり、一瞬動きが止まる。
いや、止められたというべきだろうか。
令は、あろうことか、フレイナの剣を身体で受け止めていた。
突き出された剣を、脇にはさみ、刃を両腕で直にかかえこみ、フレイナの手を掴んでいる。
当然その結果、令は腕を深く抉られ、脇の動脈が刃に千切られたことで大量の血が噴き出す。
「二つ、お前の勘違いを訂正してやる」
激痛を覚えているであろうに、令は相変わらず冷たい相貌で彼女を射抜く。
「俺が守らない理由は、『出来ない』から。『分からない』から。それともう一つ。―――その『必要がない』からだ」
「ぐっ……離せっ!」
フレイナは必死に剣を引こうとするが、尋常でない力で抱え込まれているために抜けない。わずかに刃が動き、令の出血が激しくなるだけ。
「『定向進化』って知っているか。不要なものを削り、一つの特定の分野のみに特化する進化のことだ。最も最たる例としては、馬が分かりやすいかな。あれの蹄って生物学的には中指が変化したものなんだよ。走ることに特化するために、中指意外の指を退化させ、さらに体型を風の抵抗が小さい形に変化させた。走る以外のことを捨てた結果があの姿だ。……っとまあ、これは今は直接は関係なかったな。……『今は』」
フレイナは令の話を、距離が近くなったところで無理やり聞かされる羽目になる。
ただの言葉。戯言。いつもこの男が言っている他愛のない雑音。
それが、なぜか彼女の心をひどくかき乱す。
まるで、子供の絶叫を耳元で聞かされるような、生理的な不快感を伴って。
不味い。
何が不味いかも分からず、とにかくマズイ。
思わず剣を手放して離れるべきか、本気で考えてしまうくらいに。
「もう一つ。才能がどうこうってことに結構拘ってるところ悪いんだが」
そして、それを聞いてしまう。
「―――<無才>もまた才能だよ。『おひめさま』」
端から聞いたら、なんでもないもの。
この世の大多数の人間は、そのことを効いたら疑問符を浮かべるか、もしくは失笑するだろう。
そんなある意味、敗者の負け惜しみのような言葉を受けて、だが、彼女の心を支配したのは、完全に正道の埒外の感情。
「そんなわけないじゃないッ!」
怒り。
今まで感じたことがないほどの、熱を帯びた叫び。
それに一番驚いたのは、叫んだ当人だった。
自分がどうしてそんな反応をしたのか分からず、茫然として動きが止まってしまう。
「アハハッ! ああ本当に、分かりやすい」
そんな彼女を見て、令は馬鹿にするように嗤った。
「そして。―――本当に不快だ」
「ッ……そんなことを言うなら、この状態をどうにかしたらどう?」
侮蔑と嫌悪がたっぷりとのせられた吐き捨てに、フレイナは逆に冷静になり、男へ挑発的な言葉を贈る。
事実、令の両手は剣を抑えるのに使われ、脚は剣を手放さないよう強く地を踏みしめているために、令は、文字通り『手も足も出ない』。
「ふむ。成程。確かに手も足もでない」
そんな状態でも、この男は余裕を崩さない。
「ならば、『舌を出す』としよう」
そういうと、ペロリと『舌を出した』。
まるで、子供があかんべをするような動作。
どう控えめに見ても、馬鹿にされているとしか思えない。
フレイナが額に青筋を浮かべ、力一杯罵倒を吐き出そうとする。
―――ペロリと、再び何かが出た。
その光景に、フレイナは一瞬、我を忘れる。
目の前をヒラヒラと落ちていく、紙のようなものを無意識に目で追う。
彼女の頭が疑問で埋め尽くされる。
今落ちたのははいったいなんだろう。
そして。
―――どうして、令の舌に魔方陣が描かれているのだろう。
「覚えておくといい。『偽』ることの神髄は、人を『騙す』ことにある」
フレイナの頭は、先ほどの答えを導き出す。
今落ちたのは何か。―――令の使う、姿を『偽装』するための魔法だ。
なぜ、令の舌に魔方陣が現れたのか。―――魔法で隠していたからだ。
「『la……ら……ラ……』」
それを理解し、行動に移す前に。令はフレイナの握っていた手を手繰り寄せ、フレイナを抱きしめられるほどの近くに引き寄せる。
「『宣言』」
『それ』は始まってしまう。
「っつ、ぁぁぁああああああっ!」
剣を取り返そうともがく。
だが抜けない。
「『私はなにも知らない。なにも感じない。かつてのそれらを彼方へ置いてきたために』」
令は歌う。
まるで歌を歌うように。
フレイナはその歌を止めようと腹に膝を叩き込む。
だが、近すぎるために威力が乗らない。止まらない。
「『だからなにをも望む。なにをも求める。私が知らないすべてを。私が感じるすべてを』」
令は謡う。
まるで童謡のように。
フレイナは剣を握っていなかった左手で鳩尾を狙う。
だが、それは不可視の障壁に阻まれる。止まらない。
「『そのために私はここにいる。……そのために俺は生きている』」
令は謳う。
まるで自分を誇示するように。
フレイナは動きを止めていた。
じっと、目を瞑り、呼吸を整える。
「『だから、それを阻むすべてのものを俺は許さない』」
令は詠う。
まるで覚悟を決めるように。
フレイナはまだ動かない。
「『それら一切を、一風のもとに狂わせよう。一閃のもとにうち壊そう』」
そして、フレイナが動いた。
「ッッぁぁぁああああああアアアアアッッ!!」
その場で地が割れるほど脚を踏みしめ、拳が割れんばかりに力を籠め、敵へと叩き込む。
どこを狙うかの時間すら惜しみ、時間をかけて練り上げた渾身の一撃を最速で繰り出す。
それは、今までの彼女の人生で最高と断言できる一打。
危機感に煽られ、この戦闘で上がった力量をも余さず籠められたそれは、確実に相手を貫き、その動きを止めさせる。
「―――『それが、己の誓う道』」
―――筈、だった。
相手の身体を吹き飛ばす刹那。フレイナの拳は、『紅い氷』に阻まれた。
いや、『紅い』というのは語弊があるかもしれない。
『それ』は、透明で透き通った氷の中に、細かい『血のように紅い』管が無数に張り巡らされていた。
まるで、生物の肉体を通る血管のように。
「……ああ、そういえば名乗りを上げていなかったな。こういう時はお互いに名乗りを上げるものだっけか」
フレイナは、目の前の現象が理解できず、呆けたようにその声の主を見る。
「俺は『向こう』でいろいろと異名を持っている。<道化師>、<戦争使い>、<国壊し>、<破滅を呼ぶもの>それはもういろいろとね」
令はフレイナの身体に手を触れると、労わるように優しく押した。
フレイナはそれに逆らう力もなく、後退する。
「その中で、最も的を射ていると俺自身思ってるものを使わせてもらおう。尤も、そう呼ばれてたのはこの力を得る前だったが」
彼女は、その言葉を他人事のように聞いていた。
それだけ、あるものに目を奪われていた。
「<狂い壊しの悪魔>。令だ。以後よろしく」
目の前の男は高らかに名乗りを上げた。
「《魔界》」
―――その背に、巨大な紅い翼を広げて。
裏タイトル―――『ラスボス爆誕』




