66話 現状把握
夕暮れを迎えた後。夜の帳が支配する前。日中とも宵ともとれない曖昧な世界。
なだらかな平原が、赤く染まった夕日に照らされどこか寂しさを感じさせる。
その中、剣戟の音が鳴り響く。
その音を生むのは二つの影。
片方は大剣を振りかぶり、それをまるで棒切れのように軽々と振り回す。戦士として理想的な、大柄で筋肉質、それでいながら無駄な筋肉のない細身の身体。その体格から繰り出されるその斬舞は一撃で相手の武器ごとたたき切ってしまいそうな威力を持ち、そして乱暴にみえてその実繊細な技巧により的確に相手を追う。
しかしそれに追われる者は小柄な体を生かして、全身を機敏に動かして躱し、レイピアでそらし、それを防ぐ。
レイピアのように細い刀身の剣では普通大剣のような威力の乗る一撃を受ければ折れてしまう。だが、この人物は一つの斬撃に両手に持ったレイピアを同時に当て、一本あたりにかかる衝撃を分散し、それを可能としている。
すでに三桁へ届こうかという回数それを成功させていることから、技量のほどが窺える。
そして、振りかぶり、振り下ろされた大剣を身体をそらして躱したところで、小柄な影が動いた。
身体を倒し、そのまま地に伏せそうなほど体勢を低くして、相手へと疾駆する。
髪が風になびき、銀色の残影を残すほどの速度。
そしてレイピアの本領、刺突を繰り出す。
元から並の剣と比べはるかに細い刀身から放たれるそれは、相手にとって非常に見にくく、そして得物の軽さゆえに鋭く迅い。
そこらの凡夫では、そのまま心臓を射抜かれるだろうそれを、大柄の影は右手に大剣を構え―――
「うわあ……」
―――残った左手で、弾いた。
素手で。
小柄な影は、気持ち悪いものを見てしまったかのような声を漏らした。
そしてそのまま、迫る左手一本での斬撃を後ろへ飛びのいて対処する。
両者の間に十分な距離が開いたところで、小柄な影は溜息を一つ漏らし、腰に二本の得物を差す。
「この『変体』」
そして罵倒。
「おい、兄に向ってその口ぶりはねえだろ」
大柄の存在、レオンは、乱れてしまった、目の前の小柄な少女と違った刃のような鋭い銀髪を直しながら文句を言う。
それに対し小柄の存在、ルルは月の光のようなどこか柔らかさがある銀髪を弄りながら、半眼を兄に向ける。
「『変な体』してるから『変体』と言うんです。素手で、しかも片手でこっちの渾身の一手をさばいて」
「家族に渾身の一撃なんか出してんじゃねえよ」
「大丈夫ですよ。どうせ喰らっても死なないですし。『変体』なんですから」
「俺の評価が非常に、それはもう非っ常に、気になるところだ」
「……ゴキブリ?」
「もう人間ですらねえ上に最高に不名誉な呼び名だなっ!」
親愛する自分の妹のまさかの評価に声を荒げるレオン。
微かに瞳に光るものが見えた気がする。
ひとしきり兄を弄って溜飲が下がったのか、ルルは微笑み浮かべる。
「冗談ですよ。……半分だけですけど」
「半分本気!?」
その笑顔に安堵しかけ、しかし名誉がいまだ毀損されている事実に叫びをあげてしまう兄。
その様子を見て、口に手を当てて妹は上品に笑う。
相変わらずの兄の仕草に、彼女は内心、少しだけ安心する。
「半分、ですよ。それだけの『変体』になって、以前の兄さんのままか正直不安でしたから」
「ん……」
ルルの言葉を受け、レオンは目を瞬かせ、自身の拳を見つめる。
「まあ確かにな」
令という規格外と出会い、教えられた諸々の技術、情報、心構え。
それは、彼らを大きく揺さぶることになった。
令の言葉から、それが大きな助けになることはわかっていた。
だが、ここまで変わるとは誰も思っていなかった。
ほんのひと月足らず前の彼らと比べ、あまりの違い。
そして彼らの中でも、レオンの変わりようは群を抜いていた。
令の講習に参加していなかったにも関わらず、彼はだれよりも早く、大きく伸びた。
まるで忘れていたものををとりもどすかのような異常極まる速さで。
はじめは彼は、それだけの力を得たことを素直に喜んだ。
だが、そのすぐあとに恐怖を覚えた。
ここまで簡単に変わってしまう。
あの男の指導を得、それに従ったことで、このところの成長は一九年かけた彼のそれをたやすく上回った。
力をつけれたことは、嬉しかったのだ。
だが、こう思ってしまった。
では、ここまでの自分の苦労は何だったのか。
汗水垂らし、素振りをし、身体を虐めてきた人生。
その意味は、果たしてあったのか。
それは、ある意味で当然の帰結。
誰だってそれまでの苦労を否定されてしまえば、無力感に苛まれる。
それを彼も味わった。
「別にそんなこと気にしてもしょうがねえよ」
しかし、彼はそれを克服した。
レオンの顔には、恐れも悲壮もない。
「確かに気にしても仕方ないことではありますよ。ですけど普通はそこまで容易く割り切れるものではないです」
ルルは、そんな兄に賞賛の念を送る。
自分はそこまで割り切れていない。
兄と同様に、数段の進化を果たし、それを活かせるようにもなりつつある。
だが、どうしても力に対する怯えは消えてくれない。
だから、それを為した自分の兄を、ひそかに羨み、尊敬していた。
「だって、めんどくせえじゃん」
この言葉を聞くまでは。
ビシリとルルの表情が固まる。
「考えてもどうしようもねえんだから、考えるだけ無駄無駄。だったらさっさとゴミ箱に捨てたほうが楽だろ」
レオンはそんな妹に気が付かず,
ずいぶんと乱暴に扱った自覚のある大剣に刃こぼれがないか確認をしている。
「……どこまでも兄さんは兄さんでしたね」
ルルは膨れ面で肩までの髪をかき上げ、一つ鼻を鳴らす。
「んあ? どうした?」
「なんでもありません」
レオンは妹の態度を不審に思うも、ルルはそっぽをむく。
その様子に鈍い兄は首を傾げるしかない。
と、足音が二人に近づき、同時にそちらを振り向く。
「……いったい何があったの?」
二人の様子を不信に思ったのか、その足音の主は、金糸のように煌めく髪を風から抑えながら、ルルへ問いかける。
「別にいつも通りバカがバカをやっただけの話です」
「あらそう。レオン、ほどほどにしないと愛想尽かされるわよ」
彼女、エルスはその一言で事情をすぐに察し、レオンへ声を掛ける。
「おい。なんで俺はこんなボロクソに言われなきゃならないんだ」
心底不思議そうなレオンに、女性陣は口をそろえる。
「「馬鹿だからでしょう?」」
「その何を当たり前のことをと言わんばかりの態度、やめてくれませんかねえ!」
「さてと、じゃあ戻りましょう。食事もできてるわ」
「そうですね。もうそろそろ夜もくれるでしょう。町の近くとはいえ魔獣が居ないわけではないですし、闇の中で襲われては面倒です」
「ちょ、おい、話はまだ終わってねえよ! 勝手に行くなっ!」
心外だとばかりに声を荒げるレオンだが、二人はそれに取り合うことなく歩を進める。
レオンはそれを慌てて追いかける。
「遠くから見えたけど、速くなったわね。うっすらと残像まで見えたわよ」
「正直自分でも信じられないくらいの進歩です。上手く行き過ぎていて逆に恐怖を覚えますが」
そんなレオンに構わず、二人は話を続ける。
当然というべきか、その内容は近頃の成果に帰結する。
「エルスさんはどうです?」
「上達している自覚はあるわ。……でもあなた、ましてやレオンとは比べるのも烏滸がましい程度でしかないけど」
ルルの問いに、エルスは苦い顔で、力無く笑った。
「全く、あいつももう少し助言やそこらがあってもいいだろうにな。俺らには実践の方法をキチンと教えたのに、お前にはその辺のこと全くないんだろう?」
そんなエルスに答えるように、レオンは独り言のように口にした。
エルスもまた、彼らと同様に修練を重ね、成長を続けている、その速度は並では考えられないほどだ。
ただ、それでも、ルル、ましてやレオンと比べれば見劣りしてしまう。
これをレオンは、令の指導による差だと認識していた。
レオンやルルと言った、<闘気>を扱う者には、端から見ても丁寧と一目でわかるほど詳しく説明していた。
レオンは座学が苦手なため講義に出ていない――ださせてもらえない――ものの、実践にはむしろ乗り気だったために、令の指導をしっかりと受けていた。
その結果が、二人の闘気使いの異常なほどの戦力の増強。
だが、それに比べ、<魔力>を重視する魔導士であるエルスに対しては、実践のための指導を一切行っていないのだ。
魔法の新理論や発展型の魔法式、それらを講義で全員に。
エルスにはそれに加え、この世界のだれもが知らない、考えたことのない、<魔法>についての『真実』を伝えていた。
だが、それだけ。
最も重要である、実技の指導を、自分たちにはしたにもかかわらず、エルスにはしないことについて、レオンはどうしても疑問を振り払えずにいた。
だが、その疑問を解消する答えは当のエルスから出てくる。
「それは仕方ないことよ。<魔法>は<闘気>と違って、本人の資質と感覚が如実に現れるものだもの」
「ん?どいうこと?」
「<闘気>はね、本人の資質ももちろん関係するけど、それ以上に『練度』が最も重要になってくるのよ。極端な話、努力次第でどこまでも伸びていくことができる。でも、<魔法>はそうはいかない。もっとも重要なのは、本人の『感覚』」
令の扱いの差は、<闘気>と<魔力>の差によるもの。
<闘気>と<魔力>。この両者の性質は、液体と気体の性質に似ている。
物理的な干渉力があるエネルギーの<闘気>は、一度生成してしまえば、液体のように本人の内を満たし、勝手に逃げていくことはない。
だが、精神的エネルギーである<魔力>は、生成すると術者の周囲を漂い、意識を割かなくては霧散してしまう。
よって、扱いに際しすべての思考を行使に向けることのできる<闘気>と、常に留めるために意識を割く必要のある<魔力>では、難度に差がある。
その上、精神力が源泉である<魔力>は、本人の精神の影響を敏感に受けてしまう。
それはつまり、行使するものの個性が大きく現れることを意味する。
よって<魔法>は個人の感覚が重要であり、その感覚もまた、ひとりひとり微妙に違う。
だからこそ、下手に指導して自分の感覚を教えても、かえって逆効果になることもありうるのだ。
そんな扱いに難のある<魔法>が廃れることなく<闘気>と勢力を分かつほど発展しているのは、一撃の破壊力が段違いなこと、そして人によっては感覚のみで容易く行使できてしまう不公平さがあげられる。
「うへ……。そんな面倒なのかよ<魔法>って」
今までは説明されてもよく理解できなかったのだが、令と付き合うことで少なからず頭の回転が上がっているため内容を理解できたレオンは、嫌そうに顔を歪める。
「そうよ。あの人見てるとものすごく簡単に<魔法>を使ってるように見えるけど、あんなこと普通できないのよ。それに制御にかけては私なんか足元にも及ばないわ。<魔法>に用いるだけの<魔力>を無駄なく生成して、それを寸分の狂いなく<魔法>につぎ込んでいるの。それも同時に複数」
もはや、エルスの言は愚痴に近くなりつつある。
それなりに<魔法>の腕がある。少なくとも一流の域には末席ながら届いていると自負していただけに、衝撃も大きかった。
今までの常識が崩れ、見えかけていた終点がじつは、道の半ばですらなかったかのような虚脱感。
「しかも、同時に全く源泉の違う<闘気>を肉体の強化に必要な分だけ生成し、各所に間違いなく分配してるのよ。そんなの出来るほうがおかしいわ」
とはいえ、今はそんな思いも薄れ、そもそも比べるのが間違っていたのだと思うようになり、気を立て直している。
だから、このように愚痴だけで済んでいるのだ。
とはいえ、決して『諦めた』わけでもないのだが。
「それを考えると、あいつ化け物だな」
「「………………」」
「おおっと。再度の『こいつ何言ってんだ』目線です。今回の原因はいったい何でございましょう」
口から洩れた言葉に対し、二人から慣れ親しんだ馬鹿を見る目を向けられたレオンは、両手を上げて降参の意を示す。
「なに言ってるのよ『変体』」「何言ってんですか『変体』」
「ひとかけらの慈悲もない直球なもの言いありがとよ」
そしてさめざめと涙を流す。
「前からそうだったけど最近輪をかけて頑丈になったわよね。この前は加減したとはいえ私の火球喰らって服にすら焦げ目一つつかなかったし」
「私の斬撃は素手で止めるわ。エルスさんと折檻をしても一切受け付けないわ。私、正直兄さんを人間と区分していいか最近悩んでます」
彼女たちの言葉に一切の稚気はない。本気。
レオンは手で顔を覆う。
確かに彼らの言っていることは事実だ。とある事情により、今のレオンは彼女らの攻撃を一切受け付けない強靭さ、いや、狂靭さを身に着けている。
だが、後ろからいきなり火の玉をぶつけられたり、怒らせてしまい能面のような無表情となった二人に追い掛け回され、執拗に殴る蹴るの暴行を受けるのは、身体に影響はなくても、心に非常に痛い。そして怖い。
まあ、火の玉をぶつけられたのはその日の朝に着替えを見られたことに対する仕返しで、女性二人の折檻は乙女心を考えない無神経な発言の報復であるため、完全な自業自得であるのだが。
「……俺が人間じゃないっていうならあいつはどうなんだよ」
だが、レオンはこの逆境のせめてもの慰めとして負け惜しみを漏らす。
これまで、あれだけ非人道的な行為も成してきた令はどうなのかと。
別に令を非難する気も、嫌う気もなく、ただ引き合いにだしただけ。
それが、あの男なりの『倫理』に基づいての行動だと納得し、肯定しているために。
「どうって……」
「そりゃあ……」
エルスとルルも、否定をすることはなく、顔を見合わせる。
そして、互いの意見が一致していることを目で確認し、レオンを同時に見る。
「「あの人は『レイ』、でしょう?」」
何を当然のことを。と言わんばかりにレオンを澄み渡った瞳で見つめる。
「……お前ら、何気にひでえな」
あっさりと、遠回しに想い人を『人間』でないと認めた二人に、レオンは顔を引き攣らせる。
彼女らの中には、『人間』と『レイ』という区分があるらしい。
そしてどうにもその認識はレオンの心のうちにもスッと受け入れられてしまうのだから笑えない。
ひそかに『人間』と『魔王』でもありかと思ったりもした。
「まあ別にいいけどよ……。俺も自覚あるし。エルス、クルスの奴は?」
先ほどまで暗い顔で俯いていたが、すでに吹っ切れた顔をしているレオン。
相変わらず、痛めつけられても復活が速い。
「いつも通りよ」
「そうか。なにがしたいんだろうな」
エルスは困ったように答え、レオンは首を傾げる。ルルも思案顔で何かを考え込む。
クルスはここ数日、ずっとあることをしていた。
町の近くには小川が流れていて、そこをさかのぼったところに、人一人くらいの大きさの岩がある。
クルスは、そこでずっと座禅を組んでいた。
食事の時間になる、就寝の時間となる、そういったことがない限り、その場でじっと、石のように固まっている。
そしてこちらから声をかけても、受け答えはするが、目を閉じたまま。納得できる理由がない限り、決して動かない。
そんなクルスのことを、彼らは不安に見守るしかなかった。
「本人が言うには……レイさんにそうしてはどうか、と勧められたそうです。その理由までは教えてくれませんでしたが」
「レイ様、かあ……」
ルルの言葉に、エルスは憂鬱そうに溜息を吐く。
「どした。弟を取られたのがそんなに悲しいのか?」
レオンは軽く冗談交じりに言う。
エルスの様子を、クルスが姉である自分以上にレイという存在のことを信頼しているが故のものと取ったからだ。
「え? ……ええ。それも確かにあるわね」
そして、それは当たるとも遠からず、半分だけあたっていた。
憂慮するような表情で暫し考え込む。
そして、口を開く。
「ねえレオン、ルル。……昨日のレイ様の様子、おかしくなかった……?」
その言葉に二人は数瞬呆け、そして答える。
「そうだったか?」
「私も……特におかしいことはなかったと思いますが」
明言はしないものの、二人とも否定する。
昨日の夜、彼らはレイと通信符で情報交換を行った。
こちらの現状と、昨日の出来事を話す、主にこちらの無事を知らせるもの。
当然。フルートら、三名との接触の件もその中には入っていた。
その時の会話に、エルスはどこか妙な感覚を受けた。
「ん……。なんていえばいいんだろう。その、何か、『壁』が薄かったっていうか……」
「すみません。抽象的すぎてどういうことなのかさっぱり……」
「ご、ごめんなさい。そんなに気にしなくていいから。多分気のせいだし」
ルルが申し訳なさそうに言うと、エルスはあわててごまかす。
心の内では、絶対に気のせいではない、というおかしな確信に蓋をして。
そう思うのは、昨日の令の言葉が原因。
彼は、いくつかのことを確認し、ある程度の近況を伝えた後、最後に何の脈絡もなくこう言っていた。
『君らが注意すべきことは『外』だけじゃない。自分たちのこともちゃんと見ろ』
その言葉の意味を考える前に、エルスは疑問を覚えた。
令が彼らに関することで、ここまで直接に何かを告げたことがなかったからだ。
そんな、令のらしくなさが、なんとなく彼女を不安にさせた。
何か、彼の心を揺さぶられることでもあったのか。
あの時の会話に彼女は、令がいつも覆い隠している何かがむき出しになっているような印象を受けた。
そのせいで、普段ならいう気のないことまで口にしたのではないか、と。
「まあ、何かあったところで離れた俺たちには何もできやしねえんだ。だったら、もっと気張って、これからに備えて少しでも強くなっておこうぜ」
「……ええ、そうね」
レオンの声に思考は中断し、エルスは頭を振るう。
その通りだ。
今の自分たちには、彼に対してできることなど何もない。
通信の符は、こちらから連絡ができないわけではないが、彼の行動の邪魔をするわけにもいかない。
となると、今自分たちがすべきことを消化するのが正解だろう。
「それにしても、未だに信じられない、という思いが強いです。本当に来るのでしょうか」
ルルは、令にあらかじめ伝えられたことに対し、疑問を投げかける。
令を疑うわけではないが、そうやすやすと信じきれるわけでもないのだ。
世界で六ヶ所の魔獣の巣窟である<危険域>、その一つ、鳥獣種の魔境である<魔の森>。
―――そこの魔獣が、侵攻してくるなど。
レオンもルルも、その思いは同じ。
いや、信じたくない、という思いが強い。
そんなことになれば、小国であれば為す術なく蹂躙されるしかない。
この大国である<デルト>でも、相当の被害が出ることだろう。
だが、レオンは頭が掻いて笑う。
「それこそどっちでもいいことだ。攻めてこないならそれでいいし、攻めてくるなら―――」
背負って歩いていた剣を右手に持ち、天に掲げる。
そして、一気に振り下ろす。
途端、旋風が巻き起こり、三人の衣服をはためかせる。
振り下ろした先には、地面が大きく削れていた。
「―――それ以上の力を得て、ぶちのめせばいいだけだ」
令がその場に居れば、どんな顔をしただろうか。
そこに<剣王>のような、才能と弛まぬ研鑽に裏打ちされた『技』はない。
あるのはただただ、文字通りの『力技』。
だが、ガイアスにはない、若さにあふれた、陽気な一撃。
見るものすべてに、爽快さを、安堵を約束するような、『正』の塊。
レオンはその自身の痕跡に満足する。
とはいえ、まだまだ納得はしていない。
これからも研鑽し、いつかその『背中』に追いついてやると、ここにはいない『友達』へと誓う。
だから、エルスとルルがゆっくりと、恐怖を的確に煽る速度で近づいてくることに気が付かなかった。
「レオン?」「兄さん?」
「へ?」
その声に我に返るとレオンはようやく二人の様子に気が付く。
二人とも俯き、その身を舞い上がった砂埃で汚していた。
エルスとルルの、美しい髪はその輝きをこびりついた砂に阻害され、そして二人の容姿をさらに引き立たせるよう絶妙な組み合わせを為された衣服は泥にまみれている。
二人は、自身にかかった砂塵を払うこともせず、自身の衣服を見つめる。
一方レオンは、二人の服が汚れていることに危機感を覚える。
なぜか。どうしてか。普段使わない頭を高速で動かす。
そして思い至る。
どちらも、先日二人が令と町へ出かけたときに物凄く嬉しそうな顔をしながら、両手で大事そうに抱え込んでいたものだと。
「どうしてくれるのかしら? 私のこの服、レイ様が贈って下さったものなのだけれど」
「こんなに汚してしまってはあの人に顔向けできませんよ。せっかく似合うものをわざわざお願いして選んで頂きましたのに」
そして、顔を上げ、レオンを睨む二人が涙目になっている事実が、何より彼を硬直させた。
本当であれば、いろいろと言いたいことがあった。
訓練の場にそんな大事なもので来るな、とか。大事なら余所行きの時だけ着ていろ、とか。
とはいえ、二人がそんなことを承知の上で、会えない寂しさをごまかすために着ているのだろう、とも思い至ってしまったレオンの想うことはただ一つ。
ああ、これは仕方ない。
その後、しばらくの間、肉を叩く音が夕焼けの空に響いた。
いつものそれを知るものがいたら、こう語るだろう。
―――今日のはいつもより長かった、と。
―――同刻。
夕焼けの空。清らかな清流。川の水の音。
見るもの、聞く者に、癒しを与えてくれるその光景。
そんな、癒しの場は、今に限り、地獄の窯のような様相を呈していた。
夕焼けの光は地に斃れ伏す亡骸をさらに赤く染め、清流は流れ出た血潮に染まり、水の音は骸をついばむ鳥の声にかき消される。
地に伏せるは、魔獣。
一〇や二〇ではきかないその死骸の山のただなかに、ひとりの少年が右手に弓を、左手に小袋を持ち佇んでいた。
陽だまりのような金髪が、この状況に似つかわしくない『温かさ』を感じさせ、その周囲との温度差が、さらに悍ましさを底上げする。
彼は、身に一切の手傷も汚れも負っていない。
それも当然のこと。
彼は、その場から一歩も動かず、すべての敵をすべて殺したのだから。
この惨状を見るものが見れば、おかしなことに気が付いただろう。
少年は弓を持っていながら、その身に一本の矢も帯びていない。
転がる亡骸には、矢傷が一切なく、切傷、打傷、果てには内から爆発したかのようなものまである。
悲惨な惨状。そしてそれ以上に、謎の現状。
それを生み出した少年は、茫洋とした視線で天を仰ぐ。
「……そろそろ夕食だ」
その口から零れるのは、あまりに平凡な言葉。
そんな言葉ですら、異常なこの場では場違いだった。
彼は、魔獣を呼び寄せる粉の入った袋の口を入念に縛り、腰に帯びる。
これは、彼が義兄からもらったものだ。
どうして魔獣が寄ってくるのか、なぜ優しい彼が自分にそんな危険なものを渡したのかは分からないが、ただ感謝していた。
おかげで、自分の今の強さがよくわかった。
少年は決して、慢心しない。
あの優しい義兄が、チカラに溺れてしまえば容赦なく心を殺して消しに来ることが分かっていたからだ。
大事なあの人を、そんなくだらないことで汚したくなかった。
大事な人たちの、大事になった人に、そんなことをさせたくなかった。
彼が足を動かすと、食事に必死だった死鳥たちが自分も同じめに会されてはたまらない、とばかりに一斉に飛び立つ。
それを気にすることなく、彼は小柄な背に不釣合いな大きさの弓を背に担ぐ。
そして小走りに、その場を離れていく。
急がなくては、彼の連れが来てこの場を見られるかもしれない。
そうなっては説明が面倒だった。
これだけのことをしでかしても、そう冷静に考えられるくらいに彼の思考は平常だった。
異常極まりない。彼はそのことを自分で理解する。
だが、決して改めようとは思わない。
なぜなら、彼にとっての『絶対者』であり、そして『目標』そのものが、そうであるから。
「義兄さん、貴方は魔獣が襲ってくることを憂慮してるかもしれませんが、僕は正直どっちでもいいです」
彼にとって、もう一人の兄のような存在と、似たような言葉。
「だって、襲ってくるなら殺しつくせばいいだけですから」
似ているだけで、本質はあまりにも離れている言葉。
『自衛』と『殺戮』。
『阻止』と『殲滅』。
ごく近いところで育った二人の兄弟は、どちらも同じ想いを抱えつつも、わずかな歯車の狂いから微かに、そして決定的に道がずれ始めていた。
彼、クルスは走っていく。
たとえすべてを殺しつくしてでも、手放したくない者たちの元へと。
ガイアスは緊張からか異常な喉の渇きを覚え、なにかないかと辺りを目で探す。
そして、目の前に置かれた茶が目につき、急かす心を抑え、余裕を見せつけながら手を伸ばす。
口に含むと、茶の芳香とちょうどよくぬるくなった温度が口腔と喉を潤し、思っていた以上に落ち着いた。
ただ、もしやこれまで計算の内なのではないかと思い立ち、目の前の男をばれないように目で窺う。
―――目が合った。
ほんの少し、気づくか気づかないで言えば、微かに気づく方へと天秤が傾く。そんな絶妙に細められた面白そうな目と。
その目がわざとだと、なぜかガイアスは確信できた。
このくそやろう、と内心悪態を吐きながら一気に茶を飲み干す。
だんだんと自分の内なる声の口が悪くなっている気がする。
ただ、その苛立ちで動揺した心は紛れた。
「……これは、本当のことか」
もはや苛立ちを隠すこともせず、令へと問いかける。
令の方も茶を啜ってから口を開く。
「それに関しては、詳しい内容は以降の書類をみていただければいいかと。とはいえ、それだけでは信じられないでしょう? 自分たちでも<魔の森>へ調査隊を結成、派遣して調べるのが一番妥当ですね」
それもそうだ。この場でそれを議論したところでそれを確かめることなどできない。
そんな簡単なことですら思い至らないほど、まだ動揺しているらしい。
ガイアスは気を取り直す。
「では質問を変えよう。どうしてこの国が魔獣の襲来に耐えきれないと断言できる」
「おいガルディオル、それ俺のセリフ……」
だが、絶妙なところでガルディオルが割り込んできた。
内容が気になり書類の一枚目でガイアスと同様に硬直してしまっていた彼らの中で、唯一ガルディオルだけは事態を受け止め、返してきた。
そして、その冷静さが伝播し、次第に動揺が収まっていく。
襲撃の有無はこの際置いておき、なぜ対処できないと判断したのか。
ガルディオルの言う通り、冷静に考えればいくら<危険域>の魔獣の質が高く、数も多いとはいえ、最高の練度の軍を擁する<デルト王国>であり、そして五大国であるため兵も多い。
もしこの国で耐えられないならば、それは他とは一線を画す膨大な兵力を持つ<ベグニス帝国>以外すべての国が亡びることになる。
これは、自惚れでもなんでもなく、純然たる事実だ。
故に、彼らは令の言を疑った。
「ふむ。では逆に、なぜ襲撃に耐えられると思うのですか」
「<デルト>の軍は、同数であれば最強だと自負するほどの練度があり、そして大国である故、それに比例する兵力がある。それはお前も分かっているだろう」
「成程、では私の根拠をお答えしましょうか。理由は三つ。まずひとつ、<デルト-クリミル戦争>」
その単語が出た途端、全員がかすかに顔を顰めるのを令は見た。
これは誰も否定をしない。
「二つ目と三つ目。その<デルト王国>の軍の質の高さと、大国であるという事実そのものですよ」
だが、次の言葉には令以外、セフィリアですら驚きを露わにする。
余裕の根拠となっていたものが、全く逆の危険を孕んでいると伝えられたのだから、無理もない。
セフィリアも、このことについては伝えられていなかったために、驚きを隠せない。
「どういうことだ? 俺たちにとってその二つは最大の砦だ。それがどうしてそんなことに」
ザルツは驚きよりも困惑したように尋ねる。
「質至上主義だからこその弊害ですかね。この国の人間だから非常に気づきにくい。それともう一つ、私は現状の<デルト王国>では、とそれに書いたと思いますが違いますか?」
「だからどういう―――」
「まあ順番に説明していきましょうか。まず<デルト-クリミル戦争>。これについてはわざわざ説明の必要もないと思いますが、これが諸外国に対し警戒心を植え付けてしまった」
アリエルの焦れた声を無視し、令は話を続ける。
「<クリミル王国>は有数の穀倉地帯で、それを周辺国へ輸出することが主な収入源であり、ゆえに中立の立場を貫いていた。だが、そこを<デルト>が占領したことで大きく事態が変わった」
主に、悪い方向に。
どの国も、国民の腹を満たすことが最低限の義務であると言える。そして、その大きな助けとして重宝されていたのが<クリミル王国>だった。
痩せた土地が多い国でも、この国から輸出された食糧があれば、それで飢える心配がなかった。
豊かな土地であるにもかかわらず、そこを誰も奪おうとしない。複数の国家に対し有益であるために、どこか一国が制圧し出し抜こうとしたところで他の国々から袋叩きに会うからだ。
そうして平和を謳歌していた<クリミル王国>だったが、狙ってきた国が<デルト王国>であれば話が別だ。
周辺国が束になっても敵わない軍事力、そして自国の数倍に達する国力。
そんな国が相手で、勝てるわけがない。
結果、<クリミル>事態のあまりにお粗末な対応もあり、『戦争』をより小さな『戦役』という単位で区分する間もなく終わり、<デルト-クリミル戦争>と呼ばれる戦いは幕を閉じた。
「さて、とりあえずここで聞いておきたいのだが、ガイアス殿」
「何だ」
令の言葉に、微かに強張った声で応じる。
「あれは、そもそも『戦争』だったのですか?」
そして、一番聞かれたくなかった言葉が飛び出す。
「質問の意図が読めん」
憮然と返すガイアスに、令は笑う。
「そうですね、では言い方を変えます。あれは、国権が発動された、『戦争』だったのですか?」
ぶつ切りにし、一つ一つの意味を強調された言葉。
令が言っているのは、つまりこういうことだ。
あの戦争は、国権、つまり、王の意志が生んだものだったのか、と。
令がこの疑問に至った理由は極めて簡単なこと。
あの戦いで<デルト王国>が手に入れた利益など、皆無なのだ。
<クリミル王国>と<デルト王国>は隣接している。つまり、<クリミル>の恩恵を<デルト>も受けていた。
戦士の国である<デルト>は、その国土面積に比べると食糧の生産量が低い。農民よりも兵士を目指すものが多く、その上土地も豊かと言えるほどのものではないからだ。
ゆえに、<デルト>にとって<クリミル>は必要な存在であるはずなのだ。
確かに国土が得られれば、その土地はいずれその国のものとなり、恩恵を独り占めできるだろう。
だが、それは何年も後の話。
侵攻を受けた以上、いくら短期決戦であろうと国土は荒れ、田畑は使えなくなる。
そうなったとき一番被害を受けるのは、戦争のために少なからぬ兵糧を失った<デルト>なのだ。
さらに、小国対大国という図式そのものも問題だ。
だれが見ても弱い者虐め。
この構図を見たとき、<デルト>の周囲にある国家群は何を思うか。
明日は我が身。
<デルト>に襲われるのではないかと考え、警戒を強めるだろう。
よって、今の<デルト>の周囲は、潜在的な敵だらけなのだ。
「私には貴方がたがそんな愚行を為すとは思えないんですよ。何があったんですか」
その言葉には、問いかけている割には疑問の気が少なかった。
つまり、既に令は自分なりの結論を出しているのだろう。
それを悟ると、ガイアスは溜息をつく。
「あれに関しては、俺は何も言っていない。馬鹿どもが何をとち狂ったのか暴走して戦いを仕掛けたのだ」
「陛下っ!?」
国の恥ともいえる事実を、語り始めたガイアスにオルハウストが焦った声を上げる。
だが、それをガルディオルが目をやって抑える。
どうせ言わずとも想像がついている以上、意味がないのだ。
それに、この奇妙な男であれば、無暗に口にしないだろうという考えもあった。
「その連中はどうしたんですか?」
「俺が切り捨てた」
「じゃ、いいや」
「かるっ」
フレイナが思わず口を滑らすと口を手で押さえる。
令はそれを無視する。
「それだけか?」
「他に何を言えと? 私にとって、あれがそういう経緯で起きたことと、それを貴方がうまく収めたということが分かっただけで十分です」
ガイアスもまた、意外そうに尋ねるが令に逆に問われると口を噤む。
実際、令には処分が終わってるならば何もいう気はなかった。
もし未だ存在していても、直々に壊しに行こう、という程度の話。
それに、このことからガイアスの能力の高さを改めて知ることができた。
すでに暴走してしまったクズに即座に対処し、そして無理に進軍をやめることなく、民間の被害を最小限に抑えたのだ。
中途半端なところで進軍をやめていれば、それは新たな争いの火種となっていただろうし、そして戦ったにもかかわらず<クリミル>には略奪や接収を起こすこともなく、軍を除いて被害はほとんどなかった。
つまり、ガイアスは暴走した軍の支配権を一瞬で奪い返し、掌握したということ。
並の『王』にできることではない。
結果から言えば、<クリミル>の民は悪政のはびこっていた貴族たちが打倒されたことで、一部を除いて生活が向上したというし、文句などないのだ。
何より。
「いかなる理由が有れど、国を失ったのはその無能どもが弱かったからだ。そして国を亡くした『王』や貴族に生きる資格などない」
その言葉が、該当する者たちへ重くのしかかる。
令は、本気でそう考えている。
国の最低限の義務は、国民を養うこと。
そして、『王』の最低限の責務は何を押してでも国を守ること。
それすらできなかったのは<クリミル>であり、そこの王族。
だから、侵略をした<デルト>について、令はレオンたちの故郷であることを差し引いても、何も思うことはなかった。
「しかし、となると結構不味いね。想定してた中で最低の一歩手前辺りを邁進してるよ。いや、まだましなのか」
「一人言はやめろ。聞きたいことがなくなったならばさっさと二つ目と三つめについて話してくれ」
ブツブツと自己完結を繰り返す令に痺れを切らしたのか、ガイアスは急かす。
それを令はヒラヒラと手を振って了承する。
「まあ、手っ取りばやく言ってしまうとですね、質そのものが問題ではなく、それに伴う事柄が問題なのですよ」
訝しそうにするガイアスたち。
それを見て、令は《書庫》から地図を取り出す。
「……便利だな」
「まあね」
ガイアスのつぶやきに適当に返し、それを台に広げる。
「兵士を育成するときに、確実に問題になる事柄が、質と量です。そして、この二つというのは決して両立し得ない」
それは兵站の基本。
質を上げようとすれば、兵一人一人の訓練時間が長くなり、それに伴い国で育つ兵は減る。
そして量を取れば、兵一人一人に目がいかなくなる上、訓練時間が短くなり、質が下がる。
そんな二律背反を、軍というものは常に抱えなければならない。
そして、前者をとったのが<デルト>であり、後者をとったのが<ベグニス>だ。
そのため、<デルト>は大国と呼ばれる国土に比べるとどうしても兵数の比が下がり、<ベグニス>は軍全体の質や規律が低い。
これは、本来であればどちらかが優れているということではなく、単に国風の差でしかない。
「だが、今の<デルト>にとって、この国土に比した場合の兵数の不足は致命傷になりうる」
令は、地図に丸を書きこんでいく。
「周辺国家は、<デルト-クリミル戦争>によって<デルト>を警戒している。ここで穴を見せればやられる前にやれの精神で襲ってくることも考えられる。だから、平時であれば置かなくてもいい要所にも兵を配置する必要がある」
国境近辺、町、村近くの街道など。地図が万弁なく丸で埋められていく。
「他国の警戒に割かなければならない要所が最低二三か所。そして自国の治安維持のために置かなければならない地点がおおよそ四二か所。これだけの場所に兵を分散させた場合、果たして対魔獣に割くことができる兵がどれだけいる?」
問い、というよりは確認に近い。
ガイアスは苦い顔でしばらくの間思案する。
決して、<デルト>の兵は少なくなく、むしろ<ベグニス>を除いた他の国に比べれば確実に多いと言える。
だが、その広大な国土へ分散させた場合、どうしても一つ一つの要所に就く兵数が下がってしまう。
しかも、今回はそれに加え自国の各所に防衛の戦力も配置しなければならない。
万が一撃ち漏らしがあった場合、魔獣が流れていっても少なくとも本隊が救援に向かうまでの時間稼ぎができる程度は必要になる。
当然、その分も魔獣討伐軍本隊の兵は減る。
ガイアスは、自国の兵数と要所に割くべき人数を頭で計算し、告げる。
「……諸侯軍まで含めれば、おおよそ一〇〇〇〇前後といったところだ」
「防衛に必要な戦力は、二〇〇〇〇は欲しい。それだけあれば五分の戦いができるだろう。とはいえ、その数でも戦いかた次第では戦えなくはない」
令は答えた。
「……厳しそうだな?」
確かめるように問うザルツだが、その顔にはあまり険はない。
今までの話の流れからして、絶対に兵が足りないと思っていたのだが、足りないにしてもまだ対抗できる数であったために、少し安心したのだろう。
「尤も、本当にそれだけの兵が集まればの話だがな」
その緩みを、ガイアスが断ち切った。
放っておけば令が突いてきただろう穴を、自分で埋めた。
令は微かに可笑しそうに笑む。
「そういう言い方をしたってことはもう分かってるんでしょうけど、号令をかけても間違いなく従わない連中はいるでしょうね。適当な理由つけて兵を出し渋りする、自分のことを優先するクズが」
だが、その声は冷たい。
「参戦を表明するのは諸侯のうち、よくて七割、悪ければ半数を割りかねん」
ガイアスはすでにそんな悲惨ともいえる現状の理由が分かっていた。
早い話、今の王家はなめられているのだ。
ガイアス自身には、『王』の能力も才覚も十分すぎるほどある。
だが、長年続いてきた悪習と言うべきか、<デルト>の国情そのものはそれを受け取る環境にない。
最大のものとしては、<デルト>に宰相が居ないことがあげられる。
これは、過去の王が当時の宰相が行った不祥事に激怒し、罷免したことに端を発する。
ただやめさせるだけなら、何も問題はなかった。
だが、その王はあろうことか、そこで宰相という役職そのものを消し去ってしまった。
宰相を処断するのは仕方がない。
王の方針を押し切って、無理やりに国を動かしたのだから、そうしなければ体裁を保てないのだから。
だが、それで『宰相』という役職そのものをなくしたのはただの愚行だ。
権力が一か所に集中すれば、それだけ国を動かすことは容易くなる。
それにより足取りが軽くなれば、国の代謝が活発になり、全体を活性化させることも可能かもしれないので、一概に悪いとはいえない。
だが、<デルト王国>としては明らかに愚策。
五大国という肩書きはだてではないのだ。あまりにも国土が巨大すぎる。
貴族制にして、分割統治をさせても、それをまとめる人間はひとりではとても追いつかない。
そのため、貴族一人一人には十分に目が行き届かない。
あまりにもあからさまなものでない限りは、どうしても後手に回ってしまう。
<デルト-クリミル戦争>の発端となった貴族の暴走を防げなかったのは、この点が原因でもあるのだ。
「<王剣近衛軍>を動かすことは可能ですか? それ次第で大分変ってきますが」
「……それしかないか。確かに我国最強のあの部隊を出せば、戦力の面では大分ましになる。国最後の盾を動かすというのは周辺国家に負けてしまえば後がないという事実を知らしめることになるが、それも仕方あるまい」
<王剣近衛軍>というのは、王族付の部隊であり、<デルト>最高の練度と充実した装備を配された、戦士の国最強の部隊だ。
四軍あり、それぞれを<四剣>が指揮する。
それを動かせばどうしても諸国に与える影響は大きくなるものの、四の五の言っていられる状況ではない。
何しろ、負ければ国そのものが亡びかねないのだから。
尤も、<王剣近衛軍>の一軍の兵数は二〇〇〇。それが四軍で八〇〇〇。仮に諸侯がすべて出兵したとしても兵数は一八〇〇〇。令が言う望ましい兵力の二〇〇〇〇には届かない。
「とまあこんな具合に、兵の質の高さによる兵数の不足と大国故の広大な国土。どちらか片方だけならばここまで悪くはならなかっただろうが、この二つの主軸にさまざまな要素が絡まり合って相乗効果でとんでもない事態になっている。正直、結構厳しい」
令が淡々と告げ、お茶を啜る音だけが響く。
誰もが難しい顔で考え込み、口を開かない。
今まで気づいていて意識したくなかったこと、そして、自身らの先入観ゆえに気付けなかったことを、まざまざと見せつけられたのだ。
これで平然としていては、むしろそのほうがおかしい。
「―――普通の方法であれば、だけど」
だから、この男は間違いなくおかしいのだろう。
一斉に目線が、黒髪の男へ向かう。
「実際のところ、これを解決する方法は簡単ですよ。ものの見方を逆にすればいいんです」
誰も、言葉の意味を図り切れない。
「『どうすればこの酷い事態を乗り切れるか』ではなく、『どうすればよりよい事態を導けるか』こう考えればいい」
令は、新たに書類を取り出す。
ガイアスにはそれに書かれたものが目がいった。
文章ではない。
図式でもない。
―――人名。
数十、もしかしたら三桁に届くやもしれないほどの、人名の表。
「ねえガイアス殿。そして<四剣>の皆さんに『おひめさま』。どうして戦争は起きた? どうして兵の質の高さが問題になった? どうして大国であるのに十分な兵力が集まらない? ここまでの事態を引き起こしたのは一体どこのどいつらだ?」
怖気を感じるほどの、平坦な声。
「なぜ、そこまでのことを起こしながら、やつらはのうのうとのさばっている?」
露わになった黒い瞳からは、隠し切れない苛立ちが覗く。
「ねえガイアス殿」
どこか、別次元の威容を醸し出しながら、『彼』は告げる。
「そんな『もの』らは、さっさとまとめて一切合財、処分するに限ると思いませんか」
誰もが見惚れるような、機械染みた笑みとともに。




