番外編 ある日の彼と彼女『陽姫①の2』
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すみません。
二日前に令とレオンが話していた部屋に彼らは集まっていた。
レオン、クルス、ルルは、目の前の女性を見つめる。
彼女、エルスはベッドの上に横たわっていた。
息は荒く、意識が朦朧としているのか、時折苦しげな呻きを漏らす。
身体には一目みて高熱と分かるほどの汗を流しており、肌の赤みも強い。
そんな彼女を見ての反応はそれぞれだった。
ルルは涙目になりながら時折視線を彷徨わせ、何かできることがないか探す。
それとは対照的に、クルスはベッドの近くの椅子に腰掛け、彼女の額に載せている布巾を取り替えたり、男が手をだして問題なさそうな範囲で汗を拭いたりと、熱を出したのが姉であるのに不自然なほど冷静に対処を重ねていく。
そしてレオンは歯を食いしばり、ジッと何かに耐えていた。
重苦しく、耳が痛いほどの沈黙が支配していた部屋だったが、その静寂を破る扉が開く音がした。
「暗いねえ。皆様方」
普段と変わりない様子の令が、手に水と氷が入った桶と小袋を持ち、部屋へ侵入を果たす。
「交代だクルス。
古い方の水は捨ててこい」
「分かりました。後はよろしくお願いしますね」
令がそう言うと、クルスは立ち上がり、先ほどまで使っていた古い水が入った桶を抱え、部屋を出て行く。
その足取りは、重い桶を抱えていることを差し引いても不自然にふらついていた。
令は先ほどまでクルスが座っていた椅子に座ると、新しくした水に手拭いをつけ、よく冷えた布をエルスの額に載せる。
そうすると、依然険しい表情ではあったが、彼女の表情は微かに和らいだ。
「ルル、君ももう休め。
夕べエルスが倒れたときから寝てないだろ」
「え? いえ……でもそれは……」
エルスから視線を外さずに令が告げた言葉に、ルルは始めは驚き、ついで申し訳なさそうな顔をする。
幼馴染の女性が倒れた状態で、他の人間に世話を押し付けて出て行くことに良心の呵責を覚えたのだろう。
「このままここにいても、君にできることは何もない。
むしろ、君まで無理をして倒れられでもしたら目も当てられない」
「……はい」
だが、非情にも聞こえる令の言葉に、消沈した様子で頷く。
ここにいる彼らは、昨日から一睡もしていない。
ずっとエルスに張り付いて看病に徹していた。
そのため、全員が相応の疲れを抱えていた。
令はその想いを汲んで、しばらくは好きにさせていた。
だが、ここでもう限界だと判断したのだ。
これ以上続けては、最悪病人が増えかねないと。
先ほどクルスが大人しく引いたのも、無理をして自分が倒れれば他の人間の負担がさらに増え、結果として姉の看病が満足にできなくなることを察したからだ。
ルルもそんなクルスと同じ結論に行き着き、黙ってクルスの後を追い部屋を出て行った。
そして、病人のエルスを除けば令とレオンだけが残る。
部屋の中を、再び沈黙が支配する。
「レイ」
レオンが令へと語りかける。
表面上は冷静そうに見えるも、その声には怒りが滲んでいた。
「お前、一昨日は何もしなくても問題ないって言わなかったか」
令はレオンを一瞥するも、直ぐに視線をエルスへ戻す。
そして足を組む。
「人の言うことはしっかりと覚えるんだな。
俺は『今できることは何もない、二日もすれば元に戻る』、としか言っていない」
そしてそのまま、椅子の背もたれに寄りかかる。
「エルスが『大丈夫』だとは一言も言っていないんだよ」
「っ……!」
レオンが令の襟首を掴みあげ、無理矢理立たせる。
それでも令はすまし顔を崩さない。
「要するにお前はエルスがこうなるって知ってたんだろうが!
どうして何もしなかった!?
どうして何も教えてくれなかった!?」
怒りと悲しみがゴチャ混ぜになりながら、レオンは令を責め立てる。
お前が教えてくれていれば、こうはならなかった。
お前のせいでエルスがこうなった。
そう言わんばかりの行動と、声。
「……お前に三つ、言っておこうか」
その激情を浴びせられた令が、平坦な声を発する。
次の瞬間、レオンの身体が宙を舞った。
投げられたのだとレオンが認識すると同時、下から声が聞こえる。
「一つ、エルスに何もしなかったのは、そうしたところで疲れきっていた彼女は迷惑をかけてしまったと気に病み、余計悪い事態になるから」
滞空した後落下を始め、地面に激突する前に受身を取ろうとする。
「二つ、こんなになるまで何も言わなかった、助けを求めなかったのは彼女の意志であり、それを無下にして俺が無理矢理対処するのは、彼女への侮辱でしかない」
だが、両手をとられ、受身を取ることができなくされた。
そしてそのままレオンは、令によって落下の勢いがついたまま頭から床に叩きつけられようとされる。
思わず、激突の衝撃と恐怖から目をつぶる。
「三つ、お前がこれらをすべて理解して、何もできなかった自分こそが許せなく、こうして俺に痛めつけられたいと思いそのような行為をするのは、俺にとっても他の人間にとっても迷惑以外の何者でもない」
だがいつまで経っても衝撃はやってこない。
目を開けると、床まであと数センチというところで令によって落下を阻止されていた。
そのことに気がついたレオンは、直ぐに令から離れ体勢を立て直す。
「そんなことは―――」
「無い、と言い切れるのか?」
些細な反駁の想いからレオンは口を動かすも、それすら令に止められる。
そして何も言えなくなった。
令より付き合いが長いにも関わらず、こんなになるまで気づけなかった自分が許せない。
その想いが、レオンに令への暴力的な行動を起こさせた。
こんな自分を殴って欲しい。
そうでなければ気がすまない。
だが、令はそんな子供の癇癪をものともしない。
それどころか、相手にすらしなかった。
自分の思いを理解し、その上で、敢えて何もしないことによって、結果的にレオンが一番辛く感じるように仕向けた。
「……レイ。俺にできること、あるか」
そしてそのことは、レオンに冷静さを取り戻させる結果となる。
ただ感情的に振舞うだけでは意味がない。
起きてしまったからには、今できることをするしかない。
精神的に痛めつけられ、沈んだ彼の心は、そのような結論を弾き出した。
そんなレオンに、令は先ほど部屋に入るとき持っていた小袋を手渡す。
「なんだこれ?」
「飴」
簡潔で完結な返答をした令は、袋の中に詰まっている飴玉を見て用途が分からず首を傾げているレオンに向き合う。
「お前たちの今の精神状態じゃ、どうせ食事は喉を通らないだろう。
精神安定作用の薬草を練りこんだ特製飴だ。
それなら疲れた身体でも胃が受け付けるし、心身の不安定からの寝不足も防げる。
それ、クルスたちにも渡してきてくれ」
「お前、そんなものいつの間に……」
「さっき、仕込みの片手間に」
なんでもないことのように言うが、レオンにとっては驚くべきことだった。
この状況下で、病人だけではなくその周囲の人間の事まで視野にいれ、尚且つ同時に改善を測る。
もしかしなくても、この男なのかもしれない。
今、一番エルスのことを、そしてレオンたちのことを心配しているのは。
「何考えてんだか……」
今の自身が抱える複雑な思いを、ため息と共に思い切り吐き出す。
そうしたレオンの表情は大分険が取れていた。
「それとこれと、これと、これについでにこれも」
「は?」
だが次々と掌に載せられる同じような袋の山に、思わず間抜けな反応をしてしまう。
「さっきのに加え、解毒作用のある解毒飴、気付作用のある気付飴、筋繊維増強作用のある筋肉飴、錯乱作用のある錯乱飴なんかもつくってみた。
こっちはまだ試してないから、お前が食べてみろ」
「俺はモルモットか!
つうか明らかにおかしなもんあったよな!?」
「大丈夫、きっと、多分、恐らくは」
「そんなふわふわした言い方で大丈夫だとは誰も思わねえからな!」
「いやいや悪くても錯乱飴で『アパパパパ』とか言い出しながら痙攣するだけだと思うぞ」
「それ完全に薬物キメたときの結果だろうが!
つうかなんで全部飴!?
なにそのこだわり!?」
思わず怒涛の突っ込みを入れてしまうレオン。
そんな彼を見て、令は微笑む。
レオンは、いつの間にか、令にいつもどおりの反応を返せている自分を自覚する。
「お前、これ狙って……」
目を見開いて問いかけるレオンに向き合わず、令はエルスに目を向ける。
「ほれ、早く行ってやれ」
ただ促すだけ。
「……あいよ」
レオンもそれに答えてか、特に何も言わず、部屋を出て行く。
「ああ、飴の件は本当だからな。しっかりあとで感想聞かせろよ」
「冗談じゃなかったのかよ……」
最後に見せた顔は、げんなりとしていたが、悲壮感はなかった。
令はエルスに視線を固定したまま、レオンに渡さずに取っておいた飴の袋を取り出す。
中に入っているのは、単純に砂糖を溶かし固めて作った、甘いだけの固まり。
かつて、幼かった彼が初めて作った菓子。
「何で飴にこだわるか、か」
それから一つを取り出し、口のなかへほうり込む。
「……なんでもいいじゃないか。
いろいろあるんだよ、俺にも」
そのままひとりごちた。
本を読み、懐からメモを取り出して何かを書き込み、ただ窓から空を眺める。
そんな時間潰しが、どれほど経ったときだろうか。
「う……あ……」
することがなくなり、物思いに耽っていた令の思考を、その呻きが現実に連れ戻す。
「起きたか、このねぼすけ」
彼の視線の先、上気した顔にある双眸がゆっくりと開かれ、そのまま力なく辺りを見回す。
「……レイ……さま……?」
そしてその熱で潤んだ綺麗な碧の瞳が、令を捉えた。
「俺以外にこの顔の奴がいるんだったらお目に掛かりたいものだな」
疑問を含んだエルスの言葉に、令は苦笑混じりに返す。
一瞬、あ、『偽装』使ったら同じ顔の奴っているな、と思ったりしたが、今のところ使えるのは自分一人だけなのでそれもないかと思い直し、直ぐに意識を切り替える。
彼女がどのような行動をとっても、対処ができるように。
「っ……!?」
茫洋とした目が焦点を合わせ、意識がはっきりとしてくると、エルスは顔の火照りが引くほど顔を青ざめさせ、弾かれたように身体を起こす。
そして、動かない身体を無理矢理に動かそうとする。
「やめておいたほうがいいんじゃないか?」
令の指示も耳に入っていないのか、それとも聞いていて敢えて無視しているのか、エルスは身体をベッドから出し、歩こうとする。
「あ……!?」
だが、泥酔者もかくやというほど足元がおぼつかない今のエルスでは、歩くことすらままならなかった。
地に足が着いた途端、まるで力が入らない足で体重を支えることが叶うはずもなく、ベッドから身を落とす。
「もう一度言うぞ、やめろ」
床に叩きつけるその前に、令がその身を引き寄せ、抱きとめる。
そして、先ほどより語調を強め、提案ではなく、命令を口にする。
「だ、大丈夫ですから……」
それでもエルスは、立ち上がろうとすることを止めない。
熱で茹だち考えの定まらない頭で、身じろぎしかできない身体で、それでも止めない。
一体何が彼女をそこまで駆り立てるのか、妄執とも言える凄まじい念。
「エルス」
若干怒気を滲ませた声。
今まで令の言葉が聞こえていたか定かではないエルスだったが、この言葉で、耳に届いていたことがはっきりと分かった。
「大丈夫……ですから……」
その目に、涙を滲ませた。
令の言葉を否定したくて仕方ないらしく、その後もうわごとのように大丈夫、と呟き続ける。
令はそのエルスの要求にもなっていない言葉の羅列を呑むことはなく、藻掻くエルスを抱きとめる手に力を加え押さえつける。
「だから―――」
涙が溢れそうになった瞳が、令を捉える。
そこにあるのは、焦燥と悲痛。
「―――私を、捨てないでください……」
そして、その言葉にあったのは、懇願だけ。
それを聞いた令は、何を思ったのか目を閉じる。
そのまま数秒が経過する。
エルスは上手く働かない頭で、ぼんやりと目の前の男を見つめる。
そして、令は大きく息を吐き。
「あ……」
エルスをベッドへと放る。
そして何かをエルスが言う前に、さっさと毛布を掛ける。
「あまり他の人間に、迷惑をかけるな」
そして踵を返し背を向ける。
振り返る直前に見えた顔には、失望の色が滲んでいた。
エルスはその背中に手を伸ばす。
その手は、虚空を撫でただけ。
パタン、という扉が閉まる軽い音が部屋を満たす。
エルスは全身の力が抜け、ベッドに崩れ落ちる。
「あはは……」
そして力なく嗤う。
嫌われた。
そして、見捨てられた。
最後の令の表情から、その言葉から、彼女はそう事実を捉えた。
緊張が溶けてしまった彼女の意識は、急速に眠気に覆われていく。
「レイ……さま……」
腕で視界を覆った彼女は、頬を伝うものを感じながら意識を闇に呑まれた。
夢を見ていた。
普通は夢と現実の区別など曖昧なものであるが、彼女はそれが夢だとはっきり分かった。
その夢の中の彼女は、いなくなった両親に囲まれていたから。
それは彼女が、まだ祖国で生活していたころから始まった。
母が健在で、父が生きていて、まだ生まれたばかりの弟がいた。
その中に、まだ幼いころの自分がいる。
その自分は、何かを両親に話していた。
たどたどしく、それでも失敗を恐れない子供らしく、必死に親に自分の気持ちを伝えようと言葉を尽くしていた。
それを母は嬉しそうに、そして父はどこか複雑そうに聞いている。
彼女はそのときの自分が何を言っているのか分からなかった。
それでも、幼い頃の自分が幸せであることだけは分かり、思わず頬を緩めてしまう。
突如、場面は切り替わる。
その場面では、今よりも少し若い彼女が憂鬱そうな顔で机に向かっていた。
机の上には、いくつかの台帳が置かれている。
それを見て、ああ、と彼女は納得する。
これは憂鬱になるのも仕方ないと。
その机の上の開かれたものには、魔法具で写し取った男性の写真が貼り付けられていた。
いわゆる、お見合い写真である。
写真というものは、極めて高価な魔道具を用いるために、一般にはほとんど出回ることはない。
逆に言えば、それを使えるということは、自分がそれだけの金銭を持っていることの証明でもあり、一種のステータスとなっているのだ。
その写真の男性は見た目もよく、写真を使っていることから裕福でもあるということ。
彼女はもう覚えていないが、このころ自身と同じ貴族の者なのだろうと推察された。
ある意味優良物件とも言えるその人物だったが、エルスの顔色が晴れることはない。
彼女はただ見た目のいいだけの男性とは、結婚を結ぶ気にはなれなかった。
そして夢の中の彼女もそう思ったらしく、台帳を閉じると脇に置き、魔導学の本を読み始める。
それを見て、彼女はふと疑問に思う。
どうしてこの頃の自分は、あの写真の男性にここまで無関心でいられたのだろう、と。
今惹かれない理由は簡単だ。
すぐそばに、遥かに心惹かれる異性が存在するから。
だが、この頃は別に好きな男性が居たわけではない。
むしろ、貴族の責務から考えれば、断るにしても少し位は考える筈だ。
貴族の子息、それも令嬢にとって、良縁を結ぶのはもはや義務と言ってもいい。
権力により生活を支えられているものたちは、それゆえ、その生活基盤を奪われることを何よりも恐れる。
そして権力を維持する上で、最も適当なのが血、つまり他の有力な貴族と縁を交わすこと。
家を継ぐことが基本有り得ない貴族令嬢は、そのための道具としか見られないことも多い。
彼女の親は例外で、自分の好きなようにすればいいと言ってくれていた。
それでも、親に義理立てすることを考えれば、少し位は政略結婚を考えてもいいはずなのに、当時の自分はそのようなこと全く思い至らなかった。
ただ単に、自分が薄情なだけなのかもしれない。
だが、どうしても違和感が残った。
その考えが、彼女の頭を刺激する。
それがなんなのか分からないまま、再び場面は切り替わる。
次の光景は、展開が早かった。
というのも、彼女自身によく辺りを見回す余裕がなく、記憶が浅かったことが原因だろう。
祖国、クルミルの崩壊。
デルトの侵攻に、甘い汁だけ啜ってきた腐りきった上層部が責任を擦り付け合う。
過剰な戦備補充により、生活が困窮していく民。
そんな犠牲の上に出来上がった軍隊は、上が上なだけにろくな命令を受けられず、それどころか権力争いによる情報系統の混乱による誤報が飛び交い、鎧袖一触で蹴散らされる。
本来であれば、いくら質でも量でも負けているとはいえ一年は持ちこたえられた筈なのに、結果を見れば数ヶ月しかもたなかった。
そして、敗北がもはや決定的なものとなったとき、彼女の親は、彼女たちを国外へ逃がした。
そして、放浪の身となる。
ここからはもう、場面が霞がかったようになり、ろくに見えない。
それが自分の当時の心境だとすると、よくこんな精神状態で動いていたものだと呆れ以前に感心を覚える。
そして同時に、これでは騙されて捕まるのも当然だと感じてしまった。
じつを言うと、彼女は自分がどうして身を売られそうなところまで行ったのかろくに覚えていなかった。
微かに記憶にあるのは、何かの証文に印を押したことだけ。
こんな夢遊病患者のような状態で、重要な契約を交わしていた自分の愚かしさに、笑いすらこみ上げてくる。
と、そこで気づく。
今まで場面がバラバラで、何の法則性も見いだせていなかったが、この夢の光景は時系列を遡る形になっている。
となると、次に来るのは。
その考えに至り、胸が高鳴るのを感じる。
そして、その場面が目の前で再生される。
その光景は、彼とのもの。
彼の近くにいて、笑う自分。
時々彼の無責任な発言に怒る自分。
静かに、だが確かに怒気を滲ませて彼に諭され、涙目となる自分。
妹のような存在と、どちらが彼の隣に座るか密かに争う自分。
そのことを彼にあっさりと見抜かれ、結局両隣に座ることを提案され妥協した自分。
彼のからかいの一つ一つに恥じらう自分。
最終的に彼に必ず上手く丸め込まれている、そんな、彼女の宝物の数々。
それを見る彼女の意識は幸福に包まれる。
その感情の理由は、極めて単純なもの。
だからこそ、彼女は彼の傍に居たいと強く願った。
だから、共にいられなくなるのが嫌だった。
ただただ、嫌だった。
ここから、明るかった彼女の思考は陰っていく。
彼に嫌われるのを恐れた。
自分の身体のことを顧みず、ひたすらに彼の役に立とうとした。
魔法で。
家事で。
人付き合いで。
自分にできる全てで。
だが、彼は何でも出来た。
彼女よりも遥かに魔法に精通して。
彼女よりも料理が出来て。
人となりの良さも、申し分なかった。
彼女にできることで、彼ができないことは何一つ存在しなかった。
そのことが、彼女自身を焦らせ、さらに自分を追い詰めていく。
役に立とうと奔走し、何かできないかと探しどおす日々。
ああ、と彼女は理解する。
こんなことで、身体が持つわけがない。
先ほどまでの熱に浮かされた気持ちが冷めて行き、自分への嫌悪が湧き上がる。
結局何もできなかった。
迷惑をかけ続けていた。
そして今、彼女は倒れ、自分の拠り所を、彼を失った。
その事実が、意識体の彼女に悲しみをもたらす。
それが酷く気持ち悪い。
自己嫌悪はとどまることを知らず、思考を放棄することは頭になく、諦観と気分の悪さだけが募っていく。
それにより吐き気すらこみ上げてくる。
苦しかった。
自業自得であるのに、心が弱い自分は何かに助けを求めてしまい、それがまた自分への嫌気をもたらす。
そんな悪循環に彼女は陥っていた。
このままでは取り返しのつかないところまで堕ちてしまう。
彼女の心が壊れてしまう。
そして、その最悪が現実になろうとしたその時。
どす黒くなりかけていた心の汚れを、何かが唐突にぬぐい去っていった。
目を覚ます。
そして彼女、エルスは自分の状況を目の当たりにする。
「ふむ、少し熱が引いたか」
令が彼女の額に右手を当てて熱を測っていた。
恐らくわざわざ氷水で手を冷やしてからそうしたのだろう、その手はひんやりと冷たく、心地よかった。
左手に濡れた手拭いをもっていること、自分の顔に汗がなくスッキリとしていることから、汗を拭いてくれたのだと理解する。
「え……? ど、どうして……」
そこまで認識したところで、彼女は混乱する。
見捨てられたと思っていた人物が、今目の前に居る。
その理由が分からず、知らずの内に疑問を口にしてしまう。
「……ん? どうしてってどういうことだ?」
そして令も、エルスの言葉に意味が分からないのか首を傾げる。
「え……?」
「……うん?」
話が上手く噛み合わず、しばらく妙な空気が流れる。
「ふむ……とりあえず状況の整理といこうか。
君はどういう意図で、どうして、と聞いた?」
令は意識を切り替え、話を切り出す。
それにエルスは、まだ熱で茫洋とした頭を働かせ、正直に答える。
「その、てっきり、私のことをもう見限ってしまわれたのかと……。
こんな役たたずは、もう必要ない……邪魔だ……そんな……ことを……」
だが、途中で自分でその思考に耐え切れなくなり、最後まで言葉にならなかった。
エルスは瞳に涙を浮かべ、令へすがるような視線を向ける。
一方、令本人はと言うと、本気で何のことか分からないといった様子で顔をしかめる。
「……なんでそんな発想に行き着くんだ?
別に俺は何も―――」
恐らくは、していない、と続けようとしたところで、しかし令は動きを停止する。
そして、うっすらと冷や汗を浮かべ始める。
「え、ど、どうなさったのですか?」
思わずエルスのほうが慌ててしまう。
どうしてそんな反応をするのか分からなかった。
「……なにをやってるんだ俺は。
そうだよ、あんな言い方したら誤解されてもしょうがないだろ……」
令はそんなエルスに構わず、右手で顔を覆い、痛恨の極みといった格好になる。
しばらくそうして、大きなため息を着くと、エルスに向き合う。
「エルス」
「は、はい」
真剣な顔でこちらを見つめてきた令に、エルスはドキマギしながらも何とか答える。
「すまなかった。俺の迂闊な行動でとんでもない心労をかけた」
一瞬、彼女には何を言われたのか分からなかった。
そして、自分が謝罪されていることを認識した途端、弾かれたように身を起こす。
「そ、そんな! どうしてあなたが―――」
だが、謝罪を否定する前に、体力をほぼ失っている彼女の身体は、身を起こすという動作にすら耐え切れず、立ちくらみのような感覚を覚え、一瞬意識が遠のく。
そして身を倒しそうになり、それを令に支えられる格好となる。
令の身体を近くに感じ、エルスは熱以外の理由から顔を紅潮させる。
令はエルスをベッドに戻す。
そして、彼女の背に枕を挟み、上体を持ち上げた姿勢にさせ、汗で身体を冷やさないように毛布を被せながらそう告げた。
「君は、俺の普段見せる行動から場面によっては容赦のない手段を取ることを知っていた。
だから『役に立たなければならない、そうしなくては捨てられる』、そんな考えに至った」
エルスは身を縮める。
そうではないと分かっているのだが、自分が責められていると感じてしまった。
「ほら」
「え」
そんな彼女に、食器が手渡される。
それをエルスは両手で受け取る。
中には暖かそうなスープが湯気を上げていた。
「これ……」
「特製のスープ。
病気の身でも飲みやすいように色々と工夫がされている」
「されている?」
エルスは普段なら聞き流せていそうな些細なことに反応してしまう。
それではまるで、令がつくったものでは無いように聞こえる。
それを聞いた令は、薄く微笑む。
「そう、それは俺が考えたものではないんだよね」
エルスにスプーンを手渡す。
「母さんが、家族が病気になったときに必ずつくってくれたものだよ」
どこか、遠い目をしながら。
反応の鈍い今の彼女の頭は、それでもその表情の裏に潜んだ事実を悟る。
恐らく、目の前の男のその母は既に―――
「身体が弱くて普段寝たきりな癖に、そういうときだけ異常に張り切って台所に立ちたがる人でね。
誰が止めても、逆にこっちに『黙って寝てなさい!』って怒鳴ってくるんで、こっちも大分反応に困ったよ」
「へえ……」
令の言葉に場違いだと分かっていても少しだけ可笑しくなる。
この奇怪、とも言える存在の母親が、意外にも身近な存在だった。
病気になった家族、息子や、それから恐らく夫に、自分で作ったものを食べて欲しいと思える。
思いやりのある、優しい人だったのだろう。
「それでもこっちが止めようとすると、微笑みながら包丁を振るってきて無理矢理ベッドに戻された」
「……へえ」
と思ったら、かなり過激な人だった。
その親にしてこの子有りということか。
エルスは妙な納得の仕方をする。
「まあ、とりあえず飲んでみるといい。
恐らく口に合わないということはないだろうし」
「あ、はい」
令に促され、エルスはスープを口に運ぶ。
そして驚く。
まず初めに口に広がったのは、濃厚な肉の旨味だった。
まるで厚切りの肉を頬張ったかのような、そんな感覚。
それなのに、少しもくどかったり油っこくはなく、スッキリとした味わい。
病人で食欲が全くなかった自分でも何の抵抗もなく飲み込め、さらに食欲が湧いてくる。
「凄い」
だから素直に賞賛の言葉が漏れた。
令はそんな彼女の評価を、満足そうな顔になる。
「病気のときに病人食みたいな気の抜けたものばかり食べてると、余計に気が滅入る。
もっと元気がでるものを食べてこそ、人は元気になれるんだ。
それが、そのスープを作ったときの母さんの口癖だったよ。
とはいえ、短くても丸一日かけないとできないほど手の掛かるものなんてどう考えても行き過ぎだと思うが」
令の言葉を聞いて、エルスのスプーンを動かす動きが止まる。
「……丸一日、ですか……?」
どこか、怯えるような声。
「そ。健康な牛の骨とステーキに使えそうな肉を惜しげもなく出汁に使って、たくさんの野菜を細かく切ったものを煮込んで、肉の旨味と野菜の自然な甘みを徹底的にスープに溶かし込む。
出てきたアクと脂は微塵も残さず排除して、苦味やエグ味、脂っこさをすべて取り除く。
そんな手順があるからどうしても時間が掛かる。
今回は君が倒れてすぐ、つまり昨日の段階から作っていたからな。
おかげで今日は寝ていない」
それを知ってか知らずか、令は自分の苦労を述べていく。
その話を聞く毎に、エルスは次第に顔色をなくしていく。
「あ、あの、もう大丈夫です。
ですからもう……」
そして食器を令へと返そうとする。
「とても大丈夫なようには見えんよ。
熱は多少ましになったとは言えまだ高熱に入る部類、手足の末端部は時折震える、身体は赤く火照り、汗は止まらない。
これで誰が君が大丈夫だと思う」
それを対する、実に真っ当な言葉。
誰が見ても今のエルスはまともではない。
熱があることもそうだが、それよりも何かにとりつかれているかのような、得体の知れなさを見る者に与える。
「君が今できるのは身体を休めて、静養することだ。
自分でもそんなこと分かって―――」
「大丈夫なんですっ!!」
だから令は、エルスを諭そうとした。
だが、それに返ってきたのは怒鳴り。
エルスは身体を震わせ、うつむく。
「だから……もう放っておいてください……」
そして声までも震わせ、弱々しく令に懇願する。
「駄目なんです……私、貴方に何の恩も返せてないのに……何もしてあげられないのに……いつもいつも、……こうして与えられてばかりで……」
ベッドのシーツを握り締め、金槌で殴られているかのように痛む頭を抑え、それでも独白を止めない。
「何をやっても貴方は私を必要としない……何をしていいのか分からない……自分の気持ちを伝える術も、方法も、……何一つ、私にはなかった……そんな自分が嫌で……! 嫌な筈なのに……!!」
だんだんと、語調が強くなる。
「貴方にこうして、迷惑をかけていると、どこかでそのことを嬉しく思っている自分がいる!
貴方にこうして、手をかけてもらっていることが、自分だけ相手にしてもらっていることが嬉しくてしかたないんですっ!!」
言葉とは裏腹に、吐き出される言葉には嬉しそうな様子は微塵もない。
むしろ、強烈な負の念が篭められている。
と、語調と共に強まっていた剣幕が唐突に消失する。
そして、エルスは小さく、しかし確実にとってしまう声で、最後にこう漏らした。
「わたし……きたない……、きたないよ……」
彼女は、両手で顔を覆ってしまう。
指の隙間から、雫が溢れた。
表面上申し訳なく思い、そして、内心の大部分がそれを認める。
自分は、キチンとそう思っている、懺悔の念もある、と。
だが、一部ですこしだけ、嫌らしくも彼女がはっきりと認識できるだけ強く、歓喜に湧いてしまう。
愛しい男が、自分の傍にいて、自分だけに手をかけてくれていることに。
それが、彼女には耐えられなかった。
自分が途方もなく、汚れた存在に感じられた。
だから彼女は、もう優しくされたくはなかった。
もうこれ以上、彼に迷惑をかけたくない。
そして、彼がこれ以上、自分と、汚れた存在と一緒にいて欲しくない。
そう考えて、でも彼が離れて行ってしまうのが嫌で、彼女は、エルスという女性は、ただ涙を流すしかなかった。
室内に、女性の嗚咽が満ちる。
そんな中。
ポン、と彼女の頭に軽い圧力が加わる。
髪に触れるその感触に、それから広がる暖かさに、それが手のひらだとエルスは把握する。
「さて、何から言ったものかな」
その手は上から下へ、そしてまた上へ、彼女の髪を梳いていく。
優しく、彼女を落ち着かせるように。
それが数往復したころ、考えを纏めたのか再び俯いたままの彼女へ言葉が飛ぶ。
「出逢ってからひと月、君は色々なことをしていたな。
出来もしない料理しようと頑張ったり、魔法で俺に分からないことはないかと聞いてきたり、俺が世間慣れしていないから世俗や習慣を教えようとして来たり」
事実だったので、エルスは無言で肯定する。
「それで結果は言わずもがな、失敗ばかりだった」
その容赦のない言葉がエルスに突き刺さる。
料理は分量を間違えるのは茶飯事、砂糖と塩を間違えるというコントじみたことを実際にやってしまう。
魔法に関しては、初めは令の知らないことが多く教える場面もあったが、ある時期を過ぎてからは逆に教えられ、更には練習中の油断による魔法の制御不良を庇われ、男に怪我を負わせたこともある。
人付き合いに至っては、もともといいところの生まれで世間慣れしていないことに加え、住んでいた国が違うことも相まって、習慣の違いから大きな失敗をしてしまった。
今思い返してみても、本当に迷惑しかかけていない。
今は慣れからか、ある程度失敗は少なくなってはいる。
が、仮にも従者の身でありながら、本職の人に比べればお粗末もいいところのものでしかない。
「すみ……ません……」
申し訳なさから、蚊の鳴くような音しか彼女は出せなくなる。
そんな彼女を、令は黙って髪を梳く。
そしてすこし落ち着いたころを見計らって語りかける。
「エルス、人の役に立つ、そのために必要なことは何だと思う」
エルスは何を言いたいのかわからず、涙で濡れた瞳で令を見る。
一度思いの丈を吐き出したおかげで少し頭が冷え、令の問いに答えることができた。
「相手を思いやる心、でしょうか……?」
「お見事。零点だ」
「あう……」
一蹴。
多少鼻声になりながらも口にした言葉は、笑顔を浮かべた外道によって全否定される。
「道徳的、子供への読み聞かせ的な観点から言えばそれで十分だが、君も俺ももう大人と言っていいんだから、それではダメダメだ。
そんなことでは社会で生きていけないぞ」
「わ、わかりましたからもうそれくらいにしてくれませんか?
自信がなくなってしまいます……」
さらにダメ出しを続ける男にエルスは降参する。
これ以上言われたら落ち込んだまま三日くらい戻ってこれなくなりそうだった。
それでも、先ほど本心を曝け出したこと、そしてそれでも令がいつも通り接してくれること、それが彼女の内心からのどす黒さが抜け、心の負担は減っていた。
髪を梳いてくれる令の手。
それを素直に温かく感じられるほどに。
そのまま令は続ける。
「正解は、その人のことを理解することだよ」
そう言う令の顔は、叱りつけるような厳しさはなく、子供に言い聞かせるかのように柔らかかった。
「どれほど強くその人のことを想っていたとしても、その人がやりたいことを理解してないとそれはただのお節介に過ぎない。
君が間違ってたのはまずそこだ」
つまりそれは、言外に自分が令という人間のことを理解していないということを示唆している。
そしてそれを、エルスは否定できない。
できるはずもない。
そもそも、エルスは令とであってまだひと月しか経っていないのだ。
ひと月といえば、人と知り合い、話が弾む程度に仲良くなれば上々の出来と言えるほどの期間でしかない。
ただでさえ難しいというのに、そのうえ今回の対象は令という著しく奇妙な存在。
それを理解したと口にするなど、おこがましいにもほどがある。
だからエルスは不思議なほど冷静に令の言葉を受け入れられた。
納得するとともに、自分の不甲斐なさを痛感したのだが。
と、再び俯いた彼女の顔を令の両手が支え、令と真正面から向き合う。
泣き顔を見られることによる羞恥や、好きな顔がすぐ前にあることに赤面しそうになるが、令の顔に遊びがないことが、エルスにそれを自重させた。
「君は、俺の役に立ちたいのか」
「……はい」
質問とも確認ともとれない声音。
それにエルスは、力なくともはっきりと自分の意志を伝えた。
「だったらこれからだ」
彼の真面目だった顔が少しだけ綻ぶ。
「今まで出来ないことがあるなら、これから出来るようになればいい」
優し気な顔と、その言葉が、不安にひび割れていたエルスの心を潤していく。
これから。
つまり、自分は彼の傍にいてもいいのだ。
これからも、彼の傍にいることができるのだ。
ただそれだけで、エルスは救われていた。
だが、彼女の救いはまだ終わらない。
「すまなかったな、エルス」
「な、何がですか?」
顔から手が離れたところでの、唐突の謝罪の言葉。
その意味がエルスには分からない。
「君がこうして倒れて、俺は君を心配した。
熱を出して、立つことすらままならないほど衰弱したことを」
「う……」
改めて迷惑をかけていたことを再認識し、エルスは詰まる。
だが、別に彼女を責めたいわけでないのか、令は気にせず続ける。
「そう、俺は心配することができたんだ」
まるで自分に言い聞かせるかのように。
「レイ様……?」
その妙な言い回しに、エルスは疑問を覚える。
そしてその答えがでる前にエルスの疑念は解消される。
「俺にはこれまで、『心配』できるまでに誰かを気に入ることがほとんどなかった」
そのある意味、悲しい宣言によって。
予想外の言葉に呆気にとられる彼女を見て、男は苦笑を浮かべる。
「どいつもこいつも、一部の例外を除いて馬鹿ばかり。
欲望に従うことを悪いこととは言わないが、そのために自分以外を顧みないクズどもが如何に多いことか……」
今までの令の人生。
壮絶ともいえるそのなかで、令は幸か不幸か人間の内面に触れることが極端に多かった。
その結果、彼は人にある種の諦観を抱くに至った。
信用はすれど、信頼はせず。
その経験が生んだ教訓。
それはただ一人の例外を除き、令の確固とした常識と化すまでに強固なもの。
今も、令は行動を共にする彼女らにすら、莫大な信用は寄せれど信頼はしていない。
それでも。
「だから。
君が失敗しようとも、迷惑をかけられようとも、俺のために何かをしようと思い、考え、行動してくれたのは、本当に嬉しかった」
彼女の行動は令にとっての助けになっていた。
失敗し、後悔し、それでも前に進もうとする意志が。
人に嫌われることを恐れながら、行動をやめない意思が。
それを自分に向けてくれていることが、令は、ひたすらに嬉しかった。
そんな、令が向けてくる笑顔を、エルスは茫然と眺める。
彼女の中では、判然としない思いが渦巻いていた。
自分がしたことが無駄ではなかったということは知ることができた。
だが、はたして、自分に彼の言葉を受け取る資格はあるのだろうか。
本人が嬉しく思っていたとはいえ、結局は自分はうまくやれたことはなかったのだ。
「難しく考えるな」
「あうっ」
でこピンをされた。
今の彼女にはそれだけの衝撃でも脳が揺れ、思考が途切れさせられる。
「いいか、エルス。
俺は嬉しかったんだ」
そして令はエルスに笑いかける。
「嬉しかった。ただそれだけだ」
ただそれだけ。
笑顔と言葉。
それだけで、彼女が抱えていた邪気がすべて消えてしまった。
難しく考えるのが馬鹿馬鹿しく思えてしまった。
「……ふふっ」
だから彼女の口からは、笑いが漏れた。
憑き物が落ちたかのような笑顔とともに。
「もう大丈夫か?」
何が、とは聞かない。
「はいっ」
ただそれだけで伝わるという確信があった。
そしてその答えに令は満足そうに微笑む。
自分が望む答えを返してくれた嬉しさから。
だから、令はエルスを抱きしめる。
「えっ!? はっ!?」
毎度ながら、突然の行動にエルスは戸惑ってしまう。
しっかりと体が密着し、互いの体温が直に感じられる。
今までにないほど高まる心臓の鼓動まで、相手に聞こえてしまいそうなほどに。
「エルス」
そのまま耳元で、囁かれる。
「あまり俺に迷惑を、心配をかけてくれるな」
それは、エルスが初めに聞いたものとはわずかに違う内容。
だが、受ける印象はそれとは真逆の、慈愛に満ちたもの。
そして、次に聞くのは正真正銘初めてのもの。
「俺は、無理をして心配する程度には、君のことを大切に思ってる」
「あ……」
あふれてきた。
「あ……れ……?」
心の罅を満たしてなお有り余るうるおいが。
「どうして……」
彼女の、綺麗な碧の瞳から。
大切だと言われた。
彼らしいというべきか、少し捻くれた言い方だった。
それがかえって、エルスにその思いが嘘ではないと、確信できた。
「嬉しいのに……どうして、涙が……」
その不可解な涙は止まらない。
エルスは令の腕の中で、彼の胸に顔を押しつけ、静かに、嗚咽すらなく。
その場にそれを不快に思う者は誰もいなかった。
泣き止んだ後、エルスはどこかスッキリとした心持ちだった。
結局のところ、自分は精神的に弱かっただけだった。
そして、ただ彼がいるだけで、自分はここまで安らいでいる。
そんな自分を、彼女は現金なものだと自嘲する。
冷めてしまい温めなおされたスープを飲み食事も済ませた。
空腹も紛れ、熱はまだあったが、先ほどとは比べるべくもないほど調子はいい。
そのまましばらく他愛のない会話を令と、咲かせるとまではいかないまでも、居心地が悪いと感じない程度にこなしていた。
「ふあ……」
そんな彼女の口から欠伸が漏れる。
顔を赤くし、慌ててエルスは口許を抑えるももう遅い。
令は笑いをこらえるように肩を震わせ、エルスはその様子を見て恨めしそうにする。
「眠いなら寝るといい。
さっきも言ったが、病人はさっさと寝て身体を治せ」
そういうと、上体を起こしていたエルスの背から毛布を取り上げ、寝かせる。
そしてそのまま毛布を掛ける。
「あ……」
毛布をかけられたところで、エルスはその動作を起こしていた。
令の服の袖口を少しだけ、だがしっかりと掴む。
自分でも無意識だったのか、その目は大きく見開かれていた。
「あ、あの、これは……その……」
その口から出る言葉は言い訳にすらならず、顔は真っ赤に染まる。
そんなエルスとは対照的に、令は驚いた様子もなく苦笑する。
「エルス、右手を」
エルスは意図が分からず混乱するも、言われた通りに右手を差し出す。
令はその右手をとる。
「じっとしてろよ」
そして、意地の悪い笑みを浮かべる。
なにやら、嫌な予感がした。
令がこういう笑みを浮かべることは多い。
そして、それはすべて悪戯をする前のこと。
そのことをよく理解しているエルスは、これから起こることに戸惑いと若干の恐怖を覚え、冷や汗を流す。
結果的に言えば、彼女の予想は半分だけ当たった。
令は左手に、どこからか赤い毛糸を取り出す。
そしてその毛糸で、エルスの右手と自身の右手を雁字搦めにしていく。
「えーと、レイ様……?」
意図が全く読めず、エルスは茫然と語りかける。
当の令はそれに答えずに黙々と毛糸を巻き、最終的にしっかりと解けないよう結んでから余った糸を歯で噛み切る。
「よし」
そして満足げにうなずく。
「君が起きるまでは俺はこうして傍にいる。
だから安心して寝ろ」
最後にそう告げると、令は残った左手だけで器用に本を読み始める。
しばらくの間エルスは言われた内容が理解できなかった。
だが、徐々に頭へと言葉の意味が浸透していき、それにあわせ、顔がどんどんと赤くなっていく。
「あ、あの! えと、そんなに迷惑をかけるわけには……!」
さっき袖口をつかんだのは、自分が寝てしまったら、傍から彼が消えてしまうのではないかと不安に思ったから。
そしてその内心をたやすく見透かされたかのように、令はこのような提案をしてきた。
そのことは、これ以上ないほど嬉しかった。
嬉しいが、そこまで迷惑をかけられるはずもない。
そんな思いから、エルスはその糸を解こうとする。
「いや、やめたほうがいいぞ。
これは俺の故郷にある言い伝えなんだが、関係の深い者同士は赤い糸で繋がってて、それが切れると関係が絶たれるとかって言われてる」
その内容に、エルスは口を魚のように開閉させ、行動を停止する。
所詮言い伝えは言い伝え。
それを鵜呑みにするのもどうかとは思うが、しかし、それを微塵も気にせず行動できるほどの図太さは彼女にはなかった。
そのうえ、女性であれば、『このような』類のものにはどれだけ信憑性がなかろうと、縋り付きたいもの。
だからエルスはどうしていいかわからず、糸を解こうと伸ばした左手を所在なさげに彷徨わせる。
「いいから寝ろ」
そういいながら、令は空いた左手で優しくエルスの額をなでる。
「これ以上心配させてくれるな」
そして、その言葉をもう一度つぶやく。
「……はい」
その手のぬくもりが、エルスの意識を遠ざけていく。
その言葉が、エルスの不安を取り除いていく。
だから彼女は、肯定を示す。
相変わらず自分は迷惑をかけることしかできていない。
今抵抗しても、却って彼を困らせるだけ。
だから、今はこれでいい。
このことを悔いて、反省して、それでもふてぶてしく開き直ろう。
そして、これからを創ろう。
今よりも成長した、よりよい未来を。
彼女は、重くなっていく瞼を静かに受け入れる。
最後に見た彼の姿に、新しい望みを胸に抱きながら。
目の前に女性が眠りにつき、静かな寝息が聞こえだす。
彼女の頬に触れ、完全に寝付いたことを確かめ、令はこの寝室の扉を見やる。
「待たせたか?」
「待ちはしました。
が、別に苦ではありませんでした。
貴方の珍しい姿が見られましたから」
問いかける声に答える声。
扉が微かに軋む音を立て開き、その金色を揺らしながら部屋に入ってくる少年が一人。
彼、クルスは余計な前置きが要らないことを知っているために、直ぐに用件を切り出す。
「レオンさんが」
「分かった。把握した」
「それは何よりです」
終了。
他に例を見ないほどの手短な会話だが、彼らはそれでお互いに納得した。
「ちなみに、どうなった?」
「一つ目の袋から何かを取り出して、まるで処刑前の罪人のような沈痛な表情でそれを食べたら『アパパパパ』とか言いながら床を転げまわり始めました。
今はルルが頸動脈を絞めて沈黙させてますが、起きればまた暴走が始まるのではないかと」
ちなみに、その光景を少数ながら他の人に見られたのだが、その人たちは驚いていたもののどこか納得したような目をしていた。
既に変人と思われていたことが、ある意味いい方向に働いた結果だろう。
……もはや、レオンの社会復帰は絶望的と言えるかもしれないが。
「それに関しては、他の袋に入ってる飴を口の中に捻じ込めば解決するぞ。
あの中には錯乱飴の毒素と幻覚を打ち消す解毒飴と鎮静飴が入ってるから」
それに慌てることなく、すべての元凶は平然と解決策を提案する。
治す術をキチンと用意してるあたり、そこらの犯罪者よりはまともと言えるだろうか。
その言葉を聞いて、クルスは安堵の溜息をつく。
その様子を見て、令はこの部屋から出ていくものだろうと考えていた。
用事は済んだのだから、無駄に病人の傍に居て体調に悪影響を与えるような真似はしないだろう、と。
「……本当に、珍しいですよね」
だが、クルスはそのまま部屋に佇み、令を真っ直ぐに見つめる。
その視線を感じたのか、令はエルスから視線を外しクルスへと振り返る。
訝し気な視線に晒されても少年はその目を逸らさない。
「いつもの貴方なら、結果は同じでしたでしょうがもう少し毒を吐いてると思うんですが、不自然に優しかったですね。対応も、言葉も。
妙な言い伝えまで持ち出して無理やり納得させてましたし」
いつもの令なら、はじめはもっと精神的にボロボロになるまで痛めつけた上で間違いを正させる。
そうした方が、より相手がそのことを意識し、再犯を防止できるからだ。
それに、令は無駄を嫌う。
必要な最小限の言葉だけにとどめ、それで最大の効果を対象に与える。
だが、今回はそんな彼らしくもなく、不必要な優し気な言動が多かった。
そして、言葉にはしなかったが、何よりおかしかったのは、彼が断片的とはいえ過去の話をしたことだ。
いままでどれだけ聞いても話すことはなかったというのに、今回は簡単に話をしていた。
「へえ、そうなんだ」
そんなクルスに令は、曖昧な笑みを浮かべる。
それは嬉しがっているようにも、嫌がってるようにも感じられた。
「まあ、言いたくないならいいんですが」
だからクルスは聞かない方がいいかと思い直し、逃げ道をつくる。
嫌われるようなことになるのはいやだったから。
「苦手なんだよ」
だが、令はそれを無視する。
クルスから視線を外し、椅子の背もたれに身体を預け、結んだ右手を見つめる。
「何が、ですか」
「女性の泣き顔が」
予想もできなかった答えに、クルスは軽く目を見開く。
目の前の男が、そんな普通の理由で人の心配をすると思えなかったのだ。
そんな考えが透けて見えたのか、令は今度は苦笑を浮かべた。
「もう一つ言っておけば、あの言い伝えは俺が勝手にアレンジしたものだからな。
都合がいいように改変してあるから鵜呑みにするんじゃないぞ」
「……わかりました」
どうでもいい話をふる。
これが令のこれ以上話意志はないというサインだとクルスは理解する。
どこか納得していなさそうな顔をしていたが、クルスはこれ以上話しても聞けることはないと察し、部屋を出ていこうと扉にてをかける。
「クルス」
その背中に、令は呼びかける。
クルスは何かと振り向くが、令はクルスの方を向かない。
ただそれでも、確かに彼へと声を向ける。
「君が抱える望み……それが叶うことは絶対にない。
まあこれは君が一番分かっているだろうが」
クルスはその時どんな顔をしていいたのか、令にはわからない。
「……わかってます」
ただその固い声。
「分かっていても、僕はそれを為したいんです。
貴方もわかってるでしょう」
それから予想することしかできなかった。
そして今度こそ、扉の閉まる音がする。
令はエルスをじっと見つめる。
彼は女性の涙が嫌いである。
自身の母親と重なってしまうから。
彼の母親は、彼が風邪をひいてしまうと身体に鞭を打って彼の看病をした。
それに従わないと怒鳴られた。
それでも従わないと包丁を振り回された。
そして、彼は一度だけ、それでも従わなかったことがある。
身体が弱い母を心配し、自分のことは自分でできるとひたすらに言い張ったのだ。
すると、彼女は泣き出した。
そして懇願してきた。
こんな時くらい力にならせてほしい。
普段こんな身体で子供たちの役に立てない自分に、こんなときくらい何かをさせてほしい。
そう、涙を流しながら、訴えてきた。
彼は、何も言えなかった。
そんな母の姿と重なってしまうために、彼は泣く女性にはある程度対処が甘くなってしまう。
そのうえ、今回は、その役に立ちたいという想いをぶつけてくるそのさまが、さらに彼の母を思い出させた。
「……ままならんなあ」
苦笑を浮かべながら、令は頭を振る。
悪い方向に行ってしまいがちな自分の頭を切り替えるために。
そんな彼の視界にあるものが掠める。
令はそれを手に取る。
それは、ボロボロになったシャツ。
先日レオンが壊したもの。
「お前も、大概規格外だよな……」
いまここにいない、男へと賞賛と侮蔑の入り混じった言葉を漏らす。
「ただ念じるだけで、魔法のまの字も理解してないで、この服を焦がせるわけがないだろうに」
その服をほうり投げ、軽く指を鳴らす。
服は一瞬で炎に包まれる。
だがその繊維は炎に負けることなく残り、パサリと音を立てて床に広がる。
「分かれよ、レオン」
その様子を見送った後、令は自身の結ばれた右手を茫洋とした目で見つめる。
「でないと、お前も亡くしてしまうぞ。どうしようもなく大切なものを」
その霞んだ眼に映るのは過去の光景。
燃える人に伸びる右手。
ささくれた木の枝のように骨が突き出した腕を握る右手。
死にゆく大切な者の頬に触れる右手。
恩師の血で染まった右手。
そして、助けたかった者を死へと追いやる右手。
今まで、何もできなかったその右手。
「お前は、『まだ』なんだから」
その目から光は消え、あるのは深い黒。
およそ常人とは、それどころか人情味のかけらも感じられない。
「んう……」
そんな堕ちかけた思考を拾い上げるのは、むずがるような声。
その主、エルスは彼の右手を両手で包み込み、自身の胸に抱え込む。
人並みより多少あるふくらみが感じられる。
そんな健全な男子なら堕ちそうな状況だが、彼はそんなことは頭に全くなかった。
手を抱えるエルスの顔は穏やかで安らぎに満ちている。
それを与えているのは、今まで何もできなかったそれ。
出来なかったことができている。
その事実に、少し令は目を見開く。
しばらく茫然とした。
「本当に、ままならんな……世の中」
彼は、背もたれに身を預ける。
そんな彼の顔は、少しだけ光を取り戻していた。
夜に広がる月のように、静かに。微かに。
そして確かに。




