風を見たひと(3)
「これだけあれば足りるわね」
魔女リュスラーナに促され、エイノとソフィは終わらない朝焼けの空に背を向けた。
「わっ! さむうい!」
すると突然、渦巻く風が彼らを包み込んだ。
エイノはとっさに顔をかばった。
彼の背に少女が身を寄せる。
ソフィの絹糸のような金髪がぐしゃぐしゃになったころ、それはぱたりと止んだ。
「リュスラーナ。お届けものだよ」
聞こえた言葉をたどって瞳を開けると、そこに人が立っていた。
少年は目を疑ってごしごしとこすった。
視界の端でソフィの口があんぐりと開いたままになっている。
エイノも同じ気持ちだった。
その人はたった一瞬で現れた。
二人は魔法のような現象を目の当たりにしたのだ。
その人物は頭に、髪の代わりに羽を蓄えていた。
顔立ちも見慣れた人間よりも尖っていて、切れ長の瞳は離れて横についているようにも見える。
鷲が人に化けた姿だと言われれば納得するような、不思議な風貌をしている女性だった。
「ブラーサ。ちょうどいいところに来てくれたわ」
魔女と客はエイノたちがよく知る方法で――互いに抱き合って再会を喜ぶと子どもたちに目配せをした。
不思議な客の下瞼が上へ動きまばたく。
「おや。先客は人の子か」
「そうよ。それにしてもちょうどよかった。あなたに乾かしてほしいものがあったの」
「それならお安い御用だ」
ブラーサは尖ったくちびるをすぼませると、リュスラーナが差し出した籠の中へと吐息を吹きかけた。
すると、ところどころ湿っていたガラス片や貝殻、透き通るまで結晶化した植物を一気に乾かしてしまった。
ついでに水分を含んでいた砂まで飛ばされた。
「すごい! 魔法みたい!」
エイノの背後からソフィがたまらず声を上げた。
関心が恐怖を上回ったようだ。
だがブラーサの顔を見ると一瞬怯んだ。
それを含めてブラーサは笑った。
「魔法ではない。〈吹くこと〉は私たちにとって生きていることと同義だ」
彼女の真摯な答えにソフィは満足しなかったようだ。
「それじゃあ〈吹けなく〉なったら、死んでしまうの?」
「そう言えるだろうね」
「人の息と同じ、なのかな……?」
頷くブラーサと首を傾げるソフィとを魔女が仕切り直す。
「そうそう。まだ受け取っていなかったわね」
彼女のやけに朗らかな声がエイノの耳に引っかかった。
ブラーサは肩から提げていた鞄から混色の毛糸玉が二つ三つ入った透明な袋を取り出し、魔女に差し出した。
ぼんやりと光を放つそれを大切そうに受け取ったリュスラーナの赤い瞳が細められる。
「まだ、暖かい。ありがとう。パパによろしく伝えて。それから帰る途中に旅人の様子も見てあげてくれないかしら」
「そうしよう」
風の女は満足げに頷いた。
そして両腕を使って胸を広げ、空気を吸い込み始めた。
その量に合わせてブラーサの体もどんどん大きくなってゆく。
エイノは彼女の有様にゴムでできた風船を思い起こした。
あれと同じならば。
考えがよぎると同時に、体が縮こまる。
ブラーサは体にたっぷり空気を蓄えて肥大化した。
そして吸い込むのを止めると目をむいて、案の定、その場に突風を巻き起こした。
エイノとソフィがかまいたちに体中を撫でまわされ乱されたあとには、風船にはつきもののしぼんだ何かは無かった。
「ねえ、ルー。さっきの人は?」
エイノが尋ねるより先にソフィが口を開いた。
彼女は少年が思っていたよりも利発な娘のようだ。
適切な機会を見極めながら質問できる賢さがある。
「風の一族、ヴィンドゥールのブラーサよ」
魔女は心なしか軽い足取りで子どもたちを連れだってアトリエに戻ると、先ほどの配達物をテーブルの上に広げた。
透明に見えるほど薄く織られた金繻子の袋から、ふわりと夏の匂いが形を持って現れた。
それとは対象的に、くりぬかれた鉱石のようなペンダントライトは冬の結晶のようにひんやりとした輝きを部屋にばらまいていた。
まだらに染めた毛糸のように見えた玉はそこに転がっているだけだ。
エイノは春めいた色合いに惹かれて思わず指を伸ばしてしまった。
すると、触れたところから薄桃色がとろけ出して手のひらの上で花の形をとった。
それは丸く揃った花弁のコスモスだった。
魔法に魅入る少年をリュスラーナが嬉しそうに見ている。
「あなたの言った通り。ここ、ランダメリは普通じゃない。太陽も月も登らない。だから植物が一番生き生きする姿は見られない。でも、こうやってヴィンドゥールたちが色々と持ち寄ってくれるから、助けられているわ」
魔女の声がどことなく寂しげに聞こえたので、エイノははっとして彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。
けれども赤に彩られた口元はほころんでいた。
ソフィは魔女に勧められるまま毛糸玉から夏の花と香りを取り出して喜んでいる。
しかしエイノは素直にはしゃげなかった。
「こんな辺鄙なところとあなたは言った。世界の満ち引き、生命の輝きを見たいのならもっとふさわしい場所に住まえばいいじゃないか」
彼の提案にリュスラーナの顔は不思議と浮かばなかった。
「そうね。でも人の世に私は余るのよ。静かには暮らせない。ここはいいところよ。明けもせず暮れもしない。昼だって、夜だって、足をのばせばいつでも見に行ける。だって、リュオスとミュルクルに一番近いところだもの」




