46 地獄の扉
静香は歩道を歩いている。
バイトの時間には早いが、先にスーパーに寄るつもりだった。
値引きモノはないかもしれないが、少なくなった乾物類を買ってからバイトに行くことにしたのだ。
バッグに入れておいても、乾物なら大丈夫。
予備校は結局、昨年末でやめてしまった。
経済的な問題が第一だったが、では、親が無条件で「出してやる」と言ってくれれば続けるのか? と問われれば、そうとも言えなかった。
静香は、美大に行きたいのかどうかも、分からなくなってしまったのだ。
郵便局のアルバイト職員・萌百合静香——という外形の中は、いつの間にか再び空洞になってしまっていた。
バイトが終わってからスケッチブックを開いてみるけれど、何も描けなかった。
部屋にイーゼルは立ててあるけど、自主練のデッサンは遅々として進まなかった。
願書だけは出してみたけど・・・。
こんな調子で受かるとは思えない。
そんなふうにしているうちに、受験日は過ぎてしまった。
今は、ただバイトをしているだけ・・・。
杏奈は受かっただろうか?
響くんはどうだったろう・・・?
わたしは・・・、この先をどうしたいんだろう・・・?
・・・・・・・・・・
親の元に帰って、自分を騙し騙しゲームを続けるか・・・。
どこかに新しいカードを探しに行くか・・・。
そんなもの、あるんだろうか?
それともいっそ・・・・。
ゲームを、降りるか・・・。
前方から小学生の一団が歩いてきた。
先生らしい人が引率している。
野外学習か何かだろうか。
静香は邪魔にならないように、歩道の建物側へ身をよせた。
「はあい、車道に出ないようにねぇー。」
引率の先生が子どもたちに注意する。
子どもたちは元気で、はしゃぎ合って、ふざけながら歩道の端まで行ったりしている。
女の子と男の子が、当たり前のようにじゃれあって笑っている。
静香にはなかった子ども時代・・・。
すれ違いざま、その子どもたちの声が、静香の耳を通して、頭痛がするほどに頭の中に響き渡った。
ふいに、静香を恐るべき邪悪な衝動が襲った。
突き飛ばしてやりたい!
車道に。
世間の毒でうす黒く濁った「萌百合静香」の空洞の中に、突然はっきりとその扉は見えた。
まるで、おいでおいでをするように、その扉はひどく魅力的に見えた。
苦しいだろう?
ほら、ここが出口だ——
静香は耐えた。
それはやっちゃだめだ!
その扉は開けてはいけない。それは・・・
かろうじて踏みとどまることができたのは、三谷くんや忍の顔が浮かんだからかもしれなかった。
その扉を開けたら、もう永遠に彼らと会うことはできない。
そんなふうに思えたからかもしれなかった・・・。
子どもたちが通り過ぎたあと、静香はまだ体の芯が震えているままで、固く握りしめていた手をゆっくり開いた。
爪が食い込んで、手のひらに血が滲んでいた。
「すみません。ちょっと体調が悪いので、今日は休みます。」
バイト先の郵便局にスマホで電話を入れると、静香はアパートの方に戻りはじめた。
あれは・・・たぶん、地獄への入り口・・・。
少し前、イベント会場へ軽トラで突っ込み、人を大勢轢いてから、ダガーナイフで何人も刺して回った25歳の男のことがニュースになっていたのを静香は思い出した。
ニュース映像では、まるで小さな子が飛行機の真似でもするように、両手を広げて、ぶーん、と走り回ってはうずくまった人を刺していた。
あんなことがなぜできるんだろう? とその時は思ったが、今なら少し分かる気がする。
彼もきっと、空洞だったんだ——。
25歳のフーセンの内側にへばり付いた、人の形さえしていない生き物が、染み込んできた毒に耐えかねて痙攣していたんだ。
そして、空洞だからこそ、見えてしまったんだ。
あの、たぶん誰の中にもあるんだろう、地獄の扉が・・・。
ちゃんと中身のある普通の人たちは、あんなものは見えないんだろう。
そして、彼はその扉を開けてしまったんだ。
引き止めてくれる誰とも出会わないままに・・・・。
アパートの部屋に入ってから、静香は忍に電話をかけた。
声が聞きたかった。
聞こえてきた声は、忍のものではなかった。
「ただいま電話に出ることができません。ご用の方は、ピーという音の後に・・・」
静香は電話を切った。




