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42 見るということ

「あなたたちね、他人ひとの心配する前に自分の心配しなよ? 仲間かもしれないけど同時にライバルでもあるんだぞ? 誰かが受かれば誰かが落ちる。それが受験ってもんだぞ?」

 古瀬先生は杏奈に向かってニベも無い言い方をした。


「おまえ、またそういう言い方を・・・。」

 昼間部の先生だろうか、ヤギみたいな顎髭を生やした年齢のよくわからない先生が古瀬先生をたしなめた。

「一応、塾生は『お客様』なんだからな?」


 しかし、古瀬先生は意に介さない。

「ホスト業じゃないんだ。お金もらってるからこそ、合格させるのが俺たちの仕事だろ?」


 それから、深くため息みたいに息を吐き出して杏奈に向き直った。

「石井さん、それに萌百合さんも。2人とも志望は名美だったよね? 大丈夫。受験までにはちゃんと合格圏内にまで持ってってあげるから。特に萌百合さん、あなたは受験テクニックさえ身につければ芸大だって射程内だ。石井さんも今の調子でいければ、ほぼ間違いなく来年は名美生になれるよ。」


「わたしのことじゃなくて・・・」

と言いかける杏奈を片手で制して、古瀬先生は続けた。

「だが、響くんはあのままじゃ何浪しても芸大の合格は望めない。ダメなら早いうちに別の道に方向転換させてやるのも、本人のためだ。」


 杏奈も静香も思わず息を呑む。


 杏奈は高校でも響孝之のことはあまり好いていないが、それでもこの宣託は酷すぎると思った。

 あいつが絵の上手さを鼻にかけてるのは、あいつにはそれしか無いからだ——と杏奈にも分かるのだ。

 あいつは絵の世界で認められたいのだ。


「それは・・・」

と食ってかかったのは、意外にも静香だった。

「そんなこと、先生が決めることじゃないと思います! 何がダメなのか、ちゃんと説明して、本人が納得して決めるんじゃなきゃ!」


 杏奈は、いや誰よりも古瀬先生が、普段おとなしい静香のこの剣幕に驚いたようだった。

「いや・・・」

と、古瀬先生は少し怯んだような顔をする。


「響くんはね。才能がないわけじゃないと思う。だけど、今のままじゃあいつはくだらないプライドの殻が邪魔して、そいつが表に出てこないんだ。芸大はそれじゃ通用しない。教授陣の目は節穴じゃないし、芸大は個人の救済機関じゃないからね。」


「まあ、そうだね。」

と顎髭の先生が言う。


 古瀬先生は続けた。

「萌百合さんと真逆なんだな。萌百合さんは溢れるような感性にテクニックがついていってない。一方、響くんはテクニックだけに頼って描いてる。テクニックだけなら、2浪3浪の浪人生の方がはるかに上なんだよ。そして、それだけでは受からない。」


 少し考えてから、古瀬先生は静香に言った。

「萌百合さん、悪いけど明日だけちょっと響くんのためにダシになってくれる? きみの課題とは離れてしまうけど、まあ1日くらい息抜きがあってもいいだろ?」


   *   *   *


 翌日の夕方、響孝之は暗い表情で少し遅れて現れた。


「来たか。もう来ないかと思って心配したぞ?」

 古瀬先生が何かの箱を持って、孝之に声をかけた。

「後期授業料、入らないと困りますか?」

 孝之が不貞腐れたように言って、カバンを置く。


「拗ねてる。」

 杏奈が静香を肘でつついて、面白そうに小声で言う。


「あなたは今日はこれを使ってデッサンしてごらん。」

 古瀬先生はそう言って、手に持った平たい箱を渡した。

 24食のパステルだ。

「?」

「石膏像を、よぉっく見て。」


 そうして古瀬先生は、いつもどおりアトリエ室の隅に行って椅子に座った。


 ああ、あれ。

 と静香はちょっと微笑んでしまう。

 於久田先生にやらせてもらったやつだ。

 他の学生はみんな何も言われないので、いつもどおり木炭で描いている。もちろん、静香も。


 孝之は何をしていいか分からない、といった様子で、パステルの箱と石膏像を交互に見ている。

 手はまったく動かない。


「響くん。石膏像は白にしか見えないか?」

 古瀬先生はそう言って立ち上がり、静香の方にやってきた。

 手にはもう1つ、同じパステルの箱を持っている。


「萌百合さん。あなたの課題じゃないけれど、見本を見せてやってくれる? 今日だけは受験を意識しなくていいから、()()()()()()()で——。」


 静香は古瀬先生が何を伝えようとしているのか、理解した。

 そうか。

 響くんには、石膏像が白にしか見えてないんだ。忍が最初に戸惑ったように。


 静香はデッサン途中の木炭紙に定着液フェキサチーフをさっとひと吹きしてから、パステルの箱を開けた。

 木炭でパステルの色が濁らないようにだ。


 久しぶりだな。色、使うの。


 白い石膏像にまわりの色が反射している。

 見ているうちに、少しあの時の感覚が戻ってきた。

 パステルを手に取って、画面にこすり付け始める。

 静香の中に、泉から水が湧き上がるようにして何かが満たされてゆく感覚があった。

 みるみるうちに木炭だけで描かれていた石膏像はカラフルになってゆく。


 孝之がそれを呆然と眺めている。

 いや、孝之だけじゃない。

 他の学生たちも手を止めて、静香の後ろにきてそれを眺めていた。


 これは・・・。

 目の前に置いてある石膏像の絵なのか?

 たしかに、形も光の向きも、そのようには見えるが・・・・。

 萌百合さんの目にはこんなふうに見えているのか?


「どうだ、響くん? 萌百合さんのデッサンはデタラメに見えるか?」



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