40 予備校へ
静香は於久田先生の勧めもあって予備校に通うことになった。
ただし、他の浪人生たちのように昼間部ではなく、昼間はバイトしなければならないから夜間部だ。
静香は無謀にも親の援助を断った。
「自立したいから」というのが親に語ったその理由だ。
半分は本当で、半分は今の環境から離れたいからだった。
離れなければ、いつまで経っても静香の内部は混乱したままのような気がしたのだ。
特にこれからは毎日忍たちに会えるわけではなくなるのだから——。
あの教団をめぐる平行線の中に戻ってしまえば、せっかく積み上げてきた内面の「しずか」がまた壊れてしまうかもしれない。
うっかりすると時々今でも顔をだすミロク天使やお師さまの教えやらが、緩んだレゴブロックの隙間にカビのように繁殖して、静香を内側からおかしくしてしまいそうな気がするのだ。
静香はそれら偽物の黄金像を払い退けながら、その空いた隙間に1つずつ、忍や他の皆から学んだものを積み上げて、萌百合静香18歳の中身を作ってきたのだ。
「バイトも見つけたし、予備校も近いし、どこまで自分でやれるか、チャレンジしたいんだ。」
そんな心にもない前向きなことを言った静香の言葉を、父親は成長と捉えてくれたようだった。
「18といえばもう大人の仲間だもんな。苦しくなったらいつでも言ってくるんだぞ? うちにお金がないわけじゃないんだからな?」
一方、母親はものすごく寂しそうな顔をした。
静香の心が、ちくり、と痛む。
それは嘘をついたから・・・だろうか?
でも、この環境の中にいたら、わたしは偽物の黄金像を抱えたままになってしまう。
今はとにかく、離れなくては・・・。
予備校では、いちばん初めに美術部でやったようなデッサンをやることになった。
「うん。いい感じだね。感性は悪くないと思う。」
夜間部の担当、自身も現役の名美生だという古瀬先生は静香のデッサンを見てそんなふうに言った。
「でもね、受験には受験用のデッサンってのがあってね。あまりそっちに引きずられるのも良くないけど、今はちょっとテクニックも勉強しよう。」
そう言って、木炭を立てて使ったり寝せて使ったり、布で軽くこすったり強くこすったり、指の腹を使ったり・・・というやり方を教えてくれた。
同じ木炭でも驚くほど多様な質の表現ができ、それによって1枚の紙の面にあるのに飛び出て見えたり背後に引いて見えたりすることを静香は知った。
「テクニックだけで描こうとすると絵がダメになるけど、あなたの場合はその心配はなさそうだしね。テクニックを学ぶことで表現の幅は広がるし、受験が終わってもそれはいつか役に立つ時がくると思うよ。」
予備校の美術コースの廊下に、今年合格した人たちのデッサンが10枚ほど掲示されている。
静香はそれを見て驚かざるを得ない。
まるで壁にニッチェのように穴が開いて、その中に石膏像が置いてあるみたいだ。
立体感がハンパない。
現役合格の人のデッサンも2枚あった。
ここまでいかないと合格できないのか・・・。
あの御堂先輩が1浪するわけだ。
この春にわたしが落ちたわけだ・・・。
最初に美術部で見た時に「すごい」と思った忍のデッサンなんて問題じゃない。
これが「美大」のレベルなのか・・・。
忍が「デザイン科のある短大に進む」という選択をしたのは、正解だった——と言えるだろう。
静香は、現実を見ていなかった・・・と改めて思った。
家のことや「宗教」の残渣に気を取られ過ぎていたかもしれない。
ちゃんと現実を見なきゃ・・・。
ただ、そんな静香の描くデッサンや水彩画は、古瀬先生の評価では上々だった。
「うん。いいね、いいね。この調子で伸ばしてゆけば、現役合格も夢じゃないよ。」
静香はその言葉で嬉しくなる。
認められたことが、嬉しくなる。
うん。頑張ろう。
そういえば、静香の絵をこんなふうに褒めてくれたのは、美術の於久田先生が最初だった。
ただここでは於久田先生が褒めてくれたような奔放な色彩ではダメ出しされ、もっと実際に近い色使いをするように指導される。
「その感性はとてもいいけど、それは2次試験にとっておこう。まずは1次のデッサンを突破しなきゃね。」
古瀬先生はそんなふうに言った。
こういうことも、試験のテクニックとしては必要らしい。
静香は、世間というものをまた新たに見たような気がした。




