善人にはなれない
「何であんなことしたんだ?」
今に知ったことではないが、弘樹の軽トラの助手席は、バイクの後部座席よりも乗り心地が悪い。その上空気まで重いから、居心地も最悪だ。
指輪のことを言っているのであろう弘樹は、店を出てからずっと不機嫌だった。今まで無言だったのは、いつ切り出すのか、タイミングを計っていたに違いない。
「ねぇ兄さん、またバイク、乗せてくれる?」
「由佳!」
「そんな大きな声出さないでよ。耳が痛いなぁ、もう」
右の耳を手で押さえて、由佳は唇を尖らせる。今のやり取りで余計に不機嫌になったらしい弘樹は、険しかった顔を、更に顰めていた。
「兄さんってさぁ、どうして私があんなことをしたのか、本当に分からないの?」
「わかんねぇから、聞いてんだろうが」
鈍いのもここまできたら、頭にくるレベルだ。というか弘樹は由佳のことを、これっぽちもそういう対象で見ていないから、気づかないのだ。前から分かっていたことだけど、これだけあからさまに突きつけられると、腹が立つ。
「兄さんのバカ」
「はっ?」
「鈍感、嘘つき、大っ嫌い!」
言いたいことだけを言い、そっぽを向く。その態度が気に入らなかったのだろう。
「んだよっ、何が言いてぇんだ、お前は!」
怒鳴った弘樹に、負けじと由佳も声を張り上げる。
「3つ目の信号を右!100M直進して左に折れたらウチ!」
「はあぁ?」
そのまま口を噤むと、隣から大きなため息が聞こえたが、窓の外に目を向けて、由佳は無視をきめこんだ。
人工的な明かりが点っているとはいえ、外はもう暗い。数少ないながら空に星が見えるこの時間は、いつもなら家で食事の片付けをしているか、入浴の最中だ。
ふと、今日は楽しかったな、と思う。色々あったけど、それでも。
1つ目の信号を通り過ぎ、2つ目の信号も過ぎる。あと少し。あと少しで、今日とはお別れだ。
「奈月さんが、羨ましい。奈月さんだったら・・・兄さんとずっと一緒にいられたのに」
感傷的になりすぎたのかもしれない。ぽろりと本音が零れ出た。
同じ女で、同じ年齢で、外見だけなら由佳のほうが年上にも見えるのに、いつまで経っても妹分から抜け出せない由佳とは違い、奈月は弘樹と対等に並んで歩ける場所にいる。それは例えば高校生の由佳が弘樹から離れず、ずっと傍に居続けたとしても、弘樹と奈月が出会った時点で、同じ結果になっただろう。だから由佳は、奈月が羨ましい。
由佳は弘樹のほうを向いた。真っ直ぐ前を見てハンドルを握る、心なしか緊張しているような顔つきの弘樹に、よかった と息を吐く。
これでも気づいてもらえなかったら、どうしようかと思った。
「大っ嫌いなんて嘘だよ。兄さんが好き。私は兄さんのことが好き。それが、あんなことをした理由」
本当は伝えるつもりなんか、なかったのだ。結果は分かっているのだし。
それなのに胸が高鳴る。気分も高揚している。生まれてはじめての、告白だからなのかもしれない。
「由佳、俺は・・・」
「うん」
「俺は、奈月が好きだ。だから、由佳の気持ちには答えられねぇ・・・悪い」
「うん、知ってる。でもありがとう」
目を伏せて、由佳は薄く微笑む。生まれてはじめての失恋は、考えていたよりもずっと、痛みを伴うものだった。
3つ目の手前で、信号が赤に変わった。車が速度を落して停まり、弘樹の顔が由佳のほうを向いた。
「気持ちには答えられねぇけど、俺は由佳が大事だ。だから一人で悩んだり、抱え込んだりすんなよ。しんどかったら、いつでも連絡してこい」
「兄さんなら・・・そう言うと思った」
弘樹なら、そう言ってくれると思った。
だけど困る・・・泣きそうだ。唇を噛み締め、グッと耐える。すぐに信号が青に変わり、弘樹が前を向いたので、気づかれずに済んだけれど・・・。
右折した車が街路樹の並ぶ通りを進んでいく。やがて突き当たった十字路を左に曲がれば、由佳の暮らすマンションは目前だ。
「兄さん、ここでいい」
そう告げると、弘樹はゆっくりブレーキを踏み、車を停めた。
扉のレバーに手を掛けた由佳を、
「由佳!」
弘樹が呼び止める。
「ねぇ兄さん、私がどうして正直に奈月さんに、指輪を返したと思ってる?」
由佳はレバーに添えた自分の手を見つめながら、ぽつりと訊いた。
けれど、
いつまで待っても、弘樹からの回答はない。少し考えれば、分かることなのに。
「兄さんと奈月さんに、また会いたいからだよ。私はもう大人だから、失えないものが何かぐらい、自分で考えて答えを出せる。だから、」
だからね、兄さん
「何度でも会いに行く。兄さんが邪魔だって言っても、何度だって・・・会いに行くんだから」
堪え切れなかった雫が、ぽろぽろ由佳の目から零れ落ちた。
由佳の言う大人とは、物分りのいい人間になることではない。そもそもそんな善人なら、指輪を買取ろうなんて最初から思うわけがないのだ。奈月が由佳の思っていたような人物だったら、弘樹が以前と変わってしまっていたなら、由佳は迷わず二人を引き離すために、あの指輪を使っていた。けれどそうではなかったから、指輪を返した。自分にとってプラスなのかマイナスなのか、狡賢く計算し、状況に応じた判断が出来る。それが由佳の知っている大人の姿だ。
弘樹が奪えないと知ったから、失わない手段を選んだ。
奈月がプラスになる存在だと知ったから、次に繋がる道を選んだ。
そんな本音を暴露すれば、弘樹は由佳を軽蔑するだろう。なぜなら、
「誰が邪魔だなんて言うかよ。思うことすらねぇよ!」
弘樹は知らないから。由佳とは全く違う、恵まれた道を歩んできた人だから。
「うん、ありがとう。またね、兄さん」
精一杯の笑顔をつくりそう言うと、由佳は車を出て、弘樹に背を向け大きく手を振った。そのままマンションの入口に向って歩き出す。
できることなら、弘樹には死ぬまで今のままでいて欲しい。その為に選ばれたのが奈月だったと思えば、少しは報われたような気にもなれる。
エントランスを抜けて、エレベーターで上へのぼり、見慣れた玄関の扉を開くと、綺麗に揃えられた男物の革靴が目に入った。それにほっとした自分に、由佳は小さく笑う。
ここが由佳の家。
由佳が現在を生きる場所だ。
「ただいま!」
結婚して初めてこんな時間まで留守にしていた妻に、夫は何か感じてくれただろうか?
初めて帰宅の挨拶をした妻に、声を張り上げた妻に、夫は気づいてくれているだろうか?




