嫌いではないから、困ります(中)
遅くなってしまった。
時計は夜の7時をまわっている。人通りの多い道を選び足早に歩いていた奈月は、10Mほど先にライトアップされた看板を見つけ、ふと足をとめた。
気分が重いのは仕事で疲れているせいもあるが、それだけではない。夕方受け取った弘樹からのメールは、原因の一つだ。
「そう思うなら、断ればいいのに・・・」
独り言を呟いて、クスッと笑う。
断らなかったのではなく、断れなかった。前回弘樹に迷惑をかけた自覚があるから。それに、あの時の彼女に、もう一度会ってみたかった。
弘樹との待ち合わせ場所は、奈月の住む部屋から程近い場所にある、ファミレスだ。どうやら彼女の家からも離れていないらしく、たった2回のメールのやり取りで決まった。
再び歩き出してから、すぐに辿り着いた扉の取っ手を引いたと同時に、温かい空気が冷気に晒されていた奈月の頬を撫でる。独特の香は夕食をすませていない胃には、些か刺激が強い。
いらっしゃいませ、何名様ですか?
制服に身を包んだ若いウェイトレスが声をかけてきて、それを断った奈月は店内を見渡した。学生や、奈月と同じ仕事帰りの客で賑わう店の中でも、一つ飛び出した金髪の頭を見つけるのは簡単だ。奈月が目的の席へと歩きだしてすぐ、顔を上げた弘樹と視線が絡まった。
「ごめんなさい、遅くなって」
「悪かったな、急に」
意図せず声が重なり、二人して気まずい顔になる。それが可笑しかったのか、弘樹の向かいに座っていた彼女、由佳が笑う。
「はじめまして、ではないですけど、話すのは初めてですよね。こんばんは、奈月さん。今日は無理いってすみません」
感じのいい笑顔で話しかけてくる由佳に、奈月は頷き、微笑んだ。
「こんばんは、由佳さん。私でお役に立てるかどうか分かりませんけど、よろしくお願いします」
さっと目を配らせると、それに気づいた弘樹が横にずれたので、一人分スペースのできたその場所に奈月は腰をかけた。バッグを開き、メモ帳とペンを取り出した奈月を、弘樹が驚いたように見る。
「夕飯まだだろ?俺らは家で軽く食ってきたけど、何か頼んでからにしねぇか?」
その提案は正直ありがたかった。けれど、
「私はまだおなか空いてないからいらない。兄さんと奈月さんだけ、何か頼んだら?」
続いた由佳の発言には、がっかりだ。それでも何食わぬ顔で、奈月は弘樹に笑いかけた。
「私も、ドリンクだけで大丈夫です。橘さんは、どうしますか?」
「いや・・・じゃぁ・・・俺もいいや」
テーブルの上に置かれたコップを2つ目にしたときから、何となくこうなる予感はしていたのだ。
弘樹の睡眠時間を考慮してのことなのかもしれないが、ウェイトレスにドリンクバーを注文し、奈月がコーヒーを注いだカップを手に席に戻ると、思いがけず、話はすぐに始まった。
由佳が言葉を告ぐたび、弘樹の気配が濃くなる。密度の増した空気は息苦しさを感じるほどだが、奈月は黙ってメモ帳にペンを走らせる。
「なにやってんだ、由佳。何で結婚前に親父とちゃんと話しねぇんだよ!」
話の終わりが見えた頃、とうとう押さえきれず感情を爆発させた弘樹に、由佳が黙って俯く。だが奈月の意見は違っていた。
環境が人に与える影響は大きい。特に生まれ育った家、家族は、その人間の人格を形成するにあたって、極めて重要な役目を果たす。この場合単純に話を受け止めるなら、由佳がNOといえなかった背景には、NOと言えない環境が既にあったと考えるのが、妥当だろう。しかしそれに他人が踏み入るのは、どれほど親しい間柄であっても、困難を極める。
「由佳さん、いくつか質問してもよろしいですか?」
顔を上げた由佳が頷いたのを確認して、奈月はメモ張に視線を落す。
「まずは、由佳さんのご家族に関してなのですが、現在、由佳さんと由佳さんのご家族が連絡を取り合う頻度、直接会うことは勿論、電話、メールを含めた回数はどの程度ですか?」
「結婚してから・・・家族とは年に一度、会うか会わないかです。連絡もほとんど・・・母がたまに、電話をしてくるぐらいで・・・」
「そうですか。次に、由佳さんとご主人についてですが、ご主人に想う女性がいたという話を、由佳さんがご主人に直接確かめられたことはありましたか?」
「ないです」
「そうですか。ではご主人が結婚後、外泊をした回数は?」
「食事は毎日外で済ませてきますけど外泊は・・・ないです」
「そうですか。では由佳さんがご主人に話しかけて、ご主人がそれを意図している、いないに関わらず、無視した、或いは無視された気がした、ということは?」
「ない・・・、かもしれません。あまり夫に話しかけたりしないので・・・」
何だろう?これは・・・
そうですか、と奈月が頷く。その度に、由佳は自分が責められているような気持ちになった。何故私ばかり、と反感を覚えるが、実際奈月の口から由佳を咎めるような言葉が出たわけではないので、何も言うことが出来ない。
「ではご主人の背後に、女性の影が見えた、ということは?メールや、香水の匂いなど、浮気の証拠となるようなものを見た、或いは、感じた、ということは?」
「それは・・・」
「おい、もういいだろ」
どんどん顔色を悪くする由佳を見るに見かね、制止の声を上げたのは、弘樹だった。最初に由佳を怒鳴りつけたのは弘樹であるが、何も本気で由佳に対して怒っていたわけではなく、むしろ心配しているし、今の今まで由佳の話をちゃんと聴いてやれなかった自分に憤慨した結果が、あぁいう形で出てしまっただけだ。しかし奈月のはまるで・・・
「必要なことです」
隣に座る弘樹に顔を向け、奈月はぴしゃりと言い切る。真摯な眼差しが繰り出す迫力に、弘樹は怯んだ。




