嫌いではないから、困ります(前)
由佳が突然弘樹の家を訪ねてきたのは、ばったり再会した日から丁度2週間が経った、平日の夕方だった。年明けから自分の畑の仕事や近所の手伝いで、精力的に動き回っていた弘樹が、ようやく一段落着いた頃だ。
奈月が家に来て以来、すっかり元気を取戻した母親は、久しぶりに家を訪れた由佳を歓迎したが、それでも奈月を迎え入れたときのような大袈裟な雰囲気ではなく、あくまで息子の友達を家に迎えた母親としての態度を崩さなかった。居間に熱い茶と茶菓子を用意すると、さっさと自分の部屋へ引っ込んだ母親に、弘樹は首を傾げたが、気にするほどのことでもないかと、テーブルを挟んで、由佳と向かい合う。
「悪かったな、この間は」
「ううん。私こそ、突然来てごめんね」
「悪いのは今度聞くとか言っときながら、連絡先も訊かなかった俺だから、気にすんな」
現在の由佳の連絡先を知らないことに弘樹が気づいたのは、由香と再会したあの日、奈月の部屋を出て、自分の家に帰った後だった。シマッタと思ったが後の祭り。そのうち急がしさにまかせて、由佳のことは頭の片隅に追いやってしまっていた。
気まずい、というか、申し訳ない。
けれど由佳が訪ねてきてくれて、助かった。
などと息を吐いたのも束の間、
頷いた由佳が、そういえば兄さん、と口の両端をニンマリあげる。
「あの時の人って、兄さんが待ち合わせしてた人だよね?」
弘樹が顔を強張らせたことに気づいたのだろう。
「彼女?」
からかうような口調に、一瞬で弘樹の顔は赤く染まった。他人のことならともかく、自分のこの手の話は、照れくさくて苦手だ。由佳から露骨に視線を逸らし、弘樹はぶっきらぼうに答える。
「彼女じゃ・・・ねぇよ」
「え?そうなの?なら、」
「彼女じゃねぇけど、結婚するかもしれない相手だ」
由佳が怪訝そうな顔をする。確かにこの説明で理解しろという方が、無理なのかもしれない。
「どういうこと?」
「だから、」
仕方なく弘樹は、奈月と出会い、今に至った経緯を、掻い摘んで由佳に話して聞かせた。それを相槌を交えながら聴いていた由佳は、話の最後に そうなんだぁ、と頷き、湯呑に両手を添えた。
「おばさん、元気そうに見えたけど・・・」
「あぁ、奈月が家に来てから、急にな」
母親のことに関しては、奈月の家の方角へは足を向けて寝られない、というぐらいに、弘樹は感謝している。これで奈月が嫁に来てくれて、子を産んでくれたら、文句のつけよう無く万々歳なのだが・・・
「でもさぁ、兄さんなら自力で結婚相手、見つけられたと思うんだけどなぁ」
独り言のようにそう言う由佳に、弘樹は顔を顰めた。
「見つかるんなら、見合いパーティーなんか行かねぇし・・・」
「兄さん意外とモテるのにね」
「俺が何時!誰に!モテたんだよ」
吠える弘樹に動じることなく、由佳は艶やかに笑う。世の中の女の皆が皆、見た目のいい男に惹かれると思ったら、大間違いだ。由佳だって最初は弘樹が怖かったが、それが別の感情へと変わるのに、時間はかからなかった。なのに、弘樹ときたら
「鈍いよね、兄さんは」
「いや、だから俺が何時、」
「兄さんばかりモテるのが癪だからって、川口兄さん辺りが邪魔してたのもあるけど、それにしても鈍すぎるよ」
「は?何だそりゃ・・・」
とんだ初耳話ではあったが、頭の中でほくそ笑む友人の姿が浮かび、弘樹は拳を震わせる。
あいつなら遣りかねない。それも周到な手口を使って。
川口は悪い人間ではないのだが、何かと嫉妬深く、嫁も随分それで苦労しているらしいのだ。
「次あったら絶対殴る」
奈月との約束があるから、暴力沙汰にならない程度に、きっちり報復はさせてもらう。
目を据わらせ不気味に笑む弘樹を見て、とっくに時効だと思っていた由佳は、心の中で川口に手を合わせた。
「それはそうと由佳、相談があったんじゃねぇのか?」
すっかり話が逸れてしまったが、切換の早さにはまぁまぁ自信のある弘樹は、冷めた茶を口に含み、気分を落ち着かせてから、本題に入った。ぎょっとしたような顔をする由佳を疑問に思いつつ、視線で促す。
「あぁ・・・うん、そうなんだけど・・・」
歯切れの悪い返事をし、由佳が目を伏せた。
「実は兄さん・・・私ね、夫と上手くいってないの。それで兄さんに相談をと思ったんだけど・・・」
「・・・あぁ」
「何ていうか・・・兄さんは男でしょ?夫も男だし、勿論それはそれで参考になるとは思うんだけど、できれば他の女性の意見も聞きたいなぁ、と思うのね・・・」
由佳が言わんとしていることは分からなくもないから弘樹は頷くが、心の内では首を傾げていた。なにせこの家にいる女は、由佳を除けば弘樹の母親だけなのだ。
だからね、と由香が伏せていた目を開き、弘樹を見る。
「兄さんの彼女に、一緒に聞いてもらえないかと思って」
「だから彼女じゃ・・・つか、奈月か!!??」
「うん」
驚きのあまり声が大きくなった弘樹に、由佳は申し訳なさそうな顔をしながらも、しっかり頷いた。
「いや、それは・・・」
「だってこんな話・・・よく知ってる人だと話しにくいし、だからといって、あまり知らない人に話すのも怖いし・・・兄さんの彼女・・・じゃなくて、結婚するかもしれない女性なら・・・信用できると思って・・・駄目かな?」
今にも泣き出しそうな顔で真剣に頼まれたら、相手が男であろうと女であろうと、断れないのが弘樹の性分だ。だが今日は平日で奈月は仕事だし、そもそも奈月がこの話に頷いてくれるのかも分からない。返事に迷う弘樹であったが、期待と不安が混じった目にジッと見つめられて・・・
「・・・訊いてみる」
ジーンズのポケットをまさぐると、取り出したケイタイを手に、廊下へと出て行った。由佳が膝に置いていたバックの持ち手を、しっかり握り締めたことには、気づかずに。




