恋のライバル出現ですか?(後)
会話のないまま歩き出してから、10分ほどが経過しただろうか。車道に面した場所にあるレンガ色の建物の前で、奈月は突然足をとめた。後ろを振り返り、
「ここです」
と、弘樹に向って言う。
築15年が経過した単身者用賃貸マンションは、外観こそ綺麗だとは言い辛いが、中はリフォーム済みであるし、駅から近く便利がいい、家賃がお手ごろ、という理由で、若い世代に人気の物件だ。
暗証番号を打ち込んでオートロックの扉を通り抜け、奈月と弘樹はエレベーターへ乗り込む。チンッという音と共に辿り着いたのは5階で、エレベーター側から3番目の扉に、奈月はバッグから取り出した鍵を差し込んだ。扉を開き どうぞ? と、弘樹を促す。
ここに来て弘樹は、少しづつ冷静さを取戻していた。奈月の言った 私の部屋 とはイコール、奈月が一人で暮らす部屋である。女の一人暮らしの部屋になど入ったことがない弘樹は、それを意識した途端に全身が強張り、動けなくなってしまった。
「橘さん?」
怪訝な顔で弘樹を見る奈月に、冷たい汗が背中を伝う。この見た目で何だが、弘樹は硬派な男だ。そして、健全な男である。一人暮らしの部屋に簡単に男を上げようとしている奈月が理解できないし、いくら話をする為だといっても女の一人暮らしの部屋に、男である自分が入っていいものなのか、今更ながら非常に迷う。
「場所は・・・部屋じゃなくても・・・いいんじゃねぇーか?」
若干震えが混じった気もしなくはないが、搾り出した弘樹の提案に、奈月が小首を傾げる。
「どうしてです?」
「どうしてって・・・」
「見物人がいたほうが話しやすいということですか?」
「そうじゃなくて・・・」
警戒心が薄いにもほどがある。これで交際人数が一人だというのだから、全く信じられない奇跡だ。
「カラオケボックスとか・・・あるだろう?男をそう簡単に部屋に上げんじゃねぇよ」
眉を顰めてそう言った弘樹に、ようやく要領を得たのか、あぁ・・・と奈月が苦笑する。
「それもそうですね。考えが足りませんでした。ですがもう、ここまで来たことですし、とにかく部屋に上がりませんか?この場所に長くいても、目立ちますから」
その言い分は納得だった。いかにも女住人の割合が高そうなマンションの通路に、自分のような男が立っているだけでも悪目立ちするのは間違いないと、弘樹は頷く。
「話が終ったら、すぐ帰るからな」
「それで構いませんよ?」
しっかり念を押すと、奈月がクスクス笑いながら答え、弘樹は拳を握って、未知の空間へと足を踏み入れた。
しかし、
まだ新しい木目調のフローリングが目を引くダイニングを通り抜け、言われるがまま奥の部屋に入ると、弘樹は頭を抱えたくなった。
1DKである奈月の部屋は当然、ダイニング以外には寝室を兼ねた部屋しかない。つまり弘樹が通された部屋には、奈月が普段寝起きしているであろうベッドが鎮座しており、弘樹の視線は無意識に、そこに吸い寄せられてしまう。
自分の部屋をどう使おうと勝手だが、ダイニングはダイニングとして使えと、今だけは声を大にして言わせてもらいたい。テーブルや椅子の影も形もないガランとしたそこは、本来の目的を果たさず、広いキッチン、もしくは通路と成り果てているようだった。
「適当に座ってください」
トレーにお茶の入ったグラスを2つ乗せ、部屋に入ってきた奈月に虚ろな目を向けて、弘樹は素直にベッド横の白いラグの上に腰をおろした。ラグの上の丸テーブルや、ローソファ、布団とカーテンはミントグリーン、残りは白で統一された部屋は爽やかな色合いだというのに、どこか卑猥で甘い香が漂っている気がしてならない。
「何から話しましょうか?」
テーブルの上にコップを置き、向いに座った奈月が、口元に微かな笑みを浮かべながら訊いた。
「何からって」
「そうですね。まずは彼との関係から。彼は元彼・・・前に話した、私が交際していた人です」
あぁ、と弘樹が頷いたのを確認し、奈月は続ける。
「彼とは一度別れましたが、その後再会して、橘さんと知り合ったパーティーの一ヶ月前まで、関係がありました」
「一ヶ月前って・・・まだ最近じゃねぇか・・・」
驚く弘樹に、今度は奈月が頷く。
「はい。私は結婚を考えていることを伝え、もう会わない、連絡も取り合わないと、彼に言いました。それから今日まで、彼とは一度も会っていません」
「だったら何で・・・」
「大事な話があると、突然彼から連絡がきました。橘さんのお宅にお邪魔した、夜の話です。断りましたが、どうしてもと彼がいうので、今日会う約束をしました」
弘樹はコップを手にとり、一気に中身を半分まで減らした。落ち着けと、自分に言い聞かせながら。
「何で・・・今日だったんだ?」
「橘さんとの約束があったからです。話が長引くようなら、約束を理由に抜け出せると思いました。内容次第では、橘さんに協力してもらわなければならない場面が出てくるかもしれませんし・・・」
「それは、俺を利用しようとしてた・・・ってことか?」
「そうですね。その通りです」
再び頷いた奈月に、弘樹の顔が険しくなった。
それならそれで、事前に一言あってもよかったのではないだろうか?
それに、どう見ても未練があるようにしか思えなかった男を、決まってもいない結婚のために、奈月自ら切っていた、というのも驚きだ。
誤魔化そうと思えばいくらでも誤魔化せたのに、計算高い一面を悪びれもなく弘樹に晒したことも、疑問に思う。
このとき弘樹は初めて、奈月に不信感を抱く。
「なぁ・・・一体、何がしたいんだ?」
その問いかけに、奈月の瞳が揺らいだ。
「俺との話を白紙に戻したいなら、そう言やぁいいだけじゃねぇか・・・」
嘘ではないのかもしれないが、奈月の話も、やけに落ち着き払った態度も、弘樹にはどこか、わざとらしく思えたのだ。
大きなため息を吐き、諦めたように奈月が口を開く。
「知りたかったんです」
「・・・知りたかった?」
「いえ、知りたくなかったのかもしれません。けれど、知りたかった。私はおそらく自分で考えていた以上に・・・彼が好きでした。付き合っていたときも、その後も。私は結婚を考えられない相手と付き合っていたのではなく、彼と付き合っている内に、彼と結婚は出来ないことに気づいたのだと、今日、分かりました」
「んなことは・・・ねぇだろ」
ジクジク痛む胸の真ん中に気づかないふりをして、弘樹は目を伏せる。
―――― あれから考えたんだけど、奈月、俺はやっぱり奈月のことが
奈月が結婚を考えてると知っているのなら、あの科白の続きは明確だ。大体要件は分かったと、奈月も言っていたではないか。
だが奈月は、ゆるゆると首を左右に振った。
「彼が繋がっていたいのは、お金をかけて容姿を磨き、彼の欠点に目を瞑った私で、本来の私ではありません。本来の私では、彼を繋ぎ止めることさえできなかった。彼の周りにいる数々の女性を羨み、妬み、それを彼に悟られないようにすることぐらいしか・・・できませんでした。気軽な関係ならまだしも、私には、結婚相手にそんな想いを抱き続けることは、耐えられません。条件だけで気持ちのない結婚の方が、まだマシです」
橘さん、と奈月が呼びかけ、弘樹は顔を上げる。
「私自身、後悔はしていませんが、私が産む子供の容姿は、私に似た場合、今の私とは異なる姿になると思います。橘さんは、それでいいんですか? 他の男の為に、お金をかけ、容姿を作り変えたのかもしれない女と、結婚して、共に家庭を築くことができるんですか?」
弘樹が奈月を想ってくれるというなら、啓太の周囲にいる女の影に自分が苦しんだように、生まれてきた子供の顔を見る度に、弘樹も苦しむのかもしれない。そんなことを今頃気づいた自分に、奈月は心底呆れていた。
弘樹が黙り込んでしまったのも、当前だと思う。
けれど、
「俺はよぉ」
長い沈黙のあと口を開いた弘樹は、ひどく困った顔をしていた。
「難しいことはわかんねぇし、あんた前の姿だってしらねぇけど、後悔してないなら、んなに卑屈になることでもないんじゃねぇか?いくら金かけたって、全部が全部作り変えられるわけじゃねぇだろ?あんたはあんたでしかないんだから、さ」
それに、と弘樹が続ける。
「今ちっと想像してみたんだけど、子供は俺に似るより絶対、あんたに似た方が幸せだろ。俺はさ、あんま深く考えたりとか、悩んだりとかできるたちじゃねぇんだよ。気に掛けてもらえんのはありがたいけど、あんたが考えてるようなことには、ならないと思うぞ?」
目を見開いた奈月に、弘樹は笑いながら言った。
「けどそんなことを心配しってくれるっつーのはあれだな、あんた、本気で俺との結婚、考えてくれる気があったんだな」
end




