恋のライバル出現ですか?(前)
年が明けた1月3日、弘樹は奈月を誘った。
家の前の畑の他にも田んぼや畑を所有し、手広く農業を営む弘樹だが、市場がスットプする正月ぐらいは、流石に時間が空く。1日の日は弟が帰ってきたので家族と過ごし、2日は挨拶に来た親戚や、正月休みを利用して帰郷した友人たちと過ごした。
一人暮らしの部屋からさほど遠くない場所に実家があるという奈月も、1日と2日は実家で過ごしたらしい。訊けば3日の朝には自分の部屋に戻るというので、それならと、誘いをかけたのだった。
見合いパーティー以来になる町の空気は多少淀んでいる気もするが、それに気を悪くするほど年寄りじみていない弘樹は、両手をブルゾンのポケットに突っ込み、交差する人々の邪魔をしながら、きょろきょろと駅の周囲を見回す。張り切りすぎて待ち合わせより1時間ほど早く着きすぎたので、時間を潰せる場所を探していた。
とその時、
「に・・・ぃさん?」
戸惑い交じりの小さな囁きが、ふいに弘樹の耳を掠める。聞き覚えのあるピアノの音色のような女の声に、弘樹の視線は自然とそちらを向く。
「やっぱり。弘樹兄さん、どうしてこんなところにいるの?」
弘樹から右斜め前方に位置する場所で、女が今度ははっきりと声を出し笑顔を見せた。記憶にある少女の笑顔ではない、落ち着いた大人の女の笑顔だったが、弘樹のことを 兄さん なんて、気恥ずかしい呼び方をする知り合いは一人しかいないので、すぐに誰なのか判った。
「久しぶりだなぁ、由佳。しばらく姿見ないと思ったら、すっかり老けちまって」
「え?やだ、ひどい。綺麗になって、の間違いでしょ?」
「ははっ、わりぃ。つい口からぽろっとな」
「兄さん!!」
目を吊り上げた由佳は、相変わらず毛を逆立てる猫のようだと、弘樹は笑う。もともと由佳の顔立ちは猫に近い。しかもそこらの野良猫ではなく、血統書付の澄ました猫。
由佳は古い知り合いだ。二人が知り合ったのは、まだ由佳が17歳の女子高生だった頃で、弘樹は22歳だった。
弘樹のバイク仲間の一人が、深夜の駅でふらふら歩いていた由佳をナンパ、ではなく、たちの悪い酔っ払いから保護して、これどうにかならないかと、弘樹たちの元へ連れてきたのがきっかけである。
出会ったばかりの頃の由佳は、とにかくツンケンしていて、すぐに尖った爪を剥き出しにする、可愛げのない猫だった。しかも通っている高校は留年し、本来なら2年であるはずが、1年生のまま。にも関わらず学校には行こうともしないし、似合わない水商売の女のような化粧に、じゃらじゃら耳からピアスをぶら下げ、ミルクティー色の長い髪を平然と靡かせていた。
それが、まさか・・・
ある日突然、由佳が顔を見せなくなってから、随分経つ。風の噂で元気なのは耳にしていたが、現在の由佳は、あまりに当時の印象が薄い。化粧はシンプル。両耳にはダイヤのピアスが一つずつ。肩の辺りで内巻きにしている髪は黒く艶やかで、どこからどう見てもまともな大人の女である。由佳をどうにか学校に行かせようと、あれこれ無駄な頑張りを披露していた世話焼きの仲間たちが見たら、号泣して喜ぶことだろう。いつからだったか由佳が懐いて、兄さん 姉さん と、慕ってくる姿にさえ、感極まっていたのだから。
「お前いま、こっちに住んでるのか?」
ゆっくり距離を縮めた由佳に弘樹が訊くと、
「うん、そう。兄さん私ね、結婚したの」
由佳が頷き、左手を翳した。薬指に填まるシルバーリングが、太陽の光を受けてキラリと光る。
「結婚!!んだよっ、みずくせぇなぁー。それならそれでもっと早く知らせてこいよ」
「うん、ごめんね。それで兄さんにちょっと相談したいことがあって・・・」
「相談?」
「うん。今時間、大丈夫かな?」
何かと面倒を見てきた可愛い妹分の相談だから、勿論聴いてやりたいとは思うが、腕に嵌める時計で時間を確認し、弘樹は唸る。
「わりぃ、由佳。俺、待ち合わせなんだわ。4、50分なら時間あんだけど・・・」
「そう・・・なんだ」
途端に表情を暗くした由佳を見て、弘樹は眉間に皺を寄せた。良い相談ではなさそうだ、と。
「由佳、やっぱり、」
「なら兄さん、少しだけお茶しよう」
無理に明るく振舞おうとしているのが透けて見え、弘樹は皺を深くする。腹に仄暗いものを抱え、周りに八つ当たりしていた10代の頃のほうが、由佳は今よりよほどマシな顔をしていなかっただろうか?
「あー・・・そうだな」
もう一度時計を確認してから、弘樹は頷いた。
きちんと理由を説明すれば、奈月は分かってくれるだろう。電話かメールで、今日は駄目になったと、伝えればいい。しかしそれは実行できないまま、弘樹は由佳に近くのモダンなカフェへと連れて行かれた。
弘樹が待ち合わせであることを考慮してか、由佳が選んだのは、窓側の席だった。視力さえ問題なければ、駅の周辺にいる人間の姿形ぐらいはぼんやり認識できる距離だ。西洋風の華奢な椅子に恐る恐る腰を掛けた弘樹を見て、向かいの席で由佳が笑った。
「ごめんね兄さん。兄さんのこと考えて店選べばよかった」
「まったくだ」
白を基調とした店内は、女性客が大半を占めていた。大小様々な観葉植物が仕切りの代わりを勤めているが、それでも弘樹の巨体は隠しきれていない。不躾な視線をいくつも感じ、弘樹は無意識に背中を丸める。
「ちょっと意地悪だったね」
懐かしい弘樹の癖に、由佳が目を細めて苦笑する。
「意地悪って・・・何が?」
「ううん。ねぇ兄さん、何にする?コーヒー?」
「・・・あぁ」
「私はココアかな。相変わらず苦いの駄目だし。兄さんは、大人になったら分かる味だって言ってたけど、この歳になっても全然分からないよ?」
そう言って口を尖らせる姿は、変わっていない。
当時は未成年だったのだからアルコールは勿論だが、煙草の煙に、苦いもの、辛いもの、酸味の強いものを、由佳は以前から嫌っていた。そんな由佳をよく、お子ちゃまだとからかったのは、いい思い出だ。
「なんだ、年取ったのは外見だけかよ」
「兄さんって、本当失礼」
由佳の顔に笑顔が戻って、弘樹はほっと息を吐いた。正直なところ、女の扱いには長けていないから、気の利いた慰めの言葉一つさえ思いつかないでいたのだ。
「なぁ由佳、」
店員に注文を告げた後、弘樹は由佳へと向き直る。
「何があった?」
まさに直球だったが、他の訊き方を弘樹は知らない。
少し躊躇うように視線を泳がせた由佳が、短く息を吐き、やがて口を開く。
「あのね、兄さん」
しかしそれは、突然後ろの席から上がった男の声に、遮られた。
なつき、ここ
最初に驚いたのは、店に、それも直ぐ後ろの席に、自分以外の男の客がいたことだ。全く気づいていなかった。
それから男が呼んだ名前。珍しい名前ではないが、ありふれた名前でもない。一体この町で、この駅の近くで、 なつき が、弘樹が待ち合わせをしている筈の 奈月 ではない可能性は、どれぐらいあるのか・・・
何たのむ?俺、昼飯がまだでさぁ、ここで済まそうかと思って
ねぇ啓太くん、あまり時間が無いの。大事な話ってなに?
親しげに男の下の名を呼び、聞きなれない話し方をする。背中を向けているから顔は確認できないが、それでも弘樹は、自分が結婚するかもしれない女の声を、聞き間違えたりはしなかった。




