不死的治療の生物?
「きゃーモフモフッ!」
「……実際に見ると、思ったより羊ですね」
「姫乃崎さんッ」
一通り報告書を読んだ(実験ログは除く)オレが収容室へ入ると、御覧の通りの有様。偏に言って手遅れだった。クロネコは四二五に抱き付き、二人で一緒になって部屋中をゴロゴロ転がり回っていた。床と背中が接触した時は相当痛い筈なのだが、何故か『変容』も起きない。ストレスを感じていないという事なのか……或いは、ストレスを四二五の特性が塗りつぶしているのか。
「ああ、九九九.一歩遅かったですね。既に特異……クロネコは四二五と接触しています。依存性を考慮すると彼女が四二五から離れる事は無いでしょう」
「そして無理やり引き離そうとするとストレス値が上昇して現実が変容すると……成程、デザイナーズコンボですね。でも……変ですね」
「変とは? 報告書通りでしょうに」
「いや、接近した物体を毛の中に取り込むって書いてあったんですけど、クロネコが全然取り込まれないもんですから」
基本的に、報告書に例外は無い。実験ログの方は見逃したが、とはいえ見逃したら大変な事になるようならその旨が報告書の最初に記載されているべきだ。もしくは実験ログではなく、報告書の概要に書くか。
「ああ。さては貴方、実験ログを見ていませんね? 逸る気持ちは分かりますが、可能性は二つあります。一つはクロネコの特性を無意識に感知した四二五が取り込もうとしていないか。そしてもう一つは―――」
「きゃあッ!? 何ッ?」
クロネコの驚声に視線が流れる。ほぼ同時に姫乃崎さんが言った。
「既に誰か取り込んでいるか……。幸いというべきか単純に不便というべきか。一人しか取り込めないんですよ四二五は。文字通りお取込み中だから客人は後回しって事でしょうね」
四二五の中から出てきたのは一人の男性だった。白衣を着たその男性は生まれたての赤子の様につるっと外へ出ると、程なく目を覚まして周囲を見渡した。
「……ん? あなた方は……?」
「あ……えーと。俺は特異ナンバー九九九です。訳あって特異ナンバー〇二三をこちらへ連れて行かなければいけなかったので」
「ああ、そういう事でしたか。こちらこそ失礼いたしました。睡眠不足をどうしても解消したくてついつい……他の職員には内密でお願いします」
特異達にはそれぞれ監視レベルというものがあり、その詳細な内容は監視マニュアルによって決められている。
レベル0 不要
レベル1 定期の巡回
レベル2 監視カメラによる監視
レベル3 カメラによる監視と巡回+特異の特性に沿った装置による観察
レベル4 特異と職員の共同生活
レベル5 特殊部隊による交代制圧
このレベルは単なる区分と考えて構わない。例えば見てはいけない特異を監視する際は巡回もカメラも使えないので熱源探知やソナー探知を使えるレベル3になる。だからレベルが高いからといって その特異が危険とは限らない。流石に5まで行くと破壊を推奨されている様な危険なものばかりになるが、四二五の監視レベルは1。定期の巡回だ。そして監視は基本的に担当職員が行うもの。
「担当職員の方ですよね?」
「はい。その通りです。連日実験に付き合わされてもうへとへとで……え、ほ、報告だけはやめてください! 降格処分を喰らったら私は……!」
「俺は言いませんけど、姫乃崎さんは……」
「……まあ、僕達も予約に割り込む形で来たので、お互い様という事で。そうだ。手続きがまだ済んでませんし、取引という形でこの場は穏便に終わらせませんか?」
「分かりました! それではこちらへどうぞッ」
「話が早くて助かります。特異ナンバー九九九.クロネコの相手は任せます」
手順を無視したツケは、終ぞ回ってくる事は無かった。手続き関連は新米職員のオレには荷が重すぎるので引き受けてくれ何より。適材適所、オレはオレでいつも通りクロネコの保護者として―――
「クロネコおおおおおおおおおッ!?」
特異ナンバー四二五は一人しか取り込めない。だが吐き出した後にインターバルがあるとは一言も書いてなかった。どうやら担当職員の方と話している内に取り込まれてしまったらしい。助けてと一言くらいあれば反応出来たかもしれないが、多幸感に支配されている人間がどうして助けを求める。無理難題を押し付けるべきじゃない。
「ちょ、ちょっと―――四二五! おま……クロネコを出せよ!」
攻撃をしても無意味なのは承知している。だが話し合いが通じる相手とも思えないのでオレは四二五に組み付くと思い切り投げ飛ば―――そうとして、止まる。カウンターを過信するあまりオレも踏み抜いてしまった。天岬幸太の傍に居る存在は暴力には敏感でも、受容にはてんで無力だったのだ。いやはや、しかしその特性は把握済みだった。何故かオレは投げる瞬間まで『投げ飛ばすくらいなら影響を受けない』と思い込んだのだ。
「あ…………あ~…………」
多幸感。生まれて初めて味わった感覚。余程幸せだった人でもない限り、この感覚を一言で説明するのは不可能だ。安心感では物足りず、性欲と呼ぶには穏やかで、喜びと表すには複雑で、楽しいと表すには落ち着いていて、幸せと呼ぶには満たされ過ぎている。
魂が何処かへ行ってしまいそうだ。心ここにあらず。そのまま何処かへ放浪の旅に出てしまうのではないだろうか。足る事を知らなかったオレが初めて満足を知った瞬間でもある。この瞬間だけは、何もかもどうでもいい。
「…………俺も、中に入りたいなあ」
恐らくこの感覚に一番近いのは美墨さんの膝枕だ。あの人の脚には特別な力が宿っているとオレは信じて疑わない。またしてくれないだろうか。膝枕。
等と腑抜けた思考を垂れ流しながらミイラ取りがミイラになった様を見せつけていると、クロネコが外に排出された。怪我や特別な変化は見られず、彼女は直ぐに目を覚ました。
「あーすっきりした! 体の疲れが取れたみたいッ!」
「…………クロネコ。良かった。大丈夫だったんだな~」
「うん。ロキも中に入るつもりなの? あったかくて、涼しくて、柔らかくて、スベスベしてて気持ちいいよー!」
一時的に死亡、という部分を回避しているのは流石と言うべきか。オレも恐らく回避する。
「…………………………あれ?」
中に取り込まれない。多幸感で感情の殆どが塗りつぶされているが、疑問が消える訳ではない。実質的にオレの亜種みたいなクロネコが大丈夫で、どうしてオレが駄目なのか。これが分からない。多幸感の授与は攻撃に認定されないから、『過保護』は機能しない筈……
推論を展開する俺に天啓の如く舞い込んできたのは、一時的に死亡するという記述。その言葉を差し込むだけで、浮かぶ疑問は全て止めを刺されてしまった。
死の授与は、控えめに考えても攻撃だ。
「ロキ? 入らないの?」
「いや、僕も入りたいんだけど……これは~…………」
『過保護』を恨んだ事は幾度となくある。しかしオレの人生において、今が最も恨んでいると断言しても良い。一生に一度味わえるか否かの感覚を、『過保護』が拒絶してやがるのだ。
「ああ…………………」
恨みや憤怒と言った感情は触れている限り塗りつぶされる。オレの胸中に残った感情は、何処にもやり場のない空虚な多幸感のみだった。




